SSブログ

佐川町探訪記(最終回)バイカオウレンを見た 、の巻 [日録]

今朝(5月25日)のNHK朝ドラ「らん まん」で、主人公万太郎が。一番好きな花は、亡くなった母が愛した「バイカオウレン」だと、和菓子屋の娘寿恵子に告げる場面がありました。寿恵子に乞われて描いた写生画をもとに、職人が工夫して作った牡丹を模した新作和菓子を誉めつつ、タテツボスミレ、ドクダミ、と愛すべき可憐な植物を描き示しながら、バイカオウレンへと話題が進み、万太郎を植物学に誘ったきっかけが、この花の名前を知りたいということだったと話します。
先日探訪した高知県佐川町には、たしかにバイカオウレンがあふれていました。


JR佐川駅前。


_K521382


佐川駅構内の展示物。


_K521389


そして、牧野公園では?


  _K521459
あいにく今は花時期ではなかったため、こんな姿で存在をアピールしていました。


_K521462


   
「 春先にこの子が一面に咲いているのを見ると、光の粒がキラキラしゆうようです。」とテレビで万太郎が言うごとく、あたり一面、思いもかけない大規模な群生です。花時の様子がは、まさしくその通りだったろうと想像されます。


_K521460_K521463


  
こちらは、花はよく似ているが葉が違う「セリバオウレン」これもみごとな群生です。


_K521446


_K521471


ドラマで佐川から初上京した万太郎が、飲めない酒に寄って木に上っていたところを通りかかりの寿恵子から呼びかけられたのが最初の出会いでした。みずからを「下戸下戸(ゲコゲコ)」「蛙」と名乗り、寿恵子もしばらくは「蛙様」と呼んでいた時期がありました。再上京後の再会時に「ワシはウソをついちょりました。本当は蛙ではなく人間です」と名乗るほほえましい場面もありました。
蛙様の縄張りには、当然こちらも住んでおいでです。


_K521454


ところで、寿恵子さんのモデルとなった寿衛子夫人は、困窮生活に耐えて牧野博士の学究活動を支え、55歳でこの世を去ったそうです。没後博士が発見した新種の笹に、妻の名を取って「スエコザサ」炉名付けたそうです。


_K521452_K521453


夫妻のエピソードを「練馬わが町資料館」のこの記事が伝えています。


牧野博士と寿衛子夫人 | 練馬わがまち資料館


夫妻のなれそめ



牧野博士は、明治17年、植物研究に大きな志を抱いて上京し、理科大学(現在の東京大学理学部)の植物学教室に籍を置いて研究に没頭しました。
明治22年には、28歳の若さで、日本人で初めて、ヤマトグサに学名をつけ世界に発表するという偉業を成し遂げました。
このころ、麹町の下宿から本郷の教室への道に菓子屋があり、そこに美しい娘さんがいました。富太郎青年は彼女に恋をし、二人は明治23年に結婚しました。酒もタバコも飲まない博士は菓子が大好物だったらしく、「自然と菓子屋が目につき、この美しい娘を見染めてしまった」と随筆に書いています。

世界的植物学者を支えた内助の功


郷里の家産を元手に自由に研究を続けてきた博士も、このころには財産を使い果たしてしまい、ついに郷里の家財を整理し、東大助手として薄給に甘んじる生活を始めていました。
子どももたくさん生まれ、食費にも事欠くような暮らしの中で、寿衛子夫人は博士が安心して研究に打ち込めるようにと心を尽くしました。借金の取り立てが来ると家の外に赤旗を立てて博士に知らせ、博士は借金取りが帰って赤旗がなくなるまで外で待っていた、というエピソードもあります。
こうした夫人の内助に加え、博士の才能を認めて援助の手を差しのべる人々のおかげで、一家は苦境を脱し、大正15年には大泉に居を移すことができました。夫人はここに立派な植物標本館を建て、牧野植物園をつくりたいという夢を抱いて大いに張り切っていたそうです。

“世の中のあらん限りやスエコ笹”


昭和2年には理学博士の学位を得て、いよいよこれから博士の努力が報われるというときに、夫人は55歳でこの世を去ってしまいました。博士は、最愛の夫人をしのび、前年に仙台で発見した新種のササに夫人の名を冠し、「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)」と名づけたのでした。
夫人の墓は、谷中天王寺に博士の墓とともにあり、墓碑には博士の俳句が二句、亡き夫人への限りない感謝と愛情をこめて深く刻まれています。


家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹


今日これにて。    


nice!(31)  コメント(0) 

nice! 31

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。