SSブログ

楷の木は散っていた、の巻 [日録]

先日39℃超の高熱を出した2歳児は、ほとんど回復して元気なのですが、まだ保育園に預けるのは憚られるというわけで、今日もバアバの出張孫守が要請されました。バアバを送り届けるため、早朝6時半出発で出かけましたが、出勤ラッシュの時間帯でもあり、一時間あまり罹りました。ママが出勤するのを見送り、しばらく孫守を手伝った後、バアバを残して私は孫宅をあとにしました。ついでですので、足を伸ばして、紅葉狩りと洒落ようかと、「特別史跡旧閑谷学校」へと向かいました。


以前こんな記事を書きました。


紅葉の旧閑谷学校補遺、の巻(2018-11-29)


歴史が専門の友人Sさんの仰るには、岡山県には九つの国宝があるそうです。建造物としては、一つは吉備津神社本殿及び拝殿、今ひとつが旧閑谷学校の講堂だそうです。ちなみに、他には美術工芸品として、赤韋威鎧〈兜、大袖付〉、太刀〈無銘一文字(山鳥毛)〉、太刀〈銘吉房〉、太刀〈銘備前国長船住左近将監長光造〉、短刀〈無銘正宗(名物九鬼正宗)〉などの武具と、絹本著色宮女図〈伝桓野王図〉、紙本墨画淡彩山水図〈雪舟筆〉などの七点。


閑谷学校の楷の木、の巻(2018-11-15)


この季節、聖廟(せいびょう)前に植栽されている2本の楷の巨木が一本は紅色、一本は黄色に色づき、見学者を感嘆させます。特別史跡旧閑谷学校HPの記事を引用します。

楷の木(かいのき

四季を通して情緒豊かな「学問の木」。

聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。

紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができます。

聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。

重要文化財
聖廟(せいびょう

儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。

孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。

奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。

( 中略 )

以前楷の木を話題にしたこの記事でも、閑谷学校のそれに触れました。

再生の象徴 楷の葉は緑(2015-09-22)

先日、so-netブログのmajyo様の9月19日付の記事「国会前へピクニック」のなかで、憲法制定50周年に記念植樹されたという櫂(楷)の木(カイノキ)が、平成25年の台風で倒壊したけれど、残された種子から後継樹が育っていると紹介してくださっていました。

(写真、お借りしました。 )
そこで、majyoさんはこう書いておられました。

日本国憲法は、改正されてはいませんが
一内閣で大きく変えました。戦える国にです
しかし、倒れたこの木のように、また私たちはこの国を再生させなくてはなりません

まことにその通りと、心を胸を打たれました。
ネット検索すると、奇しくも同じ日の「東京新聞」のコラムにこんな記事を見つけました。

国会議事堂の前庭に、一本の若木がある。憲法施行五十周年を記念して、参議院が植樹したという「楷(かい)」の木だ▼楷は紅葉が美しいウルシ科の落葉樹で、孔子の墓に弟子が植えたとの伝承がある。文人が好んで庭に植えたため「学問の木」とも呼ばれる。楷の字には、「正しく、規範となる」との意があるから、なるほど立法府が植えるにふさわしい木だろう▼さて、国会での安保法制の審議と採決のありようは「楷」に恥じぬものであったろうか。多くの法学者らが「違憲だ」と言うだけでなく、研究室から国会前に駆けつけて廃案を訴えた▼憲法学の泰斗・樋口陽一さん(81)も先日、マイクを握って議事堂に向かい、「みなさん一人一人が歴史に責任を持っている。自分の良心に照らして投票を」と呼び掛けたが、多数の力で押し切る与党の姿はまるで、「学問の木」を切り倒すかのようであった▼ただ樋口さんは国会前で声を上げ続ける市民らを見て、こうも語っていた。「(政権は)憲法のみならず、これまで積み重ねられたあらゆるものを壊そうとしているが、壊れないものを私たちはもうつくった。何があろうとも壊れない、壊させない。それが、ここにいる人たちとの絆です」▼実は国会前庭の楷の木は二年前の台風で倒れてしまったが、しかと再生したという。たくましき楷は国会の外で大きく育っていくはずだ。

正確には、majyo様の記事の通り、種子から苗を育成したようですが。


majyo様が亡くなられて、はや3年が過ぎました。残念至極です。majyo様のブログ記事は、今もこちらで読むことができます。宮沢賢治になれない魔女の独り言:SSブログ (ss-blog.jp)


先の記事の引用を続けます



ところで、楷の木は、孔子の死を悼んで、その墓(孔子廟)に弟子の子貢(しこう)が植えたとされます。「学問」、「規範」のシンボルとされる木だそうで、科挙(官吏登用試験)の合格祈願木ともされたそうです。楷書の「楷」もこの木にちなむとされます。
まことに憲法を象徴するにふさわしい木といえます。暴虐の嵐にいったんは倒れることがあったとしても、必ず不屈に再生させることができるのだと、勇気づけられるエピソードです。
因みに、子貢は字(あざな)=呼び名で、姓は端木、名は賜といいました。孔子の高弟のうちでも際立って弁論に優れ、また実業の才覚もあり、孔子一門を財政的にも支えたといわれます。

( 中略 )

正面に見えるのが「校門(鶴鳴門)」です。

HPの解説から引用します。

重要文化財
校門(こうもん)

屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。

廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある。

中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門ともよばれる。

両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模しており、貞享三年(1686)の造営である。

_K521028

_K521037

左に赤、右に黄色の楷の木が見えます。

_K521038

石塀越しに講堂が見えます。

_K521030

今回は、入場料を払って敷地内を見学しようと固く決意して出かけたのでした。一般400円の入場料が、65歳以上は200円になります。そして、駐車場も無料です。

_K521041

_K521043


「岡山高退教」(「岡山県高校・障害児学校退職教職員の会」)の会報「高退教岡山」(2022年10月発行)に、竹内 良雄さん(元高校教師・特別史跡閑谷学校顕彰保存会・元閑谷学校研究編集委員会委員・閑谷学校資料室)が、このような文章を寄せておられます。無断で、一部引用させていただきます。


「吉永町岩崎は明石照男生誕の故郷(ふるさと) 渋沢栄一邸に『孔子木』・『学問の木』━━それは『楷の木』」 竹内 良雄

まもなくあの渋沢栄一さんのご尊顔が一万円札とかになってご登場なさるということですよね。『論語と算盤』でも有名な渋沢栄一はまさに論語の心を軸としながら、正しい資本主義・経済の発展をもたらした人物です。その渋沢大先生に私がちょっかいを出すのでは全くないのですよ。閑谷学校の楷の木との関わりからお話させていただくのです。
楷の木は渡来種で、しかも雌雄異株の木です。中国曲阜の孔子廟墓所に育っていた楷の木の種を持ち帰ることが、東京の白沢保美林学博士によって実現されます。目黒の林業試験場で何度も試行錯誤が繰り返されてやっと発芽に成功し、幾本かの苗を育て上げることが出来たのでした。湯島聖堂・多久聖廟・足利学校など孔子を祀る歴史ある施設へは、その生育を期待して苗木がもたらされるのですが、閑谷学校の場合は全く別の経緯から楷の木の苗木の入手が実現するのでした。

閑谷隧道の開通は大正12年

大正東宮の行啓は大正15年

                                
渋沢栄一の娘婿に吉永町岩崎の生まれである明石照男なる人物がいました。第一高等学校から東京大学に進み、渋沢栄一の造り上げた国立第一銀行の取締役さらには頭取になってゆきます。ところで、実は閑谷学校の教授役であった武元君立は明石照男の曾祖父なのですよ。生まれ故郷吉永の地とその谷奥に開かれている閑谷学校のことはどこにあっても忘れられない存在なのです。渋沢邸の庭で「孔子木」とも「学問の木」とも呼ばれる〝楷の木〟が植樹され育っていることを知った明石照男が、故郷の閑谷学校聖廟前に〝楷の木〟の植樹をぜひ実現させて欲しいと、義父渋沢栄一に願ったのは極めて自然な成り行きでした。
閑谷学校へ二本の楷の木の苗木が届けられ、聖廟前の緩やかな斜面にそれぞれしっかりと植樹されたのは大正末か昭和初期のことです。
閑谷の東谷と西谷とを繋ぐ形で閑谷隧道が開鑿され開通したのは大正12年、同時に泮池が埋め立てられてグラウンド拡張が進められ、大正天皇の閑谷学校行啓がなったのが大正15年のことです。明石照男は明治14年の生まれですから、楷の木の聖廟前植樹は40歳半ばの頃の実現かと思われますが、植樹は明石照男の手によってというより、渋沢栄一・明石照男の手配によって楷の木は閑谷学校にもたらされたと考えるのが妥当でしょう。あるいは同時に大正東宮の記念植樹に当てられたと考えることもできます。

庶務日誌に「明石照男氏来校」

楷樹の成長ぶりを確かめて

                                
岡山県閑谷中学校の昭和8年3月29日付け庶務日誌に、「明石照男氏来校」、「元本校教授武元君立ノ後裔ニシテ現在第一銀行常務取締役ナル明石照男氏、本日午後零時三十分頃、夫人・令息二人ヲ伴ヒ来校、史跡ゴ参観、午後二時帰ラル。」の一文が記録されていました。明石照男50歳台初めの忙しい日程を割いての閑谷学校参観は、ひとえに聖廟前の二本の楷の木の成長ぶり確認にあったと言って間違いないでしょう。
参考までに、この前々日・27日の庶務日誌には、「西薇山先生ノ三十回忌二當ルヲ以テ」令息西虎夫氏とその令息二人の墓参と来校があったことと、「本日ヲ以テ我国ハ国際聯盟ヲ離脱セリ」の一行が記録されていました。
ちなみに、同期生であり山陽新聞社社長であった谷口久吉氏は、「あの木は明石君が送ってくれた。会うたびに『楷の木は大きくなっているか?』とよく聞かれた。」と話されていたということです。

以下省略


残念ながら、今日の楷の木はすべて落葉しておりました。


K1IM7741K1IM7751


今日はここまで。


nice!(13)  コメント(0) 

nice! 13

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。