SSブログ

葬儀報告、の巻 [日録]

昨日、父の葬儀を家族葬ですませました。


生まれて初めて『喪主』というものになり、こんな挨拶をしました(概要・ブログ用に一部編集)。


 


本日は お寒い中 、ご多忙中にも関わらず、 遠路、また大事な予定をキャンセルするなどして、こうしてお集まりいただき、ありがとうございます。


父は、昭和2年(1927年)5月○○日、当時日本の植民地だった朝鮮の北部、平安北道というところで、警察官だった○○の長男として生まれました。そして、その地で少年時代を過ごしました。最近父が「自分史」の一端として書き残していた文章をまとめ、小さな冊子を作りましたが 、その中にも、子どもの頃食べた松の実の味の事や、 朝鮮人の友達と長いツララでチャンバラごっこをして遊んだことなどが懐かしい思い出として綴られています。
5歳の時、祖母が急死したため、急いで日本に引き上げることになり、こちらでの生活が始まりました 。時経ずして、母○○が、妹を出産した直後に亡くなったため、「母のない子」としての少年時代を懸命に努力して家の生活を助けながら学業に励みました。進学への希望はありましたが、家計の事情で断念するしかなく、高等小学校を卒業してすぐに東京の鉄工所に 就職するところまでが、この冊子には綴られています。
ところで父の命日は3月9日ですが、翌3月10日は、東京大空襲の日です。この冊子にの付録として、晩年の父が時々地元新聞 の読者欄に投稿していた文章も採録していますが、その一節を読んでみます。 (注1参照)


若者に絶対駄目と願いたい

年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のように米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失つた。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。 (美作市 91才)


ちょうど今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻というニュースが世界中を悲しませていますが、この「戦争は絶対ダメ」というの言葉を、プーチンさんにも伝えたいと、強く思っているところです。
さて、東京空襲で焼け出されて郷里に帰った父は 、地元の鉱山で勤労奉仕に従事している時、終戦の知らせを聞きました。「悲しいようなホッとしたような苦い思い出である」と、終戦記念日に寄せた 投稿で書いています。その時18歳でした。(注2参照)
その後、 母と結婚し、長男の私が生まれて、間もなく父は肺結核で入院療養し、大きな手術を受けました、健康を回復してからは、小学校卒という学歴のハンディを抱えながら一生懸命働き、 私を育て、大学にまでやってくれました。私が、授業料の安い国立大学に入学できたので、新車を買うことができた、と冗談 まじりで喜んでくれたことが思い出されます。


私が大学に入学したばかりの頃、 会社が経営悪化で合理化縮小・人員整理が進められるなかで、父も、大阪、次には東京の 別会社で働くことになり、 定年まで十数年、県外での生活が続きました。退職して地元に帰った後は、 野菜作りや 花栽培 、鯉の飼育などを楽しむ日々を 送りました。 おばけかぼちゃ、巨大ひまわり、 ジャンボ ひょうたん などを育てて 孫に見せてくれたり、地元物産店 に、野菜類や 芍薬 などの花、  手作りの 漬物、 そば粉 などを販売し、 購買者から 好評の 手紙を頂いたり、リピーターもあったと喜んでいました。地域では、 民生委員・児童委員など をはじめ地域の 福祉 活動 にも力を注ぎました。
その間、胃ガン、前立腺ガンをはじめ、 数え切れないほどの 病気や怪我を経験しましたが、それらをひとつひとつ乗り越え、94歳の天寿を全うすることができました。


91歳の誕生日には こんな投稿を寄せていました。


高齢に なると月日が過ぎるのか早いと皆さまがよく言われる。九〇を過ぎると本当に実感する。子どもや孫たちが相談して、昨年の卒寿の時は湯郷の旅館で家族全員、ひ孫六人を入れて一六人で盛人なお祝いをしてもらった。
  朝鮮半島で生まれて、五月一二日に九一歳になった。ゴールデンウイークには大阪にしている孫も帰って、わが家で私の大好物のおすしやお酒をたくさん持ち込んで、にぎやかにお祝いをしてくれた。今年は母の日が一三日になるので、五人のお母さんたちも一緒にお祝いをした、このようにお祝いをしてもらえるのも、まあ今のところ元気だからだと思う。
両親共に若くして亡くなったので、2人分以上生きたことになる。これは信仰している神様、ご先祖さま、また、足腰が痛くて通っているリハビリセンターの職員さんに優しくしてもらえるおかげだと信じている。その上、いつもお世話をしてくれる家族には感謝している。
楽しみにしていた野菜作りもできなくなり、弱気になることもあるが、健康寿命をできるだけ長くして、みんなに迷惑を掛けないようにしたいと思った誕生日だった。
  2018-5-21


こんなおじいちゃんの想いを 噛み締めながら、改めて感謝を込めて「これまでありがとう。これからもみんなを見守ってください」と言いたいと思います。(以下略)




【注1】 「ナードサークの四季」過去記事参照


家族3題(代)噺、の巻

第1話

今朝の地元紙朝刊の「読者のページ」に、老父の投稿が掲載されています。

https://kazsan.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_b10/kazsan/s-chimata20811all.jpg

このままでは読みにくいでしょうから、文字に起こしてみます。


【注2】同じく過去記事参照


盆と台風と終戦記念日と、の巻


さて、今日は、終戦記念日。

今朝の地元紙「山陽新聞」の読者投稿欄に、「トピック終戦記念日」という特集が蟻、その一つに、こんな投稿がありました。

815

郷里の老父が、投稿したものです。下書きは読ませてもらっていましたが、若干の字数調整や、表現の補正はあったようですが、ほぼそのまま、掲載されていました。

記録のために、文字起こしをしておきます。

74回目の終戦記念日が来た。終戦の日、私は18歳で、ある駅の引き込み線の作業に汗を流していた。
硫化鉄鉱産出で東洋一と言われる鉱山があった。軍属の人が大勢来て、軍需工場を下に作るために大きな横穴を掘っていた。
工場の材料を受けるのに必要なホームを造るために、近くの村へ動員があった。本家のおじさんが村長をしていたので、東京空襲で焼け出されて故郷の岡山県へ帰つていた仲間3人は、勤労奉仕に借り出されたのだった。
15キロもある仕事場まで、みんな歩いて行き、鉱山の集会所で雑魚寝をした。食事は軍属の人と同じく作業員宿舎があり、近くの国防婦人会の人たちの奉仕で、麦飯のおにぎり1個とジャガイモをお皿1杯だった。暑い8月に上半身裸でつるはし、スコップで作業をした。
予定は10日くらいだったが、5日目の昼ごろ集められて、軍人さんから、涙ながらに「作業をやめて帰れ」と言われた。玉音放送は聞いていないが、戦争は終わり、悲しいようなホッとしたような苦い思い出である。 


 


父の逝去とその後の葬儀にてんてこ舞いしていたこの数日で、季節が一気に推移したことに驚かされます。実家の庭のジンチョウゲが、夜の闇の中でも甘い香りをまき散らしています。馬酔木の花もいつの間にか咲きました。地元の用水路沿いの河津桜が咲きそろっています。


今朝は、初ツバメを見ました。


いずれも写真を撮るいとまがありません。


3月4日撮影の写真を載せておきます。


PENTAXk-1Ⅱ+ミニボーグ50(アクロマート)+
[玉抜」Tokina AF 100-300mm/5.6-6.7による撮影です。トリミングしています。


ツグミ。


tugumi01


なぜか途中からモノクロ写真になってしまいました。無意識に設定をいじったのでしょうね。


K1IM3878


下の画像もツグミのつもりでしたが『シロハラに見えます』とのご指摘をいただきました。なるほどそうですね。ていせいさせていただきます。


K1IM3919K1IM3920


K1IM3927


ヒヨドリが賑やかに囀るのに対して、ツグミは口をつぐむからツグミと呼ばれたと、NHK大河ドラマで解説してました。こちらがヒヨドリです。


K1IM3909


空を見あげると、食材運搬中のミサゴが見えました。


K1IM3890


今日はこれにて。


nice!(29)  コメント(8) 

nice! 29

コメント 8

momotaro

しっかりした立派なお父様でしたよね。
さぞお心落としのことでしょうね、お察し申し上げます。合掌
by momotaro (2022-03-14 22:42) 

Enrique

この度はご愁傷さまでした。
お父様のお生まれは,昭和2年だと思います。
当方の父は大正15年生でしたので,たぶん1学年違いです。
似たような境遇です。既に徴兵検査を受けており,航空機の会社で働いていたせいで畑違いの父でも昭和20年9月からは飛行兵になる予定だったというので,当方がこの世にいるのも奇跡のようなものだと思っています。どんなに穢い相手であっても外交努力は続けるべきで,やはり戦争は絶対にダメだと強く思います。
by Enrique (2022-03-15 10:49) 

美美

お父様のご冥福をお祈りいたします。

by 美美 (2022-03-18 10:07) 

kazg

momotaro様
ありがとうございます。
喪失感がじわじわ迫って参ります。
by kazg (2022-03-18 15:22) 

kazg

Enrique様
>たぶん1学年違い
まったくその通りですね。
>この世にいるのも奇跡のようなもの
同感です。
>やはり戦争は絶対にダメ
改めてそう思います
by kazg (2022-03-18 15:24) 

kazg

美美様
温かいお言葉をいただき、ありがとうございます。
by kazg (2022-03-18 15:25) 

八犬伝

ご苦労をされたお父様だったのですね
時代が、そうさせたのでしょうが
そのような思いを、皆が伝え残していかなければなりませんね。
by 八犬伝 (2022-03-18 21:45) 

kazg

八犬伝様
そうでなくても何もない、田舎の寒村のことですが、その上さらに、時代が険しい試練を与えたのでしょうね。にもかかわらず、94歳の天寿を全うできたことは、有り難いことといわねばなりません。
by kazg (2022-03-19 12:28) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。