before and after(その 2)、の巻 [カメラde散歩]
弥生も半ばを過ぎ、昨日は春分の日でしたが、春の訪れは一進一退。例年にないスピードでソメイヨシノの開花が進むかとの予測が、なんだか覆りそうで、2月並みの寒さが舞い戻ったりしています。
「before and after」は、劇的な大きな変化があった場合に当てはまりそうな表現ですが、こと、今年の気候においては、この表現を用いることにいささか躊躇してしまいます。
beforeは、2月27日の朝景色。
そして、3月2日の朝。
そして、afterは3月16日の朝です。
春浅しの感が否めません。
まだまだ、冬の鳥によく会います。
モズ。
ツグミ。
ムクドリ。
が、空を見上げると、、、
ひばりが賑やかに歌いながら舞っています。
ウグイスのさえずり、ツバメの飛翔も確認できました(撮影には成功していませんが)。
今日の付録は、水辺の鳥たちです。
コガモの群れは、次々に北の国に帰ったらしく、近所の小川で目にする個体数が少なくなりました。
ハシビロガモ。
バンです。
朝なのにバンとはこれいかに・・・お後がよろしいようで。
今日はこれにて。
ノスリほか、の巻 [カメラde散歩]
2月の初め、散歩中に写した写真をすこしUPしておきます。
pentax ks1+SIGMA APO 70-300 F4-5.6 DG MACRO。最近出番の少ないくみあわせですが、、、。
散歩中の望遠撮影には、まず好適といえます。
トンビがよく止まっている電柱ですが、少し見た目が違うような気が・・・・
飛び立つときに尾羽がよく見えました。
トンビではなくて、ノスリでしょうか?
つぼみ状態のカワヅザクラの枝に、カワセミがいました。矢はリッチさな被写体は、トリミングが必要です。枝かぶりで、お目々が写っていませんね。
春を告げる花々。
ニホンスイセン。
ナノハナ。
散歩道のあちこちでロウバイを楽しめます。
次からは、オリンパスOm-D E-M1+panasonic LUMIX G VARIO 45-200mm/F4.0-5.6/MEGA O.I.S.による撮影。
ようやくマンサクも咲き始めたようです。
来週あたりから、ぐっと寒さが緩むそうです。
今日はこれにて。
表情、の巻 [カメラde散歩]
冷え込みが続き、野外散歩もおっくうです。
そんなわけで、新しい散歩写真がありません。
お散歩カメラGX200の中にこんな画像を撮りためていました。
田園の表情(12/11朝散歩)
稲の刈り跡も、いろいろな表情を見せてくれます。
麦を植えるために耕耘された田の表情もとりどりです。
カラー写真も上げておきます。
街の表情(12/13撮影)
暁方の田園の表情 カラー写真(12/16撮影)
手持ち撮影では、さすが手ぶれを抑えられません。
今日はこれにて。
いろいろ後楽園(その2)、の巻 [カメラde散歩]
お友達のmikopon559さんが、12月8日付のブログにこんな記事を投稿しておられます(無断拝借ごめん!!)
「俳句の日めくりカレンダー」本日の一句。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 渡邊白泉
「昭和一四年の句。二年のちに太平洋戦争が始まりました」
今、この時と同じ気配。
この時、人々はなぜ戦争を止めることができなかったのか?
今の私たちは、この過去から学び、知ることができます。
二度と同じ過ちを繰り返さない。
そのために、学び、今を見つめ、
過去と同じように戦争に向かって進む今の動きの一つひとつに
「NO」
と、声を合わせ続けるなら、
私たちは、これからの戦争をきっと止めることができるはず。
この日米開戦記念日の12月8日に撮影した後楽園のカラー写真を前回に続いて掲載します、
その日一緒に携行していたpentax K-S1+TAMRON28-300mmによる撮影です。こちらは、EXIF情報もちゃんと12月8日付です(笑)。
「超高倍率ズーム」は。なんと言っても便利です。
紅葉はやはりカラーで写しませんと・・・
赤いサザンカ。
オナガガモ。
オカヨシガモ?
久しぶりにカワセミを見ましたが、300mmでは非力です。しかも、ピントが合っていません。手間取っているうちに、通行人の気配を察してか、逃げられました。
いろいろな方角から、いろいろな倍率で、岡山城を写しておきました。
この岡山城も、1945年6月29日の岡山空襲で焼失しました、現在の天守は後に再建されたものです。
岡山シティミュージアムのHPに消失前の古い写真が掲載されています。
明治になって全国的に城の廃棄が進められたが、岡山城天守閣は破却を免れ、昭和20年(1945)6月29日に空襲で焼失するまで存続した。そのため、明治初期のものも含め、数多くの写真が撮影されている。
ちなみに昭和まで存続した天守閣は全国に19棟あったが、1棟が火災で焼失、岡山城を含め6棟が戦災で焼失し、現在残っているのはわずかに12棟となっている。
■昭和まで存続した天守閣現 存
弘前城・松本城・犬山城・丸岡城・彦根城・姫路城・松江城
備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城火災焼失
松前城戦災焼失
名古屋城・大垣城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城
岡山空襲によってがれきと化した岡山市中心部の写真もONAJIHP仁掲載されています。
今しも、空爆、砲撃から逃げ惑うガザの人々の悲歎・悲惨を思わないわけにはいきません。
mikopon559さんの12月12日付ブログに、「9の日行動」のスタンディングの模様が紹介されています。またまた無断で、しかも欲深くほとんど全部!引用させていただきます<m(__)m>
2023年12月10日 - 木かげなじかん (fc2.com)
「スタンディング」というと、この町ではチョーめずらしい光景?かも?ですが
市内の身近なところでも、県内でも全国でも、あちこちたくさんの場所で、それぞれの思いを込めて行われています
「道行く人が『あ、ここでもやってる。あ、ここでも!』というくらいあちこちで見られるようになるといいよねー♪」
と、昨日(12/9)のスタンディングでお隣に立つ方が、目の前を走る車の列を見送りながら言われていました。
「戦争の恐怖は、"黙々"という人間をつくるんです」
指揮者・小林研一郎さん。
(「しんぶん赤旗 日曜版」12/10)"黙々"でなく、笑顔でいたい?いつまでも!
去る11/27?12/1に行われた「核兵器禁止条約第2回締約国会議」では、2年後(2025)の次回会議までに「核抑止」の危険を明らかにし、
「核抑止に基づく安全保障概念に挑戦」
する報告書を議論・作成することになりました。
世界は果敢に動いているんですね!
今日はこれにて。
いろいろ後楽園、の巻 [カメラde散歩]
前回までに、RICOH GX200による白黒後楽園をご紹介しました。
つらつら思い出すに、子供時代から学生の頃まで、残されている写真は、皆、白黒写真です。学生時代の写真もほとんど白黒で、何枚かのカラー写真が混ざるようになるのはその終わりの頃(1970年代)から就職後のことです。
「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」が流行語となっ頃には、もうカラー写真が当たり前になっていましたっけね。ウィキペディアにはこんな記事があります。
写真プリント・写ルンです
長く続くロングランCMであり、特に樹木希林の出演で親しまれていた。樹木は悠木千帆時代の1970年代から30年以上にわたり富士フイルムのCMに出演してきた。
特に樹木扮する綾小路さゆりと岸本加世子扮する街の写真店の店番(のち店長)とのやり取りを描くシリーズが有名である。その中でも1980年の「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」は当時の流行語となるほどの反響だった。この言葉は樹木の発案による物で、当初は「美しくない方も美しく」だったのが、樹木が言葉に違和感を覚え、「「それなりに写ります」にして欲しい、日本語としてきれい。「美しくない」という表現も美しくない」と要望したことから、このような表現となった。
思い出しついでに、カラーフィルムと言えば、「フジ」よりも「サクラ」の方がなじみ深かったっけと思いつつググってみると、同じくwikiにこう書いてありました。
小西六写真工業は日本の写真用カメラフィルムのトップブランドの1つとして成長し、戦後の国内シェアは、さくらカラー(のち「サクラカラー」に変更)が富士写真フイルム(現:富士フイルムホールディングス)のフジカラーを圧倒する状態が続いた。しかし1970年代に入ると、圧倒的な広告費を投入して知名度を向上させたフジカラーがシェアを逆転した。サクラカラーはその後、コニカカラー、コニカミノルタカラーフィルムを経て事業撤退するまでの間、ついに首位の座を奪いかえすことはできなかった。
(中略)
2006年、写真フィルム・レンズ付きフィルム・感材(印画紙・薬品)を含めたDPE分野の事業を大日本印刷(DNP)に譲渡して撤退し、コニカブランドのフィルムは事実上消滅した。その後2009年にDNPも生産を打ち切ったため、完全にフィルム製造およびフィルム販売事業から撤退した。
栄枯盛衰を感じます。
いま、カメラ店を覗いてみると、カラーにせよ白黒にせよ、フィルムそのものがほとんど店頭に見当たりません。(カメラ付きフィルムだけは、若者層にちょっと人気だそうですが)
古い時代のカラー写真は、年月を経て黄色く色あせ、もはや画像そのものがぼやけてしまっています。それに引き換え、モノクロ写真の方が、時を経ても鮮明な姿を保っていることは、感慨深い気がします。
いま、デジタル時代になって、いつでも鮮明な画像に触れることができるのは(データが壊れない限り、また、データを読み取る技術が消滅しない限りという条件付きではありますが)、ありがたいことです。
今日は、GX200による後楽園のカラー写真を掲載させていただきます。
色つきの、いろいろな後楽園をお楽しみください。
駐車場横の塀沿いの歩道が、白黒設定ではこう写りました。
これはこれで雰囲気がありますが、・・・
カラーにして初めて、紅葉の赤に気づきます。
園内の紅葉を少々ご紹介します。
昨日白黒でご紹介した水辺のモモちゃん付近の風景も、カラーにすると空の青さと光の明るさが際立ちます。
石灯籠労のある風景。
防虫の菰(コモ)が巻かれた赤松と、茶室のある風景。
今日はここまで。
モノクロ後楽園、の巻 [カメラde散歩]
昨日の記事の続きです。
RICOH GX200で移した岡山後楽園のモノ画像(白黒設定)を掲載します。
旭川畔の水辺のモモくん像のあたりから望む岡山城遠景。
後楽園周縁散歩道から見る岡山城。
後楽園周縁散歩道の並木。
園内眺望。
鶴鳴館
昔、フィルムカメラで写した写真が何枚も残っていますが、その雰囲気がしのばれます。
続今年も深山の紅葉、の巻 [カメラde散歩]
玉野市深山公園の紅葉の写真。前回の続きです。
「ちょうこくひろば」と名付けられたエリアに、大小の彫刻が飾られていますが、紅葉の大木が見事です。
「紅葉谷」という場所には、その名の通り、谷川沿いに沢山の紅葉が綾錦を織りなしています。ただ、前にも書きましたように、今年の紅葉は夏の暑さの影響か、傷みが目立つ気がします。
上の写真は、広角撮影用にポケットに忍ばせていたricoh GXR+RICOH GR LENS A12 28mm F2.5の組み合わせです。軽快・コンパクトでスナップ撮影に好適です。
同時に、かさばるけれども鳥撮りを狙って持ち歩いたPENTAXK5Ⅱ+AFBORG71FLの画像を、前回に続いてもう少しご紹介しておきます。
実際には、さしたる鳥に出会うチャンスに恵まれず、帰り際に、カモたちにモデルをお願いしました。
オナガガモもいます。
水面のオナガガモ。
水面のヒドリガモ。
冷たい雨が降り始め、散歩は早々に切り上げました。
きょうはここまで。
今年も深山の紅葉、の巻 [カメラde散歩]
気ぜわしい毎日です。気がつけば、もう師走が間近です。
何気なくスケジュール表をチェックしていてきづきました。スケジュールが空白の日は、とても目立ちます。最近では、そのうちの一つが11月27日の月曜日でした。
「紅葉狩り」記事のつづきを書くべく、玉野市深山公園へ行ってみました。見頃でした。葉っぱの傷みが気になる状態ではありましたが、写しておく価値はあったと思えました。
PENTAXK5Ⅱ+AFBORG71FLです。
今日はこれにて。
ついでに立ち寄った吉備津神社、の巻 [カメラde散歩]
前回記事で近水園を訪ねた帰り道、立ち寄ってみたのは吉備津神社でした。過去にも、紅葉を写したことがありましたので。
コウノトリ 寄り添うて歩む苅田道(2013-11-06)
水車も秋模様
落ち葉降り敷く石段」
帰りの道すがら、吉備津神社にも立ち寄ってみました。ここの紅葉も見頃でした。
吉備津神社についての紹介は、この記事で少し書きました。
秋の吉備路の歴史散歩、の巻(1):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2017-10-10)
早速、吉備津神社の見学から、歴史散歩が始まりました。
吉備津神社のあらましについて、レジュメの一部を引用させていただきます。吉備津神社・ ・ ・吉備津彦命を祀る
創建 少なくとも平安時代初期(847年)までは遡る
1357年 (社記の楝札の写し) その後2度火災にあう。
再建 1401年に工事着工、1425年に完成(足利義満の死後)
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ”(『古今和
歌集』905年)
建築様式・・・吉備津造、本殿の檜皮葺大屋根=比翼入母屋造
漆喰塗の基壇
本殿・拝殿=国宝(岡山県内の国宝の建物2十美術品7件)日々の寒暖差に面食らいます。先日の冬模様がウソのように、日射しを浴びると真夏さながらの暑さで、石段を歩くと汗が流れます。
室町時代に再建された比翼入母屋造の本殿。風格あるたたずまいです。(中略)
斜面に建てられているため、漆喰塗の基壇によって水平を保ち、その上に巨大な神殿を建てています。この技術力に脱帽です。
檜皮葺大屋根。近年葺き替え工事が行われたそうですが、桧皮を確保することが大変な難事だそうです。
(中略)
吉備津神社に祀られている吉備津彦について、ウィキペディアにはこう解説してあります。伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。私たちの見学中に、ちょうど鳴釜神事がおこなわれており、ジャストタイミングで、釜のうなる音が低く聞こえてきました。
しかし今年は、思い通りの紅葉に出会えませんでした。とりあえず記念写真を残しておきます。
紅葉の赤の代わりに,緋色(正確には丹色?)のものを写しておきました。
回廊は、全長398mといいます。
今日はここまで。
名所の紅葉、の巻 [カメラde散歩]
毎週火曜日は、ほかに用事がなければ、「買い物難民」状態の郷里の老母を訪ねる習慣になっていますが、今週は土曜日にも行く予定がありますので、昨日の21日は中止しました。この日はゆっくりしようと思っていたところ、隣市に住む小2の孫が39度の熱。親はどちら仕事を休めないので、ばあばへの救援依頼が来て、ばあばは朝五時過ぎに出かけていきました。
一日の予定を持っていなかった私は、市内某所に立ち寄る用事もあったので、少々足を伸ばして、紅葉の名所を訪ねてみようかと出かけました。行き先はいくつか念頭にあったのですが、まずは近水園を目指します。
かつて書いたこの記事以来、何度か訪ねています。
重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)
地元の紅葉情報で、今が「見頃」と伝えられる場所の一つに、「近水園(おみずえん)」が上げられています。https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2013-11-27
他には後楽園や宝福寺も紹介されていますが、これは、最近見てきました。
同じく、最近何度か訪ねて紅葉を確認できた「深山公園(みやまこうえん)」は、猪の出没情報のため、案内は控えるとの由、テレビが伝えていました。確かに猪の足跡や、掘り返した跡が、至る所に生々しく残っていました。
「近水園」はこれまで訪ねたことがありません。岡山市北区足守にある、旧足守(あしもり)藩主木下家の庭園だそうです。
妻も、気になる様子なので、一緒に出かけてみることにしました。
朝は、陽射しもあったのですが、丁度現地に着いた頃から、またまた冷たい雨。傘を差しての見学となりました。
足守と言えば、かつて従弟が、縁あってこの地に赴任していたことがあります。赴任したての頃、「いいところですよ」と「緒方洪庵、木下利玄、メロン、蛍」などの自慢をしてくれた記憶があります。緒方洪庵は、幕末の蘭学者。この地の下級藩士の子として生まれました。大阪、長崎で学び、大阪に「適塾」をひらき、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末・明治維新の時代に活躍した多くの人材を育てました。
司馬遼太郎は、その作品「花神」の中で、こう書いています。
なぜ洪庵が医者を志したかというと、その動機はかれの十二歳のとき、備中の地にコレラがすさまじい勢いで流行し、人がうそのようにころころ と死んだ。洪庵を可愛がってくれた西どなりの家族は、四日のうちに五人とも死んだ。当時の漢方医術はこれをふせぐことも治療することにも無能だった。洪庵 はこの惨状をみてぜひ医者になってすくおうと志したという。その動機が栄達志願ではなく、人間愛によるものであったという点、この当時の日本の精神風土か ら考えると、ちょっとめずらしい。洪庵は無欲で、人に対しては底抜けにやさしい人柄だった。適塾をひらいてからも、ついに門生の前で顔色を変えたり、怒っ たりしたことがなく、門生に非があればじゅんじゅんとさとした。
「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と、その門人のひとりの福沢諭吉が書いているように。洪庵はうまれついての親切者で、「医師というものは、とびきりの親切者以外は、なるべきしごとではない」と、平素門人に語っていた。(中略)
木下利玄は、白樺派の歌人です。
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
などの歌は教科書にも採られてよく知られています。他にも、 今日の季節に通じる、こんな歌を残しています。
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る
庭見れば土にしみ入りしみ入りて冷え冷え雨の降り出でしかな
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
今年の葉うづたかく散りこの森のどの木の幹にも冬日ぞあたる
葉より葉へつたふ雫の音久しく軒端ひそけき昼間の時雨
こんな歌も利玄らしいと感じます。
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
生きものの身うちの力そそのかし青葉の五月の太陽が照る
桃の実の肌のやうなるうぶ毛して少年の頬のうひうひしさよ
近水園には、歌碑が建てられ、この歌が刻まれています。
花ひらをひろけつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼をはなるゝ
後に、こちらに補足記事を書いています。
立冬の陽は穏やかに近水園(2014-11-07)
「利玄みち」と名付けられた小径を歩いていくと、右側の足守小学校と道を挟んで左側に木下利玄の生家があります。これについては、過去のこの記事でもふれましたが、今日は開館日で、邸内に入ることができました。
以前の記事でこの歌が刻まれた歌碑のことを話題にしました。
花ひらをひろけつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼をはなるゝ
あいにく、前回2回の訪問では、どこにあるか見つけることが出来ませんでした。
あまりに大きくて、見逃してしまっていたのです。「鶴島」 に建つ巨大な石碑がそれでした。(汗)
久しぶりなので、カーナビに頼りましたが、道に迷いました。
ようやくたどりつき、足守観光駐車場に車を停めました。空っぽ状態だったので、本当にここに停めて良いのか迷いました。
以前この地を歩いた記憶が曖昧で、当て推量で、気の向くままゆかしい町並みを歩いてみました。
歩くうちにこんなところへ出ました。
石柱に「旧足守商家藤田千年治邸」と標示があります。
あとでネット面策してみるとこんな紹介がありました。
旧足守商家藤田千年治邸
足守 / 旧家
商家の暮らしぶりを紹介
江戸時代末期に建てられた豪商の邸宅。内部に明治期の醤油工場を復元し、当時の商家の暮らしぶりや醤油工場のようす、昭和40年代の藤田家の所蔵品を見学できる。
案内地図を要して歩けば良かったのですが、・・・あとでこんなmapを見つけました。
全然方向違いの散策をしていたことになります。
このあたりまで歩くと、すぐ目の前に足守川があります。
さすがに怪しいと感じて、まちかどの案内板を頼りに軌道修正を図ります。
こんなのどかな道をあるいていると・・・
柿の木に鳥影が見えます。
手に持っていたPENTAX--S1+TAMRON SP 17-50mm f2から、望遠系のOLYMPUS E-M1+LUMIX G VARIO 45-200mmに持ち替えて、記念撮影しておきました。
ツグミです。
ジョウビタキ♂もいました。
グル理と回って、元の足守観光駐車場の戻りましたが、そこも、近くの別の無料駐車場も、もう満杯になっています。さすがに紅葉の名所です。
駐車場側にあったこの案愛看板を頼りに、「近水園」方面に向かいます。
PENTAXKS1+TAMRONTAMRON SP 17-50mm f2を、いろいろ考えて紅葉撮影用に用意してきたのですが、なぜだか露出が明るすぎるので、-3とか-4に調整して写しましたが。いざというときに思うとおりに働いてくれないと、区が滅入ります。
OLYMPUS E-M1+LUMIX G VARIO 45-200mmが風景撮影にも働いてくれました。
今日はこれにて。