春は駆け足、の巻 [花三昧]
亡父の一周忌(神道系なので一年祭と呼びます)を家族だけで済ませました。
冬の間に強剪定した、庭の白木蓮がそれでも花を咲かせていました。
亡父が生前、一緒に泊まったことのある温泉の同じ宿に、家族で泊まりました。
以前この記事で紹介しました。
風薫る温泉宿の大家族(2016-05-08)
さて、一方、今回宿泊した湯郷温泉で
すが、私にとっては、高校時代毎日自転車通学した経路の上にあり、身近すぎて有り難みを感じることが少ないきらいはあって、私自身これまで、温泉の湯につ
かったことはあっても宿泊したことはありませんでした。今回は、両親も高齢化して遠出を控える気持ちもあって、近いところですまそうと考えたのでした。し
かし、いざ宿泊予約を試みようとすると、大型連休中とあってか、どの宿も満杯らしく、ヤド探しに手こずりました。たまたま、以前娘が友人と泊まったことが
あるという旅館に空き室があり、やっとの事で予約ができました。
美作三湯の中では一番、里に近く、高速道路による近畿地方とのアクセスも比較的至便なので、その点「俗化」の傾向が強いように思われますが、十分に山深いことは間違いありません。(中略)
朝から青空が広がっています。
郷土作家のあさのあつこさんが、「作州色」の空と呼ぶのはこんな色でしたっけ。彼女、現在お住まいはもう少し北寄りの、姫新線林野駅の近くですが、かつて少女時代はこの湯郷にお住まいだったはず。(中略)
旅館のなかにこんなレトロなコーナーがありました。
(中略)
右の兄が,今では大学生。左の弟が4月から高校生です。この時はまだ乳児だったり、生まれていなかった含めて、子どもたちは大はしゃぎでした。
早一週間が経ちました。大学生の兄は、昨日、連路飛行機で、大学のある町へ帰りました。
一昨日の朝散歩では、雨上がりの花々が、春を告げていました。
ソメイヨシノははほとんど蕾ですが、チラホラ咲き始めているなと感じておりましたら、気象台が岡山市の標本木の開花を確認したというニュースがありました。
そして今朝も、夜の間に雨が降った様子で、濡れたソメイヨシノがこんな具合に咲き広がっています。
あれこれ多忙な毎日で、ゆったり花を愛でる余裕もありませんが、束の間の朝散歩を愉しめて嬉しいことです。
今日はこれにて。
二つのニュース、の巻 [日録]
昨日のニュースで、遅きに失したとは言え、袴田巌さんの再審決定の報を、嬉しく読みました。
あまり触れられることのない、袴田さんのもう一つの経歴をウィキペディアの解説から引用します。
袴田 巖(はかまだ いわお、1936年(昭和11年)3月10日 - )は、日本の元プロボクサー。世界ボクシング評議会名誉チャンピオン。
冤罪の可能性が取り沙汰される袴田事件の被告人。2014年に死刑執行停止・釈放されたが、無罪判決が出ているわけではないため、現在も死刑囚という扱いになっている。
関連して、「東京新聞」の2023年2月11日 12時00分付web版記事をご紹介させていただきます。
袴田巌さん再審のゴングは鳴るのか…輪島功一さんらボクサーたちが支援を続けてきた理由
◆歴代チャンプが次々応援演説
「先ほど、差し戻し審の東京高裁の決定が3月13日に出ると告知されました。この日まで袴田大先輩の再審無罪を訴えて世論を盛り上げていきたい」
6日の東京高裁前。元東洋太平洋バンタム級チャンピオンの新田渉世さん(55)が呼びかけた。日本プロボクシング協会「袴田巌支援委員会」の呼びかけで、ボクシング関係者約50人が集結。「時間がない」と書かれたのぼり旗が風にはためく。
静岡県で生まれた袴田さんは中学卒業後にボクシングを始め、国体に出場。プロ転向後の最高位は日本フェザー級6位で、29戦16勝(1KO)10敗3分。KO負けは一度もない。
そんな「先輩」のため、新旧王者らが次々にマイクを握った。
「僕自身、再審開始と無罪判決を願っている」(中谷潤人・前世界フライ級王者)、「必ず無罪になることを心より願います」(鈴木菜々江・前世界女子アトム級王者)、「袴田さんを自由にしましょう」(真部豊・元日本スーパーバンタム級王者)、「証拠も不十分な事件が今なお争われている。これは基本的人権の侵害だ」(高橋良輔・元東洋太平洋クルーザー級王者)
(中略)
◆ボクサーへの偏見「許しがたい」
長年支援に参加してきた元世界スーパーフライ級王者飯田覚士さん(53)も「私自身、事件についていろいろ調べた。どう考えても冤罪えんざいだ」と道行く人たちに訴えた。「こちら特報部」の取材に対し「袴田さんは釈放されたものの、今も死刑囚のままだ。裁判所は一刻も早く潔白を証明してほしい」と求める。
支援委員会の委員長も務める新田さんは「昔はボクサーへの偏見があり、そうした風潮のなかで袴田さんが逮捕されて死刑判決を受けた。今も許し難いと思っているボクサーは多くいる」と話す。(中略)
「ボクサーは、正々堂々とルールにのっとって闘うことを重要だと感じる。今度こそ公正なジャッジをして、再審の開始につなげてほしい」。他の支援団体や超党派の救援議員連盟と連携したアピール活動なども検討している。
◆炎の男は静岡に通った
元世界スーパーウエルター級王者で、東日本ボクシング協会元会長の輪島功一さん(79)は2006年から仲間の無罪を訴え続けた。「静岡に何度も行ったよ。地裁に要請に行ったときは、『死刑と決めた人間を死刑にしないのは、無罪かもしれないと思うからだろ』と言ってやった」
事件当時、捜査当局は袴田さんを「ボクサー崩れ」と言い表し、犯人視した。「ボクサーだから犯人と思うやつらは、当時いっぱいいた。バカにしていたんだ。でも、勉強しなくても貧乏でも『今に見ていろ』と奮起し、上を目指すのがボクサーだ。私もそうやって苦労してきた」
再審可否の判断は来月出るが、輪島さんはじれったい。「検察や裁判所は袴田さんが死ぬのを待っているんじゃないか。生きているうちに、真っ白い、完全な無罪を勝ち取りたい」
「ボクシングの日」ファン感謝イベントで、WBC名誉チャンピオンベルトを着けてポーズを取る袴田巌さん(前列中央)。同左は姉ひで子さん=14年、東京都文京区の後楽園ホールで=2014年5月、東京都文京区の後楽園ホールで
◆WBCから名誉王者ベルト
ボクシング界の支援のきっかけは、1976年に控訴が棄却された後、袴田さんがボクシング評論家の郡司信夫さんに無実を訴えた手紙だ。80年の死刑確定を受け、ボクシング関係者が「救う会」を結成するなどした。
(中略)
ボクシング界の粘り強い支援に、袴田さんの姉ひで子さん(90)は「支援の輪を海外にも広げてくれた」と感謝する。ボクサーとしての弟を国体出場のころから見守ってきた。
「巌はボクシングのことしか知らない子。常に頭にあるの。釈放後に入院した病院の外出届にも『後楽園へ帰る』なんて書いたほど。後楽園ホールのリング上に招かれ、求められるとすぐファイティングポーズを取った。今でも雑誌で写真を見ながら『ガードが下がり過ぎだな』なんて講釈するの」
再審のゴングが鳴るかは来月決まる。「ふたを開けてみないと分からない。今はただ13日を待つだけ」
ボクシングに捧げた青春が、一転「殺人犯」「死刑囚」の汚名を着せられ、身の潔白を示すためだけに、残りの人生のほとんどすべてを捧げなければならなかった袴田さんとご家族のご苦労は、察するに余りあります。
もう一つのニュースは、思いもかけない悲報です。
大江健三郎さんが亡くなられたそうです。
私ごとですが、高校時代、大江健三郎氏の作品を耽読しました。新潮文庫のものはほぼすべて読んだと思いますし、背伸びをしてハードカバーの何冊かも購入して読みました。
強く愛着を覚えたのは、
『他人の足}(1957)
『不意の唖』(1958)
『人間の羊』(1958)
『芽むしり仔撃ち』(1958)
『見るまえに跳べ』(1958)
『われらの時代』(1959)
『セヴンティーン』『政治少年死す』(1961)
などの初期の諸作品でした。
また、脳に障害を持って生まれた長男の誕生を機に書いた『個人的な体験』(1964)、そして、その個人的体験から語り始められるルポルタージュ『ヒロシマノート』(1965)は、そのテーマの重さと筆者の真摯さに、強く心を揺さぶられながら読んだことでした(読む進めるのが苦しい感じを抱きながらも)。
これらの作品や、その後の、70年代以降現代までの発表作品についても、いつか、まとまった感想を書かねばと思いつつ、先延ばしにするうちに、訃報を聞く事になってしまいました。
大江氏に関して、拙ブログにも、少しは記事を書いたかと思って探ってみましたが、どうやらこの記事オンリーのようでした(汗)
クイナです。(2015-01-19)
去年の2月20日付ブログで、
初めて遭ったベニマシコという記事を書きました。
その場所に今年もベニマシコが飛来しているとの情報をお聞きし、二度ほど出かけてみました。私にとっては、チョー珍鳥ですので、気合いを入れて、finpix s1のほかに、pentaxk5Ⅱ+sigma120-400mmという「フル装備」で臨みました。
時折、橋の上を新幹線列車が走ります。
その下を川が流れていて、かなりの規模で川原が広がっています。(中略)
川沿いをちょっとした距離、歩き回ってみましたが、残念ながら目当ての鳥には会えず、心を残して引き上げました。
でも、「捨てる神あれば拾う神あり」で、いろんな出会いがありました。
(中略)
ほかにも、カワセミの採餌の瞬間も撮れました。
そして一番の収獲は、ほぼ同じ場所で、クイナとヒクイナに会えた事でした。
ヒクイナは、ずっと以前、近所の小川で見かけたことがありました。その頃はまだ、スズメ以外の鳥の名前もほとんど知らず、不鮮明な証拠写真を、専門家の同僚に鑑定していただいたことがありました。
また、よく似ている鳥のバンは、撮影した事があり、一昨年10月18日付のこの記事でも書きました。ただしその時は、バンと混同して オオバンの画像も載せてていました(汗 )。
クイナは初見です。
(中略)
クイナ」について、ウィキペディアは、
クイナ(水鶏、秧鶏、水雉、Rallus aquaticus)は、ツル目 クイナ科 クイナ属に分類される鳥類。
日本の古典文学にたびたび登場する「くひな」「水鶏」は、別属のヒクイナを指していることが多い。(→ ヒクイナを参照)と説明しています。
一方、「ヒクイナ」の項には、ヒクイナ(緋水鶏、緋秧鶏、学名:Porzana fusca)は、ツル目 クイナ科 ヒメクイナ属に分類される鳥類。
古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ、その独特の鳴き声は古くから「水鶏たたく」と言いならわされてきた(下記参照)。くいなとして、三夏の季語。
古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ、連続して戸を叩くようにも聞こえる独特の鳴き声は古くから「水鶏たたく」と言いならわされてきた。 古典文学にもたびたび登場している。 夏の季語。とあり、以下の文章が引用されています。
くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ。 紫式部 『源氏物語・明石』
たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては来む 菅原孝標女 『更級日記』
五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。 兼好法師 『徒然草』
此宿は水鶏も知らぬ扉かな 松尾芭蕉(中略)
ところで、ノーベル賞作家大江健三郎さんは、一九九四年、ノーベル文学賞受賞記念講演を「あいまいな日本の私」と題して行いました。これは、日本人で最初にノーベル文学賞を受賞した川端康成の、「美しい日本の私」と題するあいまいな講演を強く意識し、批判の思いを込めた講演でした。
- 作者: 大江 健三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1995/01/31
- メディア: 新書
その一部を要約しますと、こんな内容が語られていました。不幸なさきの大戦のさなか、ここからはるかに遠い日本列島の、四国という島の森のなかで過ごした少年期に、私が心底魅惑された二冊の書物が、「「ハックルベリー・フィンの冒険」と「ニルスの不思議な旅」。
前者には、世界を恐怖が襲った時代に、私が谷間の小さな家で夜すごすより、森に登って樹木に囲まれて眠ることに安息を見いだす子どもだったたことの、自己正当化の根拠があると感じられた。
後者の、少年が小人となり、かつ鳥の言葉を理解して、冒険にみちた旅をする物語には、幾つものレヴェルの官能的な喜びが隠されていた。先祖がそうしてきたとおり、小さな島の深い森に閉じこめられて暮らす少年に、本当の世界は、またそこに生きるということは、このように解放されたものだという、みずみずしく不逞な確信があたえられた。
私に生まれた最初の子ども(かれに私はlightという意味の、光という名をつけた)は、知的な発達に障害を担ってい。幼い時、かれは野鳥の歌にのみ反応を示して、人間の声、言葉には無反応だった。六歳の夏を過ごしにでかけた山小屋で、木立の向こうの湖からクイナの番いの声が聞こえた時、野鳥の歌を録音したレコードの解説者のアクセントで、「クイナ、です」といったのが、息子が人間の言葉を話した最初だった。もう少し引用します。
私は無信仰の者なんです。カトリックを信じない。プロテスタントも信じませんし、仏教も信じない。神道も信じてない。信じることができない。だけども祈っていた。祈ったというよりも、集中したという方が正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。まだ若いダケカンバの木なんですけど、その木を見ていました。いま自分がこの木を見て集中している、他のことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。そしてもう一度くいなが鳴きましてね、息子が「クイナ、です」といったんです。
私は山小屋に戻ってきて、家内に、息子のことをプーちゃんと言うんですけど、「プーちゃんがいま、『クイナ、です』といったよ」と報告した。家内はそれを初め信じてなかったようですけれども、受け入れてはくれましてね、翌朝までふたりで待ったんです。
朝になると周りの林で小鳥が鳴く。シジュウカラとかコゲラとかホトトギスとかが次々鳴いたものですからね、子供はいちいちその鳥の名前を言った。私たちは子供が人間の声でコミュニケーションすることを発見して、それから子供とのいろんな遊びを作って彼に言葉を話させるようにしたわけなんです。そしてかれはやがて人間の声を聞くようになったし、人間の作る音楽にも関心をもつようになりました。今は自分で音楽を書くようになっています。そのすべての最初は、あの「クイナ、です」とかれがいった瞬間だった。
《どうせ叶わぬことと分っていても、重松は向うの山に目を移してそう占った。》
「占った」というのは井伏さんらしい照れた言い方で、心のなかでそう願った、ということです。その内容は、
《今、もし椋尾の山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹ではんくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」》
この文章を私はよく理解できると思っています。私自身、クイナの時にそう占ったから。そして、人間はこのように祈るものだと私は思うから。信仰を持ってなくても、宗教がなくても。
そういう占い、祈りには意味がない、ということもできます。そういう無意味なことはしないという人ももちろんいていい。しかし、自分はそういう事をする人間だと私は思っています。井伏さんもそのような人だと思う。そして私は井伏鱒二の文学を尊敬するわけなんです。大江光さんは、今、作曲家として活躍されています。
このCD、私も持っています。
- 作者: 大江光
- 出版社/メーカー: 全音楽譜出版社
- 発売日: 1999/11/01
- メディア: 楽譜
- 作者: 大江光
- 出版社/メーカー: 全音楽譜出版社
- 発売日: 1998/12/10
- メディア: 楽譜
一方、大江健三郎さんは、今、「九条の会」の呼びかけ人の一人として、憲法九条をまもり生かす運動の先頭に立っておられます。
昨年6月10日に開かれた、「九条の会発足10周年講演会 集団的自衛権と憲法9条」のスピーチでは、「昨年暮れに小説を書くことを締めくくりました。もう小説を書いていると言えません。ここにきて得心できました。『九条の会の大江健三郎』です。」と発言しておられます。
《よびかけ人のスピーチ》
“いっしょにできることは沢山ある” 大江健三郎(作家)
私は「小説を書いている大江です」と自己紹介してきましたが昨年暮れに小説を書くことを締めくくりました。もう小説を書いていると言えません。ここにきて得心できました。「九条の会の大江健三郎」です。
いま発足10周年を記念している九条の会の話が私のところに持ち込まれたときです。加藤周一さんが、九条の会をつくることを思い立たれた、その仲間によびかけるメンバーにならないかということでした。加藤さんは85歳でした。
いま安倍首相が何よりも忌まわしいものとして打ち壊そうとしているのが戦後レジームというものですが、それをつくりだし、外国に紹介したグループの中心になった人が加藤周一さんでした。その加藤さんから呼びかけ人になるよう声をかけていただいたので私はすぐ承諾しました。
さて、安倍首相はまず憲法96条の改正をすると言い、批判の声があがると引っ込めました。そして自分と親しいグループに案を出させ、それを内閣で決定する、そして国会で承認する手続きをとるといいます。
もともと私たちが、この前の選挙、さらにその前の選挙で政権に過半数を与えたことが、集団的自衛権が閣議決定され、法律となるという危機として迫っているのではないかと思います。
そして、いったん集団的自衛権なるものが現実に行使されるならば、日本人がアメリカ軍にくっついて、アジアで、あるいは別の場所で戦争をする、人を殺す、殺されることもある。そうなっても、政治家があるいは安倍首相が反省し、あるいはまちがっていたといって取り消すようなことはおこらないと思う。かえって、政治家や安倍首相は集団的自衛権を行使しようとして国際的に働いて殺されたと言うと思います。集団的自衛権はこの国から動かせないものとなってしまう。そしてそれは安倍さんが忌まわしいものという戦後レジームというものが最後になることと私は考えます。
ところが10年前、加藤さんは、非常に大きい根本的な危機が訪れようとしていることを彼の確実な世界観で見抜いていました。そして加藤さんは自分の文学の仕事をやめられたのです。夫人の矢島翠さんは「加藤の最晩年には大きな事件が次々に起こり、むしろ実践活動に比重が移るようになりました。それはとても大きな変化でした。たとえば小田実さんなら当然なさったかもしれないけれど、加藤がよくこれだけ動くようになったものだと横で感じておりました」と語っています。
私もそのような驚きを感じておりました。そして何度が加藤さんと九条の会でお会いするうちに、いま加藤さんは九条の会の仕事にすべてをかけておられると感じました。その加藤さんは九条の会が発足して4年後に去っていかれました。
私は自分が一生でであったいちばん大切な人の一人として加藤さんのこと、また同じくすでに死んでしまった井上ひさしのこと、最初に亡くなった小田実のことを考えています。そして彼らが死んだあと、自分は文学よりほかのことをしなくてはいけないと感じるようになりました。
加藤さんの言葉を引用することを中心にして終わります。たとえば、「憲法を改正するのは戦争のためで、いきなり戦争をできるように、この国をするためです。…戦争の準備をすれば戦争になる確率がおおきい。もし平和をのぞむならば戦争を準備せよではない、平和を望むなら平和を準備したほうがいい。戦争を準備しないほうがいい」
もう一つ加藤さんの言葉の引用です。「私たちの経験する歴史は、小さな偶然や、あるいは小さな、小さければ小さいほど自由な、決断の積み重ねであるほかはないのです。個人にとっては、個別の場合に応じる個別の自由を平和にむけて凝視するか、戦争に向けて凝視するかの問題になるでしょう。戦後60年、日本国の平和に向けた選択に憲法9条は大きく貢献してきました。こんにちそういう選択の自由を可能にした9条を改めて戦争への道を開けば、いずれ戦争か平和かの選択の自由そのものが失われるでしょう。平和な日本は、戦争か平和かを選ぶことができます。戦争をする日本では、戦争か平和かを選ぶことができません。 九条の会は選択可能性の選択をよびかけているのです」
そして私は、私なりの加藤さんの最後のよびかけと思うことを読みまして終わりとします。2007年11月の九条の会全国交流集会での加藤さんのあいさつです。私たちのたたかいのヒントを2項目あげて話を終わられました。
「第一は、おそらく長丁場であるということを意識して運動をやるということ。今年だけ運動が活発なのでは駄目で、長く活発にやる。拡大した組織は、ゆっくり大きくなる。劇的に大きくならないけれど、ゆっくり確実に大きくなるのだということをはっきり意識しなくてはならない。これは大きな仕事だと思います。しかし、意識的にそういう方向に動くべきではないかと、私は思います」
加藤さんはそう言いながら、この九条の会が7500のグループをつくるということまでは想像されなかったのではないかと思います。それから彼のあげた第二のヒントです。
「あまり抽象的なことばかりではなくて、すべての問題を日常性に結びつけなければいけないということですね。憲法を改正しよう、改憲をしようという勢力の政治的方角は、福祉の縮小であり、対外的な戦争の容認です。彼らはそういう方角に目標を切り替えようとしていると思います。我々は日常生活であらゆる手段をとって、それに対して反対する。教育について、年金について、何についても反対すべき政策が非常に多いけれど、それらは相互に関連しています。その相互に関連したもの全体に反対することが大切で、つまるところそれこそが憲法を守るだけでなく積極的に生かしてゆくことではないでしょうか」
これは今、集団的自衛権の問題があり、アジアの危機が大きくなっているときに発せられた言葉ではないのです。加藤さんが亡くなられる一年前の言葉です。そしてどうするか。加藤さんは言います。
「これから先、大変だと思います。でもどうか皆さん、一緒にできるだけのことをしましょう。一緒にできることはかぎりなく沢山あるのです」
そのように沢山のことは私にはできないかもしれません。しかし一つやりたい、それは今日、皆さんにお話することでした。
引用文ばかりの記事になりました。
今日は一日、郷里の母の元を訪ね、父の一年祭(神道系の儀式で、仏教で言う一周忌の法会に当たります)に向けてこまごまとした用事を済ませてきました。そのため、ぶろぐこうしんおよようはなかったのですが、とにかく備忘メモは残して置きたかったので、こんな粗製記事になりました。乞うご容赦。
トリ較べ、の巻 [鳥三昧]
今日思いついたタイトルは、既に使い古していたことに気づきました(汗)
とりくらべ、の巻(2021-01-25)
ところで、今日のタイトル「とりくらべ」のココロは、昨日の機材と撮り比べてみようかと考えた次第。昨日、雨上がりの散歩道で使ったのは、OLYMPUS E-520+ZUIKO70-300mm。最近の使用歴では、どうも思わしい結果が出ていないので、初心に戻ってRAW撮影してみようか、と思ったのでした。これで使い物にならなければ、この取り合わせでの望遠撮影は、きっぱり諦めようとも思いました。
こういう題材では、決して写りは悪くはないと思います。
問題は、「鳥比べ」です。
枇杷の花に吸蜜するメジロの群れ。
トリミングします。
(中略)
ジョウビタキ♀
カワセミ。
とりくらべ2,の巻
要するに「鳥較べ」と「撮り比べ」をかけた駄洒落です。
最近、PENTAX K1MARKⅡ+TAMRON SP500mmレフレックスレンズを持ちだしてみたり、それともSIGMA DG 120-400mm APOか、はたまたAFBORGかと、際限のない迷いの中にある有様は、繰り返し記事にしてきたところですが、カメラの中に一週間ほど放置していたCFカードを開いてみましたら、こんな画像が入っていました。上の引用記事お同じOLYMPUS E-520+ZUIKO70-300mmによる撮影です(RAWではなくJPEG撮影です)。
水上の鳥。オオバンです。
コガモをはじめ、カモたちの姿は、だんだんみなくなりました。
樹上の鳥。メジロ。トリミング画像です。
カワラヒワ。
樹上のジョウビタキ♂。
綱上のジョウビタキ♂。
杭上のジョウビタキ♂。
地上のシメ。
地上のツグミ。
コンパクトで、手にもなじみ、使用感は快適ですし、写りも大きな不満はありません。お気軽散歩カメラとして、まだまだ使えそうです。今日はここまで。
3月8・9・10日のメモ、の巻 [今日の暦]
3月8日は国際女性デー、3月9日は父の命日、今日3月10日は東京大空襲の日でした。
去年の3月には、こんな記事を書きました。
葬儀報告、の巻(2022-03-14)
昨日、父の葬儀を家族葬ですませました。
生まれて初めて『喪主』というものになり、こんな挨拶をしました(概要・ブログ用に一部編集)。
本日は お寒い中 、ご多忙中にも関わらず、 遠路、また大事な予定をキャンセルするなどして、こうしてお集まりいただき、ありがとうございます。
父は、昭和2年(1927年)5月○○日、当時日本の植民地だった朝鮮の北部、平安北道というところで、警察官だった○○の長男として生まれました。そして、その地で少年時代を過ごしました。最近父が「自分史」の一端として書き残していた文章をまとめ、小さな冊子を作りましたが 、その中にも、子どもの頃食べた松の実の味の事や、 朝鮮人の友達と長いツララでチャンバラごっこをして遊んだことなどが懐かしい思い出として綴られています。
5歳の時、祖母が急死したため、急いで日本に引き上げることになり、こちらでの生活が始まりました 。時経ずして、母○○が、妹を出産した直後に亡くなったため、「母のない子」としての少年時代を懸命に努力して家の生活を助けながら学業に励みました。進学への希望はありましたが、家計の事情で断念するしかなく、高等小学校を卒業してすぐに東京の鉄工所に 就職するところまでが、この冊子には綴られています。
ところで父の命日は3月9日ですが、翌3月10日は、東京大空襲の日です。この冊子の付録として、晩年の父が時々地元新聞 の読者欄に投稿していた文章も採録していますが、その一節を読んでみます。 (注1参照)若者に絶対駄目と願いたい
年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のように米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失つた。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。 (美作市 91才)ちょうど今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻というニュースが世界中を悲しませていますが、この「戦争は絶対ダメ」というの言葉を、プーチンさんにも伝えたいと、強く思っているところです。
さて、東京空襲で焼け出されて郷里に帰った父は 、地元の鉱山で勤労奉仕に従事している時、終戦の知らせを聞きました。「悲しいようなホッとしたような苦い思い出である」と、終戦記念日に寄せた 投稿で書いています。その時18歳でした。(注2参照)
上にも書きましたが、ロシアによるウクライナ侵略が始まって、早くも一年が過ぎました。
平和な春が訪れますように、の巻(2022-03-04)
地元「九条の会」が3月9日に予定している「9の日行動」で、スタンディングの際に使おうと、こんなプラスターを作ってみました。これを使わなくて済む状況が一刻も早く訪れますように。
地元のお仲間と、こんなハガキをロシア大使館に送る相談をしています。
ロシア連邦大統領
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン閣下
貴国によるウクライナへの武力侵攻の報道に接し、私たちは、ヒロシマの被爆詩人峠三吉の詩を改めて想起せずにはいられません。
ちちをかえせ/ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ/わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの/にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ
全人類に向けたこの痛切な伝言を胸に刻む者の一人として、取り急ぎ、謹んで緊急のお願いを申し上げます。
1)直ちに武力侵攻を中止され、平和を回復してください。
2)ウクライナの子どもたち、女性、高齢者を含む大勢の市民、及び祖国愛に燃えるロシアの勇敢な若い兵士たちに、これ以上の無益な流血を強いないでください。
3))核の使用はもとより、核兵器で世界を威嚇することをやめ、核なき世界、理性と愛が支配する平和な21世紀の実現にむけて、賢明なリーダーシップを発揮してください。
どうか、それにより、閣下とロシア国民の栄誉が、後世に長く記憶されるよう祈念するものです。ロシア大使館の関係者の方、もしこのブログを瞥見される機会がありましたら、どうぞ、一刻も早く、プーチン閣下にハガキ文面をお伝え願わしゅう存じます。
謹告、の巻(2022-03-13)
地元九条の会が行う、今月の九の日行動について、若きお友だちのH女史が、ご自身のブログで、紹介してくださっています。
その一部を、いつものように無断で(ゴメンナサイ)ご紹介させていただきます。
この日の手には…
3/9(水)は、わが町「9条の会」のスタンディングの日でした。
いつものように行われるはずでした。
こんな気持ちでこの日を迎えることになるなんて…。
手には、それぞれに、手書きで、パソコンで、自ら新たに準備したプラカードが持たれていました。
「Stop Putin」「ウクライナに平和を?」「No War」…そして、「9条壊すな」。
(中略)
9条の会メンバーの方がハガキを作ってくださいました。
ロシア大使館気付、プーチン大統領宛です。
四角の枠に一言メッセージを添えて送ります。「微力だが無力ではない」という言葉を信じて。
あれから一年経った昨日の3月9日も、「九の日行動」、いつも通り行いました。プーチンのウクライナ侵略を糾弾するにとどまらず、危機に便乗して敵基地攻撃能力の保有、軍事費2倍化へと急ぐ岸田内閣の悪乗りにストップをかける仕事、なかなか厄介なことです。
前出のH女史が、またこんなブログ記事をUPしてくださっています。いつもながら著作権・知的所有権問題にルーズな小生、無断引用させていただきます。
ミサイルよりも
国際女性デー(3/8)に心を寄せて爽やかに意思表示する、世界の女性たちの姿が今日も配信されています。
1910年に呼びかけられた「はじまり」から今日まで、女性デーの歴史は反戦平和のたたかいと一体だったことを知りました。(中略)そして昨日(3/9)は、わが町9条の会のスタンディングの日でした。
回を重ねるたびに、車の中からこちらにしっかりと目を向けてくれる人、しっかりと手を振ってくれる人が少しずつ増えている気がします。
信号で止まるとき、私たちの姿を遮らないようにと大きく間隔をあけて止まってくれた大型トラックの運転手さんもいました。何事もないように前を向いて座っているその運転手さんの心遣いにじんわりと胸があたたかくなったスタンディングでもありました。
この日の私のプラカードはこれ。家を出る前に急ごしらえで作りました。手元にあった紙をコピーさせていただいて。
スーパーに買い物に行くたびに「このさき家計は大丈夫?家族のいのちは守れるの?ミサイルで守れるの??」と思う気持ちを書きました。
…しかし、地味だな。。次回はもう少しカラフルにしよー。
明けて今日、3/10、東京大空襲から78年となりました。
さて、今日の写真は、先日のカメラ散歩で持ち出したPENTAX k1MARKⅡ+TAMRON SP500mmレフレックスレンズの組み合わせで撮影した画像です。
ノントリミングで こんな望遠マクロ効果が発揮されます。
少し離れた鳥を写すにも500mmの威力は侮れません。完全なマニュアルフォーカスですが、PENTAXk1MARKⅡの大きさ見やすさと、「フォーカスアシスト」の助けにより、まずまずのピント合わせが可能です。
鍬とジョウビタキ。
枝の上のツグミ。
電線に止まるムクドリ。
小川の向こう岸にカワセミがいましたが、さすがに遠いので、トリミングします。
今日はこれにて。
地上の鳥、の巻 [鳥三昧]
NHK「プロジェクトx」の主題歌で、2002年の紅白歌合戦では、作詞・作曲の中島みゆきさんが、黒部ダムの坑内から歌った「地上の星」は、歌詞を間違えたというアクシデントも含めて、強く印象に残っています。思えばもう20年も前のことでしたか?
風の中のすばる
砂の中の銀河
みんな何処へ行った 見送られることもなく
草原のペガサス
街角のヴィーナス
みんな何処へ行った 見守られることもなく地上にある星を誰も覚えていない
人は空ばかり見てる
今日のテーマは、ちょっとスケールが小さいかも知れませんが、「地上の鳥」です(笑)。
この鳥は、ビンズイですよね。
シロハラ。
ジョウビタキ♀
今日はこれにて。
追伸、 静謐な一日様より、著作権問題について懇切なご指摘をいただきました。ごもっともと思い、引用・紹介していた歌詞を削除し、中島みゆきさんの公式youtubeへのリンクと差し替えました。お楽しみ下さい。
月遅れのセツブンソウ、の巻 [花三昧]
2月の頃から、セツブンソウを写したい思いがつのっていましたが、機会をつくれませんでした。旧ブログから新バージョンに移行したばかりの頃、こんな記事を書きました。
10日遅れのセツブンソウ、の巻(2022-02-14)
新しく 「花三昧」という カテゴリーを立てました。 柄にもなく、花を撮ることも、時にはあります。 しかし、見たままにの美しさを写真に写すことは 難しいことだ、とつくづく感じさせられます。
けれどもまあ、季節を知らせる 「花便り」ほど の意味は あるでしょうか。 そんなことを思って、久しぶりに 半田山植物園へ行ってみました。 お目当ては 10日遅れのセツブンソウです。
過去にも、ここでよく写しています。最初はこの記事。思いがけずセツブンソウに会う、の巻(2019-02-26)
半田山植物園にも久しく行ってません。・・と思っている折も折、小2の孫娘がポロリと話題に出しました。以前、確か小学校入学前、個々へ連れて行った際、迷子になった「トラウマ」の「リベンジ」を果たしたいと言うのです。
探してみるとこんな記事を書いていました。
お久しぶり(その4),の巻(2020-11-26)
小4の姉の提案で、半田山植物園へ行くことになりました。
以前、この記事連日の花見日和、の巻(2019-04-06)で紹介した,桜の頃の半田山をなぜか思い出して、再訪してみたくなったようです。
半田山植物園は、ちょうど桜の時期とあって、大勢の人でした。駐車場が、私たちが到着した時はまだ何台か空きがありましたが、帰る頃には何台もが駐車場入り口前に連なって、空きを待つ状態でした。この施設がこれほど賑わっている状態に遭遇したのは、初めてです。
ぽかぽか陽気の快晴で、歩き回るだけでも気分が爽快になります。山の斜面に作られた公園ですので、起伏に富み、孫たちも、野山をかけまわる感覚を味わいながら、色んな植物や花々に興味を引かれた様子です。
この記事の頃は、まだコロナなどという魔物の影さえ見えなかったのに、1年後の今年の春は、花見の計画も中止になるなど、ここを訪ねる機会もすっかり減り、まったく「お久しぶり」でした。今、第三波の到来に当面して、入り口では検温・マスク着用と、ものものしいコロナ対策が必須の状況ですが、それでも、入園者の姿は意外に少なくはありません。
ぽかぽか陽気の戸外の活動に、子どもたちは夢中でかけまわります。
ダンゴムシを見つけたり、
階段をかけのぼったり、
思い切り遊んでいる途中、保育園児ふたりの姿が見えなくなりました。小4の姉が、呼びかけながら、あちこち探してまわりますが、返事はありません。やむなく、園内放送で呼び出してもらうはめに、、、。通りかかりの入園客の方に道案愛をしてもらい、やっと姉と対面できた時には、気が緩んだのか、大声で泣き出しました。
思い出の大冒険になりました。
一カ月遅れですがセツブンソウはまだ咲いていました。
フクジュソウもよく咲いています。
異なる品種があるようです。
四国福寿草?
陸奥福寿草?
梅が見頃でした。
次の2枚は、小2女児の撮影です。
サンシュユも花盛り。これも小2女児の作品。
次の2枚は私の撮影です。
そしてマンサクが満開。
赤い花の品種もあります。
今日の付録はツバキメジロ。
今日はこれにて。
桃の節句のマンサク、の巻 [日録]
Facebookが、例によって過去の投稿を思い出させてくれます。9年前(2014年3月3日)の投稿です。
今日は桃の節句。
娘も孫娘も同居していませんので、「雛の家」ではありません。
今日の私のブログはこちら。
http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2014-03-03
桃の花の代わりに、まんさくの花、梅、ハルノノゲシ、カラシナの花を飾ることにします。
その日のブログ記事(桃の節句の蘊蓄)にはこんなことを書いていました。
今日はひな祭り、桃の節句です。
松尾芭蕉の作品に
草の戸も住替る代ぞひなの家 (くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)
という句がありました。
そして、『奥の細道』をはじめ芭蕉の作品や、李白の「春夜宴桃李園序(春夜桃李園に宴するの序)」の解説など,あれこれの蘊蓄を語った後、こう続けています。
今年は我が家には、「雛を飾る人」もいず、「わび、さび」の境地漂う桃の節句となりました。
もとより、「桃の節句」のならわしは、旧暦の三月三日のことですから、桃の花が似つかわしいのですが、新暦ではまだまだ桃は咲きません。(と書いてきて、さっき温室栽培の桃の花を、テレビニュースが紹介していました。正確には、露地ではと書くべきでした)
9年前ですから、当時、孫娘は二人いましたが、その後人口が増えて、今では、3家庭に従姉妹が4人になりました。昨日、そのうちのひとりの小2生に誘われて、近所のスーパー内の百円ショップに一緒に出かけましたが、店内に流れる「雛祭り」の曲を聞いて、「明日はひなまつりやなあ。バアバは用意してくれるだろうか?」といいますので、「きっとひなあられやお菓子は買ってくれると思うよ」と言いましたら、いや、雛人形のことだと言います。毎年、姉妹のものと、今は2児の母になっている叔母ちゃんのもの、合わせて三つの雛人形を、我が家の部屋の片隅に飾り付けるのが、バアバの仕事になっているのでした。
そう言えばこんな記事も書きました。
雛飾り草もむしりし雨水かな:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)2016-02-19
地方によっては、この日に雛人形を飾る風習もあるそうです。
これは、上の女の子の雛人形。ママの実家から贈っていただいたものですが、わが家に飾り付けしています。そして、妹にも贈っていただいたものが今日配達され、ママと姉妹で楽しく飾り付けしました。
従妹のこの赤ちゃんは、泣くのが仕事です。
涙を流したまま、機嫌を直し、にっこりわらったりします。
赤ちゃんだったこの女の子は、もうすぐ小1が終わります。雛人形はコンパクトサイズがよいというので、外孫ですのでこちらが贈呈しましたが、靴箱の上にでも,今年も飾ってあるでしょうか?
昨夜、百円ショップからの帰宅後,小2生との会話を妻に伝えると、すっかり忘れていたと、今日の午前中をかけて飾り付けを済ませたようでした。
一方、私は、ここ2,3日、少しずつ進めているジャガイモの植え付け&マルチ張りの作業を終わらせ、9年前の記事に倣って、自然環境体験公園のマンサクを見に行きました。ジャガイモについて言いますと、今年は、男爵とメークインという定番品種の他、「キタアカリ」と「アンデス赤」という品種を少量植えてみました。
「キタアカリ」は「男爵」と「ツニカ」の交配品種だそうで、ジャガイモシストセンチュウに対する抵抗性品種として育成されたそうです。果肉は黄色く、粉質でホクホクとした食感。煮崩れしやすいので、サラダや蒸しいも、粉ふきいもなどに向いているとか。病気に強くて1株あたりの収穫量が多く、
アンデス赤(アンデスレッド)」は、1970年代前半に、南米アンデス原産の「ソラナム・フレハ」という品種と「アーリーローズ」という古くから日本で栽培されていた品種を交配して育成された皮が赤いじゃがいもで、もともとは「ネオデリシャス」と呼ばれ、岡山県(特に牛窓地方)で栽培されていたものが各地に広まったそうです。
ジャガイモのマルチ栽培については、以前は情報も少なかったように思いますが、最近ではネット上でもポピュラーになってきたように見受けられます。
植え付け後に、穴なしマルチを張り、芽が出てマルチフィルムを持ち上げてきた頃に、ナイフで×印に切って芽をのぞかせてやるという方法を、行き当たりバッタリでやっていますが、ほとんど問題なく収穫できています。
植え付け時期が早すぎたのか、マルチフィルムの外に芽をのぞけた後で、寒波が来て霜に遭い、かなり伸びていた芽を枯らした失敗はありますが、遅れても元気な芽が遅れて伸びてくることで結果オーライになることは経験しています。早く植えすぎても、必ずしも速い生育が期待できないので、植え付けは3月になってからが妥当のようです。去年は、マルチなしの栽培を試みてみましたが、草取りと土寄せが必須となりますし、芋が緑化しソラニンなどの毒成分が生成されやすくなりますので、今年はマルチ栽培に戻しました。
4月の気温になったかと思うと、今朝は薄氷も張るぎえこみ。デモ。日中は穏やかな晴天。
マンサクがすっかり咲いていました。
OLYMPUS E520+Zuiko40-150で撮影。
次は、PENTAX k1MARKⅡ+AFBORG 60EDです。
梅
河津桜の蕾がふくらんでいます。
今日はこれにて。