SSブログ
私の切り抜き帳 ブログトップ
前の10件 | -

夕焼け雑話、の巻 [私の切り抜き帳]

前回記事に今井正監督作品映画「橋のない川」第1部の夕焼けシーンを話題にしました。


夕焼けつながりで書きかけた未完成記事を、無意識のうちにそのままアップしていましたので、お詫びして訂正させていただきます。。


教育相談ボランティアの会報最近号に、ちょうどこんな記事を書いたばかりでしたので、転載します。


夕焼けあれこれ(その1) kazg

拙ブログに、10年近く前に書いた記事(「夕焼けその2」https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2014-10-17)を、多少のアレンジを加え、「リメイク」してご紹介させていただきます。

ショックです。

いたく落ち込んでいます。

自分の記憶の曖昧さ、でたらめさに、改めて気づかされ、「老人力」がついたなどと笑い流す余裕もありません。

というのは、こういうわけです。

一昨日、吉野弘さんの詩「夕焼け」の記事を書きました。一部引用します。

――――――――――――――――――――――――――

夕焼けを写したいと、常々思っています。

素敵な夕焼けを写す事ができたら、吉野弘さんのこの詩と一緒に載せたいと思っていました。

夕焼け 吉野 弘

いつものことだが/電車は満員だった。

そして/ いつものことだが/ 若者と娘が腰をおろし/としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って/としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に/ 横あいから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし/又立って/席を/そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り/ 別のとしよりが娘の前に/

押し出された。

可哀想に/娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。

次の駅も/ 次の駅も/唇をキュッと噛んで/ 身体をこわばらせて-----。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて/ 娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。

何故って/やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/ 感じるから。

やさしい心に責められながら/ 娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで/つらい気持で/ 美しい夕焼けも見ないで。

clip_image002[4]

――――――――――――

その続きを書きたくて、あれこれ思い巡らしていました。

そういえば、何かの映画で、この詩を生徒に朗読して聞かせるシーンがあったっけ。確か、松村達雄さん演じる国語教師が、夜間学校の生徒に読んで聞かせる場面だったよなあ。というわけで、一所懸命思い出そうとしましたが、思い出せません。

最近しょっちゅうこんなことがあります。先日は、テレビでチラリと顔を見た女優さんの名前が浮かびません。元夫の方のお名前は浮かび、周縁のエピソードはあれこれ浮かぶのですが、名前が思い出せないのです。

あいうえお、かきくけこ---わをん。と、何度も繰り返して、これにつなげて名前を思い出そうとしますが、無理です。ほとんど二日半、この努力をしましたが、断念。ネット検索で確認するまで思い出せませんでした。(中略)

現実の交際でも、こんなことがしょっちゅうあり、「名前を忘れた人」リストを作って、二度と忘れないようにしようと思ったりしますが、それも面倒で、二度目三度目の忘却に直面して愕然としたりするのです。トホホ。

ハナシが横道にそれました。

松村達雄さん演じる国語教師について、ネットで調べると、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズ第26作『寅次郎かもめ歌』でした。死んだ旧友の墓参りに北海道を訪れた寅さんは、旧友の娘・すみれ(伊藤蘭)の、定時制高校に通いたいという望みを叶えるために、柴又へ連れ帰ります。その定時制高校の国語教師を演じたのが松村達雄さんでした。松村達雄さんといえば、森川信さんの後を継いで2代目「おいちゃん」(3代目は下條正巳)を演じたほか、寅さんシリーズには、医者、大学教授、お坊さんなど、いろんな役で登場しました。余談ですが、以前、このブログで過去に、何度か話題にした映画「まあだだよ」で、内田百閒を演じたのもこの松村達雄さんでした。人なつっこく、ひょうひょうとした、柔らかくて人間味ある人柄が、魅力的です。

【注2】伊藤蘭さんといえば、昨年末の紅白歌合戦に久しぶりに出場。NHK「ファミリーヒストリー」の取材によると、油絵を嗜んだ祖父太郎の雅号が「蘭」で「伊藤蘭」を名乗ったそうな。NHK朝ドラ『ブギウギ』で、歌って踊るヒロイン「福来スズ子」(モデルは笠置シヅ子)を演じて大活躍の趣里さんは、蘭さんと水谷豊さんの間のお嬢さん。話題に事欠きません。

ショックなのは、『寅次郎かもめ歌』で夜間高校国語教師の松村達雄さんが朗読したのは、吉野弘さんの「夕焼け」ではなくて、実は、この詩でした。

便 所 掃 除 濱 口 國 雄

扉をあけます/頭のしんまでくさくなります/まともに見ることが出来ません/ 神経までしびれる悲しいよごしかたです/澄んだ夜明けの空気もくさくします/ 掃除がいっぺんにいやになります/むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう/けつの穴でも曲がっているのでしょう/それともよっぽどあわてたのでしょう/おこったところで美しくなりません/美しくするのが僕らの務めです/美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます/静かに水を流します/ババ糞におそるおそる箒をあてます/ポトン ポトン 便壺に落ちます/ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します/落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません/たわしに砂をつけます/手を突き入れて磨きます/汚水が顔にかかります/くちびるにもつきます/そんな事にかまっていられません/ゴリゴリ美しくするのが目的です/その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします/大きな性器も落とします

朝風が壺から顔をなぜ上げます/心も糞になれて来ます/水を流します/心に しみた臭みを流すほど 流します/雑巾でふきます/キンカクシのうらまで丁寧にふきます/社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます/もう一度水をかけます/雑巾で仕上げをいたします/クレゾール液をまきます/白い乳液から新鮮な一瞬が流れます/静かな うれしい気持ちですわってみます/朝の光が便器に反射します/クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません

私はこれを、茨木のり子さんの『詩のこころを読む』で知りました。

濱口さんは、国鉄(現JR)の労働者で、「国労」(国鉄労働組合)の文化活動に取り組む中、1956年、国鉄詩人連盟第五回国鉄詩人賞を、この「便所掃除」で受賞します。彼は太平洋戦争では中国、フィリピンなどを転戦し、戦争体験をきっかけに詩を書き始めたと言います。

この詩を、確かに私は好きですが、松村達雄さんが朗読したのが「夕焼け」だと思い込んでいて、この詩を思い出さなかったのは、トホホでした。(つづく)


上の文章のつづきは、おって書き継ぐ予定ですが、文章に添える写真を探しても、これぞというものが見つけ出せません(トホホ)。これまで「夕日」「夕焼け」の写真は数多く写してきたはずなのですが・・・。


たとえば・・・


夕焼け:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


旭川の川面を、夕陽が照らして魅力的でした。信号待ちの隙に、無理な体勢でシャッタ-を切りました。

_K528611_0001_R.JPG

._00_IMGP0783_0001_R.JPG

ちょっと立ち寄ったスーパーの駐車場で、ふと見ると、西の方があかね色になっていました。
何の変哲もない、街の光景ですが、烏が鳴いて、よい子がおうちに帰りたくなるような、夕焼け空が見えましたので、とりあえず写してみました。

IMGP0791_R.JPG


夕焼け その2:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


10年以上前の、定時制勤務当時の写真を見つけました。
窓の外は夕焼け。

DSCF0216.JPG

灯のともる校舎。

dscf0999.jpg


夕焼け その3:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


今日は、田舎の父親の通院につきあっての帰り、ちょっと回り道をして、児島湖に沈む夕日を眺めてみました。

眺望スポットにやっと到着した頃は、夕日がほとんど山の端に沈みかけていました。

急な思いつきでしたので、あり合わせのカメラで撮影しましたが、よく晴れて、うつくしい夕日でした。

_K528688_R.JPG

ほとんど山に隠れます。

_K528689_R.JPG


夕焼け その4:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


空と川を染めて夕日が西に傾くのを、橋の上から見るのが好きなのですが、歩くとちょっと遠い。車だと、駐車場所に困る。自転車で行くのが便利です。でも、「散歩が主、撮影はついで」というコンセプトを改めて確認し、敢えて歩くことにしました。

荻薄が群生した河川敷も、次第に紅く染まっていきます。

_K529018_R.JPG

_K529068_R.JPG

_K529070_R.JPG

_K529058_R.JPG

「秋の日は釣瓶落とし」と、寅さんがよく言ってました。

夕日が、ストンと、山の端に向かって落ちていきます。

_K529022_R.JPG

(中略)

よく似た画像をたくさん撮りためた中から、これでもセレクトしたつもりの数枚を載せます。

IMGP6165_R.JPG

IMGP6214_R.JPG


夕焼け その5:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


水面を彩る夕映えの光の中で。

_K529154_R.JPG


_K529291_R.JPG
澪標(みおつくし)の脇を通り過ぎます。

_K529325_R.JPG

澪標です

_K529101.JPG


こんなエピソードもありました。 


ヨシガモでした、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2016-01-24)


以前、この降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)という記事で、「澪標」についてこんなことを書きました。

今日、仕事から帰って見ると、ゆうメール便で書籍が届けられていました。教科書、参考書、辞典等教育系の出版物を発行している出版社B堂からでした。
(中略)
中身は、特にお正月シーズンを目当てに、各社から例年のように発行される百人一首の解説書です。 百人一首のすべての歌が、過不足のない、わかりやすい解説とともに歌ごとに美しい写真も添えられて、あたかもミニ写真集という趣の冊子です。
付録には朗詠のCDも付いていて、至れり尽くせりです。
なぜこんな書籍が送られてきたかというと、実はこの中に、ずっと以前に私の撮影した澪標の写真が、無償ですが(笑)、1枚採用され、その記念に献本をいただいたという次第です。
ご縁のはじまりは、このブログの写真を編集者の方が見つけてくださり、使用を打診してこられたのでした。澪標などという題材は、よほどレアなものであるようです。
妻に自慢していますと、「早速、ブログに載せたら?」とからかいます。
自慢話になるのも気が引けますし、個人情報の問題もあって、いったん躊躇はしましたが、ブログネタの一つとして紹介させていただく事にしました。

これらの記事にも、澪標の写真を載せています。

夕焼け その5
夕焼け その4
午睡醒めてなお日は長き夏至の雨
夕映えの倉敷川に澪標(みおつくし)

採用されたのはこの写真でした。

_IMG7703_0001.jpg

そして、該当する歌はこれ。

わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 元良親王(20番) 『後選集』恋・961
〔解釈〕 どうしてよいか行きづまってしまったのだから、今となってはもう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。


芋づる式の連想記事は程々にして、今回の「夕焼け」シリーズの結びは、こちらの過去記事の引用でお茶を濁したいと思います。


父のテレビ出演!の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2021-07-10


老父がテレビ出演しました。

といっても、ローカル局の地元密着番組で、旧タイプの自動車にも後付けできるブレーキ踏み間違い装置を開発した地元企業の社長さんを紹介するコーナーで、その恩恵にあずかっている利用者第一号として、ひと言インタビューやら運転実技の披露やらの場面を、短時間紹介してくれたのでした

(中略)

先日の記事で、投稿短歌が新聞に掲載していただいたことを書きましたが、その時同時に投稿していてボツになった歌はこんなものでした。

僻村の父九十四老いたれど運転免許まだ手放せず

蛇足ながら、一緒に投稿したのは、これ。

芽吹きたるベニカナメモチ賞めをれば母は昨日の夕焼けを語る

説明を加えないとわかりませんね。
父母宅の道路際の垣根に、ベニカナメモチを植えており、春から初夏にかけて、新芽の燃えるような紅色が樹全体を覆い、息をのむほどの美しさ(安直ながら、アベ前首相の言い回しを借りました)に打たれます。しかし、必要以上に背丈が伸び過ぎていることが気になり、遅まきながら初夏になってから私が剪定をしたのでした。せっかくの紅色の若葉が切り落とされて、みすぼらしい様子に心を痛めていたところ、ようやく新芽が再度芽吹き始めていることを話題にしたのでした。
耳の遠い母が、聞き違えたのか、あるいは紅色から連想してか、昨日の夕焼けはなんとも言えず綺麗だったと、感慨を込めて語りました。ベニカナメモチを植栽している生け垣に沿った道路は、西に向かって延びていて、遙か向こうに、山と空とが眺められるのです。さぞや赤々とした夕焼けだったのでしょう。

ちょうど,この画面の向かって左側の木が、ベニカナメモチです。テレビ画面をデジカメで写したものですので、色合いはイマイチです。

S0550673


この記事から半年ほど経った2022年3月、老父は逝きました。


ブレーキ踏み間違い防止装置を装着した写真の旧式車は、今私が乗り継いでいます。早いもので、父の命日が今週末に近づきました。


今日はこれにて。


nice!(32)  コメント(0) 

続20年前のベトナム訪問記(補遺3)、の巻 [私の切り抜き帳]

20年ほど前のベトナム旅行の記事の完結編です。


あとがき
このホームページの発端となった「ベトナムへの旅」は、2002年の8月のことでした。
その年のABUロボコン (Asia-Pacific Robot Contest, ABU Robocon)でホーチミン市工科大学が優勝したことが、なにか印象深く記憶に残っていますが、その後も同大学は何度も優勝をさらっていて、「世界でもっとも精緻な頭脳」をもつと表されるベトナム民族の面目躍如というところでしょうか?そういえば、ベトナム旅行の車窓から見た、商店街や路上マーケットの商品にも、新鮮野菜やトロピカルフルーツ、生鮮魚介類などとともに、細かな機械部品や工具類が魅惑的に陳列されて売られていたのも、お国柄かと思えて妙に納得させられたりもしたものでした。


第1回 東京大会 (2002)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/中国科学技術大学 (中国)
日本代表/豊橋技術科学大学(ベスト4) 金沢工業大学(ベスト4)


第2回 バンコク大会 (2003)
優勝/スワンデンディン技術専門学校 (タイ)、準優勝/キングモンクット工科大学 (タイ)日本代表/愛知工科大学(ベスト4)


第3回 ソウル大会 (2004)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/西南科学技術大学 (中国)
日本代表/東京大学(予選リーグ敗退)


第4回 北京大会 (2005)
優勝/東京大学 (日本)、準優勝/北京科学技術大学 (中国 )



第5回 クアラルンプール大会 (2006)
優勝/ホーチミン市工科大学(ベトナム)、準優勝/サムットソンクラーン技術大学(タイ)
日本代表/東京農工大学(ベスト8)



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


はたまた、サーズあり、鳥インフルエンザありで、マイナスの脚光を浴びたこともありましたが、最近のhotなニュースは、あの二重体児「ベトちゃん=ドクちゃん」の弟「ドクちゃん」の結婚の話題。
下の記事は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


ベトちゃん=ドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として産まれた双子の兄弟の愛称である。兄はグエン・ベト(Nguy?n Vi?t, 1981年2月25日 - )、弟はグエン・ドク(Nguy?n ??c, 1981年2月25日 - )。二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者であると言われている。そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられた。その後、ベトが急性脳症となったため、二人は分離手術を受けた。ドクは病院事務員となり結婚もしたが、ベトは現在も寝たきりの状態となっている。
ベトナム中部高原ザライ・コントム省出身。二人は上半身二つが一つの下半身でY型に繋がった結合双生児として産まれた。母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。母親は二人をコントム病院に預け、失踪。二人は1歳の時にハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院へ移され、そこからベト(ベトナム)、ドク(東ドイツ)と名づけられた。

下半身がつながった結合双生児の写真は世界中に紹介され、ベトナム戦争の爪あととして衝撃を引き起こした。特に日本では話題になり大規模な支援活動が起こった。1985年6月2日、「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成され、募金を募って二人に車椅子を送った。

1986年6月11日、ベトが急性脳症となり、治療のために日本に緊急移送された。6月19日、東京の病院で手術が行われたが、後遺症が残った。

1988年3月に母親と再会。その後、ベトが意識不明の重体となる。二人とも死亡してしまうのを避けるため、10月4日にホーチミン市立ツーズー病院で分離手術が行われた。この手術には日本から医師団が派遣、高度な医療技術も提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人、17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。
分離後、ドクは障害児学校から中学校に入学。中学校は中退したが、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。ボランティア活動も行っている。一方、ベトは重い脳障害を抱え、現在も寝たきりの状態である。

2006年12月16日、ドクはボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエン(Nguyen Thi Thanh Tuyen)と結婚。このことは日本でも大きく取り上げられた。結婚式では「将来は障害者も働ける旅行会社を設立したい」と語った。

枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。


なお、「枯葉作戦」についての詳細な解説はこのページhttp://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htmを参照されることをおすすめします。


また、シンガーソングライターで、枯れ葉剤の被害児を支援する運動にもとりみ続けている横井久美子さんのホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm に、次のような記事がありました。



■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


この記事も参照してください
ここで話題となっている「戦車は動けない」は横井さんの持ち歌で、1970年代、米軍相模原からベトナムへの戦車輸送をストップさせた市民の抵抗を歌ったもの。


1.戦車は動けない
このまちの橋をわたって
銃口をベトナムに
子どもらをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

2.戦車は動けない
このまちの夜をゆさぶり
血のにおいをキャタピラに
ベトナムをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

3.戦車は動けない
この国の若者たちは
恋人をひきさいて
平和をねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない
戦争は通さない
戦車は動けない


元共同通信ハノイ特派員だった作家辺見庸氏の「いまここに或ることの恥」に次の記述があるのは、確かこの運動にふれたものだと思います。



ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)



氏は、つづけて、今日のイラク状況や、日本の海外自衛隊派遣・軍事行動の拡大が、あまりにも抵抗なくやすやすとすすめられていて国民がそれを見過ごしていることに大きな危機感といらだちを表明しています。脳梗塞とガンという、二重の厄災に突如見舞われながらの氏の発言は、痛切に私たちに響きます。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1



終わり


nice!(31)  コメント(2) 

続20年前のベトナム訪問記(補遺2)、の巻 [私の切り抜き帳]

特に3.1運動(万歳事件)について
3月1日といえば、私の住む地方では高校の卒業式が行われる事の多い日であり、まず思い浮かぶのはそのことです。その次には、1952年の3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって振りまかれた死の灰の犠牲となったマグロ漁船「第五福竜丸」の悲劇。「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」という無線長久保山愛吉さんの言葉とともに思い起こされるビキニデーです。
そして、それらとは格段の疎さで、記憶の片隅をよぎるのが、3・1運動(万歳事件)です。リンクフリーとありましたので、このたび勝手にリンクを張らせていただきましたたむたむ(多夢・太夢)さんのページには、この事件について次のような解説があります。


日本の植民地であった朝鮮・京城(ソウル)のパゴタ公園で1919(大正8)年3月1日午後2時過ぎ、朝鮮の宗教人らによって起草された「われらはここにわが朝鮮が独立国であることを、及び朝鮮人が自由民たることを宣言する」にはじまる「独立宣言書」が発表され、それを契機に、学生・労働者・市民ら数10万人の民衆が熱狂して「独立万歳」を叫び、反日デモを行った運動をいう。
当時日本は、1910(明治43)年8月22日に朝鮮併合(「日韓併合ニ関スル条約」調印=韓国皇帝が、韓国の一切の統治権を永久に放棄、日本国皇帝に譲渡し、それを日本国が受諾して韓国の日本帝国の併合{国際法上、一つの国家が他の国家、またはその領土の一部を自国のものとすること}を承認する⇒大韓帝国李王朝500年の歴史ここに終焉する)して以来の武力による抑圧(弾圧)的な統治政策を行いったが、1911(明治44)年4月17日には土地収用令を制定、多くの農民から土地を奪った。また、朝鮮総督府は日本の会社の権益を擁護するため会社令により、朝鮮の民族産業の発達を阻止していた。そのため生活の基盤を奪われた朝鮮民衆の不満と怒りは頂点に達していた。
そのころ、ロシアでは社会主義革命が成功(1917年)、さらに翌1918年1月8日、アメリカでは、ウッドロー・ウィルソン米大統領の民族自決宣言(世界平和のために-第1次世界大戦講和の条件-発表した14か条の一つ)が行なわれた。こうした国際的潮流を背景に朝鮮の人々は、独立運動を展開するところとなる。
この運動を3・1独立(反日)運動または万歳事件と呼ぶが、運動は1919年3月下旬から4月下旬にかけて頂点に達する。これに対して日本軍が徹底的な弾圧政策を断行、そのため運動は暴動化し、朝鮮全土に拡大するところとなった。一連の運動の参加者は200万とも1,000万人ともいわれ、日本軍との衝突による朝鮮側の死者は実に7,645人におよんだ。
さしもの日本軍もこれに大きな衝撃をうけ、以後、朝鮮統治の方向転換を余儀なくされるのである。
外務省文書「不逞(ふてい)団関係雑件」には、「朝鮮の3・1独立運動に立ち上がった人々を教会に閉じこめて火を放って殺した。失火として処理した」と記述されている。
3・1独立運動当時の朝鮮総督府政務総監が関東大震災直後の大混乱中で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることを恐れ、朝鮮人暴動なるものを作り出して戒厳令発令による治安を掌握の口実を作り戒厳令を発布したのが、内務大臣・水野錬太郎であり、朝鮮総督府警務局長が内務省警保局長の後藤文夫であった。
なお、韓国の盧武鉉大統領は05年3月1日、ソウルで行われた「3・1独立運動」の記念式典での演説で「過去の真実を究明し、心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければならない」と訴え、日本政府や国民に、日韓和解に向けた「真摯(しんし)な努力」を求めた。日韓基本条約締結(日韓国交回復=1965年6月)40周年といったこともあり、演説全体の7割もの部分を日韓関係に割く異例の内容となった。


   
朝鮮・韓国の人々に真っ先にこの事件が念頭に浮かぶでしょうから、この重みが必ずしもピンと来ないでいる私たち日本国民との意識のギャップは覆いようがありません。侵略した側とされた側、いわば、いじめた者といじめられた者の立場の違いでしょうか。


   
しかし、この3.1運動を、ほぼリアルタイムで共感的に歌い上げた青年詩人が当時存在していたことは、日本人にとって救いです。プロレタリア文学と反戦・平和の運動に青春を捧げ、弾圧・投獄の痛手のため夭逝した詩人槇村浩です。
槙村浩(本名・吉田豊道、1912~38)は高知県生まれで、幼少期から神童の誉れ高く、英才教育で知られた土佐中学に入学しますがその思想をとがめられて退学。リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動しました。
文学活動とともに、反戦平和の青年運動にも参加し、高知市朝倉の歩兵44連隊(現在の高知大学)で夜陰に紛れて反戦ビラをまくなどの決死の活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯の反戦詩を次々に発表します。しかし、治安維持法違反により逮捕・拷問を受け、獄中で病気となり26歳の若さで世を去りました。槇村浩の人生は、高知の小説家土佐文雄の小説「人間の骨」で描かれ、1978年には映画化されました。



人間の骨 (1966年)

人間の骨 (1966年)

  • 作者: 土佐 文雄
  • 出版社/メーカー: 新読書社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: -




劇中の牧村浩が、激しい拷問に絶えながら、他の転向者たちを評して 「あの人らあは、政治家じゃきに、転向という判断もあるかもしらん。けんど、ワシは芸術家じゃきに、信念を偽るわけにいかん」と不屈に非転向を貫く場面があったかと記憶しています。


間島(かんとう)パルチザンの歌

思い出はおれを故郷に運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え
蘆(あし)の根の黒く凍る沼のかなた
赭(あか)ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子(こうらいきじ)が谷に啼く咸鏡(かんきょう)の村よ
(中略)
おお3月1日!
民族の血潮が胸をうつおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが
1919年3月1日を忘れようぞ!

その日
「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし
踏み躙(にじ)られた日章旗に代えて
母国の旗は家々の戸ごとに翻った
胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思い出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝わり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺した
おお、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱい万歳をはるかの屋根に呼び交わす老人と
眼に涙を浮かべて古い民衆の謡をうたう女らと
草の根を齧りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない。


 


間島パルチザンの歌

間島パルチザンの歌

  • 作者: 槙村 浩
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2015/06/18
  • メディア: Kindle版



間島パルチザンの歌―槇村浩詩集 (1980年) (新日本文庫)

間島パルチザンの歌―槇村浩詩集 (1980年) (新日本文庫)

  • 作者: 槇村 浩
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: 文庫



安重根記念館


    
朝鮮総督府初代長官伊藤博文を暗殺した暴漢として、日本ではその名前すら記憶されているかも疑わしい安重根ですが、韓国では愛国的な英雄アンジュングンとして小さな子どもたちまでが敬愛しており、立派な記念館によって顕彰されています。記念館は、手入れされた緑に囲まれ、あらこちらに石碑や、銅像などが配置されていて、静謐な空気に包まれています。


ansekihi    
館内には安重根の遺筆が収められた額縁や関係写真、勲章や獄中自叙伝、遺言、書簡、文献などが展示,保管されており、その生い立ちや行動、思想の遍歴がしのばれます。いずれをとっても、そこには暴虐無道、軽佻浮薄のテロリストという面影はいっさいなく、高潔な憂国の士という人柄が浮かんできます。テロリズムを手放しで礼賛し英雄視することには組みするわけにはいきませんが、凶悪卑劣な暴徒とのみ矮小化する描き方も不適切と気づかずにはいられません。        



これらのスポットを選りすぐり、案内してくれたガイドの金さんは、聞けば金大中大統領(当時)と同郷、同姓で、遠い親戚だといいます。我々旅行団の「特注」として、「歴史に詳しいガイドさん」を、旅行会社が確保してくれた甲斐あって、歴史、地理、世情に対する該博な知識と教養の持ち主。自国の歴史や文化・伝統への誇りと自負が言葉の端々に感じ取れます。教師の経験もあるとかで、ガイドぶりにも、なにか講義のような風情が感じられ、ふと、できの悪い生徒のようなくすぐったさを覚えるバスの中でした。
特に、多くの韓国の方々にとって、熱い「愛国心」が共通教養として身についていることの表れでしょうが、自国の歴史や自国政府の諸政策への支持・共感が、言葉の端々にうかがわれます。特に、南北分断・家族別離の不幸を伴う朝鮮戦争への評価、31万人あまりの韓国軍兵士を投入して本格参戦したベトナム戦争の位置づけ等において、「共産勢力の脅威」「ベトコンとの戦い」などの言葉がしばしば口に上るのは、彼女の真率な思いのあらわれと言えましょうが、幾分の気後れを覚える場面も、正直ありました。 しかし、その愛国の思いが、掛け値なく純粋なものであることは、誰しも容易に感じ取ることができ、何かまぶしくすら思われるのは、私だけの感覚でもないように思われます。


     
特に、直前に起きた米軍による韓国少女ひき逃げ事件に話題がおよんだとき、彼女の口調がいつになく強くなり、「アメリカ国内でアメリカ人の中学生が、ひき逃げされたときでも、アメリカ軍はこのような態度をとることができるでしょうか?」と激しいまでの義憤を表明している様子に、それは格別に感じられたことでした。
彼女が話題にしていた少女轢殺事件のあらましと、その後の経緯は、おおむね次のようなものでした。


日・韓共同開催のFIFAワールドカップで沸き返る6月13日、友だちの誕生会に行こうと一般道を歩いていた韓国の女子中学生シン・ヒョスンさんとシム・ミソンさん(ともに中学2年生の14歳)が、米第2師団工兵隊所属の架橋運搬用装甲車(重量54トン)にひかれて即死した。装甲車は米韓合同演習に参加して計7台の車列の3番目を走行中だったが、対向車線からくる車両を避けるために歩道に乗り上げたのだった。
米軍は当初、単純な「公務中の事故」として、見舞金程度で処理しようとし,具体的な原因も明らかにせず、責任者に対する処罰も行おうとしなかった。それどころか、韓米駐屯軍地位協定(SOFA)を盾に、事件の裁判権も、韓国側に渡そうとしなかった。
現場は地域の通学路にもなっている片側一車線の一般道路。道幅は約三・三メートル。一方、装甲車は幅三・七五メートルで、車線から四五センチもはみ出す車だった。この装甲車が何の警告もなしに一般道路を疾走して、対抗車線の車(戦車?)とすれ違うために道路端に車を寄せ、そこにいた二人の女子中学生(それぞれ一四歳)をひき殺したという。死亡した場所の少し手前の草むらに一人のはいていた靴が残されていたので、装甲車に気付いた二人は必死に逃げたが逃げ切れず、車は二人を押しつぶしてしまった。
米韓地位協定では公務中の事故に関してはアメリカ軍に裁判権があるとされているため韓国側は捜査すらできない状態だった。世論の激しい非難の中で、七月一〇日に韓国政府はアメリカに裁判権の放棄を申し入れたが、アメリカ軍はこれを拒否。 さらに運転手の上司である部隊長や師団長も早々に帰国させてしまった。
結局、米軍の検事が、装甲車の運行を管理していた通信管制兵のフェルナンド・リノ兵長と、運転兵だったマーク・ウオーカー兵長の2名だけを業務上過失致死で起訴し、裁判は基地内で米軍人を判事とし、米軍人から選ばれた陪審員7名によって行われた。弁護人は被告人自身が本国のそれぞれの出身地から専任した。
審理はまず通信管制に当たったリノ兵長について行い、彼には重大な職務怠慢や過失が証明されないということで無罪評決をした。続いて運転兵だったウオーカー兵長についても同様趣旨で、リノ兵長とバランスをとる形で無罪評決をした。米軍軍裁では検察側に控訴権がないため、11月22日ですべてが終結した。
アメリカ側のこの横暴かつ不誠実な態度に、国民的な抗議の声が急速に高まり、署名、集会、街頭行動が連日のように繰り広げられた。特に学生・生徒を含む若者たちの参加が目立った。この機運は、12月の大統領選挙にも波及し、独自外交路線を掲げアメリカからの自立を政策として鮮明にした盧武鉉(ノムヒョン)の当選に大きく影響を及ぼした。



 



JSA [DVD]

JSA [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東芝デジタルフロンティア
  • 発売日: 2006/06/23
  • メディア: DVD



JSA(吹替版)

JSA(吹替版)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2023/01/16
  • メディア: Prime Video



彼女は幾度か映画「JSA」 (映画紹介その2)を話題にしましたが、これこそが絵空事でなく自国・自民族のおかれている抜き差しならない現実だという思いが彼女の言葉の端々から伝わってくるようでした。本来友愛で結ばれてあるべき同胞が、長く分裂・対立の不幸にさいなまれ、時として一触即発の危機にさらされているという状況は、センチメンタルに嘆きたてるべきものでもなければ、諦観をもって冷ややかに甘受すべきものでもなく、時事地として直視する以外にないという受け入れ方、担い方を、ここの国の人々はしているのだなあと、感じさせられたのです。そこに、国の針路や戦争と平和への向き合い方において、私たち日本人との大きな落差を感じたような気がしました。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1


つづく


nice!(4)  コメント(0) 

続20年前のベトナム訪問記(補遺)、の巻 [私の切り抜き帳]

20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログに小分けでご紹介しました。


20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23


元は、以前公開していたプライベートホームページに掲載していた記事なのですが、プロバイダの契約を解消してから、消滅状態にありました。古いデータを探って復元したのが、上の諸記事です。もう少し続きを書いていたような気がしていたのに、当初は見つかりませんでした。


その後、掘り起こしたデータを、この記事で再現しました。全景記事の続きに相当するものでした。


続20年前のベトナム訪問記、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)


さらに、続いて以下の記事も見つけましたので、この機に掲載させていただきます。


6.ハノイからソウルへ


  
水上人形劇の余韻を楽しむうちに、いよいよベトナムともお別れ。名残惜しい思いのまま、ハノイ空港を深夜11時半に出発、ソウル経由で日本に向かいます。
機中泊を経て、私たちの乗った大韓航空機が韓国仁川空港に着いたのは8月11日(日)の早朝。ソウル-岡山便は夕方の出発とあって、待ち時間をつぶすための余分のスケジュールとはいえ、ほとんど丸一日のソウル見学ができたことは、いわば余得でした。


往路と同じく,空港で私たちを迎えてくれたのは女性ガイドの金(キム)さん。まずは鮑粥など韓国の味満喫の朝食をすませます。


ソウルでの見学先は、一般の観光ツアーでは訪れることの少ない厳選スポットを堪能。午前中は本場「垢すり」体験コースと、戦争紀念館、独立記念館などの歴史モニュメントを中心とした見学コースの二手に分かれ、私は同行の歴史家諸氏に混じって後者に参加しました。 


戦争記念館(戦争紀念館)


misairu1 


    


94年6月に開館した戦争紀念館には、5千年の間の抗争史、軍事遺物資料など、戦争教訓の生きた資料が展示されています。殉国者追悼室、戦争歴史室、韓国戦争室、海外派兵室、国軍発展室、大型装備室などの展示室のほか、屋外展示室には、陸海空の実戦に用いられた武器が生々しく展示されており、その重みに圧倒されます。愛国心に満ちた韓国の少年少女の目には、たくましく心強い味方と写るのでしょうし、また、日本からの行きずりの観光客らにとっては、かっこいいミリタリー調の記念写真にでも収まりたい代物でしょうか?そこには沖縄を飛び立ってベトナムに出撃した血塗られた爆撃機、戦闘機らの実物もまがまがしく実在をアピールしていて、複雑な思いを抱かざるを得ません。


 


紹介サイトはこちらその2  


独立記念館
 


  「侵略」を「進出」になど、教科書の書き換えを強要した1982年の「教科書歪曲問題」事件をきっかけに、国民的募金によって建設されたのが「独立記念館」。ここには、次の七つの展示館があり、全てを見学し終えるには何日もの時間が必要な豊富さです。逆コースを加速する小泉→阿倍流のアジア観、日本観が、なにやら針路を危うくさせている今だけに、この展示内容に真摯に目を凝らすことは、私たち日本人にとって必要不可欠とおもえます。過去の過ちを過ちとして認めたうえで、日韓・日朝関係の望ましいあり方を冷静に考えていくことは、新たな友好関係を発展させる礎と言うべきではないかと改めて感じます。


民族伝統館



高句麗広開土王碑のレプリカや亀甲船の模型などが展示してあります。


  


近代民族運動館


 
 
日本の朝鮮半島侵略から韓国併合に至るまでの主な民族運動が展示されています。十三道倡義軍のソウル進撃のようすがミニチュアで展示してあります。


 


日帝侵略館   



日本の植民地時代の展示がしてあります。蝋人形での展示も生々しく歴史を伝えます。 


 


3・1運動館


3・ 1独立運動についての展示があります。


 


独立戦争館


        
入り口を入ると安重根、尹奉吉、金佐鎮三氏の像があります。三氏はいずれも独立運動の闘士です。この館は、文化運動や、学生運動など独立運動の様子が紹介されています。


 


臨時政府館 


  上海に設立された大韓民国臨時政府や中国など世界各地で展開された独立運動が紹介されています。



大韓民国館


miya2


   
その他の展示物:朝鮮総督府撤去建材の展示公園     なお、上の表にある朝鮮総督府は、日本が日韓併合のあと朝鮮支配のためにおいた役所。その庁舎は李王朝の宮殿であった景福宮 の敷地を破壊して宮殿正面に造られ、宮殿を街から覆い隠す位置にそびえ立つことからも、日帝支配による屈辱の象徴と人々にはとらえられてきました。解放50周年目にあたる1995年8月15日の光復節の日に撤去され、その撤去建材で展示公園が造成されています。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。



https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1



 

つづく


nice!(3)  コメント(0) 

生徒に話したベトナムへの旅、の巻(3) [私の切り抜き帳]

【資料4】ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?
ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 講談社 アレン・ネルソンISBN4062119048

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

  • 作者: アレン・ネルソン
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/03/12
  • メディア: 文庫
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

  • 作者: 三枝義浩
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/12/29
  • メディア: Kindle版
戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: 単行本

死体のにおい、戦場の音・・・・・・
戦争の本質は今も昔も変わらない。

「ミスター・ネルソン」
女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐに見つめると、たずねました。
わたしにとって運命的な質問でした。
「あなたは、人を殺しましたか?」
だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。
わたしの体はこわばり、重くなり、教室の床にめりこんで
いくような気がしました。
(本文より)

★ベトナム戦争を知らない読者のために★
世界地図を広げたら、まず、あなたの国、日本をさがし、
そして東京を指さしてみましょう。そこから南西へ、つまり
左下へ指を少しずつ動かしていくと、沖縄の島々を見つけることができます。
それからさらに左下へと指を動かせば、東シナ海をわたって、
あたなの指は大きな半島の、海に面した南北に細長い国にたどりつくことでしょう。
それがベトナムです。
二十世紀の中ほどから、ベトナムではさまざまな戦乱が続き、
それは一九四九年、ついにベトナムを北と南の二つの国に分断
してしまいました。一九六十年代にはいると、アメリカ合衆国が
ベトナムの戦乱に介入をはじめました。アメリカ軍は南政府軍とともに、
ベトコンとよばれる反政府軍のゲリラ兵たちを敵として戦ったのです。
一九七五年、南ベトナム政府がなくなり、アメリカ軍が完全撤退するまで、
この熱帯のジャングルを舞台にした悲惨な戦乱は続きました。
それがベトナム戦争です。
あなたはもう生まれていたでしょうか?
それとも、まだ生まれていなかったでしょうか?
いずれにしても、戦争の本質は、今も昔も変わりません。
ほんとうの戦争は無慈悲で残虐でおろかで、そして無意味です。

目次
1「あなたは、人を殺しましたか?」
2 わたしが海兵隊に入ったわけ
3 沖縄での一か月
4 ほんとうの戦場、ベトナムへ
5 これが戦争の現実
6 わたしを変えた体験
7 もう殺したくない
8 それからの戦い
子どもたちの感想より



【資料5の①】
ソンミの虐殺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベトコンの拠点とされる民家を焼き払うアメリカ軍兵士ソンミの虐殺(英:Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。


1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のウィリアム・カリー中尉率いる部隊(第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊)が南ベトナム・中南沿海地方 クアンガイ省のソンミ村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺。当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にアメリカの雑誌「ニューヨーカー」のセイモア・ハーシュ記者がこの事件を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。


なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー中尉自身もその後懲役10年に減刑された上、1974年3月には仮釈放されたため、この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。


【資料5の②】  パンフレット「ソンミ村を振り返る」より
コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。


同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。   [右の写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール]
この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。


トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第Ⅱ小隊と第Ⅲ小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー中尉の率いる第Ⅰ小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」
            (中略)


メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。


メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。


トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。
――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。
――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。
しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。(以下略)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/A%20look%20back%20upon%20Son%20My.htm


【資料6-①】シンガーソングライター:横井久美子さんのホームページよりhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm)
■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間


昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


  【資料6-②】 戦車は動けない【作詞】門倉 訣【作曲】青山義久
(省略)



 



横井久美子歌手グランドフィナーレ: 歌にありがとう

横井久美子歌手グランドフィナーレ: 歌にありがとう

  • 作者: 横井 久美子
  • 出版社/メーカー: 一葉社
  • 発売日: 2021/06/08
  • メディア: 単行本



戦車は動けない

戦車は動けない

  • 出版社/メーカー: ONGAKUCENTER
  • 発売日: 2011/09/07
  • メディア: MP3 ダウンロード



  【資料7】辺見庸「いまここに或ることの恥」より
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)


   著者紹介
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』文学
辺見 庸(へんみ よう、1944年9月27日 - )は、日本の小説家、ジャーナリスト。


本名、辺見秀逸。宮城県石巻市出身。宮城県石巻高等学校、早稲田大学第二文学部卒業。共同通信社記者を経て作家に。1991年、『自動起床装置』で、第105回芥川賞受賞。


『もの食う人びと』で、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限的な生の中の食を扱い、講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。最近は、テロリズムとの戦いをテーマに活発な論陣を張っている。2004年には講演中に脳出血で倒れたが、1年ほどの療養の後、2006年には『自分自身への審問』を復帰作として上梓した。
[編集] 主な著書
『自動起床装置』 『ハノイ挽歌』 『赤い橋の下のぬるい水』 :今村昌平監督で映画化 『不安の世紀から』 『ゆで卵』 『もの食う人びと』(共同通信社1994年 ISBN 4-7641-0324-9、角川文庫1997年 ISBN 4-04-341701-2) 『屈せざる者たち』 『眼の探索』 『反逆する風景』(講談社1995年) 『夜と女と毛沢東』(吉本隆明・辺見庸対談) 『単独発言』(角川書店2001年) 『永遠の不服従のために』 『抵抗論』(毎日新聞社2004年) 『自分自身への審問』 『


いまここに在ることの恥 (角川文庫)

いまここに在ることの恥 (角川文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: 文庫


』(毎日新聞社)


 


【資料8】
原点その1「教え子を戦場に送るな」

1952年(ちょうど私の生まれた年)、高知県教組機関誌「るねさんす」に、当時の青年教師竹本源治さんが、「戦死せる教え児よ」と題する詩を発表しています。


戦死せる教え子よ 竹本源治
「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/慚愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/繰り返さぬぞ絶対に!」


この詩がウイーンの第一回世界教員会議で紹介された時、これを聞いた人々は、国の違いを越えて、ハンカチで顔をおおい嗚咽したといいます。「教え子を戦場に送らない」これが、戦後教職員運動の原点であり、万国普遍の教師の誓いであったわけです。
ところで5月20日付山陽新聞に、イラク人捕虜へのおぞましい虐待に加わった7人のアメリカ人兵士が、顔写真入りで紹介されています。


捕虜虐待に関わったとされる兵士
ジェレミー・シビッツ技術兵(24)
ペンシルベニア州出身。軍用車両の修理が専門、全裸のイラク人収容者がピラミッド状に折り重なった虐待写真を撮影したなどの疑い。
ジャバル・デービス3等軍曹 (26)
メリーランド州出身。高校時代は陸上競技のスター選手。信仰心の厚いキリスト教徒との証言もある。収容所の手や足を踏みつけるなど6件の虐待に加担した疑い。
リンディ・イングランド上等兵(21)
ウェストバージニア州出身。高校卒業後気象学者を志し、大学で勉強するための補助がえられる軍に入隊。全裸の収容者の首に巻いたひもをひいたり、くわえたばこで全裸の収容者を指さす写真が世界中のメディアで報道され、虐待事件の”象徴的存在”に。
サブリナ・ハーマン技術兵(26)
バージニア州出身。ピザの宅配などをやりながら、大学入学を目指して入隊。全裸の収容者がピラミッド状に折り重なった背後で、グレーナー技術兵と笑っている写真が報じられた。 (以下略)
侵略者のおごりの上に立った卑劣な行為に憤りをおぼえながらも、一面では、戦争さえなかったら、まばゆいほどの才能と一途な向上心にあふれた、頼もしい若者として、家族からも周囲からも、愛と誇りをもって遇されたはずの彼らが、いま、みじめな後悔に身を灼いていることに対して、内心、痛ましさをも禁じ得ないのです。
収容所からの連想で、映画「シンドラーのリスト」の中の、「戦争というものは、欠点ばかりを増幅させるものだ。」という言葉を思い浮かべずにはいられません。子どもの健やかな発達という意味からも、子どもを戦場に、とりわけ侵略の戦場に送らない誓いを新たにしたいのであります。


長くなりますので、続きは次回といたします。


nice!(14)  コメント(0) 

生徒に話したベトナムへの旅、の巻(2) [私の切り抜き帳]

前回記事の続きです。


【資料3】枯葉作戦とは何だったのか 北海道AALA副理事長 鈴木 頌 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/ippnw/defoliate.htm
アメリカにとって史上最大の戦争
ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。
現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。
この戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。
アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。


最初はケネディの時代から
アメリカはベトナム解放を阻止するため、61年には介入を開始していました。それが本格化するのは63年になってからです。しかし枯葉作戦はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。
そもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、食料としては使えなくすることを目的としていました。
散布された農薬はエージェントと呼ばれました。オレンジ、ホワイト、ブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、成長や代謝を阻害するものです。2・4-D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5-T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物がエージェント・オレンジと呼ばれました。ホワイトは、2・4-Dと4-アミノ-3・5・6-トリクロロピコリン酸の混合物です。このうち特に大量に使用されたのがオレンジ・エージェントでした。
稲などにはブルーが用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をはかります。


通常、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。これにF-4ファントムが護衛の任につくこともありました。現場上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから除草剤を森林に噴霧します。こうして1ヘクタールあたり27リットルの除草剤が撒かれていきました。
散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。こうして、通常の10倍もの濃度を持つ除草剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。
作戦全体に投入された薬剤は72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及んだといわれます。
散布面積の合計は、170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。
対象の大部分は密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争中期には、「ホーチンミン・ルート」周辺の密林を破壊する、もっとも大規模な特別作戦が企てられました。


ダイオキシンとは何か?
正式名称は、ポリ塩化ダイベンゾダイオキシンといい、化学構造は、2個の亀の甲が2個の酸素で結ばれ、亀の甲の残りの炭素にどのように塩素が結合するかによって、理論的には75種の同族が存在し、塩素の結合のしかたによって、毒性は千差万別です。
その中では、2,3,7,8-ダイオキシンの毒性が最強です。この他に、コプラナーPCBと、ジベンゾフランも毒性が強く、これらはダイオキシン類として同等に扱われています。
1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。またベトナム戦争で、アメリカ軍が撒いた枯葉剤にダイオキシンが混入していて、流産や奇形の発生が多いことが報道され、史上最悪の毒物として有名になりました。
ちなみに、ダイオキシンの毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれています。またサリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシン類は1300℃の超高温でしか高速分解しません。


ダイオキシンは何が問題か?
ダイオキシンの1日の摂取許容量は、農薬の100万分の1です。つまりダイオキシン類の毒性は農薬より100万倍強いのです。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素、遺伝子や染色体に作用する結果、健康が害されます。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。
これに対しダイオキシンは、細胞質内のリセプターと呼ばれる物質と結合した後、遺伝子の特定部分と結合し、いろいろな遺伝子を活性化させます。そのために酵素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などが起こります。この作用は極微量のダイオキシンで起こすことが出来ます。


ベトナム戦争におけるダイオキシン被害
1962~1965年に使用されたエージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。総量170kgと考えられています。
枯葉剤の撒かれた地区と、枯葉剤を扱った兵士とのあいだで子供を作ろうとした1545人の妻を対象にしたダイオキシン被害の調査結果を掲げます。
ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果
      先 天 異 常散布前(A)散布後(B)B/A
       流産 ルンフー村5.22 %12.20 %2.3 倍
      ルンファ村4.31 %11.57 %2.7 倍
      タンディエン村7.18 %16.05 %2.2 倍
      奇形児0.14 %1.78 %12.7 倍


出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)
ベトナム戦争参加アメリカ兵士の妻を対象とした先天異常発生調査結果
      先天異常発 生 率B/A
       対照群(A)さらされた群(B)
      不 妊1.20 %2.80 %2.3 倍
      早 産0.61 %2.01 %3.3 倍
      流 産9.04 %14.42 %1.6 倍
      奇 形 児0.21 %3.14 %15.0 倍


枯葉剤散布地区では、流産が枯葉剤散布前に比べ2.2~2.7倍に、奇形は約13倍になっています。また、ダイオキシンに直接さらされなかったアメリカ兵士の妻までも影響を受けています。これは、ダイオキシンが精子に影響を与えているためです。
この他に、ベトナム帰還兵とその家族には、癌から子供の身体障害にいたる疾病が現われ、原因は枯葉剤に混入していたダイオキシンであると確信されるようになりました。この関係を調査したアメリカ科学アカデミーの1993年の報告書は、ダイオキシンに暴露すると、軟組織腫、非ホジキンリンパ腫、およびホジキン病の3種類の癌になる可能性があるとしています。

【付録】ベトナム戦争とは何だったのか
第二次世界大戦終了直後の1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。
しかしその1月後、旧支配者フランス軍が再侵略し、戦闘に入りました。1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。
1954年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。
ジェム政権は腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていきました。ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していくなかで、1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まりました。
アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られました。
強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。
アメリカ軍は、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒きました。ベトナムでは現在でもその後遺症に苦しむ人々が多数います。
アメリカは、北ベトナムへの空爆も始めました。しかし次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費から、次第に厭戦気分が高まっていきました。
ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。
アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカは軍事援助を続行しました。戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。
北ベトナム軍と解放戦線は反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫りました。こうして1975年4月、ついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されたのです。実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。


長くなりますので、続きは次回といたします。


nice!(4)  コメント(0) 

生徒に話したベトナムへの旅、の巻(1) [私の切り抜き帳]

20年ほど前のベトナム旅行の記録を探っておりましたら2007年2月15日付で、生徒向けに作ったこんなプリントが見つかりました。「特別授業」の形式で、それぞれの教員が専門教科を離れて講義を行った機会にに、ベトナム旅行の経験を報告したものです。


                            ベトナムへの旅


                                    レジュメ
1 はじめに .「歴史」と私
2 ベトナム略史【資料1】
3. 現代史としての「ベトナム」
・「ベトちゃん」「ドクちゃん」のこと【資料2】
・ベトナム戦争と「枯れ葉作戦」【資料3】
・ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?【資料4】
・高校時代の小品 と ソンミ村【資料5-①、②】
・ベトナム戦争と日本
横井久美子への電子メールと「戦車は動けない」という歌【資料6-①、②】
と 辺見庸【資料7】
と あさのあつこ
4.「歴史」に学ぶ=先人の痛苦の体験を無にしない。【資料8】
5.ベトナムへの旅
「紀要4号」に補筆 【資料9】


【資料1】


ベトナム略史          (インターネット上より拝借)
<B.C.>
2000年 フングエン文化 紅河デルタに栄える
400年 青銅器文化 ドンソン文化が栄える
111年 前漢 ベトナムを占領
<A.D.>
938年 南漢を破る
966年 大瞿越国となる
1054年 国名を大越国とする
1858年 フランスのベトナム侵攻開始
1945年 ベトナム民主共和国独立宣言
1954年 ディエン・ビエン・フーの戦い
ジュネーブ会議で南北に分断
1975年 サイゴン陥落
1976年 南北統一ベトナム社会主義共和国成立
1977年 ベトナム国連加盟
1986年 ドイモイ(刷新)政策発表
1992年 新憲法発布
1994年 アメリカの経済制裁措置解除
1995年 アセアン加盟
アメリカと国交樹立


image


枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。


長くなりますので続きは次回とします。


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

続20年前のベトナム訪問記、の巻 [私の切り抜き帳]

年金者組合作品展に出品した写真についてある遺失物、の巻でご紹介しました。ベトナム戦争後も、ベトナムに置き去りにされた米軍戦車の残骸が、記念物として展示されていたものの写真です。


これをきっかけに、古い記憶と記録をたどり、20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログの方に小分けで掲載してみました。


20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23


色々過去データを探っているうちに、こんな文章も発掘しました。


この文章は、どう使ったのか?どこかに発表したものかどうかも、記憶が曖昧です。ともあれ、この機会に、アーカイブ化しておくことにします。


ベトナム最後の夜



ベトナム最後の夜は、1000年もの歴史をもつという「水上人形劇」の鑑賞。「水上人形劇」は、ベトナムを代表する民俗芸能のひとつで、湖沼の多いベトナム北部の農村で生まれ、収穫の祭りの時などに屋外の水辺で演じられていたものが、娯楽として宮廷にまで広がったものと言われます。私たちが見学したのは、ハノイ中心部ホアンキエム湖畔の「タンロン水上人形劇」で、主として外国人観光客を相手に毎日演じられているそうです。
  入り口でパンフレットと素朴な扇を貰って、こぎれいな劇場に入ると、客席は西洋系、中国系など多彩な観客で埋まっています。見下ろす位置に張られた水の上を舞台に、民族音楽の演奏をバックに、コミカルに、また優美に、人形達の演技がスケール大きく繰り広げられます。説明はベトナム語で行われますので、詳細はわかりかねますが、一話一話が短くテンポ良く展開することと、人形達の所作や表情がリアルで、農民達の暮らしぶりや伝説・伝承のあらまし程度は彷彿と想像できるので、最後まで舞台に引き込まれ、客席は期せずして、笑い声や歓声に包まれます。
演目は表の通り。


タンロン水上人形劇プログラム

1.祭の旗上げ
2.テウさんのナレーション
3.竜の踊り:4匹の火を噴く竜の共演
4.水牛とフルートを吹く子供
5.田植え作業 
6.カエル採り
7.アヒル農法と狐狩り
8.釣り
9.凱旋帰郷
10.獅子舞
11.不死鳥(鳳凰)の舞い
12.レロイ王、ホアンキエム湖の伝説
13.水遊び
14.ボートレース
15.獅子のボール遊び
16.仙女の舞い
17.(竜,獅子,鳳凰,亀)4匹の共演


プログラム12番「レロイ王、ホアンキエム湖の伝説」は、ハノイ市民の憩いの場ホアンキエム湖にまつわる伝説を題材としています。黎(レ)朝を建国したベトナムの英雄レ・ロイにちなむ、次のような伝説です。15世紀初め、中国明の圧政に耐えかねたレ・ロイは、天から授かった宝剣で明を打ち破り、中国の支配からベトナムを解放します。その後、レ・ロイ王が湖で遊覧していると、突然黄金の亀が出現し、「国が平和になったので、神に宝剣を返して欲しい」と告げて、宝剣を口にくわえて湖底に帰っていったといいます。ホアンキエム(Ho Hoan Kiem)は「還剣湖」の意。湖の名前の由来は、ベトナム建国・独立の誇りと結びついたものでした。


FH000014


FH000018


さて、この旅行後数年経った2006年、11月11日共同通信が次のような記事を配信していました。


18日からアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれるハノイで、観光名所ホアンキエム湖に1匹だけ生息するとされる大きなカメが久々に姿を現し話題を呼んでいる。
ベトナム自然環境保護協会のハー・ディン・ドク教授によると、カメが現れたのは8日午前。湖に浮かぶ小島に約30分はい上がった後、水中に戻ったという。
地元で「偉大なおじいさん」と呼ばれ親しまれているカメは「体長約1・8メートル、重さ約200キロ」とされる。2005年までの15年間で200回目撃され、うち37回は胡錦濤・中国国家主席のベトナム訪問など重要な政治日程と重なった。地元紙は「ベトナムの世界貿易機関(WTO)加盟承認やAPEC開催を祝福しているのでは」と報じている。
ドク教授は「政治イベントとカメ出現を結びつけるのはその人次第」と話している。


今日はここまで。


nice!(3)  コメント(0) 

「ねばならない」の逆襲、の巻 [私の切り抜き帳]

意味ありげなタイトルを付けました。


現職時代に属していた教職員組合が、かつて、ある教育提言を示そうということで、私もその検討委員の一人に加わったことがありました。1900年代の終わりの頃、思えば前世紀のことでした(笑)


アチコチ探して、私の関係した部分を引っ張り出して来ました。


長い文章ですが引用します。


 

提言1こんな高校をつくろう

    視点子ども・青年の「自分づくり」を支援する学校

―――「いかに生きるか」という挑みが励まされ、個性的な 人格形成が促され、進路選択の力が育てられる教育を―――                      
           

Ⅰ.「第二の誕生」の時期の課題に応える教育を


┌───────────────────────────────────┐
│ 高校生たちは、「いかに生きるか」を模索する「第二の誕生」の時期に直面しています。彼らの「自分づくり」を支援する高校像こそ、私たちの探求課題です。  
└───────────────────────────────────┘
いま、学校でも家庭でも、「子どもが見えない」「子どもの心がつかめない」という嘆きが、しばしば聞かれます。簡単に「キレル」「むかつく」子どもたちの登場や、小学校低学年にまで及ぶ「学級崩壊」に象徴される「新しい荒れ」の進行は、その思いをいっそう募らせています。
熾烈な「生き残り」競争をあおる社会状況、人工的に過ぎる生活環境、刺激的・刹那的・浪費的な文化環境、地域・家庭の教育力の低下、大切な「三つの間=時間、空間、仲間」の喪失など、さまざまな要因が、子どもたちの「育ち」を困難にしているのです。
しかし、それだけに、目の前の高校生たちは、それぞれの切実さで、「第二の誕生」(ルソー)の時期に直面しています。それは、内的な価値(理想)に目覚める時期であり、「いかに生きるか」の模索の時期であり、「産みの苦しみ」の時期でもあります。そのさなかにあって、彼らは、合理化されない感情の起伏に苛まれ、孤独と集団性、劣等感と優越感、不信と友情のはざまを揺れ動く日々を体験しています。
この時期こそは、彼らがどのような人間になるかを決定する、「生涯で最も激動的で実り豊かな時期」(竹内常一「現代青年論」)にほかなりません。
いま、「日本の教育」を語り、「高校教育の改革」を語るとき、このような思春期・青年期の課題=「自分さがし」「自分づくり」の課題に応える学校づくりの模索こそ、主要なテーマの一つとなるべきでしょう。

Ⅱ.子ども期を奪われ、過度のストレスにさらされる日本の子ども


  ┌─────────────────────────────────┐
│ 国連「子どもの権利委員会」勧告(98年6月)が指摘するとおり、過度のストレスが日本の子どもたちを苦しめ、学校が「息苦しい場所」になっています。      └─────────────────────────────────┘
胸弾む「自分さがし」「自分づくり」のドラマを渇望しながら、その峠の迂遠さ・先の見えなさにたじろぎ、つまずき、もてあましている子ども・青年も少なくありません。時には、向こう見ずな暴発への衝動にかられたり、モラトリアムや退行に逃避する場合もあるでしょう。彼らには、社会・家庭・学校のいずれもが、切実な「自分づくり」への希求に応えてくれないばかりか、自分をそれから遠ざけ、単調な苦役を強いるだけの強迫的存在と映っているのかもしれません。
とりわけ近年、学校が、多くの子どもたちにとって「息苦しい場所」になってきていることは、紛れもない事実です。
登校拒否・不登校の子どもの数が、ますます増えています。とりあえず、学校へは通っているが、様々な神経症状を抱えながら「苦痛に耐えている」子どもたちを含めると、莫大な数に登ります。そして、その延長線上に、毎年十万人前後にものぼる高校中退者が次々と生み出されています。
国連「子どもの権利委員会」は、98年6月、「日本の子どもたちは、高度に競争を強いる教育制度のなかでストレスにさらされ、発達障害におちいっている」と指摘し、「過度なストレス、不登校を防止し、闘うための適切な措置をとる」ことなどを、日本政府に厳しく勧告しました。それは、「“豊かな国”日本社会における子ども期の喪失」と題するNGO報告文書が浮き彫りにした、日本の子どもたちの実態をふまえたものに他なりません。
                                   

Ⅲ.「自分づくり」を励ませない上からの「教育改革」


┌──────────────────────────────────┐
│ 国や県が「上から」おし進めようとしている「教育改革」は、子ども・青年│の「自分づくり」を励ませるのでしょうか。                             │
└──────────────────────────────────┘
いま、政府・文部省は、「偏差値排除」「競争緩和」「個性尊重」を謳い文句に、「新学力観」をつよく打ち出しながら、「教育改革」をおし進めようとしています。また、岡山県でも、「魅力ある学校づくり」「特色づくり」を呼号しながら、学区解体・高校再編の動きが、急ピッチで進められようとしています。
しかし、これらの「上からの教育改革」は、子ども・青年の「自分づくり」を励ますものとなりうるでしょうか。残念ながら、現実の事態の推移は、より幼い段階で自己の「可能性」に見切りをつけさせ、より早期に選別を完了するシステムとの危惧を裏付けるものとなっています。それは、「自分づくり」の願いに応えるどころか、彼らをゆとりなく追いたて、同時に教師たちをも不毛な学校間競争へと追いつめてやまない道と言わざるを得ません。
       

  Ⅳ.「自分づくり」を励ます高校像のポイントは


┌──────────────────────────────────┐
  私たちのめざす「あるべき高校像」のポイントを、5点にまとめてみました。
  └──────────────────────────────────┘
では、子ども・青年の渇望に応えて、その「自分づくり」を支え励ましていく高校はどうあるべきでしょうか?
そのこと自体をひろく「大人たち」の切実な問題意識として、様々な場で自由な論議を進めていくことが、いま第一に求められているでしょう。
その呼び水となることを期待しつつ、「あるべき高校像」の必須の要件として、次の諸点を提起します。
①自己肯定感を育てる学校(自分の居場所があり「ほっ」と安心できる場の保障)
②仲間がいるコミュニティの場としての学校
③努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
④「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
⑤「社会」「世界」「人類」とつながった学校

   (1)自己肯定感を育てる学校

               
┌───────────────────────────────────┐
  │ 私たちのめざす高校は、何よりも第一に、「自分が自分のままであって大丈夫なのだ」という安心感=自己肯定感を育てることのできる場でなければなりません。│
  └───────────────────────────────────┘
                   自分に自信がもてない日本の子ども
「『学力』は高いが、自分に自信が持てず、自分を劣っていると考えている。」――多くの国際比較統計が描き出す「日本の子ども」像です。
その背景・原因は多岐にわたり、「国民性」や社会意識総体に深く根ざしているでしょうが、学校・教育のあり方を無視することはできません。
排他的競争を基調とする日本の学校・教育が、「自分の欠点ばかりが嫌でも目につき、いくら頑張っても満足を得られない」という強迫的不安へと子どもたちを駆り立て、往々にして「自尊心泥棒」(斉藤学)の役割を果たしている状況は誰しも否定できないでしょう。子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な強圧は論外としても、たとえ善意であったにせよ、あまりにも性急に「もっとがんばれ」「~べきだ、~ねばならない」と迫る学校・教師の「熱心な指導」が、時として子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面も見落とせません。
                 ありのままの自分が好きになれたら
子ども(人間)は、「①”ありのままの自分”を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる」(高垣忠一郎)のです。
学校がこれを保障する場となるためには、根本的には、①今日の「高度に競争を強いる教育制度」(子どもの権利委員会勧告)そのものを転換して、子どもの成長と発達を中心に据えた学校制度へと改めること、②過大学校・過大学級の解消など教育条件の充実をはかって、ゆきとどいた教育を保障していくことが、不可欠です。そして何より、目の前の子ども一人ひとりに目を注げるゆとりと教育上の自主権限が、教師に豊かに保障される必要があります。
現行制度のもとで解決できることも
同時に、現行制度のもとでも、学校・教職員のささやかな配慮や努力で解決できるものも、決して少なくないでしょう。
昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高校生は二割に過ぎません。「少し持っている」と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはならないでしょう。
「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。
いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。

(2)仲間がいるコミュニティの場としての学校


  ┌─────────────────────────────────┐ 

│ 第二は、仲間がいて共同があるコミュニテイとしての機能を、十分に発揮できる場にしていくことです。  
  └─────────────────────────────────┘ 
友だちがいるからこそ
「自分にとって学校とはもっとも束縛される空間であり、いやいやながらに行かざるをえない場所である。学校に行く前は、常にそう思いながら登校していたものである。しかし、行ってみると友人がいたり、意外に授業が面白かったりして、ああ来てよかったとも思うのである(ある女子学生の回想:講座学校第4巻1章より)。」――これは、多くの高校生の偽らざる実感ではないでしょうか。
高教組の「高校生意識調査」でも、「学校のいいところ」として「友達がいる」を選んだ回答数が、群を抜いてトップです。「友だちと長時間人生について語り合った経験があるか」の問にたいして「何度もある」「一~二度ある」を合わせると6割強の高校生が友人と人生を語る経験を持っており、その相手は「高校が同じ学校の友達」に集中しています。「ひとり化・孤立化」「交友関係の希薄化」が指摘される現代高校生も、やはり、「友だち」をこそ第一義に大切なものと考えていることが示されています。
親身になってお互いのことを大切にし、時間を忘れて人生を語り合うようなかけがえのない「友だち」との出会いを、すべての子どもたちに用意してやること。これも、学校教育、とりわけ高校教育の、主要な責務の一つではないでしょうか。
そのためにも、HRづくり、部活動、生徒会活動、行事はもとより、カリキュラム編成や教科の学習活動そのものも、「共同と自治」を育てる方向で再編をはかるなど、コミュニティづくりの工夫がつよく求められています。
「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。

(3)努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校

    
  ┌────────────────────────────────┐ 
  第三は、「わかる喜び」「達成する楽しさ」を保障し、努力のあてが見え、努力の結果が実感できる学校にしていくことです。   └────────────────────────────────┘ 
わかる喜び味わいにくい教育制度
高校生の多くが、「努力のあてが見いだせず、達成感も味わえない」と感じ、慢性的な無気力に追いやられています。
それは、おびただしい数の「学習についていけない子」の出現を前提に、過重・非系統的な学習内容を低学年にまでおしつけてきた歴代「学習指導要領」のもとで、早い時点でつまづき、意欲を喪失してきた結果でもあります。「個性重視」を唱える「新学力観」のもとで、「できないのも個性」として「基礎基本の修得」が事実上棚上げされていることが、事態を深刻化させています。
「成績の良い子」も、「わかる喜び」「発見の驚き」を十分味わうことができないまま、「勉強は苦痛」と感じています。彼らの多くは「立ち止まると置き去りにされる」という不安から、あてのない努力を強いられています。
「わかる授業」「楽しい学校」の復権を
70年代を中心に、私たちは、「わかる授業」「楽しい学校」のスローガンを掲げて授業づくり・学校づくりに取り組んできました。その達成と教訓が必ずしも十分生かされないまま、職場の多忙科の加速、「新学力観」と結んだ「多様化」政策の波などに影響されて、近年これらのとりくみは、一定の停滞を示しています。
いま、過去の実践の蓄積に再度光を当て、現段階にふさわしく発展させていくことがつよく求められています。
その際、①「“生きる力”を支える基礎学力とは?」の吟味、②「わかる喜びと探求心を育てる教育」への工夫、③その子の「つまずき」をときほぐす適切な課題の設定、④達成感、成就感を味わいながら次のステップに登っていける適切な仕掛けの設定などが、重視される必要があるでしょう。

(4)「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障


┌──────────────────────────────────┐ 
│ 第四は、一方的な「教え」から、主体的な「学び」への転換を軸に、子どもの学習権│を真に保障していくことです。                                         
└──────────────────────────────────┘ 

授業に対する高校生の意識


高教組「高校生意識調査」では、授業についての設問に対して、次のような声が寄せられています。
「興味・関心を深める授業」は「かなりある」9.1%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が5割強と、授業の味気なさを訴えています。「かなりある」が最も高かったのは農業科19.4%、続いて家庭科14.4%で、具体的な自然や実物に触れる機会の多い学習が、子どもたちの興味を引いていることをうかがわせます。
「生活や体験と結びついた授業」も、「かなりある」8.9%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が56.9%となっています。特に、普通科では「かなりある」がわずか2.1%で、実に75.9%が「あまりない」または「ほとんどない」と答えている点は注目されます。
「なぜ勉強するのかわからない授業」は「ある」が6割強。「視野が広がる授業」は「ない」が6割強を占め、特に普通科・商業科で、その比重が高くなっている点も特徴的です。
「一部の生徒しか聞いていない授業」が「ある」7割弱。「理解していないのに先へ進む授業」が「ある」8割弱。「生徒の参加を促す授業」が「ない」も、約6割。自分が授業の主人公だとは、実感しにくい実態があるようです。
このような点から、過半数の高校生は「楽しくはないが将来必要な基礎」だからと言い聞かせながらも、「ほかに本物の勉強がある」と感じているのです。
高校生の声を要約すれば
高校生たちの声を要約すれば、①自分たちの興味・関心に応え、②そのことを学ぶ意味が実感できて、③しかも、生活や体験に結びついた内容を含み、④それを学ぶことで視野が広がるような、⑤本物の勉強を、⑥上から一方的に教え込まれるのではなく、⑦自分たちが主体的に参加できる授業を通して、⑧よく納得・理解できるように学びたい、と訴えているように思えます。
それらは、そのまま、ユネスコ「学習権宣言」の規定と通じるものです。私たちの「高校づくり」も、当然、この高校生たちの切望に応える「授業改革」を基本に据える必要があるでしょう。

(5)「社会」「世界」「人類」とつながった学校


┌───────────────────────────────────┐
│ 第五は、「自分も周りからあてにされている」「社会・世界に参加している」と実感でき、自らの存在や行動の社会的・人類的意味に気づける機会を保障することです。
└───────────────────────────────────┘
いま、「生きる目あて」・「学ぶ目あて」を、見いだせないでいる高校生が増えています。
“他をけ落として勝ち抜く”ことが求められ、“知識をやみくもに蓄え込む”ことに追われる勉強は、彼らにとって、やればやるほど消耗する苦行であって、自分らしさ・人間らしさを脅かすものとさえ感じられるようです。
自分の役割が不分明な現代社会
「教育とは何か」(岩波新書)の中で、太田堯氏は、科学技術の進歩に伴い、「自分の意図を自分の手応えをもって実現するめやすを失い、社会生活の中での自分の地位や役割が不分明になっている」、それは「『どう生きるか』という人間にとって最も本質的な問が衰弱するということ」と指摘しています。
そして、競争中心の学校・入試制度のもとで、“成績・順位”が子どもたちの人間評価の中心的位置を占めるようになり、「一人ひとりの子どものもつ個性と、その個性の社会的出番の発見とを励ますような雰囲気は、学習環境からほとんど失われ」、「『どう生きるか』という人間にふさわしい目的意識を内面からきたえ、かつ育てるのはむずかしい」ため、「“目当てのない欲求不満”はいっそう増幅される」と述べています。
また、以前は家庭内外で数限りなくあった子どもの“出番”がなくなり、「専門化した知識・技術の修得が、自分の生き方、生活にとってどんな意味を持っているかという---手ごたえが---もちにくくなっている」と指摘しています。
自分の存在・行動の社会的・人類的意味に気づく機会を
いま、子ども・青年に、空疎なおだて文句ではなく、心底「周りからあてにされ、頼りにされている」という手応えある実感を、体験させてやることが重要です。その機会を適切にふんだんに用意してやることも、学校の重要な役目となっています。
自分の存在や行動の社会的・人類的意味に気づいたとき、彼らは目を見張るほどの旺盛な行動力と探求心を発揮します。人権・平和・高校生活を主題とした高生部研のとりくみをはじめ、薬害エイズ訴訟や、神戸・淡路震災の復旧ボランティア、多彩な環境保護の取り組み、「平和ゼミ」をはじめ核兵器廃絶・平和のとりくみなど、無数の例がそれを示しています。

 




  この「提言」づくりにむけて議論を進めていた段階で、たたき台としての素案に、「(1)自己肯定感を育てる学校」の項に関連して、次のような文章を用意したことがありました。


この点について、「子どもの人権読本」(エイデル研究所)は、次のように述べています。

「今日の学校の競争的性格は、子どもの生活をまき込んで時間や活動の面で抑圧しているだけではありません。彼らの自己評価を、他者との相対比較の世界に閉じ込める形で抑圧しているのです。そして、多くの子どもたちが否定的な自己像・自己否定感を押しつけられ、国際比較統計でくり返し結果が出るような彼らの自信のなさとしてあらわれているのです。」

この指摘は、私たちが日々の経験を通して実感している子どもたちの印象と、ぴったり符合しているように思えます。

 

日本の学校は「自尊心泥棒」?

日頃よく「最近の子ども・若者は、我慢強さに欠ける」「甘やかされて育ったために、自分本位でわがままな子が多い」などの嘆きを耳にします。それ自身、確かに根拠のある指摘ですし、関連して「安易に子どもに迎合せず、より高い段階への成長を保障するためにも、要求すべきことは厳しく要求すべきだ」という意見も、教育の本質に照らして、大切な観点でしょう。

特に、「新学力観」の席巻する学校現場では、「個性重視」の名のもとに、必要で可能な手だてや指導を軽視または回避する傾向が顕著となっているだけに、真に子どもの成長を願う立場からの、「厳しい要求」と手厚い援助は、かつてなく求められています。

しかし、同時に、子どもたちが「厳しい要求」に応えて一歩成長していくためには、「ありのままの自分が愛されており、無条件に受容されている」という実感が、根底になくてはなりません。

ところが、いま、日本の学校は、その主観的意図に反して、往々にして「自尊心泥棒」(斎藤学・『高校の広場』22号)として機能している場合が少なくないのではないでしょうか。

性急な学校

・教育というものは、子どもの前に少しがんばったら跳べそうな「飛び箱」(課題)を置いてやって、それを跳ばせることによって子どもの成長・発達を導くという性格を本質的に持っている。「ここまでくれば、次はその上を」というのが教育の宿命なのかもしれないが、今日の学校においてはそれがあまりにも性急に過ぎるのではなかろうか。

・人間しんどい時には、甘えたり逃げ出したりして心のバランスを取り、心を癒しながら生きているものである。ところが学校には、常に「前向き」に「もっと、もっと」とがんばらないといけないような雰囲気がある。甘えたり逃げたりして後退することを許さない。それを「後ろ向き」の姿勢だとして、ただちに否定的に評価するところがある。

・子どもを成長発達させるためには、常に「前向き」に取り組ませないといけないとでも思っているのであろうか。

――「講座学校」第4巻 1章(高垣忠一郎)

子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な叱責などは論外としても、たとえ善意であったにせよ、学校や教師のあまりにも性急な「要求」が、子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面をも直視しないわけには行きません。

昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高校生は21.4㌫に過ぎません。「少し持っている」の40.5㌫と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはならないでしょう。

「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。

いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。

自己肯定感が充足されてこそ前向きに行動できる

1995年の全国教研集会で、小1から9年間登校拒否してきた少女が、次のようなレポートを発表しています。「ありのままの自分でいいのだと思えるようになってから、自分が好きになった。そうすると楽になれて、あれがしたい、これがしたいという気持ちも湧いてくる。とにかく今は、自分が満足のいくように毎日を過ごしていきたい」。

臨床心理学者の高垣忠一郎氏は、この発言を引用して、子ども(人間)が前向きに動き出すためのポイントを、「①「ありのままの自分」を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる。」という二点にまとめています。(講座学校第4巻「子どもの癒しと学校」1章)

東京のある母親が、『定時制高校の灯を守れ』都民集会で行った発言にも、同様の感慨があらわれています。

「定時制に来て、定時制ってこんなにホッとできるところなのかとつくづく思った。中学時代には息子は“完全不登校”でした」「ここでは時間がゆっくり流れていく。昨日まであくせくしていたことが、どうでもよいことに気がついていく。ある時、息子が喜んで家に帰ってきて『先生から廊下で、K君、きみの今日の黄色いシャツとても良く似合うよ、と言われた』という。このことが嬉しくて嬉しくて私に話す。私は、ああこの子はこれまで日常のあいさつもない中で過ごしてきたんだなと思った。こうやって『自分自身が自分のままでいいんだよ』と感じれるようになれる学校。そして人前に出るのがイヤだった子が、劇もやり心も癒される。自信を見いだし、社会に出たときその力が発揮できるようになる学校。この学校に来れてよかった。」(山田功氏「東京の高校統廃合・再編政策の特徴と矛盾」『高校のひろば』27」より引用)

全ての学校が、こういう役割を果たすことは、不可能なのでしょうか。

自分が受容・肯定できたら

「ねばならない」で脅され、「自分はだめな子だ」と自分を責め、負い目や罪悪感を背負わされている心は、自分を防衛するために「ヨロイ」を着て、その中に自分を閉じ込める。そういう状態では防衛のために心のエネルギーを費やし、前向きに心のエネルギーを使えない。

(中略)負い目や罪悪感から解放され、ありのままの自分を「自分が自分であって大丈夫」と受容し肯定できるようになって前向きに心が動き出す。「ねばならない」の枠が外れて「~したい」と心が自由に動き始める。そのときはじめて、自分を防衛するためでなく、自由な心で真に自発的能動的に自分の人生や成長に向かってチャレンジしていけるのである。

(――講座学校第4巻1章高垣忠一郎)


         

長大な引用になりましたが、今日の記事に関係するのは最末尾の部分(だけ)です(汗)。




「ねばならない」で生きるのではなく「~たい」でラクに生きられる世の中をみんなで作れたらいいなと思っています。ある人の言葉で言うと「must」ではなく「want」で生きるということ。
と思いつつ、日々「must」に追われる毎日です。


   
一つは、一斉地方選挙。私の居住地域では、大軍拡・大増税を止め、くらしをまもる三人の県議・五人の市議候補を、是が非でも当選させねばならないということ。これは半ば「must」で、なかば「want」。いや比重的には「want」がまさりますから、そのための努力は苦ではありません。


時に、ビラまきなどは、一度に小一時間ずつ、数日かけて配れば、健康増進につながりますし、日々彩りを変える桜の花や、春の気配を楽しむことができて、「want」の度合いが高まります。


   
ほかにもいろいろな「must」がわが身を圧しつぶそうとします。


その中でも大なるものは、4月からの町内会の役員。しかも、数字嫌いの私に会計係ですよ。先日、3時間ほどもかけて引継ぎを受け、大量の書類と、ズシリと現金・預金通帳の入った金庫を譲り受けました。年度替わりの時期なので思い立って金庫の内容確認と当面の会計処理に着手してみようと、金庫の鍵を回すも、…開きません。困り果てて、前任者にhelpを訴えましたが、彼は勤務時間。ようやく夕方になって、ダイヤルキーの解除の方法を探り出していただきました。無意識のダイヤルを回してしまっていたらしいのです(汗)。




追伸。 


そうして、いったんは事なきを得て、要請された会計処理をなんとかこなすことができホット安堵したのでしたが、何ということでしょう、今日またまた、開かなくなってしまったのです。教わっていたダイヤルキーの解除方法を何度やり直してもうまくいきません。ダイヤル数字の微妙な合わせ位置が間違っているのだろうと思って、色々試してみても、、、駄目。


と、何かの拍子に、開いたは開いたのですが、蓋を閉めるとまたロックがかかってしまう。これの繰り返しの果てに、ようやく気づいたのは、ダイヤルをあわせるべき数字の位置ががわずかにズレているらしいのです。このダイヤルキーは動かないようにテープを貼り付けて固定することにしました。



ほかにも、あれとこれとこれ、気鬱な「must」が入れ代わ立ち代わりわが身を苛みますが、「ケセラセラ」、「なんくるないさ-」でやり過ごしたいと思います。
いやはや出だしからさんざんの新年度です。




撮ったけれど公開しないままだった桜が、はや散りはじめました。


ここ数日間の写真を。慌ててupしておきます。


まずは、一週間前の3月25日(土)の散歩道。雨上がりの桜並木です。


_K520916_K520941_K520950_K520951_K520954_K520965_K520968_K520977_K521003


続いて3月30日(木)の朝散歩。


児島富士=常山の山腹にも桜の花盛り。そして画面のなかほどは、おなじみの桜並木。手前の畑には,いつの間にか伸びた麦が,穂を付け始めています。


K1IM9849


鮮やかな黄色の菜の花とのコラボは、この季節ならではです。使用カメラはフルサイズのPENTAXK1。apsレンズで広角撮影したら、盛大にケラレます。


K1IM9845


朝から良いお天気で、花の色があでやかです。


K1IM9826K1IM9822K1IM9806K1IM9802K1IM9801


K1IM9799


昨日の午前中の写真。春爛漫です。


_K521040


PM117810


今日はこれにて。


nice!(33)  コメント(4) 

芋づる式、の巻 [私の切り抜き帳]

サツマイモの収穫も終わり、先日は久しぶりに芋やカボチャの天ぷらが食卓を飾り,孫たちにも好評でした。


そう言えばずっと以前、庭の芋掘りを記事にしたことがありました。


素十忌や独りごつなる庭蛙(2014-10-04)


思い出したのが、草野心平氏の「ごびらっふの独白」。

カエル語による独白を、日本語訳して示すという、風変わりな詩( どの詩も風変わりですが)です。

ごびらっふの独白
るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。
けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。
きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。
じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。
ぷう せりを てる。
ぼろびいろ てる。
ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる
ける ありたぶりあ。
ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。
ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。
いい げるせいた。
でるけ ぷりむ かににん りんり。
おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。
びる さりを とうかんてりを。
いい びりやん げるせえた。
ばらあら ばらあ。



日本語訳
幸福というものはたわいなくっていいものだ。
おれはいま土のなかの靄(もや)のような幸福につつまれている。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇(くらやみ)のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあうたしかな存在をほのぼの意識し。
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
ジュラ紀の先祖がやってくれた。
考えることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもっとも永い歴史をわれわれがもっているということは
平凡であるが偉大である。
とおれは思う。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
いわばすなわち天である。
美しい虹だ。
ばらあら
ばらあ。

 

私もまた、ただたわいない幸福をこそうれしいとするのです。

たとえば、こんな芋や、

imo03_R.jpg

こんな芋を掘り当てた幸福を。

imo01PA04033220141004_68_R.JPG

imo02_R.jpg




肝心なことは皆、靄がかかったように曖昧ですのに、とりとめもなく脈絡のないよしなしごとが、芋づる式に思い出されてなりません。前回記事で、高3の頃の記憶を話題にしました。


そう言えば、先日、亡父の供養のために詣でた際に、ご近所の壮年の方に行き会わせました。私自身、深い交友はないものの、老父母が色々お世話になっています。話が弾む中で、「私が小学生の頃、高校生のあなたは、よく本を読みながら、犬を連れて散歩されていましたね。」と思いがけない指摘を受け、面映ゆいことでいた。それは、確かに事実ですが、目撃されていたとははずかしい。


その犬というのは、この記事で書いた犬でした。


安酒をちびりちびりの物思い(2015-12-21)


そもそも文学というものは、「入試」とか「競り合い」とかの、世俗的な世界にはそぐわない、どちらかと言うとその対極にに位置するような気が漠然としますが、不思議なことに、文学の持つ力は、それに触れるシチュエーションや環境にお構いなしに、読者のハートをわしづかみにすることがあるらしいです。たとえば、同じく二〇〇一年度のセンター試験で、江國香織さんの「デューク」が出題された時には、試験会場に時ならぬすすり泣きの声が広がったと伝えられていますね。死んだ飼い犬の「デューク」が若い感性の柔軟さに、うらやましささえ感じるエピソードです。

著作権問題が気になりまが、まったく無断で少々引用します。

歩きながら、わたしは涙が止まらなかっ た。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、ほか の人たちがいぶかしげにわたしを見たの も、無理のないことだった。それでも、 わたしは泣きやむことができなかった。
デュークが死んだ。
わたしのデュークが死んでしまった。
わたしは悲しみでいっぱいだった。
デュークは、グレーの目をしたクリーム 色のムク毛の犬で、プーリー種という牧 羊犬だった。わが家にやってきたときに は、まだ生まれたばかリの赤ん坊で、廊下を走ると手足が滑ってぺたんと開き、 すーっとおなかで滑ってしまった。それ がかわいくて、名前を呼んでは何度も廊下を走らせた。(そのかっこうがモップに 似ていると言って、みんなで笑った。) 卵料理と、アイスクリームと、なしが大 好物だった。五月生まれのせいか、 デュークは初夏がよく似合った。新緑の ころに散歩に連れていくと、におやかな 風に、毛をそよがせて目を細める。すぐ にすねるたちで、すねた横顔はジェーム ス=ディーンに似ていた。音楽が好きで、
わたしがピアノを弾くといつもうずく まって聴いていた。そうして、デュークはとても、キスがうまかった。
死因は老衰で、わたしがアルバイトから帰ると、まだかすかに温かかった。ひざ に頭をのせてなでているうちに、いつの まにか固くなって、冷たくなってしまっ た。

この、死んだ愛犬「デューク」が、飼い主である彼女の前に、少年の姿であらわれるのです。

大通りにはクリスマスソングが流れ、薄青い夕暮れに、ネオンがぽつぽつつきは じめていた。
「今年ももう終わるなあ。」
少年が言った。
「そうね。」
「来年はまた新しい年だね。」
「そうね。」
「今までずっと、ぼくは楽しかったよ。 」
「そう、わたしもよ。」
下を向いたままわたしが言うと、少年は わたしのあごをそっと持ち上げた。
「今までずっと、だよ。」
懐かしい、深い目がわたしを見つめた。 そして、少年はわたしにキスをした。
わたしがあんなに驚いたのは、彼がキスをしたからではなく、彼のキスがあまりにもデュークのキスに似ていたからだっ た。呆然として声も出せずにいるわたしに、少年が言った。
「ぼくもとても、愛していたよ。」
寂しそうに笑った顔が、ジェームス=ディーンによく似ていた。
「それだけ言いに来たんだ。じゃあね。元気で。」
そう言うと、青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、少年は駆けていってしまった。わたしはそこに立ちつ くし、いつまでもクリスマスソングを聴いていた。銀座に、ゆっくリと夜が始まっていた。

やっぱり泣けますね。


ところで、まったく何の関係もないのですが、私が高校生の頃に飼っていた、捨て犬上がりの雑種犬は、気取って「デューク」と名づけました。公爵という称号に特別の思い入れがあったわけではありませんが、語感の良さ、呼びやすさから思いついたのだったと思います。

でも、昔人間の父母には、発音しにくかったようで、「リュックサックのリュック」と、近所の子どもたちに紹介しておりました。 賢い犬で、大抵の言葉は理解しているようでした。田舎のことですから、鎖を外して自由に野に放っていても、私の指笛を聞きつけると、どこからでも駆け戻ってきました。狩猟犬の素質もあるらしく、野鳥を捕らえて、自慢そうに咥えて帰ることもありました。私が大学に入学し、故郷を離れたのを最後に、お別れしました。近所の養鶏場の鶏を襲ったとの嫌疑を受け、恐縮した両親が、保健所に処分を委ねたのだそうです。初の夏休みに帰省した時、鎖と首輪の残滓だけが残っているのを見つけ、事情を聞いたわたしは、抗うこともならず、黙ってうなずくばかりでした。

まもなく、父が会社の合理化・縮小の影響で、東京の関連企業に転勤し、近郊の狭いアパートに引っ越すという環境変化があって、 犬を飼い続けるなどの条件もなくなったのですが、、、、。


その犬を遊ばせながら、私は文庫本を読んだり、詩をつくったりしていたのでした。


春 其の2 木下透(2014-02-21)


このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
今回は、高3の時の作品。「春」という同一の題の詩を、ソネット(14行詩)形式で何編か作ったうちの一つだ。
ブログに掲載するに際して、便宜的に其の2と名付けることにする。


春 其の二 木下透

うららかの春の一日(ひとひ)
萌える若草の香を淡く感じながら
私はひとり寝そべっていた
柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた
耳元の小川のせせらぎ
――軽やかおまえのささやき
つつましいツメクサの花
――はにかんだおまえの笑み
確かに交わされた約束であるように
私はおまえを――あてもないおまえの訪れを
胸をときめかせて待っているのだ。
私はおまえを知りはしないのだが
おまえは私を知りはしないのだが
ああ それはだれでもいいのだが――おまえ――


「恋に恋する」という感傷を表現してみた。本当は、意中の「おまえ」はいたのかも知れないが、それはヒミツ。
散歩中、ツメクサの花を探してみたが、まだ蕾も見えない。しもやけたクローバーの葉が、まだ寒そう。


手にしていた文庫本は、確か、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンといったドイツ文学だったことが、昨日のことのように思い出されます。


11月の終わりに寄せて(2013-11-30)


傷つきやすく鋭敏な思春期の少年たちの、切ないまでに美しい心の動きを見事にとらえた「トーマの心臓」に、ドイツ文学の空気を感じ取ることは、ごく自然な第一印象でした。私が、高校時代最も耽溺した作家は、ヘルマン・ヘッセでしたから、ここまでその世界を「映像化」できた作品に衝撃を覚えるほどでした。ヘッセの作品は、新潮文庫版として出版されていたものは、高校時代にほとんど読んだと思いますが、中でも繰り返し読んだのは「デーミアン」でした。「トーマの心臓」には、同じ空気が流れていると感じました。

現に萩尾さんご自身、ヘッセやロマン・ロランからの影響については、しばしば、色々な場で語っておられます。

2012年に、紫綬褒章を受章された時のNHKのインタビューを引用します。

Q)いつごろヘッセを読んでおられましたか?
20歳ごろでしょうか。自分自身もなんかいろんなことを考えて、例えば私はなぜ存在しているんだろうとか、どんな風に生きて行けばいいんだろうとか、そういうことを悩むわけですが、日常の生活ではそんなことを考えていないで、ちゃんと勉強しなさいとかちゃんと就職しなさいとか、なんかきちんとやることというのが求められる。きちんとやるためにいろんな悩みを考えていると邪魔だから、そんなことは考えないように生きていく方向に大体は行くんですね。確かに邪魔だなと思うんですけど。

ころがヘッセなんかは悩みを正面から書いて、自分がどんな風に迷っているか、自分がどんな風に生きていけばいいか、自分はこういうことを選択したけどこれでいいのかと反復したり周りの人に助けられたり、ある時は失敗したり、うまくいったりしながら。迷いもいいんだ、迷ってもいいんだ、いろんな事を考えてもいいんだということを、ヘッセの小説から教えられたと思います。


もうひとつ、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」も、高校時代の私のお気に入りでした。北杜夫さんが、「トニオ」のカタカナの形態的連想から、自分のペンネームを付けたというエピソードを後に読み、嬉しく思ったことでした。その「トニオ・クレーゲル」の世界とも響き合うものが、「トーマの心臓」にはあるように思えました。

トニオクレーゲルの冒頭の一節。高橋義孝氏の訳が、私は一番好きでした。
冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風づくりの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霙みたいなものが降ってきた。
学校がひけた。石を敷きつめた中庭から格子門へかけて、解放された生徒たちは、雪崩をうって外に出ると、右に左に思いおもい急いで帰って行った。年のいった少年たちは、勿体ぶって本の包みを左の肩に高々と押しつけ、昼飯を目ざして、右手で舵をとりながら風に逆らって歩いて行く。小さな生徒たちは、氷まじりの泥をあたりにはね返しながら学校道具を海豹皮のランドセルの中でがちゃがちゃいわせて、嬉々として小走りに走って行く。けれどもときどき、落着いた足どりで歩いてくる上級教師の、ヴォータンのような帽子とユピテルのような髭に出会うと、みんな恭しい目つきでさっと帽子を脱ぐ。……
「やっと来たね、ハンス君」長いあいだ、車道で待っていたトニオ・クレーゲルは微笑を浮べながら友達のほうへ寄って行った。相手はほかの仲間たちと校門を出て、そのまま一緒に帰り去ろうとしていた。……「ええ」ときき返して友達はトニオを見つめた。……「ああ、そうだったっけ。じゃこれから少し一緒に行こう」


その頃書いた習作「カルロス爺さんの思い出」などには、ヘッセやマンの作品世界が醸し出す空気感を、色濃く反映しているに違いありません。


郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第3回)


嶺の雪も溶けて、ぼくらの村にも春が訪れた。
村の小学校での、うんざりする長い授業が終わると、子どもたちは一斉に校門を飛び出した。
さわやかなそよ風が、萌えいずる若草の目をゆるがす。
子供たちの栗色のうぶ毛をゆるがす。
柔らかに額にまといつく髪の毛をゆるがす。
ガタガタ揺れるランドセルと、額を流れる快い汗を楽しみながら、ぼくは、爺さんの小屋まで一目散にかけてゆく。ぼくらの小学校からほんの二百メートルばかりの所にある水車小屋が爺さんの家だ。
小川の土手には、つくしんぼやたんぽぽがそおっと顔を出している。
あんなに固く閉ざしていたネコヤナギや野いばらが、柔らかに芽ぶいていて、それを見つけた少年に、素直で新鮮な驚きに目を見張らせたのだった。
そっと芽を出した芝草に腰を下ろして、健康な早春の生気に酔いしれている時、ボクの右手を何かがくすぐった。
振り向くとそこには、一匹の子犬が――――ほんとに小っちゃくて、そう、ぼくの両てのひらに楽に隠れそうな大きさだったが、それでいて丸々太ってて、黒いまん丸い瞳が利口そうにキラキラしてる――――その短いしっぽをピンと垂直に立てて、しきりに左右にふっていた。


今日の付録 備中国分寺の秋景色です。


K1IM7217


K1IM7207


K1IM7206


今日はこれにて


nice!(14)  コメント(0) 
前の10件 | - 私の切り抜き帳 ブログトップ