SSブログ

佐川町探訪記(最終回)バイカオウレンを見た 、の巻 [日録]

今朝(5月25日)のNHK朝ドラ「らん まん」で、主人公万太郎が。一番好きな花は、亡くなった母が愛した「バイカオウレン」だと、和菓子屋の娘寿恵子に告げる場面がありました。寿恵子に乞われて描いた写生画をもとに、職人が工夫して作った牡丹を模した新作和菓子を誉めつつ、タテツボスミレ、ドクダミ、と愛すべき可憐な植物を描き示しながら、バイカオウレンへと話題が進み、万太郎を植物学に誘ったきっかけが、この花の名前を知りたいということだったと話します。
先日探訪した高知県佐川町には、たしかにバイカオウレンがあふれていました。


JR佐川駅前。


_K521382


佐川駅構内の展示物。


_K521389


そして、牧野公園では?


  _K521459
あいにく今は花時期ではなかったため、こんな姿で存在をアピールしていました。


_K521462


   
「 春先にこの子が一面に咲いているのを見ると、光の粒がキラキラしゆうようです。」とテレビで万太郎が言うごとく、あたり一面、思いもかけない大規模な群生です。花時の様子がは、まさしくその通りだったろうと想像されます。


_K521460_K521463


  
こちらは、花はよく似ているが葉が違う「セリバオウレン」これもみごとな群生です。


_K521446


_K521471


ドラマで佐川から初上京した万太郎が、飲めない酒に寄って木に上っていたところを通りかかりの寿恵子から呼びかけられたのが最初の出会いでした。みずからを「下戸下戸(ゲコゲコ)」「蛙」と名乗り、寿恵子もしばらくは「蛙様」と呼んでいた時期がありました。再上京後の再会時に「ワシはウソをついちょりました。本当は蛙ではなく人間です」と名乗るほほえましい場面もありました。
蛙様の縄張りには、当然こちらも住んでおいでです。


_K521454


ところで、寿恵子さんのモデルとなった寿衛子夫人は、困窮生活に耐えて牧野博士の学究活動を支え、55歳でこの世を去ったそうです。没後博士が発見した新種の笹に、妻の名を取って「スエコザサ」炉名付けたそうです。


_K521452_K521453


夫妻のエピソードを「練馬わが町資料館」のこの記事が伝えています。


牧野博士と寿衛子夫人 | 練馬わがまち資料館


夫妻のなれそめ



牧野博士は、明治17年、植物研究に大きな志を抱いて上京し、理科大学(現在の東京大学理学部)の植物学教室に籍を置いて研究に没頭しました。
明治22年には、28歳の若さで、日本人で初めて、ヤマトグサに学名をつけ世界に発表するという偉業を成し遂げました。
このころ、麹町の下宿から本郷の教室への道に菓子屋があり、そこに美しい娘さんがいました。富太郎青年は彼女に恋をし、二人は明治23年に結婚しました。酒もタバコも飲まない博士は菓子が大好物だったらしく、「自然と菓子屋が目につき、この美しい娘を見染めてしまった」と随筆に書いています。

世界的植物学者を支えた内助の功


郷里の家産を元手に自由に研究を続けてきた博士も、このころには財産を使い果たしてしまい、ついに郷里の家財を整理し、東大助手として薄給に甘んじる生活を始めていました。
子どももたくさん生まれ、食費にも事欠くような暮らしの中で、寿衛子夫人は博士が安心して研究に打ち込めるようにと心を尽くしました。借金の取り立てが来ると家の外に赤旗を立てて博士に知らせ、博士は借金取りが帰って赤旗がなくなるまで外で待っていた、というエピソードもあります。
こうした夫人の内助に加え、博士の才能を認めて援助の手を差しのべる人々のおかげで、一家は苦境を脱し、大正15年には大泉に居を移すことができました。夫人はここに立派な植物標本館を建て、牧野植物園をつくりたいという夢を抱いて大いに張り切っていたそうです。

“世の中のあらん限りやスエコ笹”


昭和2年には理学博士の学位を得て、いよいよこれから博士の努力が報われるというときに、夫人は55歳でこの世を去ってしまいました。博士は、最愛の夫人をしのび、前年に仙台で発見した新種のササに夫人の名を冠し、「スエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)」と名づけたのでした。
夫人の墓は、谷中天王寺に博士の墓とともにあり、墓碑には博士の俳句が二句、亡き夫人への限りない感謝と愛情をこめて深く刻まれています。


家守りし妻の恵みやわが学び
世の中のあらん限りやスエコ笹


今日これにて。    


nice!(31)  コメント(0) 

佐川町探訪記(3)の巻 [日録]

年金額改定減額処分取り消し・マクロ経済スライド違憲国家賠償などを求める年金訴訟の、広島高裁岡山支部での第7回口頭弁論が5月18日(木)開かれ、傍聴しました。参加者は原告・傍聴者併せて79人。法廷内には入れず,待合室で待機する人もありました(私も,開廷間際一つ席空きが出来たのでかろうじて傍聴できました)。
裁判官のひとりが交代するということもあって、この日の口頭弁論では、原告を代表して近藤劭県年金者組合委員長が、また原告代理人として古謝弁護士、則武弁護士が一定の時間をとって陳述しました。
近藤委員長は、2015年5月に裁判を起こしてから8年の間に11人の原告が亡くなられたことに冒頭言及したうえで、私たちの訴えに耳を貸そうとしなかった岡山地裁判決を批判。高等裁判所が「司法の役割をしっかり発揮して」「年金の引き下げが原告らの生活の経済的基盤を揺るがしている実態を正確に認識していただき、年金引き下げの必要性・合理性があったのか、マクロ経済スライドで年金減額を行い続ける必要性があるのかをしっかりと吟味し,憲法にのっとっての公正な判決」を要望しました。最後に「世界では当たり前の社会保障の最低基準であるILO102号条約にのっとて判断がされるべきですが,国はこの点も条約違反ではないと強弁しています。ILO102号条約違反があるのか否かを判断するためにも私たちが承認申請している筒井晴彦氏の証人採用を」と強く求めました。


原告側が証人採用を求めている 筒井晴彦さんについて、国側は、「学者など専門家ではないこと、事務経験がないこと」などを理由に挙げて採用を妨害しており、他の裁判所でも同様の利用で不採用になったところがあるそうです。


ネット検索すると、筒井さんの作品としてこんな著作がヒットします。



8時間働けばふつうに暮らせる社会を―働くルールの国際比較〈2〉

8時間働けばふつうに暮らせる社会を―働くルールの国際比較〈2〉

  • 作者: 晴彦, 筒井
  • 出版社/メーカー: 学習の友社
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本


 


 
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

筒井/晴彦
1954年、神戸生まれ。働きながら大阪外国語大学二部(当時)英語科卒業。労働者教育協会理事


「働くルールの国際比較」 学習の友社(2010/03発売)


働くルールの国際比較

働くルールの国際比較

  • 作者: 筒井 晴彦
  • 出版社/メーカー: 学習の友社
  • 発売日: 2023/05/22
  • メディア: 単行本

2010年当時の略歴も引用します。


著者等紹介
筒井晴彦[ツツイハルヒコ]
1954年神戸生まれ。働きながら大阪外国語大学二部英語科卒業。ハンガリー留学、全労連事務局などを経て、現在、日本共産党中央委員会国民運動委員会勤務。労働者教育協会会員、労働運動総合研究所会員、金属労働研究所会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


「学者など専門家ではないこと、事務経験がないこと」と一蹴すべからざる経歴ではありませんか?しかもここにあるように、日本共産党が国会論戦や国際活動において活用する外国語文献や資料の翻訳活動に携わり、特にILOをはじめ労働運動・労働問題に関わる造詣においては、追随を許さないオーソリティであることは、素直にみれば一目瞭然でしょう。


後者の内容説明と目次をコピーしてみます。



内容説明
ILO条約・勧告という国際労働基準とEU(ヨーロッパ連合)の「社会的ルール」を紹介することによって、「ルールある経済社会」について具体的なイメージをもってもらうことを目的にしている。

目次
第1章 経済危機に国際社会はどうたちむかっているか
第2章 ILO(国際労働機関)はなにを重視しているか
第3章 ヨーロッパ雇用社会の特徴
第4章 派遣労働の国際ルールは労働者保護
第5章 人間らしい労働時間をめざして
第6章 世界が重視する最低賃金制の役割
第7章 公契約規制の今日的意義
第8章 世界の労働組合の新しい動向
第9章 たたかいがルールをつくる


「学者など専門家ではない、事務経験がない」と突っぱねる前に、真摯に耳を傾けで判断しようか、となるのが、客観的・理性的な態度というものでしょう。思わず、こんな場面が二重写しになり、友人らともおのずと意気投合したことでした。


<らんまん>万太郎、さすがの英語力! 田邊教授も「I want you here」 痛快な展開に「胸が熱くなった」


https://news.yahoo.co.jp/articles/3c2d50c376aa784e6188357a7c47c91f0b367466


万太郎は、東京大学植物学教室の教授・田邊に大学へ出入りさせてもらえないかと懇願。土佐で採集した植物の標本を見てほしいと訴える。

しかし、万太郎が小学校中退だと知った助教授の徳永(田中哲司)と講師の大窪(今野浩喜)は猛反対。徳永は万太郎に「教授と話したければ、まず順序というものがある」と肩を叩き、まずは中学を出るよう話すと、そばで話を聞いていた田邊は「OK…」と切り出し、標本について「よろしい。中身を見よう」と答える。そして自身が土佐の人に恩義があると告げ、さらに社会的地位のあるものは果たすべき義務があると英語で説明する。

尊大な態度で言い放たれた田邊の言葉に対して、万太郎は毅然とした態度で「ほんなら、結構ですき」と応じ「You want to be laughing when I'm no by the world.(あなた方は黙って、わしが世界に打って出るがを眺めちょったえい)」と言い返す。

英語に感心する田邊や驚く徳永たちに対して、万太郎は「確かにわしは小学校も出ちゃあせん」と認めつつ植物を愛する気持ちは誰にも負けないと言い「土佐の野山がわしの血肉じゃ!」と語る。




佐川町探訪記のつづきです。


牧野博士の生家「岸屋」跡を跡にして、青源寺そばを通って牧野公園へ向かいます。


青源寺について佐川町観光協会HPから引用します。


土佐山内家筆頭家老深尾家の菩提寺
慶長8(1603)年佐川領主、深尾家の菩提寺として創建された、臨済宗妙心寺派の寺院。庭園は乗台寺と共に土佐三大名園の一つで県指定文化財。
枯淡の味わい深い庭園で、禅林の風格を持った簡素さが特徴。春は桜、秋は紅葉の彩りが非常に美しい。


佐川町は、江戸時代、土佐藩筆頭家老の深尾氏の城下町として栄えました。深尾氏は土佐藩主山内家の筆頭家老で、1万石のお殿様。佐川町地場産センターには、地元の模型作家、栗田眞二さん作成の町並み模型が展示されていますが、深尾重義のお屋敷の壮大な規模に驚きます。


_K521493_thumb[2]


_K521420_thumb1


青源寺庭園には心引かれましたが、この日はパス。短時間、お寺のたたずまいを駆け足で眺め見ただけでも、魅力が伝わってきます。新緑の今も、紅葉の秋も、腰を据えて半日でも一日でも浸っていたいと思えました。


_K521426


_K521424


_K521423_thumb1


_K521427


_K521425_thumb1


芭蕉の句碑などもありました。


_K521421


佐川城址堀跡を横目に見ながら歩きます。


_K521450


メインの見学場所、牧野公園です。


_K521430


牧野公園
牧野公園は、佐川町出身の植物学者・牧野富太郎博士により贈られたソメイヨシノの苗を植えたことを契機に桜の名所として整備されてきた。
昭和33年に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。
平成20年からは公園の桜が老木となったことから、地域住民で桜を蘇らそうと、古い桜の伐採をおこない、リニューアルを進めている    


    

  「土佐の野山がわしの血肉じゃ!」のセリフが真実味を持って響く、豊かな植物相が、手厚い管理の下、見事に命を輝かせています。


「雑草ゆう草はないき。必ず名がある。天から与えられ、持って生まれた唯一無二の名があるはずじゃ」


「わしは信じちゅうき。どの草花にも必ず、そこで生きる理由がある。この世に咲く意味がある。」


牧野公園に生えている植物には、克明にネームプレートが標示してあり、親切なことに、今開花中の花には、親切に、「咲」と標示されているのが嬉しいです。


_K521436


_K521441


今日はこれにて。


nice!(27)  コメント(0) 

佐川町探訪記(2)、の巻 [日録]

佐川町の歴史、文化、見所等については、佐川観光協会のHPに、詳しい紹介があります。

さかわのしおり[オフィシャル]さかわ観光協会 (sakawa-kankou.jp)

私の探訪記は、このHPの記事をさんこうにさせていただ来ました。ありがとうございます。

と、NET上には見あたらなかったのですが、現地でいただいて帰った紙のmap(A3の大きさ)がたいへんわかりやすいので、コピーして掲載させていただきます。

map2

私たちは.地図左下のJR佐川駅前で待ってくださっていた旧友安田せつ子さんに案内され、四国銀行隣の駐車場に車を駐め、徒歩でまち歩きを堪能しました。牧野富太郎博士の生家「岸屋」をはじめ、かつてはたくさん存在したという造り酒屋を統合して、いま佐川の酒造りを一手に継承している司牡丹酒造の酒蔵が、整然としたたたずまいを見せています。「司牡丹」の名は、佐川出身の維新の志士で、後に明治政府の高官となった田中光顕が愛し「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」の一筆を寄せて命名したものとされています。

田中光顕は、「青山(せいざん)」と号し、「青山文庫」の名は、これにちなんでいます。

さかわ観光協会のHPにはこうあります。

「酒蔵の道」から牧野公園方面へ、南に曲がると、高台に見えてくるのが、「青山文庫(せいざんぶんこ)」です。
ここには、江戸時代の佐川の様子を知る貴重な手がかりとなる、領主深尾家に関する資料などが多数展示されています。
明治43(1910)年に当時の佐川郵便局長、川田豊太郎の私設図書館として創立。大正14(1925)年、その活動に感銘を受けた佐川町出身の田中光顕が基金や蔵書などを寄贈し、幕末の貴重な資料も多数収蔵した博物館として発展してきました。
「青山文庫」の“青山〞は、田中光顕の雅号から付けられたものです。
田中光顕は、土佐勤王党に加盟し、陸援隊で中岡慎太郎を補佐。維新後は宮内大臣を長期間務めるなど要職に就きながらも、幕末維新の生き証人として、志士の顕彰などに務めました。
夢半ばで倒れた坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太などの志士たちの書状や画など、同時代を生きた者の手で伝えられた資料群には、歴史の重みが感じられます。

これとは別に、「青山文庫」の表札が掲げられた洋館が、「旧浜口家住宅」の隣にあります。

_K521398

「旧浜口家住宅」は、江戸中期から酒造業を営ん出来た家の跡で、現在はさかわ観光協会が、土産物販売や休憩所として運営しているそうです。

_K521403

鹿鳴館時代の面影を残した、県下最古の木造洋館だそうです。須崎警察署の佐川分署として、もともと上町西方の山側にあったものが、青山文庫、佐川文庫、民具館と用途を変えて、平成21(2009)年に現在の場所に移築したといいます。

道を挟んだ対面に名教館があります。

朝ドラにも、少年時代の萬太郎が学んだ「郷校」、中退する小学校小学校として登場します。

_K521400

_K521402

さかわ観光協会のHPを引きます。

多くの維新の志士や偉人を輩出
県指定文化財。安永元年(1772)佐川領主、深尾氏が家塾として「名教館」を創設。のちに郷校として士分の教育に資した。
天保元年( 1 8 3 0 )東元町に広大な校舎を建設。以来幕末まで数多くの人材を育成し、佐川の文運を高めた。明治に入り、廃藩置県・学制の発令により「佐川小学校」と改名し、中本町に佐川尋常小学校としての校舎の建築、玄関を移設した。平成25(2013)年上町地区へ移築。

   

牧野博士の生家「岸屋」跡地に、大正時代の写真を手がかりに再生されたのが牧野富太郎ふるさと館。博士の遺品やゆかりの資料を展示してあります。

_K521405

江戸時代の地図で当時の様子がしのばれます。

_K521411

トリミングします。

_K52141102

_K521415

佐川町観光協会HPでは「牧野博士が幼少の頃、この神社の境内でバイカオウレンなどの植物を採取し、植物への興味を広げていきました。その後の一生を決定づけた重要な場所ともいえる。」と紹介されています。

今日はこれにて。


nice!(20)  コメント(0) 

とほほの旅は雨上がり、の巻 [日録]

とほほの旅回想録


前回記事のとほほ騒動は、カメラをポケットに入れたままのジャケットを、結局ホテルの部屋に置き忘れていたというお粗末でした。


同じ過ちを2度繰り返すのは愚か者・・・なのですが、高知のホテルでの過ちは2度ポッキリではありません。


例えばこの事件は10年前。


夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて(2013-08-27)


この会の発起人、兼事務局長、兼裏方の、全てを担って下さったN氏は、文科の大先輩。
高知県を中心に活動する映画配給会社の社長です。会社の創設者だった故鎌倉信一郎さんは、映画『虹をつかむ男』の主人公(西田敏行が演じています)のモデルと言われます。「人口の過疎はあっても、文化の過疎はつくらない。」が持論でした。
N氏は、会社の倉庫に眠っていた往年の名画のポスターを、何種類も会場まで持ってきて下さり、「欲しかったら持って帰ってよい」とのこと。初演当時のまま、美しい保存状態のポスターで、全部欲しかったのですが、遠慮して、今井正監督「橋のない川」第一部、森川時久監督「若者たち」、山田洋次監督「同胞」、野村芳太郎監督「砂の器」などのポスターをget。うきうきして、ホテルまで持ち帰り、ベッド脇に大切に丸めて置いたのです。
ところが、なんと、うかつにも翌朝、出発時にホテルに置き忘れてしまいました。朝の散歩の帰りが、雨にたたられ、沈着さを欠いたせいもあるでしょう。置き忘れたことを思い出したのは、高速バスでほとんど瀬戸内海を渡ってしまってからというお粗末。かなり自己嫌悪というか自己不信です。とほほ。


この結末は・・・?


なるようになるさを今日も口ずさむ(2013-09-03)


今日は、高知同窓会の時の写真をM氏が送ってきて下さいました。温かい手紙を添えて。ありがとう。
そして、ブログを見て下さった四国文映社のNさんが、ポスター置き忘れチョンボに同情し、「ポスターを送りましょうか?」とメールを下さいました。大感謝。そして、夕方には、同じくNさんから、同窓会の写真DATAを焼いたCDが届きました。重ねて大感謝です。


そして・・・


大雨の中を嬉しき宅急便(2013-09-04)


日は朝から雨で、大雨警報も発令中ですので、おとなしく家の中に閉じこもっています。
窓の外は暗いし、気圧は低いし、気分も体調もからっとしません。
と、チャイムの音がして、宅急便が届きました。
Imgp1399.jpg
なんと、高知のNさんが、早速、映画ポスターを送って下さったのです。昨日のメールのやりとりですから、こんなに早くとは思いもしませんでした。
「水濡れ厳禁」のシールとともに、ビニールで厳重にカバーされた丁寧な梱包。頑丈な段ボール箱の中には、さらに厳重な梱包。
01.jpg
はやる心で、梱包を開きます。.
「更級日記」で少女時代の作者が、おばから物語の数々を櫃(ひつ)に一杯プレゼントされ、「はしるはしる、わづかに見つゝ、心もえず、心もとなく思源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、木帳の内にうちふして、ひきいでつゝ見る心地、后のくらひもなににかはせむ。」と、胸をわくわくさせながら先を読み急ぐ場面をふと思い出したりしています。
先日、このブログで書いたとおり、私がホテルに置き忘れたポスターは、今井正監督「橋のない川」第一部、森川時久監督「若者たち」、山田洋次監督「同胞」、野村芳太郎監督「砂の器」などでした。
IMGP1403.jpg
ところが、送って下さった箱を開けてみると、それらの他に、なんと、ジブリ関係の「風の谷のナウシカ」「魔女の宅急便」「天空の城ラピュタ」「隣のトトロ」をはじめ、貴重な名画のポスターがどっさり。目もくらむようなプレゼントでした。
Imgp1401.jpg
Imgp1399.jpg
Imgp1395.jpg
IMGP1396.JPG


これらの記事でNさんと書いたのは、今回も全面的に同窓会のお世話をしてくださった馴田正満さんです。後に、いつかの記事で紹介させていただきました。


こんなトホホもありました。


夏の終わりの土佐の旅、の巻(補遺)(2016-09-03)


栴檀については過去記事でも度々登場していますが、◆栴檀の枝あたりまで溢水す 透にはこう書きました。

木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、趣旨である。未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。


栴檀の枝あたりまで溢水す 透

(中略 )

「栴檀は双葉より芳し」と中国のことわざに言う香木の栴檀は、別種だそうだが、誤解に基づくにせよ、その名前自体に、芳香を放つ香木というイメージがそなわっている。この句は、洪水による浸水で,岸辺の栴檀の枝までが川水に洗われたという実景を詠んだ。烈々たる水しぶきを浴びて、栴檀の枝葉全体が、あたり一面に芳香を放っている様を想像していただけるとありがたい。


夏に高知であった同窓会で、世話役の一人で、司会やお料理のお世話をしてくれたH女史は、奇し き縁で高校の同級生でもある。その時の会話で、その彼女が、私のこの句を覚えていてくれたのは、感激だった。ありがとう。旦那さんの手作りのおでん、とて も美味しくいただきました。

そのH女史、今回も、たくさん骨を折ってくださいました。
このコーナーはそのH女史(=「浜ちゃん」と名乗っています)が、土佐の名品を紹介してくれています。お土産に上等な「花かつお」=削り節を戴きました。感謝。

しかも後日談があります。
当日、会の模様を撮影して、消耗したストロボ用の充電池を、充電器にセットして会場炭のコンセントにさしたまま、忘れて帰っておりました。問い合わせのメールを戴き、わざわざ郵送してくださったのがH史でした。感謝×2。


さらにまたこの記事でも・・・


恥は掻き捨て三連発、の巻(2018-09-10)


【旅の恥 その2】

同窓会の二次会。会場から歩いて、高知の仲間の行きつけのお店へ連れて行ってくださいました。席について、四方山話が始まりかけた頃、「会費は2500円」と、世話役のH女史が集金を始めてくれます。

が、ここで、困りました。財布の中身が、足りません。クレジットカードで済ますつもりで、現金を持ち合わせていなかったのです。

「次に会うまで貸しちょくきに」と、やさしいH女史が言ってくれますが、そうも参りません。近くのコンビニへの道を教わって、ATMで現金を用意し、二次会場に引き返す、、、、つもりが、帰り道がわかりません。電話で聞こうにも、携帯は席に置いたまま、電話番号がわかる手帳もメモも、バッグとともに席に置いたまま。万事窮す。

かなり遠回りをしてやっとの思いで、お店に帰り着きましたとサ。

【旅の恥 その3】

同窓会を終えて、名残を惜しみながら、千鳥足でホテルへ。自動販売機コーナーで、お茶とチューハイと、焼きおにぎりを仕入れて、部屋へ。ようやくおちついて、シャワーを浴びて、チューハイで喉を潤しながら、TVのスイッチをつけたちょうどその頃、ドアのノックの音が聞こえます。??

いぶかしい思いのままドアを開けて覗いてみると、ホテルの従業員の方です。

「これを落とされませんでしたか?」
差し出されたものを見ると、確かにいつも手帳に挟んである私のカードホルダー。中には銀行のキャッシュカード、クレジットカード、保険証、運転免許証、いくつかの病院の診察券、電器店の会員カード、などなど。

「どこにありました?」と聞くと、自動販売機コーナーだとのこと。

小銭を取り出すため、バッグの中身を探ったときに、大事なカードホルダーをポロリと落としてしまったのですね。ああ恥ずかしい。
と同時に、ご親切に感謝感謝の大チョンボでした。


冷や汗も恥も掻き捨てひとりたび、の巻(2018-09-11)


【旅の恥 極めつけ】

こんな写真を撮れたからまあいいか、と満足してホテルに向かう途中、はたと気づきました。シャツのポケットに入れていたはずのホテルの部屋のカードキーがない!慌てて、バッグの中もひっくり返して探してみますが、見当たりません。これは、城歩きの途中、シャツを一枚脱いで、しばらく手に持って歩いていました(そのあとバッグの中に入れました)が、その時に落としたに違いない。と思い当たりました。

ほとんどホテルの近くまで帰っていましたが、もう一度歩いた道を引き返し、カードキーを探して歩いたのでした。
でも、お察しの通り、見つかりませんでした(トホホ)。
仕方ない、正直にフロントに訳を話して、処理してもらおう、とすごすごとホテルに引き返したのでした。

結果、再発行料1000円で、カードを再発行していただき、ようやく部屋に入ることができました。冷や汗まじりの汗びっしょりの早朝散歩となりました。


懲りないにもほどがありますね。




佐川町探訪記(1)

佐川町探訪記のつづきを書きます。


朝方、日曜市を見物して歩いているころは、ぱらついていた雨が次第に上がり、佐川に着いた頃には傘がいらない状態になりました。


佐川町のHPにこんなmapが掲載されています。


downfile6936582147


江戸風情の残る白壁の町並みに心引かれます。


_K521393


_K521397


佐川町は、仁淀川の中流域に位置し, 古くから仁淀川の清流を利用して酒造が盛んだった由。NHK朝ドラ「らんまん」の主人公槙野万太郎の生家は、酒蔵「峰屋」という設定ですが、そのモデル牧野富太郎博士の生家は「岸屋」という造り酒屋。明治の中頃、牧野博士はこの「岸屋」を人手に渡し、最終的には司牡丹酒造に吸収合併されたそうです。


_K521405


_K521406


この案内看板に意外な人名が載っていました。


_K521407


左端の黒鉄ヒロシ氏。我々世代にはなじみの深い漫画家ですが、司牡丹酒造現社長の従弟だそうで、「黒鉄」のペンネームも、司牡丹酒造の屋号黒金屋 に由来するのだそうです。


「牧野博士の勉部屋があった」と伝わる岸屋の蔵あとは、現在は駐車場になっており、隣接する建物に残る屋根の痕跡だけが往時を偲ばせます。


_K521404


往事の「岸屋」の全景を復元したミニチュア模型が展示してあります。大きな造り酒屋だったのですね。


_K521414


今日はこれにて。


nice!(22)  コメント(0) 

とほほの旅を今日も行く、の巻 [日録]

久しぶりの同窓会


コロナのために間隔の開いていた,高知での恒例の同窓会が、今年は開催されることになり、心ウキウキと参加してきました。
第1回目はこの記事に書きました。


夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて


「友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」という啄木の歌が、ことあるたびに念頭に浮かびます。でもそこに、自虐や自嘲の感情が入り込む余地はなく、ただ、感嘆の想いが募るばかりです。この日も、この歌が脳裡を幾たびも駆け巡りました。
この日、高知に一泊で出かけたわけは、学生時代のサークル(教育系の研究サークル)の同窓会に参加するためでした。
1950年代から1970年代まで、50名参加の大盛況で、旧交を温めたり、大先輩の経験談に耳を傾けたり、懐かしい、エネルギー充填のひとときは、瞬く間に過ぎました。
IMGP1146.JPG


10年前のことでした。
2回目はこちらの記事。


夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1)(2016-08-29)


実は、昨日、一昨日の土日に、高知まで一泊旅行をしてきました。
その目的は、三年前にブログを始めたばかりの書いたこの記事(◆夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて)から3年を経て、また開かれる同窓会に参加すること。
今回も喜寿を迎える方から還暦前の方まで、東は東京、西は宮崎から、世代を越えて集まり、夜遅くまで、楽しく交歓したことでした。

(中略)

3年前の記事でもご紹介しましたが、大学同期の米田稔君(高知県議会議員)は、この会の実行委員の一人で、今回も閉会挨拶をしてくれました。

同じく同期で、病気のため勇退したものの高知県議を長く務めた牧義信君も参加してくれていました。学生時代に属したサークルは違うものの、同じ教育系サークルで、薄い間仕切りで隔てられた隣接する部室で活動していました。現在、伏見区を基盤に京都市議をしている赤坂仁君も、同期です。学生時代も、自治会執行委員長など、リーダーシップを発揮していました。そう言えば、学生自治会の委員長をつとめた歴代のメンバーが、サークルの隔てを超えて何人も参加してくれていました。全員を取り上げてご紹介したいところですが、限りがありませんので割愛します。世代はことなり、若干すれ違ってはいますが、やはり隣室の教育系サークルで活動し、自治会執行委員長等もつとめたという縁で、元衆議院議員の春名なおあきさんも、多忙な中出席。彼のブログの8月28日付け記事に、この会のことが掲載されています。一部引用しておきます。

私は○研の部員ではなかったのですが、同じ教育系サークル「○○教育研究会」の一員で、○○文化研究会と合わせて教育系サークル”御三家”だったよしみで
混ぜてもらったものです。米田県議、牧元県議、赤坂仁京都市議など、そうそうたるメンバーが県内外から50名も参集、昔話と明日の未来に花が咲きました。



3回目(臨時開催)はこちらに書きました。


卒業旅行は高知へ、の巻2018-08-26


今年の1月で、未破裂脳動脈瘤の手術から10年、また、この夏で、肺腺癌の手術から5年経過しました。それぞれ再発などの兆しがないので、いずれの病院も「完治」とみなして、「通院終了=卒業」を許可していただきました。

昨日、卒業旅行に出かけてきました。

行き先は高知。

じつは、この高知行きは、前々からの計画だったのでした。

ちょうど8月25日-26日と、高知でこんな全国集会が開かれました。

180516_04.jpg

2016年の8月に書いたこんな記事でも紹介した大学時代の同窓会は、3年に一度の開催を恒例としています。今年は、この母親大会に参加されるメンバーもあろうから、それにあわせて25日の夜、特例的に臨時開催してはというはこびになったのです。

私は母親大会への参加の予定はありませんでしたが、夜の同窓会だけには出席することにしました。

(中略 )

さて、同窓会には、私のように、それだけを目的に高知にやってきた人もありますし、昼間、母親大会に参加して来られたと、ご夫婦揃って参加された人も、ご夫婦と息子さん夫婦、さらには小さなお孫さんも連れて参加された人などもあり、思いの深さに胸を打たれます。


4回目はこちら。


高知の雨は上がっていた、の巻(2019-10-20)


高知へ行ってきました。昨日(19日)の夕方から開催された、学生時代のサークルの同窓会に参加のためです。

(中略)
その後も、開かれるたびに出席し、その都度記事にしてきましたが、今年も、東は神奈川、南は九州から、世代を超えて老若男女が出席。沖縄在住の方からは、泡盛の差し入れも戴いたそうです。

(中略)
会合の写真係を命ぜられていました。日暮れの室内のことですから、①比較的明るいレンズ、②旅先ですので軽量コンパクト、③それでもストロボの準備は必須、、、などと考えて、どんな機材が必要か、あれこれ検討して、メインはPENTAXk-r+smc PENTAX-DA 35mmF2.4ALという軽量セット。これにバウンス撮影が可能なストロボとしてAF-360FGZを用意していきました。
ただこれだけでは単焦点で撮影の幅が狭められることを懸念して、予備の機材として、画角の異なるレンズを用意しようか、ズームレンズにしようか、迷った末に、一応の組み合わせを準備していたのでしたが、天気予報はどうやら雨。
できれば、自由時間には屋外の散策写真も楽しみたいので、急遽機材変更を断行!明るいレンズ、・軽量コンパクトという条件を覆して、「防塵防滴」の一点からFUJIFINEPIXS1を持って行くことにしました。結構重く嵩張るリュックを背負って、高速バスを降りたころには、高知の雨はほとんど上がっていて、、結局、「防塵防滴」の出番はなくなりました。これなら、最初考えていた軽量コンパクトなセットにしておけば良かったなあ、と悔やまれました。


桂月誕生の地を訪ねてみた、の巻(2019-10-21)


私のブログには、お料理写真が滅多に登場しません。撮影前に、食欲に負けてしまうからです(笑)

ただ今回は、せっかくの高知。当然のことながら、鰹のたたきをいただきました。記録のために写しておきました。

DSCF8051

そして握り鮨も。

DSCF8052

でもこのあと、乾杯の音頭があり、お酒と歓談がすすみ、また、与えられた写真記録係の役目が意識を捉えるようになると、お料理を撮影する余裕がなくなってしまいます。新鮮な海の幸ばかりでなく、牛ステーキや、フルーツなど豊富に用意されていたのですが、まったく撮影してません。

一次会が熱く盛り上がり、誘われるままに二次会にも参加、あっと思う間もなく夜も更け切りました。三次会に向かう人もありましたが、そこは辞退し、ホテルに着いたのは、10時過ぎだったでしょうか?10月というのに、熱帯夜?エアコンを効かせて寝みました。


こうして3年ごとに実施されてきた同窓会が、コロナのため延期になりようやく今年久しぶりに実施されたわけでした。




多彩な企画と旨酒と


今回は参加人数が少し減り、30人になりました。
理由は様々ですが、やはり体調悪化、病院予約など寄る年波の影響が大きいようです。前回の集まりのあと逝去された方も複数おられます。3年に一度では、高齢者には間が開きすぎるので2年に一度にしては、との提案がなされるほどでした。
とはいえ、集うた面々は元気そのもの。いつも通りに、大いにエネルギーのおすそわけを頂戴しました。


乾杯前のプログラムに設定された今回のメイン企画は、当ブログではおなじみ、木工作家サブローさんの「美作市右手の民泊『久米屋』&蔵サウナと地域起こし」という報告でした。その一端は、以前ご紹介していますが・・・


故旧あい集いし森の青胡桃(2014-06-11)


岡山県美作市右手(うて)という地区は、木地師の里として知られています。

私の学生時代の先輩である「三郎さん」は、関西在住でしたが、退職後、奥様の実家のあるこの地区に移り住んで「木工みや工房」をひらき、木工工芸品の制作に励んでおられます。

_K526085_R.JPG


土蔵サウナとジビエ料理を楽しむ愉快な旅、の巻(2019-12-04)


「美作市右手(うて)」という地区は、以前こんな記事でご紹介しました。

故旧も歩けば至玉の出逢い、の巻
あっという間の連休、の巻
蛙棲む原生林に蝮草(マムシグサ)
いかな夢見つつ眠るや森蛙
故旧あい集いし森の青胡桃

(中略)

実は、このサブローさんが、上の記事で紹介されている丸山耕佑さんらとともに、サウナを運営する「地元住民グループ」の一員(いや、中心人物)なのです。このたび、お願いして体験学習を受け入れていただいたのでした。

「今、ドラマやコミックでサウナがブーム。いまに、数ヶ月先まで予約でいっぱい、ということになるから(笑)、今回はラッキー。」だそうです。

(中略)

人気に火がついて、国内外から客が殺到という事態は.もう少し先のようで(笑)、有り難いことに、このたびは貸し切り状態でした。ゲストハウス「久米屋」で、サブローさんご夫妻手作りのお料理に舌鼓をうち、「土蔵サウナ」もゆったりと体験することができ、身体の芯から、すっかり暖まりました。

いろり端に車座になって、積もる話がはずみます。

DSCF2014

地元調達の猪肉をふんだんに使った猪鍋。美味このうえなく、ぽかぽか暖まります。

DSCF2025

地元調達の鹿肉のタタキ。まったくクセのない、上品なおいしさです。

DSCF2021

あとは写真を撮るのも忘れて、お腹いっぱいいただきました。

古民家から少し歩いたところに、土蔵はあります。山深い.ひなびた村のたたずまいが想像いただけるでしょうか?

DSCF2026

奥に見えるのが目指す土蔵サウナです。

DSCF2028


続いてのプログラムは、ハチロ-くんによる、ナント!空手の演武。彼が学生時代同じ下宿に暮らしたことは以前も書きました。


多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)


さっき触れた昨年12月24日のこの記事にも書いたとおり、高知のN先輩からのお便りにより、高知市にある「草の家」が、昨年秋に「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」を発行されたことを知り、お願いして先だって手に入れました。

ちなみに、下の画像は、「草の家」ホームページに紹介されている第9号の写真です。

(中略)

冊子が配達されて、ぱらぱらと斜め読みをしているちょうどその日の夜、愛知に住む古い友人のI君から電話をいただきました。

I君は、学生時代、同じ学科、同じ専攻の一年下で、なんと、当時私の間借りしていた下宿の、隣室に入居してきて、当時ご存命だったお父様と一緒に「引っ越し挨拶」に私の部屋を覗かれたのが最初の出会いでした。

部屋には個室のバス・トイレはもとより、共同の風呂もなく、トイレは母屋のものを共同使用、洗濯機も共同使用、台所も、冷蔵庫も、エアコンも、テレビも、電話もない、「シンプル」そのものの、昔ながらの下宿生活でしたが、それ故、ある種の共同生活に似た親密な交際が始まりました。

これを綴れば、世にあるいろいろな「青春記」の上を行く、愉快でペーソスを帯びたスリリングなドラマが生まれるはずですが、それはまたの機会に譲ります。

同一下宿での共同生活は一年ほどで終わり、それぞれに別の下宿先やアパートに引っ越しましたが、大学・私生活を問わず、濃密な交友が卒業まで続きました。

卒業後は、住む場所も仕事も隔たって、彼は、学術書を中心とする出版業の中心的役割を得て奮闘を重ね、今は退職生活に入っています。何年かに一度、同窓会のような場で出会うレベルの頻度でのおつきあいですが、一瞬で当時に戻ります。

最近では、去年の11月、この記事で書いた出会いを楽しんだばかりです。

その彼からの、突然の電話の要件は、たまたま、 槙村浩と『ダッタン海峡10号』についてでした。

そして、きっといつか、高知市平和町の墓所にお参りをしたいねと約したことでした。


春長けてハチマルニーマルを考える、の巻(2015-03-30)


「8020(ハチマルニーマル)運動」という言葉には、聞き覚えがありましょう。

1989年(平成元年)より厚生省(当時)と日本歯科医師会が推進している「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動だそうです。

詳しくはこのサイト参照 。

愛知県に住む私の親しい友人I君が、以前、電話のよもやま話で、「8020(ハチマルニーマル)の20(ニーマル)は、頑張れば大丈夫そうだが、80(ハチマル)のほうが、怪しいね」と、出色のジョークを飛ばしていました。「座布団1枚」です。
このネタ、著作権は彼に属しますが、使わせて貰いますよ。


これらの記事で「愛知在住の旧友I君」として紹介した人物は、後にはハチロー君という呼称でしばしば登場していただいています。


非力な文系学生という印象が強買った彼が、意外にも、中高年になってから、極真会系の空手の道に入門し、有段者となったとのことで、その演武を披露してくれたのでした。俊敏な動きはとても古希とはみえませぬ。
乾杯の後は、土佐の料理と故旧の近況話などを肴に杯を重ね、2次会を含めて5時間近く、楽しい時を過ごしました。今回も写真記録係をおおせつかっていましたので、一次会の間は飲酒のペースがいくらか自制的で、二次会になってから、あれこれの旨酒ををコップ酒でいただくことになりました。


M君からのお誘い


その時点では、特段の酔いを感じることもなく、心地よく愉快に過ごしたのでしたが、雨のなか徒歩でホテルに向かううちに少し酔いが回ったようです。風呂など浴びて就寝の準備をしていると、別のホテルに宿泊しているM君が、電話をくれて、翌朝7時頃落ち合って外出し、一緒に朝食を摂ろう、とのお誘い。大歓迎です。


M君は、この同窓会の当初からの実行委員会メンバーで、今回もいつもどおり、司会を務めてくれました。


京都府宮津市在住なのですが、マイカーを縦横無尽に駆使して機動力を発揮してくれますので、時々それに便乗させてもらうことが多いのです。たとえば、こんな記事でも


ほっこりと四国弥次喜多ぶらり旅(1)(2016-03-28)


フェリーを降りると、M君がこの車で待っていてくれました。

窓ガラスにもこのステッカー。

瀬戸大橋を使わずに、フェリーで高松に渡ったもう一つの目的は、ここを訪ねること。、

「池上製麺所」と「るみあばあちゃん」については、これらの記事でご紹介したことがありました。
私版 備忘のためのおすすめ記事、の巻
「るみおばあちゃん」のうどん 続報、の巻
M君もM女史も既にこの店に行ったことがあるそうで、私を案内してくれたのでした。
おぼろな記憶と大体の地図をたよりの道行きで、行き過ぎたり、道を外れたり、行き止まり道に迷い込んだりと、愉快な弥次喜多道中を楽し無うちに、ちょうど良い頃合いに到着。

のれんをくぐると、入り口脇で椅子に腰掛けたるみおばあちゃんが、にこやかに迎えてくれます。
お願いすると、快く記念撮影に応じてくださいました。
自分の座っていた椅子から立ち上がって、こちらを椅子に座るよう促し、身体を寄せてパチリ。

上は、るみおばあちゃんとM君のツーショット。


こんなこともありました。


土日の日記を駆け足で、の巻(2016-10-10)


その午後は、倉敷で、懐かしの旧友との集い。
高知ナンバーのこんな年季の入った車で、高知、香川から乗り合わせて参加した人。

京都ナンバーのこんな車。

このステッカーに見覚えありますか?

(中略)

翌日の日曜日はM君と行動をともにし、またまた愉快な弥次喜多道中を堪能したのですが、後日機会があればご紹介するとして、今回は割愛いたします。


彦崎貝塚訪問記、の巻(2016-12-19)


そのM君とともにした行動のご報告です。
先日、 私の入院を心配して、そのM君がお見舞いのメールをくれました。ありがたいことです。
◇二日目のお四国弥次喜多ぶらり旅 の記事でもご紹介しましたように、M君は、生物・理科分野、もっと厳密に言うと水産分野が専門ですが、歴史・地理分野への造詣と関心が並々ならぬものがあります。中でも一番興味があるのが縄文遺跡巡りだそうです。香川県荘内半島の紫雲出山を訪ねたのも、そこの縄文遺跡が一番のお目当てだったのです。残念ながら、「紫雲出山遺跡」は、縄文時代ではなく弥生時代の集落跡だったのですが、、、。
歴史音痴・地理音痴を自負する私などは、行動力抜群の彼の後についていくといろいろと面白いことに出会えるので、楽しいのです。
このたびの10月の「弥次喜多道中」も、縄文遺跡を訪ねる(つもりの)旅だったのです。




そのM君、多才多趣味で、今、メンウチにハマっているそうな。麺打ちではなくて、面打ちです。


ずっと以前,この面を譲ってもらったことがありました。


_K5213011


尉(ジョウ)=翁(オキナ)の面を所望して打ってもらったのでした。


それから、しばらくたって、優美な女面を送ってくレたことがありましたが、今度、新たに満足の行く出来ばえのものが打てたので交換しようと持ってきてくださいました。


_K5213012


気品あるできばえです。


手元にある女面と交換する手はずでしたが、私が勘違いして尉の方を持ってきていたので、この新しい女面とともに持って帰ることにしました。


_K521301


とんだチョンボでしたが、これはトホホではありません。




翌朝のパニック  



さて、次の朝、朝食を挟んでの朝散歩の支度をしようと、バッグのなかを探りますが、あるはずのカメラが見あたらないのです。  
記録写真係の自覚から、pentaxk5Ⅱ+smc PENTAX-DA 50mmF1.8と、ricoh GXRs10の2台を持ってきて、会の撮影をしたのですが、バッグの中にはpentaxk5ⅡはあるがricohGXRが見当たらないのです。バッグの中身をすべて出してひっくり返してみてもだめ。部屋中探すも見つからず、昨夜自販機でカップ麺と寝酒を購入したときに置き忘れたかもと、フロントに聞いても、ありません。   
これは昨夜の二次会の時、会場に置き忘れたに違いないと目星をつけ、開業時間がきたら会場に確かめてみようと心を静め、とにかく今回はカメラを持たず、M君らとの落ち合い場所に向かうことにしました。M君の宿泊していたホテルには、お仲間が何人もいらっしゃったようですが、ホテルの朝食を予約している人もいて、行動を共にするのは、M君とヨシミさと私の3人の模様。いつものメンバーです。


いざ、出かけようとしたとき、ふと肌寒さを覚え、そういえば昨日は半袖ジャケットを着ていたっけ。カメラはそのポケットに入れたまま、二時会場に忘れたのに違いない、と、いよいよこの推理の妥当性を確認するに至りました。


その旨、M君らに打ち明けますと、ケーベツされるどころか,同情混じりに暖かく受け入れていただき、朝食が終わったらホテルをチェックアウトし てから、車で会場まで送ってやるよと言ってくれました。


早朝の日曜市を覗きながら,高知城につながる城下追手筋をゆっくり歩きまた引き返したりしながら、お目当ての喫茶店の開店時間8時を待って入店。ゆったりした時間とともにモーニングサービスを楽しみました。


よい散歩、よい朝食タイムでした。日曜市の様子も、喫茶店の様子も、そしてまた高知城近辺の様子も、カメラがないので写真がありません。トホホです。


降ってわいた愉しい計画


さて、ヨシミさんは朝食後、チェックアウトを済ませたら、先輩のN女子と一緒にJRで佐川町に向かう予定だそうです。NHKの朝ドラ「らんまん」で一躍脚光を浴びている植物学者牧野富太郎の郷里です。


実はこの記事で紹介した旧友安田せつこさんの地元なので、彼女が案内してくれる約束が出来ているのだそうです。


思いもかけない大ニュース!の巻


調べて見ると「しんぶん赤旗」にも、小さくこんな記事が載っています。

08518

候補者の安田せつ子さんとは浅からぬ縁があります。

第一は、大学の同じ学部、学科、専攻の後輩です。私は勉強好きでしたから、語学をはじめ一般教養の授業なども含めて数年がかりで習得しましたから、同じ授業やゼミでも、しばしばご一緒しました。

第二は、わが妻と同郷で、高校の同級生、大学入学当時は下宿まで同じでしたので、いきおい、しばしば共に行動する機会もありました。

第三は、ですから、卒業後も、妻とともに里帰りしたときなど、実家近くでお会いすることもある「昵懇」の間柄だったといえまず。

第四は、県は違っても、共に教職に就き、組合運動にも携わってきた共通点から、実際にお目にかかる機会は稀であっても、変わらず心通じる間柄だったと言えます。

第五は、当ブログでもしばしばご紹介している、数年前から何度か開かれている大学時代のサークルの同窓会でお目にかかる機会が増えました。(中略)実は、厳密に言えば、せつ子さんはサークルは一緒ではないのですが、親しい友人が多いので、この同窓会に参加してくれることが多いのです。

去年の会では、知る人ぞ知るオハコの落語を、和服姿で披露してくれました。

DSCF8036

進んで人前に出しゃばるタイプの人ではなく、穏やかで温かい人柄でしたから、落語を演じる姿に驚きかつ感心したものでしたが、今度は何と県議選に立候補とは、、。またまた、とっておきの友だち自慢のネタが増えました。


そういうことなら同行したいと、私もM君も参加することに。JRよりは車で行こうというM氏の提案により、話がまとまりました。


まずは、それぞれホテルのチェックアウトを済ませ、M君の車に乗り合わせ出発。途中、前日の会場に寄ってもらいました。職員の方に事情を伝え、前日使った部屋まで、ご親切に一緒に探しに行ってもらいました。


が・・・、目当てのものは、ないのです。


がっかりです。


ジャケットや,カメラそのものは諦めるにやぶさかでありませんが、前夜撮影した画像は、取り返しがつきません。トホホです。


念のため、恥を忍んで、ホテルに事情を話して,落とし物がないか調べていただきました。数刻後、折り返し電話が入り、「ありました」とのこと。恐る恐る「どこに?」と訪ねると、「お部屋の中にありました」とのこと。嬉しいやら、恥ずかしいやら・・。自己不信がますます増幅したことでした。




佐川町探訪記(序)


佐川町のことは、下の記事でちょっとだけ書きました。


春らんまん、の巻(2023-04-06)



NHKテレビでは、牧野富太郎博士をモデルとする朝ドラ「らんまん」が始まりました。


酒蔵・峰屋の跡取りとして生まれた槙野万太郎が主人公です。

(中略)

牧野博士の出生地佐川町は、地域の「子供会」がらみの縁で、何度か足を運んだことがある土地ですし、親しい友人の嫁ぎ先でもあり、格別の親近感を覚える土地でもあります。ずっと後になって(「昭和」の終わりの頃でしたか)、職場の職員旅行で高知への旅の一環として、「司牡丹酒造」の酒蔵を見学し「利き酒」を楽しんだこともありました。大吟醸とか純米酒とか、色々ある酒の種類を利き分けるクイズなどもあり、全問正解で「認定証」をいただいたことがありました。実は同行のMさんの答えをチラチラ見ながら、カンニングさせていただいた結果でした(汗)が、それなりに確信を持って書いた答えではありました。悲しいことに、昨年はそのMさんの訃報に接することになりました。
北隆館 「学生版 牧野日本植物図鑑」は,今も愛用しています。高知市五台山にある高知県立牧野植物園には、学生時代、専攻の教官・学生らとともに、研修(親睦)旅行に連れられていった記憶がボンヤリあります。


上の記事で、「親しい友人の嫁ぎ先』と書いた「親しい友人」とは、このたび町内を案内してくれた安田せつこさんのことでした。


町の中にはまだこんな立て看板が残っていました。


_K521494


あたかも町の風景の一部と化しています。


この安田さんが,佐川駅で待ってくれていました。


_K521390


駅前の陸橋にも大きな横断幕がかかっています。


_K521391


町中で,「らんまん」と牧野富太郎を売り出している様子がわかります。


下のシュールな(?)画像は、駅の真ん前にある郵便ポストと、M君のコラボ画像です。


_K521382


郵便ポストに乗っているのは、牧野博士が最も愛したというバイカオウレンをかたどったデコレーションです。


_K521385


さてこの後の佐川町見学記は、会を改めてご紹介できればと思います。


しばらく更新していないために、煩わしいCMに占領されている初代「ナードサークの四季」を,昨日少しだけ更新し、その一部を掲載しましたのでご覧ください。


牧野富太郎の故郷のヤマボウシ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


今日はこれにて。


nice!(25)  コメント(2)