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「ねばならない」の逆襲、の巻 [私の切り抜き帳]

意味ありげなタイトルを付けました。


現職時代に属していた教職員組合が、かつて、ある教育提言を示そうということで、私もその検討委員の一人に加わったことがありました。1900年代の終わりの頃、思えば前世紀のことでした(笑)


アチコチ探して、私の関係した部分を引っ張り出して来ました。


長い文章ですが引用します。


 

提言1こんな高校をつくろう

    視点子ども・青年の「自分づくり」を支援する学校

―――「いかに生きるか」という挑みが励まされ、個性的な 人格形成が促され、進路選択の力が育てられる教育を―――                      
           

Ⅰ.「第二の誕生」の時期の課題に応える教育を


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│ 高校生たちは、「いかに生きるか」を模索する「第二の誕生」の時期に直面しています。彼らの「自分づくり」を支援する高校像こそ、私たちの探求課題です。  
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いま、学校でも家庭でも、「子どもが見えない」「子どもの心がつかめない」という嘆きが、しばしば聞かれます。簡単に「キレル」「むかつく」子どもたちの登場や、小学校低学年にまで及ぶ「学級崩壊」に象徴される「新しい荒れ」の進行は、その思いをいっそう募らせています。
熾烈な「生き残り」競争をあおる社会状況、人工的に過ぎる生活環境、刺激的・刹那的・浪費的な文化環境、地域・家庭の教育力の低下、大切な「三つの間=時間、空間、仲間」の喪失など、さまざまな要因が、子どもたちの「育ち」を困難にしているのです。
しかし、それだけに、目の前の高校生たちは、それぞれの切実さで、「第二の誕生」(ルソー)の時期に直面しています。それは、内的な価値(理想)に目覚める時期であり、「いかに生きるか」の模索の時期であり、「産みの苦しみ」の時期でもあります。そのさなかにあって、彼らは、合理化されない感情の起伏に苛まれ、孤独と集団性、劣等感と優越感、不信と友情のはざまを揺れ動く日々を体験しています。
この時期こそは、彼らがどのような人間になるかを決定する、「生涯で最も激動的で実り豊かな時期」(竹内常一「現代青年論」)にほかなりません。
いま、「日本の教育」を語り、「高校教育の改革」を語るとき、このような思春期・青年期の課題=「自分さがし」「自分づくり」の課題に応える学校づくりの模索こそ、主要なテーマの一つとなるべきでしょう。

Ⅱ.子ども期を奪われ、過度のストレスにさらされる日本の子ども


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│ 国連「子どもの権利委員会」勧告(98年6月)が指摘するとおり、過度のストレスが日本の子どもたちを苦しめ、学校が「息苦しい場所」になっています。      └─────────────────────────────────┘
胸弾む「自分さがし」「自分づくり」のドラマを渇望しながら、その峠の迂遠さ・先の見えなさにたじろぎ、つまずき、もてあましている子ども・青年も少なくありません。時には、向こう見ずな暴発への衝動にかられたり、モラトリアムや退行に逃避する場合もあるでしょう。彼らには、社会・家庭・学校のいずれもが、切実な「自分づくり」への希求に応えてくれないばかりか、自分をそれから遠ざけ、単調な苦役を強いるだけの強迫的存在と映っているのかもしれません。
とりわけ近年、学校が、多くの子どもたちにとって「息苦しい場所」になってきていることは、紛れもない事実です。
登校拒否・不登校の子どもの数が、ますます増えています。とりあえず、学校へは通っているが、様々な神経症状を抱えながら「苦痛に耐えている」子どもたちを含めると、莫大な数に登ります。そして、その延長線上に、毎年十万人前後にものぼる高校中退者が次々と生み出されています。
国連「子どもの権利委員会」は、98年6月、「日本の子どもたちは、高度に競争を強いる教育制度のなかでストレスにさらされ、発達障害におちいっている」と指摘し、「過度なストレス、不登校を防止し、闘うための適切な措置をとる」ことなどを、日本政府に厳しく勧告しました。それは、「“豊かな国”日本社会における子ども期の喪失」と題するNGO報告文書が浮き彫りにした、日本の子どもたちの実態をふまえたものに他なりません。
                                   

Ⅲ.「自分づくり」を励ませない上からの「教育改革」


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│ 国や県が「上から」おし進めようとしている「教育改革」は、子ども・青年│の「自分づくり」を励ませるのでしょうか。                             │
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いま、政府・文部省は、「偏差値排除」「競争緩和」「個性尊重」を謳い文句に、「新学力観」をつよく打ち出しながら、「教育改革」をおし進めようとしています。また、岡山県でも、「魅力ある学校づくり」「特色づくり」を呼号しながら、学区解体・高校再編の動きが、急ピッチで進められようとしています。
しかし、これらの「上からの教育改革」は、子ども・青年の「自分づくり」を励ますものとなりうるでしょうか。残念ながら、現実の事態の推移は、より幼い段階で自己の「可能性」に見切りをつけさせ、より早期に選別を完了するシステムとの危惧を裏付けるものとなっています。それは、「自分づくり」の願いに応えるどころか、彼らをゆとりなく追いたて、同時に教師たちをも不毛な学校間競争へと追いつめてやまない道と言わざるを得ません。
       

  Ⅳ.「自分づくり」を励ます高校像のポイントは


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  私たちのめざす「あるべき高校像」のポイントを、5点にまとめてみました。
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では、子ども・青年の渇望に応えて、その「自分づくり」を支え励ましていく高校はどうあるべきでしょうか?
そのこと自体をひろく「大人たち」の切実な問題意識として、様々な場で自由な論議を進めていくことが、いま第一に求められているでしょう。
その呼び水となることを期待しつつ、「あるべき高校像」の必須の要件として、次の諸点を提起します。
①自己肯定感を育てる学校(自分の居場所があり「ほっ」と安心できる場の保障)
②仲間がいるコミュニティの場としての学校
③努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
④「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
⑤「社会」「世界」「人類」とつながった学校

   (1)自己肯定感を育てる学校

               
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  │ 私たちのめざす高校は、何よりも第一に、「自分が自分のままであって大丈夫なのだ」という安心感=自己肯定感を育てることのできる場でなければなりません。│
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                   自分に自信がもてない日本の子ども
「『学力』は高いが、自分に自信が持てず、自分を劣っていると考えている。」――多くの国際比較統計が描き出す「日本の子ども」像です。
その背景・原因は多岐にわたり、「国民性」や社会意識総体に深く根ざしているでしょうが、学校・教育のあり方を無視することはできません。
排他的競争を基調とする日本の学校・教育が、「自分の欠点ばかりが嫌でも目につき、いくら頑張っても満足を得られない」という強迫的不安へと子どもたちを駆り立て、往々にして「自尊心泥棒」(斉藤学)の役割を果たしている状況は誰しも否定できないでしょう。子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な強圧は論外としても、たとえ善意であったにせよ、あまりにも性急に「もっとがんばれ」「~べきだ、~ねばならない」と迫る学校・教師の「熱心な指導」が、時として子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面も見落とせません。
                 ありのままの自分が好きになれたら
子ども(人間)は、「①”ありのままの自分”を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる」(高垣忠一郎)のです。
学校がこれを保障する場となるためには、根本的には、①今日の「高度に競争を強いる教育制度」(子どもの権利委員会勧告)そのものを転換して、子どもの成長と発達を中心に据えた学校制度へと改めること、②過大学校・過大学級の解消など教育条件の充実をはかって、ゆきとどいた教育を保障していくことが、不可欠です。そして何より、目の前の子ども一人ひとりに目を注げるゆとりと教育上の自主権限が、教師に豊かに保障される必要があります。
現行制度のもとで解決できることも
同時に、現行制度のもとでも、学校・教職員のささやかな配慮や努力で解決できるものも、決して少なくないでしょう。
昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高校生は二割に過ぎません。「少し持っている」と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはならないでしょう。
「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。
いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。

(2)仲間がいるコミュニティの場としての学校


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│ 第二は、仲間がいて共同があるコミュニテイとしての機能を、十分に発揮できる場にしていくことです。  
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友だちがいるからこそ
「自分にとって学校とはもっとも束縛される空間であり、いやいやながらに行かざるをえない場所である。学校に行く前は、常にそう思いながら登校していたものである。しかし、行ってみると友人がいたり、意外に授業が面白かったりして、ああ来てよかったとも思うのである(ある女子学生の回想:講座学校第4巻1章より)。」――これは、多くの高校生の偽らざる実感ではないでしょうか。
高教組の「高校生意識調査」でも、「学校のいいところ」として「友達がいる」を選んだ回答数が、群を抜いてトップです。「友だちと長時間人生について語り合った経験があるか」の問にたいして「何度もある」「一~二度ある」を合わせると6割強の高校生が友人と人生を語る経験を持っており、その相手は「高校が同じ学校の友達」に集中しています。「ひとり化・孤立化」「交友関係の希薄化」が指摘される現代高校生も、やはり、「友だち」をこそ第一義に大切なものと考えていることが示されています。
親身になってお互いのことを大切にし、時間を忘れて人生を語り合うようなかけがえのない「友だち」との出会いを、すべての子どもたちに用意してやること。これも、学校教育、とりわけ高校教育の、主要な責務の一つではないでしょうか。
そのためにも、HRづくり、部活動、生徒会活動、行事はもとより、カリキュラム編成や教科の学習活動そのものも、「共同と自治」を育てる方向で再編をはかるなど、コミュニティづくりの工夫がつよく求められています。
「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。

(3)努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校

    
  ┌────────────────────────────────┐ 
  第三は、「わかる喜び」「達成する楽しさ」を保障し、努力のあてが見え、努力の結果が実感できる学校にしていくことです。   └────────────────────────────────┘ 
わかる喜び味わいにくい教育制度
高校生の多くが、「努力のあてが見いだせず、達成感も味わえない」と感じ、慢性的な無気力に追いやられています。
それは、おびただしい数の「学習についていけない子」の出現を前提に、過重・非系統的な学習内容を低学年にまでおしつけてきた歴代「学習指導要領」のもとで、早い時点でつまづき、意欲を喪失してきた結果でもあります。「個性重視」を唱える「新学力観」のもとで、「できないのも個性」として「基礎基本の修得」が事実上棚上げされていることが、事態を深刻化させています。
「成績の良い子」も、「わかる喜び」「発見の驚き」を十分味わうことができないまま、「勉強は苦痛」と感じています。彼らの多くは「立ち止まると置き去りにされる」という不安から、あてのない努力を強いられています。
「わかる授業」「楽しい学校」の復権を
70年代を中心に、私たちは、「わかる授業」「楽しい学校」のスローガンを掲げて授業づくり・学校づくりに取り組んできました。その達成と教訓が必ずしも十分生かされないまま、職場の多忙科の加速、「新学力観」と結んだ「多様化」政策の波などに影響されて、近年これらのとりくみは、一定の停滞を示しています。
いま、過去の実践の蓄積に再度光を当て、現段階にふさわしく発展させていくことがつよく求められています。
その際、①「“生きる力”を支える基礎学力とは?」の吟味、②「わかる喜びと探求心を育てる教育」への工夫、③その子の「つまずき」をときほぐす適切な課題の設定、④達成感、成就感を味わいながら次のステップに登っていける適切な仕掛けの設定などが、重視される必要があるでしょう。

(4)「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障


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│ 第四は、一方的な「教え」から、主体的な「学び」への転換を軸に、子どもの学習権│を真に保障していくことです。                                         
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授業に対する高校生の意識


高教組「高校生意識調査」では、授業についての設問に対して、次のような声が寄せられています。
「興味・関心を深める授業」は「かなりある」9.1%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が5割強と、授業の味気なさを訴えています。「かなりある」が最も高かったのは農業科19.4%、続いて家庭科14.4%で、具体的な自然や実物に触れる機会の多い学習が、子どもたちの興味を引いていることをうかがわせます。
「生活や体験と結びついた授業」も、「かなりある」8.9%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が56.9%となっています。特に、普通科では「かなりある」がわずか2.1%で、実に75.9%が「あまりない」または「ほとんどない」と答えている点は注目されます。
「なぜ勉強するのかわからない授業」は「ある」が6割強。「視野が広がる授業」は「ない」が6割強を占め、特に普通科・商業科で、その比重が高くなっている点も特徴的です。
「一部の生徒しか聞いていない授業」が「ある」7割弱。「理解していないのに先へ進む授業」が「ある」8割弱。「生徒の参加を促す授業」が「ない」も、約6割。自分が授業の主人公だとは、実感しにくい実態があるようです。
このような点から、過半数の高校生は「楽しくはないが将来必要な基礎」だからと言い聞かせながらも、「ほかに本物の勉強がある」と感じているのです。
高校生の声を要約すれば
高校生たちの声を要約すれば、①自分たちの興味・関心に応え、②そのことを学ぶ意味が実感できて、③しかも、生活や体験に結びついた内容を含み、④それを学ぶことで視野が広がるような、⑤本物の勉強を、⑥上から一方的に教え込まれるのではなく、⑦自分たちが主体的に参加できる授業を通して、⑧よく納得・理解できるように学びたい、と訴えているように思えます。
それらは、そのまま、ユネスコ「学習権宣言」の規定と通じるものです。私たちの「高校づくり」も、当然、この高校生たちの切望に応える「授業改革」を基本に据える必要があるでしょう。

(5)「社会」「世界」「人類」とつながった学校


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│ 第五は、「自分も周りからあてにされている」「社会・世界に参加している」と実感でき、自らの存在や行動の社会的・人類的意味に気づける機会を保障することです。
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いま、「生きる目あて」・「学ぶ目あて」を、見いだせないでいる高校生が増えています。
“他をけ落として勝ち抜く”ことが求められ、“知識をやみくもに蓄え込む”ことに追われる勉強は、彼らにとって、やればやるほど消耗する苦行であって、自分らしさ・人間らしさを脅かすものとさえ感じられるようです。
自分の役割が不分明な現代社会
「教育とは何か」(岩波新書)の中で、太田堯氏は、科学技術の進歩に伴い、「自分の意図を自分の手応えをもって実現するめやすを失い、社会生活の中での自分の地位や役割が不分明になっている」、それは「『どう生きるか』という人間にとって最も本質的な問が衰弱するということ」と指摘しています。
そして、競争中心の学校・入試制度のもとで、“成績・順位”が子どもたちの人間評価の中心的位置を占めるようになり、「一人ひとりの子どものもつ個性と、その個性の社会的出番の発見とを励ますような雰囲気は、学習環境からほとんど失われ」、「『どう生きるか』という人間にふさわしい目的意識を内面からきたえ、かつ育てるのはむずかしい」ため、「“目当てのない欲求不満”はいっそう増幅される」と述べています。
また、以前は家庭内外で数限りなくあった子どもの“出番”がなくなり、「専門化した知識・技術の修得が、自分の生き方、生活にとってどんな意味を持っているかという---手ごたえが---もちにくくなっている」と指摘しています。
自分の存在・行動の社会的・人類的意味に気づく機会を
いま、子ども・青年に、空疎なおだて文句ではなく、心底「周りからあてにされ、頼りにされている」という手応えある実感を、体験させてやることが重要です。その機会を適切にふんだんに用意してやることも、学校の重要な役目となっています。
自分の存在や行動の社会的・人類的意味に気づいたとき、彼らは目を見張るほどの旺盛な行動力と探求心を発揮します。人権・平和・高校生活を主題とした高生部研のとりくみをはじめ、薬害エイズ訴訟や、神戸・淡路震災の復旧ボランティア、多彩な環境保護の取り組み、「平和ゼミ」をはじめ核兵器廃絶・平和のとりくみなど、無数の例がそれを示しています。

 




  この「提言」づくりにむけて議論を進めていた段階で、たたき台としての素案に、「(1)自己肯定感を育てる学校」の項に関連して、次のような文章を用意したことがありました。


この点について、「子どもの人権読本」(エイデル研究所)は、次のように述べています。

「今日の学校の競争的性格は、子どもの生活をまき込んで時間や活動の面で抑圧しているだけではありません。彼らの自己評価を、他者との相対比較の世界に閉じ込める形で抑圧しているのです。そして、多くの子どもたちが否定的な自己像・自己否定感を押しつけられ、国際比較統計でくり返し結果が出るような彼らの自信のなさとしてあらわれているのです。」

この指摘は、私たちが日々の経験を通して実感している子どもたちの印象と、ぴったり符合しているように思えます。

 

日本の学校は「自尊心泥棒」?

日頃よく「最近の子ども・若者は、我慢強さに欠ける」「甘やかされて育ったために、自分本位でわがままな子が多い」などの嘆きを耳にします。それ自身、確かに根拠のある指摘ですし、関連して「安易に子どもに迎合せず、より高い段階への成長を保障するためにも、要求すべきことは厳しく要求すべきだ」という意見も、教育の本質に照らして、大切な観点でしょう。

特に、「新学力観」の席巻する学校現場では、「個性重視」の名のもとに、必要で可能な手だてや指導を軽視または回避する傾向が顕著となっているだけに、真に子どもの成長を願う立場からの、「厳しい要求」と手厚い援助は、かつてなく求められています。

しかし、同時に、子どもたちが「厳しい要求」に応えて一歩成長していくためには、「ありのままの自分が愛されており、無条件に受容されている」という実感が、根底になくてはなりません。

ところが、いま、日本の学校は、その主観的意図に反して、往々にして「自尊心泥棒」(斎藤学・『高校の広場』22号)として機能している場合が少なくないのではないでしょうか。

性急な学校

・教育というものは、子どもの前に少しがんばったら跳べそうな「飛び箱」(課題)を置いてやって、それを跳ばせることによって子どもの成長・発達を導くという性格を本質的に持っている。「ここまでくれば、次はその上を」というのが教育の宿命なのかもしれないが、今日の学校においてはそれがあまりにも性急に過ぎるのではなかろうか。

・人間しんどい時には、甘えたり逃げ出したりして心のバランスを取り、心を癒しながら生きているものである。ところが学校には、常に「前向き」に「もっと、もっと」とがんばらないといけないような雰囲気がある。甘えたり逃げたりして後退することを許さない。それを「後ろ向き」の姿勢だとして、ただちに否定的に評価するところがある。

・子どもを成長発達させるためには、常に「前向き」に取り組ませないといけないとでも思っているのであろうか。

――「講座学校」第4巻 1章(高垣忠一郎)

子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な叱責などは論外としても、たとえ善意であったにせよ、学校や教師のあまりにも性急な「要求」が、子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面をも直視しないわけには行きません。

昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高校生は21.4㌫に過ぎません。「少し持っている」の40.5㌫と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはならないでしょう。

「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。

いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。

自己肯定感が充足されてこそ前向きに行動できる

1995年の全国教研集会で、小1から9年間登校拒否してきた少女が、次のようなレポートを発表しています。「ありのままの自分でいいのだと思えるようになってから、自分が好きになった。そうすると楽になれて、あれがしたい、これがしたいという気持ちも湧いてくる。とにかく今は、自分が満足のいくように毎日を過ごしていきたい」。

臨床心理学者の高垣忠一郎氏は、この発言を引用して、子ども(人間)が前向きに動き出すためのポイントを、「①「ありのままの自分」を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる。」という二点にまとめています。(講座学校第4巻「子どもの癒しと学校」1章)

東京のある母親が、『定時制高校の灯を守れ』都民集会で行った発言にも、同様の感慨があらわれています。

「定時制に来て、定時制ってこんなにホッとできるところなのかとつくづく思った。中学時代には息子は“完全不登校”でした」「ここでは時間がゆっくり流れていく。昨日まであくせくしていたことが、どうでもよいことに気がついていく。ある時、息子が喜んで家に帰ってきて『先生から廊下で、K君、きみの今日の黄色いシャツとても良く似合うよ、と言われた』という。このことが嬉しくて嬉しくて私に話す。私は、ああこの子はこれまで日常のあいさつもない中で過ごしてきたんだなと思った。こうやって『自分自身が自分のままでいいんだよ』と感じれるようになれる学校。そして人前に出るのがイヤだった子が、劇もやり心も癒される。自信を見いだし、社会に出たときその力が発揮できるようになる学校。この学校に来れてよかった。」(山田功氏「東京の高校統廃合・再編政策の特徴と矛盾」『高校のひろば』27」より引用)

全ての学校が、こういう役割を果たすことは、不可能なのでしょうか。

自分が受容・肯定できたら

「ねばならない」で脅され、「自分はだめな子だ」と自分を責め、負い目や罪悪感を背負わされている心は、自分を防衛するために「ヨロイ」を着て、その中に自分を閉じ込める。そういう状態では防衛のために心のエネルギーを費やし、前向きに心のエネルギーを使えない。

(中略)負い目や罪悪感から解放され、ありのままの自分を「自分が自分であって大丈夫」と受容し肯定できるようになって前向きに心が動き出す。「ねばならない」の枠が外れて「~したい」と心が自由に動き始める。そのときはじめて、自分を防衛するためでなく、自由な心で真に自発的能動的に自分の人生や成長に向かってチャレンジしていけるのである。

(――講座学校第4巻1章高垣忠一郎)


         

長大な引用になりましたが、今日の記事に関係するのは最末尾の部分(だけ)です(汗)。




「ねばならない」で生きるのではなく「~たい」でラクに生きられる世の中をみんなで作れたらいいなと思っています。ある人の言葉で言うと「must」ではなく「want」で生きるということ。
と思いつつ、日々「must」に追われる毎日です。


   
一つは、一斉地方選挙。私の居住地域では、大軍拡・大増税を止め、くらしをまもる三人の県議・五人の市議候補を、是が非でも当選させねばならないということ。これは半ば「must」で、なかば「want」。いや比重的には「want」がまさりますから、そのための努力は苦ではありません。


時に、ビラまきなどは、一度に小一時間ずつ、数日かけて配れば、健康増進につながりますし、日々彩りを変える桜の花や、春の気配を楽しむことができて、「want」の度合いが高まります。


   
ほかにもいろいろな「must」がわが身を圧しつぶそうとします。


その中でも大なるものは、4月からの町内会の役員。しかも、数字嫌いの私に会計係ですよ。先日、3時間ほどもかけて引継ぎを受け、大量の書類と、ズシリと現金・預金通帳の入った金庫を譲り受けました。年度替わりの時期なので思い立って金庫の内容確認と当面の会計処理に着手してみようと、金庫の鍵を回すも、…開きません。困り果てて、前任者にhelpを訴えましたが、彼は勤務時間。ようやく夕方になって、ダイヤルキーの解除の方法を探り出していただきました。無意識のダイヤルを回してしまっていたらしいのです(汗)。




追伸。 


そうして、いったんは事なきを得て、要請された会計処理をなんとかこなすことができホット安堵したのでしたが、何ということでしょう、今日またまた、開かなくなってしまったのです。教わっていたダイヤルキーの解除方法を何度やり直してもうまくいきません。ダイヤル数字の微妙な合わせ位置が間違っているのだろうと思って、色々試してみても、、、駄目。


と、何かの拍子に、開いたは開いたのですが、蓋を閉めるとまたロックがかかってしまう。これの繰り返しの果てに、ようやく気づいたのは、ダイヤルをあわせるべき数字の位置ががわずかにズレているらしいのです。このダイヤルキーは動かないようにテープを貼り付けて固定することにしました。



ほかにも、あれとこれとこれ、気鬱な「must」が入れ代わ立ち代わりわが身を苛みますが、「ケセラセラ」、「なんくるないさ-」でやり過ごしたいと思います。
いやはや出だしからさんざんの新年度です。




撮ったけれど公開しないままだった桜が、はや散りはじめました。


ここ数日間の写真を。慌ててupしておきます。


まずは、一週間前の3月25日(土)の散歩道。雨上がりの桜並木です。


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続いて3月30日(木)の朝散歩。


児島富士=常山の山腹にも桜の花盛り。そして画面のなかほどは、おなじみの桜並木。手前の畑には,いつの間にか伸びた麦が,穂を付け始めています。


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鮮やかな黄色の菜の花とのコラボは、この季節ならではです。使用カメラはフルサイズのPENTAXK1。apsレンズで広角撮影したら、盛大にケラレます。


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朝から良いお天気で、花の色があでやかです。


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昨日の午前中の写真。春爛漫です。


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今日はこれにて。


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コメント 4

扶侶夢

学校教育に関する様々な問題提議をされていますね。答えには簡単には辿り着けませんが、問題提議をするアクションが必要だと思います。
by 扶侶夢 (2023-04-04 09:03) 

Enrique

町内会の会計係大変ですね。
私の経験では,役職者の大変さは,会長>会計>公民館長>副会長,と言った感じでした。会長は会計の責任もありますので,不明点は前任の会計と共に現会長にも相談されれば良いと思います。
「やらなければならない・やらされる」というのが一番堪えますね。

自発的にやれれば随分と違うのでしょうが。
東京都の武蔵野市は義務の町内会は無く,自発的な組織でやっているそうですね。

当町内会では,私は全くの素人会長でしたが,前会長も顧問として居たので,一番頼りにはなりました。
by Enrique (2023-04-04 18:27) 

kazg

扶侶夢様
>答えには簡単には辿り着けません
つくづくそう思います。とにもかくにも、「談論風発」が大切と思います。
by kazg (2023-04-05 19:17) 

kazg

Enrique 様
町内会長のご経験、頭が下がります。
>町内会の会計係大変
そうなんです。特に今は、大変だタイヘンだというプレッシャーに潰されかけているだけで、何がタイヘンかも実はよくわかっていないという状態で、面目ない限りです。
by kazg (2023-04-05 19:22) 

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