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ナードサークのシギ、の巻 [鳥三昧]

ある仲間内の冊子に、最近、こんな原稿を寄せました。冊子の発行はまだ少し先ですが、いつもながらのフライングで、web用に一部改変して発表させて頂きます。


私の趣味 kazg

一九八〇年代の初め、高等学校教職員組合の全国組織の専従役員として 五年間東京で働きました。中曽根内閣の軍拡臨調路線とその具体化としての「人勧 凍結」に象徴される公務員攻撃とのたたかいに明け暮れ、連日 のように国会 動を展開した 日々でした。

五年の 休職専従 期間が 終わって 現場に戻りましたが、 後に休職専従期間が七年に延長されたので、残りの二年 を使って地元教職員組合の役員を務めました。二〇〇〇年代の初めでした。この時期、私に趣味を持つゆとりはありませんでした。

健康問題もあり「プロ専」の道を歩むことなく現場復帰し、まもなく経過観察中だった 脳動脈瘤 が急速に 肥大したので、大きな手術を 受けました。幸運にも生還し、定年まで 教壇に立つことができました。 非常勤講師として 勤務を始めた春の 健康診断で、 思いがけなく 肺癌が見つかり 肺の五分の一を切除する手術を受けました。

子どもの頃は、「趣味は?」と聞かれて「読書」とか「切手収集」とか答えていました。読書は、いつの頃からか仕事に属する苦行のようなものになりました。退職後は苦行の度合いは軽減されたものの、意欲・気力・視力が衰えて、読書が趣味と答えるのもおこがましい状況になってしまいました。

そんな私の、老後の趣味と言えるのは「ブログ」の発信でしょうか。「退職記念にブログ始めちゃいました。フォーカスは過去に向かったり、身辺に向かったり、内面に向かったりで、浅く、淡く、ミクロサイズの日録になるでしょう。」という書き出しでブログを始めたのが、二〇一三年の八月。肺癌手術を終えて退院したばかりの頃でした。

後に書いたこんな記事が、その事情に触れています。「気がつけばへなちょこブログも三年目」(2015-08-21)。

退職を前にして、内心焦りを感じた時期がありました。「~ねばならない」で生きてきて、その枠組みが外れると,自分を見失い,気力も生き甲斐も薄らいでしまう、なんてことになりかねない。「~ねばならない」から「~たい」への生き方の転換が必要だ。さしずめ「趣味をもたねばならない」と、思い至ったのです。やっぱり「~ねばならない」に縛られ続けていますが(笑)

そこで考えました。新たな趣味の必須条件は?

・やって楽しいこと。

・憂さを忘れられること。

・少しの努力で,長く続けられること。

・足跡が何か残ること。

・人と上達を比べられて落ち込まなくてもよいこと。

・出費が少なくてすむこと。

・体力、運動能力が求められなくてすむこと。

自覚的に、言語で意識したことはありませんでしたが,あえて箇条書きにすればこんな虫のいい条件がぐるぐる脳裏を回っていたのでしょう。今思えば、「ブログ」という帰結は、結果的にですが、これらの虫のいい条件を、すべてみごとにクリアーしてますね。(中略)

その時漠然と期待したのは、①忘れっぽい自分の備忘録(紙に書く日記は,続けられないので)、②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、③自分自身の何らかの存在確認、などの雑多な要素を、お気軽に満たしてくれそうだという点。などでした。

ブログ開始から一〇年を超えて二代目ブログに移行して、初代二一二七記事、二代目二八六記事を数えるに至っています。




 


ところで、上の文章で話題にした 「気がつけばへなちょこブログも三年目」(2015-08-21) の記事には、こんなことを書いていました。


「豚もおだてりゃ木に登る」という言葉があります。
私も、おだてには乗りやすい体質と思います。
かといって、真実味のないご機嫌取りや、見え透いた社交辞令を真に受けるほど純真でもないつもり。
そういえば、啄木にこんな歌がありました。
へつらひを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

自負も矜恃も人一倍持ち合わせているが、自分の器を熟知しているのもまた自分。そのナイーブな内心を斟酌することもなく、むず痒いお褒めの言葉をいただいても、「へつらい」にしか聞こえず、かえって軽んじられている感じさえして、心は波立つ。というのでしょう。
よくわかります。
それとは対照的に、自分が日頃信頼を寄せる人,敬愛の念を以て畏れている人に、思いがけなく好意的なコメントをいただいたりすると、リップサービスと知りつつも舞い上がってしまい、良いところを見せたいと思ってしまうことがよくあります。はなはだ単純な性分だと思います。
最近、当ソネブロでお近づきになったmomotaro様が、その慧眼とバランス感覚の上に立った、緻密な文筆をもって、世に鋭く発信なさっていることは、皆さんよくご存じのところでしょう。
ご著書「友よ、戦争をしない世界を創ろう!」も,先般の入院騒動の後、amazonにて購入、一読させていただき、その平明,丁寧な論理に導かれながら,ともに考えを進めていくうちに,時代と生き方について深く考えさせられるという快い経験を、久しぶりに味わったことでした。


当ブログのネーミングについて、こんな記事を書いたことがありました。


イーハトーブのパクリです、の巻。:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


先日のこの記事に、momotaro様からありがたいコメントをいただきました。

 こちらをお訪ねするといつも驚きます。多様な生物に溢れているので。
海辺で山があるからなのでしょうが、まるで別世界です。
ふと、ナードサークとはどういう意味なのかなぁと思って検索してみました。するとずらっとこのブログ関連のことが出てきました。ということは、これは一般用語ではないのでしょうか。宮沢賢治の小説に出てきそうですが…
機会がありましたら教えてください、恥ずかしながらお尋ねします!

わたしの思わせぶりなブログタイトル「ナードサークの四季」の名づけに関して、興味を持っていただき、検索までしていただいたとのこと。恐縮至極です。
取り急ぎ、以下のコメントをお返ししましたが、あるいは、ほかの読者の方にも同様お手数をおかけするかも知れないと思い、再掲することにします。

> 多様な生物に溢れている
コメントいただいて、改めて思い至りました。日頃は有り難みに気づきませんが、ほとんど近隣エリアで、あれこれの生き物に会えるのは幸せなことです。
> ナードサークとは
お手間を取らせて申し訳ないです。全くのでっち上げの造語ですm(_ _)m ゴメンナサイ
ご推察の通り、宮沢賢治が岩手をモチーフに「イーハトーブ(イーハトヴォ)」という理想郷を想い描いたのにあやかって、わが居住地の地名をもじってみました。2003年頃から数年間、見よう見まねで作って遊んでいたホームページに、「ナートサークの四季」と名づけた写真コーナーを置いたのが始まりです。その後、「平成の大合併」のあおりで、もとの地名は消滅してしまいましたが、、、。
> 恥ずかしながらお尋ねします!
恥ずかしながらお答えしました(汗)
 



  

該博な知と揺るぎのない良識(コモンセンス)に支えられた、理路整然とした論考が、momotaro様のブログの真骨頂でした。とともに、コメント欄を通しての懇ろな交情をいただき、勝手に「ブロ友」扱いさせていただいていました。そのmomotaro様が、2022年9月29日付で投稿されたプーチンの蛮行は黙視できない!:日本の政治と地球の未来:SSブログ (ss-blog.jp)の記事を最後に、新たな更新が途絶えておりました。癌治療のために入院なさっていることは存じておりましたが、速やかな回復を念じておりました。その後のご様子が気には掛かりながらも、一年上も経過したつい最近、当該記事のコメント欄で御逝去された由の書き込みを拝見し、遅ればせに冷厳な事実を知った次第。謹んでご冥福をお祈りしないではいられません。


ご尊名であれば、なにがしかのコメントを頂戴できそうな、「ナードサークのシギ」の写真をupします。一週間ほど前の撮影です。


コチドリ。


pentaxK5Ⅱ+AFborg60mm。小雨の中、光量不足です。


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Fuji finepixs1。。


案外、こちらの方がマシだったりします。


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遠いので、識別に迷いましたが、写真を見ると、タカブシギでは?と思います。


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小魚か、小エビらしい餌をついばんでいるようです。


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上母写真はby pentax。下がfinepixs1。


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この日、運がよければと狙ったのは次の鳥。


いずれもfinepixs1による画像です。


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チュウシャクシギ、ですよね?


実はわが鳥撮の師匠、M師がメールでこんな情報を教えてくださったのでした。


現在83歳になっております。がまあまあ元気に過ごしております。趣味の野鳥観察の方もボツボツ続けております。

(中略)

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これは**で撮影したチュウシャクシギの群れです。毎年この時期に同じ群れが移動の途中に立ちよっているようで20羽ほどの群れの中に一羽だけオオソリハシシギが混じっています。

前のがオオソリハシシギです、


矢も盾もたまらず、メールを頂いた次の朝、現地に出かけてみました。海の干満によって干潟の様子が変わるので、干潮の時間を狙って出かけてみたのですが、あいにくの雨で、傘差し撮影を余儀なくされました。正確にはナードサーク離れて、少々遠出しましたので、「ナードサークのシギ」の看板には偽りがあるのですが、悪しからず・・・


今日はこれにて。


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相変わらずの思い出話、の巻 [日録]

名前のわからないシギに会いました。


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グーグルカメラにお伺いを立てたら、「サルハマシギ」とご託宣がありました。いかがでしょうか?




昨日はこんな「つどい」に参加してきました。


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記念講演講師の春日井敏之さん(先生という敬称を、極力用いないようにしようと、最近思っています)は、立命館大学名誉教授。ご本人からののプロフィール紹介によると、今春から、教授の職を退き、フリーランスとして少しゆっくり研究のまとめなどにとりくめるかと思いきや、近江兄弟社高等学校の校長につくという成り行きになり、超多忙の生活の合間を縫って来岡講演を引き受けてくださった由。感謝です。


多岐にわたる内容豊かな講演でしたから、内容に関わる感想やコメントは、またの機会に譲るとして、お話をうかがいつつ「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく」書き付けてみることにします。


盛岡教研のこと


まず今年1月に亡くなられた高垣忠一郎さんのこと。春日井さんにとって、若かりし日からの指導的盟友であられた由。一九八三年に岩手県盛岡で開かれた日教組・日高教合同教育研究集会(全国教研)には、高垣忠一郎先生に励まされながらレポートを書き、教育相談分科会に報告者として参加されたそうです。


そう言えば、私もその盛岡教研に参加した記憶があります。その証拠に、その時の土産のこけしが、今も棚に飾ってあります。


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その盛岡教研については、これらの記事に書きました。


縁の下で考えたこと、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


私がかつて実際に参加したことがある全国教研は、下記の通りですが、いずれも内容よりも、寒かった記憶だけが、真っ先に蘇りました。


縁の下で考える(その2)の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


昨日の記事で話題にした、30年も前の「全国教研』で、私が参加したのは『国語』分科会でした。生活綴り方運動、作文教育などで知られる国分一太郎先生らも助言者のお一人で、夜の酒席も含めて身近に接する機会もありました。不思議なことにどんなお話を伺ったか、ほとんど覚えていません。
記録によると1985年ご逝去とありますから、最晩年のお姿を拝見したことになります。85年の札幌市での集会では、お元気だった記憶がありますが、その年の2月に逝去されたようです。その前後の記憶はまったくあいまいです。


高垣忠一郎さんのこと


ところで、高垣さんのことは、私のブログに何度か書いてます。例えばこの記事。連休谷間のエトセトラ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


最近、古い友人のSさんから電話をいただき、教育相談のボランティアのスタッフとして協力を依頼され、気が進まないながらも、週一回弱の頻度で請けることにしました。その際のやりとりで、わが孫のケースを伝え、「何が原因かまったくわからない」ともらしたところ、Sさん自身のお子さんの不登校体験も含めて「原因は誰にもわからない」と即答され、深く納得したことでした。
原因はどうあれ、この先が大事。「自分が自分のままでいていいのだ」という自己肯定感の充足こそが、不登校から抜け出るポイントだとは、これまで肝に刻んできたつもりのことでしたから。
最近、妻が書棚から引っ張り出してきては読んでいる不登校関係の本のなかに、高垣忠一郎さん(臨床心理学者、立命館大学名誉教授、京都教育センター代表)の著作があります。その一冊『揺れつ戻りつ思春期の峠』(新日本新書
1991の、こんな一節が目に止まりました。

「見守る」ということは、何もしないことではない。それは親の愛を子どもに伝えるひとつの行為である。
遊園地で遊んでいる幼いわが子を見守る母親は、子どもが母親に手を振れば手を振ってこたえてやる。子どもが膝にきて抱っこを求めれば、しっかりと抱いてやる。決して放っらかしにして何もしないわけではない。かといって子どもの求めぬ手出し、口出しをするわけでもない。
それは、子どもに安心できる基地があることを伝えつづける行為である。
「信頼して待つ」ことは、何もしないで待つことではない。ただ待っていれば、やがて子どもが自然に立ちなおるという、空虚な根提のない期待を抱いて待つことではない。
それは、「信額する」という、たいへんしんどい仕事をしながら待つことだ。子どもの自己回復力を信頼し、それが発揮されるように援助しながら待つということだ。
そのためには、子どものなかに自分を愛し信頼する心、他者を信頼する心をよみがえらせること。
子どもへの親の深い愛と信頼が、それをよみがえらせる。
その親の深い愛と信頼を、子どもに、通じるように伝えつづけること。---それが「信頼して待つ」唯一の方法である、と私は思う。
その方法は一般的に用意されているわけではない。この親が、この子に通じさせる独自の方法。
それをそれぞれの家庭でみつけ出してほしい。
子どもの足を揉んでやることは、子どもの心を揉みほぐしてやることだと、子どもの足を心をこめて揉んでやる親がいる。
少しでも子どもをあたためてやりたいと、毎晩あたたかいごはんをつくって、家に寄りつかぬ子を待つ親もいる。
疲れた身体にムチうって、毎朝早く起きては、返事があろうとなかろうと「お早う」と声をかけ、共に食事をして「行ってらっしゃい」と子どもを送り出してやる親もいる。
残業、残業で運く帰宅しては、寝入った子どもの頭を「かわいい、かわいい」と撫でてやる親もいる。
それは、あたかも大きな氷の塊を自分の体温で溶かすような、気の長い努力の過程である。
その努力を通じて親の深い愛と倍頼が、子どもの心に注ぎ込まれるとき、子どものなかに自分を愛し信頼する心がよみがえる。
こんな自分であっても、自分は親から見捨てられていない、「自分が自分であって大丈夫なのだ」と自分を信頼し、他者を信頼する心、それがよみがえってくる。
それは人生の「浮き袋」のようなものである。
その「浮き袋」をもてばこそ、少々の困難やいやなことがあろうと何とかやってゆける。感情の荒渡にのみこまれ自分を見失う危機をのりこえてゆける。
ところが今、その「浮き袋」に空気が十分に入っていない子どもたちがいる。
大人たちは今、どれだけ子どもの心に共感の息吹を吹き込んでやれているのだろう。
「見て、見て、夕陽がきれいだねえ」という子どもに、「夕陽に感動しているヒマがあったら、漢字のひとつも覚えなさい」と叱咤激励するような関係に陥ってしまっていまいだろうか。
そのような関係のなかでは、夕陽の輝き失せ、こわいまなざしで自分を脅かす他者が心のなかに住むようになる。
こうして自已への信頼と他者への信頼はしぼんでゆく。

長い引用になりました。さらにもっと紹介したいところですが、我慢してここまでとします。

近江兄弟社高校のこと


春日井さんが校長に就任されたという近江兄弟社高校について、かすかな記憶がありました。


上に引用した縁の下で考える(その2)の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) の記事は、続けてこんなことを書いています。


その後、、県内の教研(教育研究)集会には参加してきましたが、全国教研には参加する機会がないまま、時が過ぎました。
記憶と記録をひもとくうちに、一気に時代は変わり、1998年1月に滋賀県で開かれた教研に参加したことが、思い出されました。
その頃には、労働組合運動をめぐる動きを反映して、教職員組合運動にも大きな変動がありました。要求と運動を、政府・財界の許容する枠内に「自粛」する「連合(日本労働組合総連合会)」路線への傾斜を強める日教組「主流」が、組織内外の批判と懸念を押し切って「連合」加盟を強行したのを機に、日教組から離脱した単組(都道府県本部)などを中心に、全日本教職員組合協議会を結成(1989年)、後に日高教も合流して、全教(全日本教職員組合)が結成されます(1991年)。こうした元で、日教組、日高教共同開催という全国教研は幕を閉じ、全教・日高教主催の全国教研から、今日の「実行委員会」主催の教研へと発展しています。
そんな歴史の過程で、1998年の教研に参加した模様を、こんな文章にしたことがありました。

  今年で10回目を迎えた全国教研集会に、初めて(合同教研時代は別として)参加しました。
「行く春をあふみの人と惜しみけり(芭蕉)」の句からの連想からか、なぜか、湖水朦朧としたのどかな情景を思い描いてしまうのですが、「防寒対策を」との事前レクチュアどおり、近江の冬は格別の厳しさでした。
連山に雪を戴き、周辺の道路脇にも積雪の残る全体会場は、右翼街宣車の騒音や機動隊の警備のものものしさとはうらはらに、うちとけた親密さと、明るい熱気に包まれていました。10年ぶり、20数年ぶりの知己の顔もちらほら見え、懐かしいひとときを味わうことができました。(中略)
分科会は、レポート報告者という任もあって、「特設1 子どもから地域からの教育改革」に参加。私の出番は、分科会初日の最後で、「『こんな高校をつくろう』高教組『高校像検討委員会』の提言づくりに参加して」と題して、岡山県の教育事情と県の進める高校再編の動きにふれながら、我々の対案としての「提言」(特に、提言①「こんな高校をつくろう」の部分)の紹介を行いました。時間の制約もあって意を尽くさぬ報告となった上に、全体の論議の流れと噛み合いにくかったせいもあってか、質問もコメントもないまま終わり、やや疲労感の拭えぬ一日でした。ただ、望外にも、翌日の情宣紙に「参考になる」との参加者の声を載せていただき、いくらか報われた思いでした。
「教育改革」という遠大なテーマを扱う分科会であることから、レポートも、多様な学校種別・分野にわたり、また、議論の内容も、教育政策の全体を扱うものから、運動論にかかわるもの、学校外・地域の教育のありかたなど、多岐にわたったため、自分がどう議論に参加していいか戸惑っているうちに時間が過ぎ、正直、消化不良のまま、多分に欲求不満が残ったことは否めません。
そのなかで、印象に残った点だけを幾つか書いて、分科会紹介に代えます。
(中略)
ところで私は、基本的に「特設1」分科会に出席するつもりでしたが、せっかく来たのだからという欲心から、分科会の「ハシゴ」をしてしまいました。
二日目の朝、T商のT先生の導きで、分科会開始前の移動時間に、ちょっと寄り道して近隣の史蹟を見学することに。愉快な弥次喜多道中のしめくくりとして、メンタムで知られる「近江兄弟社」ゆかりの「近江兄弟社学園」を(幼稚舎が、明治期の洋風校舎の面影を残していると)訪ねたところ、ふと見ると、校門前に「特設分科会2 子どもの権利条約」の案内看板。なんと、(うかつといえばうかつですが)、同学園の施設が、分科会場になっていたのです。
これも何かの縁と、午前中は二人でその分科会に参加。出てみてよかった。「子どもが本音でのれる行事」を通して荒れを克服し自治を育てるとりくみ(滋賀・小)や「たっぷり遊んだ子どもは元気がいいぞ」(東京・父母)と題する学校施設を利用した子ども・青年の「遊び場・たまり場」づくりの取り組みなど、わくわくするレポートと、熱い意見交換が、刺激的でした。
最終日は、どうしても出たかった「中等教育」分科会に出席。「青年期教育の実践」「中・高の接続はどうあるべきか」「子ども・青年はどんな学校を求めているか」という、個人的に関心をそそられるテーマは、すでに前日までに終わっていて残念でしたが、当日の報告は、中高連携(高知)、高校統廃合(北海道)、学校移転に抗して生徒・教職員・父母・市民ぐるみでとり組んだ学校づくり(私学)など、「特1」分科会と通いあう内容で、私の内部では首尾が整い、満足でした。最後に紹介された、日高教定通部・日本の教育改革をともに考える会の、それぞれの提言は、深く学び、合意を広げていきたい内容でした。


記念講演については、内容にほとんど触れることなくこれでおしまいです。




提言『こんな高校をつくろう』のこと


午後のパネルディスカッションは、「急増する不登校問題を多角的に考える」。パネラーの方々の問題提起や報告・発言を聞きながら、やはり、「心にうつりゆくよしなしごと」が抑えきれず、ついつい、平場から発言させていただきました。上のブログ記事で話題にした、1998年作成の「『こんな高校をつくろう』=高教組『高校像検討委員会』の提言」についてです。


例えばこの過去記事にも書きました。


またまた異質共存を思う、の巻 :ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


「多様性」「異質共存」に関連して、ふと思い出したことがあります。
1998年と言いますから、ひと昔もふた昔も前のことですが、わたしの所属していた教職員組合が、めざす学校像を求めて教育提言を行ったことがありました。
その中の一節に、こんな個所があります。

「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。

 

この提言づくりには、私も、組合員の一人として意見を寄せたことがありました。
ちなみに、『提言』は総論部分といくつかの各論から構成されていましたが、その総論に当たる部分を、以下、引用させていただきます。

 

提言1 こんな高校をつくろう

視点 子ども・青年の「自分づくり」を支援する学校

―――「いかに生きるか」という挑みが励まされ、個性的な人格形成が促され、進路選択の力が育てられる教育を―――

Ⅰ.「第二の誕生」の時期の課題に応える教育を

高校生たちは、「いかに生きるか」を模索する「第二の誕生」の時期に直面しています。彼らの「自分づくり」を支援する高校像こそ、私たちの探求課題です。

いま、学校でも家庭でも、「子どもが見えない」「子どもの心がつかめない」という嘆きが、しばしば聞かれます。簡単に「キレル」「むかつく」子どもたちの登場や、小学校低学年にまで及ぶ「学級崩壊」に象徴される「新しい荒れ」の進行は、その思いをいっそう募らせています。
熾烈な「生き残り」競争をあおる社会状況、人工的に過ぎる生活環境、刺激的・刹那的・浪費的な文化環境、地域・家庭の教育力の低下、大切な「三つの間=時間、空間、仲間」の喪失など、さまざまな要因が、子どもたちの「育ち」を困難にしているのです。
しかし、それだけに、目の前の高校生たちは、それぞれの切実さで、「第二の誕生」(ルソー)の時期に直面しています。それは、内的な価値(理想)に目覚め
る時期であり、「いかに生きるか」の模索の時期であり、「産みの苦しみ」の時期でもあります。そのさなかにあって、彼らは、合理化されない感情の起伏に苛
まれ、孤独と集団性、劣等感と優越感、不信と友情のはざまを揺れ動く日々を体験しています。
この時期こそは、彼らがどのような人間になるかを決定する、「生涯で最も激動的で実り豊かな時期」(竹内常一「現代青年論」)にほかなりません。
いま、「日本の教育」を語り、「高校教育の改革」を語るとき、このような思春期・青年期の課題=「自分さがし」「自分づくり」の課題に応える学校づくりの模索こそ、主要なテーマの一つとなるべきでしょう。


Ⅱ.子ども期を奪われ、過度のストレスにさらされる日本の子ども

国連「子どもの権利委員会」勧告(98年6月)が指摘するとおり、過度のストレスが日本の子どもたちを苦しめ、学校が「息苦しい場所」になっています。

胸弾む「自分さがし」「自分づくり」のドラマを渇望しながら、その峠の迂遠さ・先の見えなさにたじろぎ、つまずき、もてあましている子ども・青年も少な
くありません。時には、向こう見ずな暴発への衝動にかられたり、モラトリアムや退行に逃避する場合もあるでしょう。彼らには、社会・家庭・学校のいずれも
が、切実な「自分づくり」への希求に応えてくれないばかりか、自分をそれから遠ざけ、単調な苦役を強いるだけの強迫的存在と映っているのかもしれません。
とりわけ近年、学校が、多くの子どもたちにとって「息苦しい場所」になってきていることは、紛れもない事実です。
登校拒否・不登校の子どもの数が、ますます増えています。とりあえず、学校へは通っているが、様々な神経症状を抱えながら「苦痛に耐えている」子どもたち
を含めると、莫大な数に登ります。そして、その延長線上に、毎年十万人前後にものぼる高校中退者が次々と生み出されています。
国連「子どもの権利委員会」は、98年6月、「日本の子どもたちは、高度に競争を強いる教育制度のなかでストレスにさらされ、発達障害におちいっている」と指摘し、「過度
なストレス、不登校を防止し、闘うための適切な措置をとる」ことなどを、日本政府に厳しく勧告しました。それは、「“豊かな国”日本社会における子ども期
の喪失」と題するNGO報告文書が浮き彫りにした、日本の子どもたちの実態をふまえたものに他なりません。


Ⅲ.「自分づくり」を励ませない上からの「教育改革」

国や県が「上から」おし進めようとしている「教育改革」は、子ども・青年 の「自分づくり」を励ませるのでしょうか。

いま、政府・文部省は、「偏差値排除」「競争緩和」「個性尊重」を謳い文句に、「新学力観」をつよく打ち出しながら、「教育改革」をおし進めようとして
います。また、岡山県でも、「魅力ある学校づくり」「特色づくり」を呼号しながら、学区解体・高校再編の動きが、急ピッチで進められようとしています。
しかし、これらの「上からの教育改革」は、子ども・青年の「自分づくり」を励ますものとなりうるでしょうか。残念ながら、現実の事態の推移は、より幼い
段階で自己の「可能性」に見切りをつけさせ、より早期に選別を完了するシステムとの危惧を裏付けるものとなっています。それは、「自分づくり」の願いに応
えるどころか、彼らをゆとりなく追いたて、同時に教師たちをも不毛な学校間競争へと追いつめてやまない道と言わざるを得ません。


Ⅳ.「自分づくり」を励ます高校像のポイントは

私たちのめざす「あるべき高校像」のポイントを、5点にまとめてみました。

では、子ども・青年の渇望に応えて、その「自分づくり」を支え励ましていく高校はどうあるべきでしょうか?
そのこと自体をひろく「大人たち」の切実な問題意識として、様々な場で自由な論議を進めていくことが、いま第一に求められているでしょう。
その呼び水となることを期待しつつ、「あるべき高校像」の必須の要件として、次の諸点を提起します。
①自己肯定感を育てる学校(自分の居場所があり「ほっ」と安心できる場の保障)
②仲間がいるコミュニティの場としての学校
③努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校
④「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障
⑤「社会」「世界」「人類」とつながった学校


(1)自己肯定感を育てる学校

私たちのめざす高校は、何よりも第一に、「自分が自分のままであって大丈夫なのだ」という安心感=自己肯定感を育てることのできる場でなければなりません。

自分に自信がもてない日本の子ども
「『学力』は高いが、自分に自信が持てず、自分を劣っていると考えている。」――多くの国際比較統計が描き出す「日本の子ども」像です。
その背景・原因は多岐にわたり、「国民性」や社会意識総体に深く根ざしているでしょうが、学校・教育のあり方を無視することはできません。
排他的競争を基調とする日本の学校・教育が、「自分の欠点ばかりが嫌でも目につき、いくら頑張っても満足を得られない」という強迫的不安へと子どもたちを駆り立て、往々にして「自尊心泥棒」(斉藤学)の役割を果たしている状況は誰しも否定できないでしょう。子どもたちの人権やプライドを無視した嘲弄や、体罰を含む居丈高な強圧は論外としても、たとえ善意であったにせよ、あまりにも性急に「もっとがんばれ」「~べきだ、~ねばならない」と迫る学校・教師の「熱心な指導」が、時として子どもたちを追いつめ、萎縮させ、衰弱させている側面も見落とせません。
ありのままの自分が好きになれたら子ども(人間)は、「①”ありのままの自分”を受け容れ認められるようになれば、自分を肯定し好きになれる。②そうすれば、自分からあれがしたい、これがしたいと、いろんなことに取り組む自発的な意欲が湧いてくる」(高垣忠一郎)のです。
学校がこれを保障する場となるためには、根本的には、①今日の「高度に競争を強いる教育制度」(子どもの権利委員会勧告)そのものを転換して、子どもの成
長と発達を中心に据えた学校制度へと改めること、②過大学校・過大学級の解消など教育条件の充実をはかって、ゆきとどいた教育を保障していくことが、不可
欠です。そして何より、目の前の子ども一人ひとりに目を注げるゆとりと教育上の自主権限が、教師に豊かに保障される必要があります。


現行制度のもとで解決できることも
同時に、現行制度のもとでも、学校・教職員のささやかな配慮や努力で解決できるものも、決して少なくないでしょう。
昨年度、各校の協力を得て高教組が実施した「高校生意識調査」では、学校生活の中で「人間として大切にされているという感じ」を「持っている」と回答した高
校生は二割に過ぎません。「少し持っている」と合わせても、約六割の生徒しか「大切にされている」と感じていない学校状況の薄ら寒さに、鈍感であってはな
らないでしょう。
「人間として大切にされる」上で、「強く求めるもの」を尋ねたのに対して、第一は「のびのびとした生活」、第二は「意見をきちんと聞いて」、第三は「まるごと認めてもらえる」の順に回答が集中しており、つづいて僅差で「えこひいきやシカトがないこと」「息抜きや休みの時間」などがあげられています。
いま、当面さしあたって、これらの声に応える「学校づくり」こそ、緊急に求められているのではないでしょうか。


(2)仲間がいるコミュニティの場としての学校

第二は、仲間がいて共同があるコミュニテイとしての機能を、十分に発揮できる場にしていくことです。

友だちがいるからこそ
「自分にとって学校とはもっとも束縛される空間であり、いやいやながらに行かざるをえない場所である。学校に行く前は、常にそう思いながら登校していたもので
ある。しかし、行ってみると友人がいたり、意外に授業が面白かったりして、ああ来てよかったとも思うのである(ある女子学生の回想:講座学校第4巻1章よ
り)。」――これは、多くの高校生の偽らざる実感ではないでしょうか。
高教組の「高校生意識調査」でも、「学校のいいところ」として「友達がいる」を選んだ回答数が、群を抜いてトップです。「友だちと長時間人生について語り合った経験があるか」の問にたいして「何度もある」「一~二度ある」を合わせると6割強の高校生が友人と人生を語る経験を持っており、その相手は「高校が同じ学校の友達」に集中しています。「ひとり化・孤立化」「交友関係の希薄化」が指摘される現代高校生も、やはり、「友だち」をこそ第一義に大切なものと考えていることが示されています。
親身になってお互いのことを大切にし、時間を忘れて人生を語り合うようなかけがえのない「友だち」との出会いを、すべての子どもたちに用意してやること。これも、学校教育、とりわけ高校教育の、主要な責務の一つではないでしょうか。
そのためにも、HRづくり、部活動、生徒会活動、行事はもとより、カリキュラム編成や教科の学習活動そのものも、「共同と自治」を育てる方向で再編をはかるなど、コミュニティづくりの工夫がつよく求められています。


「異質の共存」を学ぶ場に
また、「異質」が共存し、相互の交流と感化が存在する場でこそ、人間としての豊かな成長が可能です。多彩な生い立ちやアイデンティティ、課題を抱えた生徒たちが学ぶ定時制・通信制高校での経験も、それを鮮やかに教えています。
「自分探し」・「自分づくり」に呻吟している多くの「フツーの子どもたち」も、閉ざされた「均質集団」の枠を越えて、多彩な人生に触れ、お互いの「違い」を認めあいながら交わるという体験を保障されるなら、劇的な成長を遂げる可能性を秘めているといえるでしょう。
より多くの高校生に、このような契機を保障するためにも、高校生活の中から「競争と排除」の要素を除去し、「異質共存」を前提とする学校づくりを構想する必要があります。また、高生部研などのとりくみが切り拓いてきた、他校生徒間の交流や障害者・児との交流、地域の青年・住民との交流などの機会を、学校教育の様々な場面で提供していくことも重要でしょう。


(3)努力のあてがあり、努力の結果が実感できる学校

第三は、「わかる喜び」「達成する楽しさ」を保障し、努力のあてが見え、努力の結果が実感できる学校にしていくことです。

わかる喜び味わいにくい教育制度
高校生の多くが、「努力のあてが見いだせず、達成感も味わえない」と感じ、慢性的な無気力に追いやられています。
それは、おびただしい数の「学習についていけない子」の出現を前提に、過重・非系統的な学習内容を低学年にまでおしつけてきた歴代「学習指導要領」のもとで、早い時点でつまづき、意欲を喪失してきた結果でもあります。「個性重視」を唱える「新学力観」のもとで、「できないのも個性」として「基礎基本の修得」が事実上棚上げされていることが、事態を深刻化させています。
「成績の良い子」も、「わかる喜び」「発見の驚き」を十分味わうことができないまま、「勉強は苦痛」と感じています。彼らの多くは「立ち止まると置き去りにされる」という不安から、あてのない努力を強いられています。


「わかる授業」「楽しい学校」の復権を
70年代を中心に、私たちは、「わかる授業」「楽しい学校」のスローガンを掲げて授業づくり・学校づくりに取り組んできました。その達成と教訓が必ずしも十分生かされないまま、職場の多忙科の加速、「新学力観」と結んだ「多様化」政策の波などに影響されて、近年これらのとりくみは、一定の停滞を示しています。
いま、過去の実践の蓄積に再度光を当て、現段階にふさわしく発展させていくことがつよく求められています。
その際、①「“生きる力”を支える基礎学力とは?」の吟味、②「わかる喜びと探求心を育てる教育」への工夫、③その子の「つまずき」をときほぐす適切な課題の設定、④達成感、成就感を味わいながら次のステップに登っていける適切な仕掛けの設定などが、重視される必要があるでしょう。


(4)「教え」から「学び」へ――世界を読み解く「学び」の保障

第四は、一方的な「教え」から、主体的な「学び」への転換を軸に、 子どもの学習権を真に保障していくことです。

授業に対する高校生の意識
高教組「高校生意識調査」では、授業についての設問に対して、次のような声が寄せられています。
「興味・関心を深める授業」は「かなりある」9.1%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が5割強と、授業の味気なさを訴えています。「かなりあ
る」が最も高かったのは農業科19.4%、続いて家庭科14.4%で、具体的な自然や実物に触れる機会の多い学習が、子どもたちの興味を引いていることを
うかがわせます。
「生活や体験と結びついた授業」も、「かなりある」8.9%にたいして、「あまりない」「ほとんどない」の計が56.9%となっ
ています。特に、普通科では「かなりある」がわずか2.1%で、実に75.9%が「あまりない」または「ほとんどない」と答えている点は注目されます。
「なぜ勉強するのかわからない授業」は「ある」が6割強。「視野が広がる授業」は「ない」が6割強を占め、特に普通科・商業科で、その比重が高くなっている点も特徴的です。
「一部の生徒しか聞いていない授業」が「ある」7割弱。「理解していないのに先へ進む授業」が「ある」8割弱。「生徒の参加を促す授業」が「ない」も、約6割。自分が授業の主人公だとは、実感しにくい実態があるようです。
このような点から、過半数の高校生は「楽しくはないが将来必要な基礎」だからと言い聞かせながらも、「ほかに本物の勉強がある」と感じているのです。
高校生の声を要約すれば
高校生たちの声を要約すれば、①自分たちの興味・関心に応え、②そのことを学ぶ意味が実感できて、③しかも、生活や体験に結びついた内容を含み、④それを学
ぶことで視野が広がるような、⑤本物の勉強を、⑥上から一方的に教え込まれるのではなく、⑦自分たちが主体的に参加できる授業を通して、⑧よく納得・理解できるように学びたい、と訴えているように思えます。
それらは、そのまま、ユネスコ「学習権宣言」の規定と通じるものです。私たちの「高校づくり」も、当然、この高校生たちの切望に応える「授業改革」を基本に据える必要があるでしょう。

(5)「社会」「世界」「人類」とつながった学校

  第五は、「自分も周りからあてにされている」「社会・世界に参加している」と実感でき、自らの存在や行動の社会的・人類的意味に気づける機会を保障することです。

いま、「生きる目あて」・「学ぶ目あて」を、見いだせないでいる高校生が増えています。
“他をけ落として勝ち抜く”ことが求められ、“知識をやみくもに蓄え込む”ことに追われる勉強は、彼らにとって、やればやるほど消耗する苦行であって、自分らしさ・人間らしさを脅かすものとさえ感じられるようです。


自分の役割が不分明な現代社会
「教育とは何か」(岩波新書)の中で、太田堯氏は、科学技術の進歩に伴い、「自分の意図を自分の手応えをもって実現するめやすを失い、社会生活の中での自分の地位や役割が不分明になっている」、それは「『どう生きるか』という人間にとって最も本質的な問が衰弱するということ」と指摘しています。
そして、競争中心の学校・入試制度のもとで、“成績・順位”が子どもたちの人間評価の中心的位置を占めるようになり、「一人ひとりの子どものもつ個性と、その個性の社会的出番の発見とを励ますような雰囲気は、学習環境からほとんど失われ」、「『どう生きるか』という人間にふさわしい目的意識を内面からきたえ、かつ育てるのはむずかしい」ため、「“目当てのない欲求不満”はいっそう増幅される」と述べています。
また、以前は家庭内外で数限りなくあった子どもの“出番”がなくなり、「専門化した知識・技術の修得が、自分の生き方、生活にとってどんな意味を持っているかという---手ごたえが---もちにくくなっている」と指摘しています。


自分の存在・行動の社会的・人類的意味に気づく機会
いま、子ども・青年に、空疎なおだて文句ではなく、心底「周りからあてにされ、頼りにされている」という手応えある実感を、体験させてやることが重要です。その機会を適切にふんだんに用意してやることも、学校の重要な役目となっています。
自分の存在や行動の社会的・人類的意味に気づいたとき、彼らは目を見張るほどの旺盛な行動力と探求心を発揮します。人権・平和・高校生活を主題とした高生部研のとりくみをはじめ、薬害エイズ訴訟や、神戸・淡路震災の復旧ボランティア、多彩な環境保護の取り組み、「平和ゼミ」をはじめ核兵器廃絶・平和のとりくみなど、無数の例がそれを示しています。

現時点でもなかなかいい線行っている提言ではないかと、身びいきながら思うのですが、いかがでしょうか?


私の初代ブログナードサークの四季が前書きで「フォーカスは過去に向かったり、身辺に向かったり、内面に向かったりで、浅く、淡く、ミクロサイズの日録になるでしょう。」と、書いたとおり、相変わらず思い出話に終始して、少しも進歩がありません。


今日はこれにて。


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九の日は五月晴れ、の巻 [日録]

昨日5月9日は、朝は10度未満の寒さで、寒暖(冷暑?)の差に、惑わされます。

朝散歩に出ると、あざやか黄金色が広がっています。

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定点観察、と言うほどでもないですが、麦畑の向こうの麦飯山(むぎいやま)。

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久しぶりに常山(つねやま)の姿を紹介します。桜の季節は山全体がピンク色でしたが、今や新緑から深緑へ変わってきています。

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赤いアクセントは、ポピーの群生です。

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これはキバナコスモスでしょうか、オオキンケイギクでしょうか?葉っぱの様子からは、オオキンケイギクでしょうかね?

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地元「九条の会」の「九の日行動」は、この日もまた青空の下で取り組まれました。(前回4月9日は、珍しいことに雨で中止でしたが)

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強い風でしたが、暑くもなく寒すぎもせず、爽快なスタンディングになりました。

4月のスタンディング用に雨の日仕様で作ったプラカードが、日の目を見ることになりました。

粗雑な保管中の扱いで、しわだらけですが(汗)・・・

今日はこれにて。


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5年ぶりの憲法くん(つづき)、の巻 [今日の暦]

憲法集会の話題を続けます。


昨日ご紹介した、5年前の憲法記念日の記事はこう続きます。


 


昨日の公演の感想も、「大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました」では、安直すぎますかね?〔中略)


・前回(2017年)は割愛された「憲法くん」の出番。今回は、アンコールの形で最後の数分間で演じられました。


「安倍政権のもとで私がリストラになるというウワサがある。どうして変えられるんですかと聞くと、現実にあわないからだって。私って理想だったんじゃないんですか。現実を理想に近づけようとするのが普通でしょ。」「戦争が終わって、私が生まれた時、国民は初めて自分たち庶民の子どもができたって大喜びしたそうじゃないですか。」「私はまだまだ元気です。もう隠居していいよ、って言われるほど、これまで私を使ってくれたんですか?いいえ、結構暇でしたよ」


「わたしの初心、わたしの魂は、憲法の前文に書かれています」


--そして憲法前文の暗唱。完璧、圧巻です。


「皆さんが、私に働けと言うなら、まだまだ働きます。私をどうするかは皆さんが決めること。皆さんの私なのですから。皆さんに、私を託します。」


・チコちゃんのように生意気に「ボーっと生きてるんじゃないわよ」などと叱るわけではありませんでした。活かすも活かさぬも皆さん次第と、重い問いを投げかけたのでした。


・松元ヒロさん、どうやら私と同い年らしいのですが、いやはや、エネルギッシュさにおいても、若々しさにおいても、聡明さにおいても、比べものになりません。いえ、比べようとも思ってはいませんがね。それより何より、面白さにもますます磨きがかかってきました。こういう人がテレビに出ないということは、それだけテレビがオカシイ、そして貧しい、ということですね。そんななか、鹿児島テレビが密着取材を続けているのだそうです。楽しみです。


いつもながらの孫引き、ひ孫引きによるコピペ記事でした。斜め読み、飛ばし読みしていただければ幸いです。


今回の公演に関係する情報をほんのちょっぴり付け加えます。


①圧巻のパントマイム。


今回は、その妙技をふんだんに披露してくれました。


演技の合間に語られる、数々のエピソードがまた、「へえ」の連続。 


 「パントマイムの神様」と呼ばれるマルセル・マルソー、またそれに感化を受け、芸名にもマルセ太郎・・・次々に芋づる式に語られるエピソードに、興味が尽きません。


備忘メモを一つだけ。


マルセル・マルソーは、ユダヤ人であることを隠すために姓をMangelからMarceauに変えた、彼の父はアウシュビッツ強制収容所で死亡。マルセルはレジスタンスとして活動する中で、ユダヤ人孤児の国外脱出を助け、彼が命を救った子供の人数は数千人にも上る(ウィキペディア参照)。


②その経歴のドラマチック性。 


私と同世代であることは聞き及んでいましたが、高校・大学と陸上選手→パントマイム・お笑い芸人→風刺・政治批判→「テレビで会えない芸人-松元ヒロの世界-」2020年日本民間放送連盟賞 テレビエンターテインメント番組部門最優秀賞など、数奇な人生経験に圧倒されます。


そもそも、パントマイムを始めたきっかけは、教師になる道を諦めていたところ、チャールズ・チャップリンの「モダンタイムス」などの無声映画を見て、地元訛りにコンプレックスを持たずにできる仕事として感動し、パントマイム、お笑い、風刺の道に入ったと、ウィキペデアに記述されています。鹿児島方言に引け目を感じて、「無声」の芸の道を選んだ彼が、今や息つくいとまもなく、研ぎ澄まされた「言葉のつぶて」を当時続けているとは、皮肉なものですね。彼曰く、言葉で言う方が(パントマイムで演ずるよりも)ラクです・・・。 


③紹介された本と映画。


彼は、東京「紀伊國屋ホール」で公演する機会が多いが、舞台で紹介した本が紀伊國屋書店でたくさんくれるので、今日はどの本を紹介するか、書店から問い合わせがあるそうです。


今回紹介されたのは、「ヤジと民主主義」、「福田村事件」。


映画の紹介ページはこちら。映画『ヤジと民主主義 劇場拡大版』公式サイト (yajimin.jp)


映画『福田村事件』公式サイト (fukudamura1923.jp)


④5年前に紹介があった「鹿児島テレビ密着取材」による放送は、地元鹿児島で大好評。全国でも放送され(私も観ました)ついにはドキュメンタリー映画化され、全国公開の運びに・・・↓この記事参照


1月31日(月)いよいよ全国公開!映画“テレビで会えない芸人” | かごnew | KTS鹿児島テレビ (kts-tv.co.jp)


映画『テレビで会えない芸人』 (tv-aenai-geinin.jp)


⑤そして「テレビで会えない芸人」であった松元ヒロさんが、鬼平犯科帳新シリーズで料理人役(軍鶏鍋屋・五鉄の主人、三次郎の役)として出演されるらしい〔時代劇専門チャンネル)。


文字ばかりの記事も味気ないので、今朝の散歩写真を貼っておきます。


最近同じような画像ばかり載せていますが、今日の朝散歩でも、麦畑の向こうの麦飯山を、いろんな場所から写してみました。今日の撮影は、OLYMPUSE520+zuiko18-160mmというレアな古道具によります。EO041840.jpgEO041854.jpgEO041866.jpgEO041867.jpgEO041869.jpg


麦の色がだんだん黄色くなってきました。


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道ばたの矢車草に目を止めるいとまもないうちに、暑い季節に突入でしょうか。


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今日はこれにて。


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憲法記念日の朝散歩、の巻 [カメラde散歩]

前回upした記事が余りにも冗長でしたので、少し分割することにしました。


まずは憲法記念日の朝散歩のスケッチです。


今朝の散歩でも、麦畑の向こうの麦飯山を写しました。


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昔こんな記事を書いています。


濁りなき緑を肺に満たしてん(2013-08-20)


鴨川という川を挟んで対岸に、均整の取れた二こぶの山が聳えています。
遠くから見るとおにぎりのように見えるところから、麦飯山と書いて「むぎいやま」と読むのが、この山かなあと、私は思っているのですが、確かめることのないまま今日に至っています。
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戦国時代、中国地方最大勢力の毛利氏と、織田信長・羽柴秀吉方についた宇喜多氏との間で戦われた「八浜合戦」は、この地を舞台にしています。当時、麦飯山の頂上には、二つの城があったそうで、今見ても、確かに頂上が、遠目にも平らに見えるように思えます。
麦飯山城は、宇喜多直家の家臣、明石源三郎の居城で、 宇喜多家の支城でした。当時、宇喜多と毛利は同盟関係にありましたが、宇喜多は、戦局を見て織田方に寝返ります。毛利は、中国地方攻めを進めている秀吉軍が、備前に入る前に岡山城を攻めようと考え、その拠点にするため、麦飯山城を奪おうとして攻撃を加えました。
毛利軍2万人が、山の周囲を囲み、兵糧攻めを加えたのに対し、 宇喜多の勢3千人が籠城しますが、山上には井戸がなく、麓の水源もおさえられたため、城から討って出、ふもとの八浜地区で激戦が繰り広げられました。
城主明石源三郎は、毛利軍の侍大将荘勝資と一騎討ちで戦死。家老の田中源四郎も、戦死して落城します。一方、勝った荘勝資も、明石源三郎の家来に討たれました。
八浜合戦は、1582年。「女軍の戦」で知られる常山城の合戦(1575年)から、数年後のできごとです。


今朝の田園風景を少々upします。


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早朝から、青空が広がっています。


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今日の鳥はカワラヒワ。


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5年ぶりの憲法くん、の巻 [今日の暦]

昨日アップしていた憲法記念日の記事が、余りに冗長で読みにくいので、分割して再掲させていただきます。


憲法記念日の今日は、早朝から青空が広がっています。


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午後は、憲法集会に参加してきました。


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岡山合唱団の合唱。中富公一さん(岡山大学名誉教授)の特別報告「安保関連法および安保三文書は何をめざすのかー岸田軍拡の危険性-」に続いて、メインのライブ松元ヒロさんによる「今こそ憲法くんの出番です」を楽しみました。5年ぶりの岡山での公演だそうです。


そう言えば、これが5年前の記事です。


憲法記念日思うまま、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


最大のイベントは、ご存じ松元ヒロさんのライブ「憲法くんに叱られる」。

松元ヒロさんについては、当ブログでも何度か紹介しています。

たとえば、この記事。

「追伸」の補足と今日の愉快な鳥見散歩、の巻(2017-01-23)

そもそも、戦前の日本においては、まさしく「自国のことのみに専念して他国を無視」した、偏狭な国益優先主義による暴走が、数千万人に及ぶアジアの人々と、300万人の自国の民に痛ましい犠牲を強いる悲惨を招いたのではなかったのでしょうか。そして、それへの悲痛な反省から、新しい国の歩みの道筋を探ったのが、日本国憲法ではなかったでしょうか?その道しるべとして、人類の到達しえた知見の最善のものが、真剣に取り入れられたのでしょう。
もちろん、そのめざす道は紆余曲折をたどり、いまだ実現に至ってはいません。だが、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とあるように、その未成熟な現実を乗り越えて、必ず「崇高な理想と目的」に向かうことを、私たちは世界に宣言しているのです。
理想と現実が乖離しているとき、理想を捨てて現実に合わせるのか、それとも理想に向かって現実を高めようと試みるのか?憲法をめぐるせめぎあいが、いっそう激しさを増すことになりそうです。
憲法君がんばれ。

憲法くん

憲法くん

ユーチューブに松元ヒロさんによる憲法前文の暗唱が掲載されています。

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松元ヒロさんと言えば、今は亡き majyo 様を思わずにはいられません。たとえばこんなブログ記事を 書いておられたのは、去年の秋のことでした。 

ハッピー HAPPY

皆様は、松元ヒロさんをご存じですか? 何回かご紹介しましたから

名前は覚えていらっしゃるでしょう

テレビに出られないお笑い芸人さんです。

なぜ出られないか?

時の政権を笑い倒すからです。

その昔は劇団ニュースペーパーにもいましたが
1999年ソロデビューしました。

立川談志や永六輔に才能を認められ可愛がられました。
この二人の物まねは秀逸です。

ソネブロのmomotarouさんたちが、半年前から
古着販売で出た収益金を元手に企画した今回の公演

それが昨日でした。ずっと経過を拝見していました。

詳しくは
https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-28

上の記事で紹介しておられたmomotaro様の地元埼玉県熊谷での松元ヒロ公演成功のとりくみにも、大いに元気づけられました。上のリンク先の「写真入りバージョン」はこちらです。(いつもながら、またまた勝手にリンクを貼らせて戴きます。)

https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-30

 

松元ヒロさんは、2年前の2017年の憲法集会でも来岡公演されました。

上を向いて歩いていたら、の巻(2017-05-13)

先日の憲法記念日に岡山市で開かれた今年の「憲法集会」の模様は、何回かご報告しました。そこで演じられた松元ヒロさんの舞台で、永六輔さんのエピソードが熱く語られたこともすでに書きました。その舞台でのフィナーレに流れたのが、この「見上げてごらん 夜の星を」の曲でした。
それとともに、舞台では、同じ坂本九が歌った「上を向いて歩こう」(永六輔作詞・中村八大作曲)も話題にされました。「スキヤキソング」として海外にもよく知られたこのヒット曲が、失恋の悲しみを歌ったものではなく、安保闘争の挫折をきっかけにつくられたものだったことは知る人ぞ知る事実でしょうが、松元さんはそのあたりの事情をつぶさに語ってくれました。

その年の憲法記念日に書いた記事を、繰り返しになりますが再掲させていただきます。

祝!憲法君70歳、の巻(2017-05-03)

憲法記念日です。
過去の憲法記念日には、こんな記事を書きました。


2014年。お誕生日おめでとう。日本国憲法さん!(2014-05-03)

今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。

近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。

「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。


一昨年(2015年)。68歳おめでとう、日本国憲法さん、の巻(2015-05-03)

この先ご健勝であれば、2年先の2017年には「古希」を迎えられることになります。昔から、古来まれなものとして、その長寿を祝う年齢です。
いま、わがくにの平均寿命は、ずっとのびていますから、70歳といえども、「後期高齢者」にもとどかぬ「若さ」ですが、世界中の憲法さんのなかでも、最長寿に属する事は間違いないでしょう。
「寄る年波」というものもありまして、時の政権担当者の思惑で、本意ならざる「解釈」やら、「運用」やらを施され、若かりし日の輝くばかりの清新さには痛々しいばかりの影が差している事は否めません。
とはいえども、あなたのお陰で、私達日本人は、これまで68年間の長きにわたり、ただの一人も、戦争で人を殺すことがなく、一人の戦死者を出す事もないという「古来希」なる僥倖を享受とができたのでした。
(中略)
なんとしてでも、2017年の70歳を、無事健やかに迎えていただきたいものです。さらにその先、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、白寿(99歳)のお祝いを、国民みんなで祝賀することができればと思うのですが、、、、。


昨年(2016年)。憲法記念日に家の中でひとり憲法を考える、の巻(2016-05-03)

戦後70年・被爆70年の去年、憲法学者がこぞって「違憲」と指摘するなか、集団的自衛権容認の「戦争法」を数を恃んで強行したアベ内閣は、今度は「緊急事態条項」など戒厳令条項の導入をはじめとする明文改憲の動きをあらわにしています。選挙中はダンマリを決め込んで、選挙後にやりたい放題、のつもりでしょうが、その手は桑名の焼き蛤です。
(中略)
もちろん、憲法は金科玉条でなく、時代の変化に応じて充実・発展させるべきで、そのため、タブーなくフランクな議論が盛んに行われることは、憲法自身が望んでいることに違いありません。自らの国の最高法規について、国民ひとりひとりが、親しみを持って語り、理解し、愛し、誇りに思い、使いこなすことは、言うまでもなく大切なことですから。
一方、憲法を国民議論の俎上に載せようとする人たちのなかには、、あらぬ難癖をつけて悪罵の限りを投げつけて憲法の尊厳をおとしめ、汚い唾まで吐きかけようとする人たちが存在することも軽視はできません。おそらく日本国憲法が世界に先駆けて指し示す、平和で自由な、徳高い民主国家のあり方を、まぶしすぎると感じたり、あるいは煙たく窮屈に感じる人々が、ごく少数ながら存在するのでしょうか。たとえば、憲法の平和的・民主的精神を除去することによって、何らかの利益を手中にできるような人々とその手下、雇い人の類でしょうか?(どんな人たちなんでしょうかね?)
市井の一市民が、憲法に対して何を考えようが、何をしゃべろうが、それは自由であって、誰からもとがめられることはありません。
しかし、たとえば、アベさんのこんな無礼な発言を、憲法九十九条は許していないはずなのです。

みっともない憲法
あの、日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。そして、エエ、専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う、自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないのですよ。
国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましいんですけどね、みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。こんな憲法を持っている以上ですね、外務省も自分たちが発言するというのは、憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。精神がそうなってしまっているんですね。まあ、そこから変えていくと言うのが私は大切だと思います。

自分の国語力・読解力のなさを棚に上げて、ちんぴらやくざの言いがかり同然のイチャモンをつける態度は、明白に公務員の憲法遵守義務違反です。
憲法第九十九条は、こう定めています。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


(中略)

午後は、「憲法の集い」に参加してきました。集会のプログラムには、4年ぶりという松元ヒロさんの公演も含まれていて、大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました。

 

 


時系列が交錯して読みにくい記事になりました。過去ブログの紹介の途中ですが、いったんここで中断し、改めて続きを書くことにします。

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昨日はメーデー、の巻 [今日の暦]

昨日の雨が上がり、今朝はよく晴れましたが、季節が後戻りしたような肌寒さでした。


朝散歩で見る麦畑は心なしか黄金色が増したようです。


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麦畑の向こうに連なる双子の山は麦飯山(むぎいいやま)、とだじゃれを一つ。


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このねたは、4月26日の散歩で思いつきました。その時の写真はこちら。


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毎年のことですが、こんな麦の写真を何枚も撮ってしまいます。


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昨日はメーデーでした。


あいにく朝から冷たい雨でした。


メーデー関連の記事を書きかけていたのでしたが、中途のまま日が変わりました。会場の近くには行っていたのですが、別の用事があって、せっかくのメーデーには参加できないままでした。メーデー帰りの方には何人かお目にかかり、様子はうかがったのでしたが。


そんなことも記事には書けたはずなのですが、取り急ぎ差し迫った仕事もあり、投稿は諦めました。その「差し迫った仕事」を、ほとんど今日一日かけてほぼ終わらせましたので、準備しかけていた投稿を、急遽一日遅れでUPします。


メーデーについては、以前こんな記事を書いています。


「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2016-05-01


今日は5月1日 メーデーの日です。
1886年5月1日に、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)に結集するアメリカの労働者が、8時間労働制を要求してストライキに立ち上がったことがメーデーの始まりといわれます。
10数時間もの長時間労働を強いられていた労働者が、「仕事に8時間を、休息に8時間を、おれたちがやりたいことに8時間を!」(「8時間労働の歌」)と叫び、シカゴ、ニューヨーク、ボストンなど万人以上の労働者が、ストライキに立ち上がり、その結果、20万人あまりの労働者が8時間労働制をかちとったのでしました。
しかし、資本家側は8時間労働制が広がることを警戒し、権力をつかって反撃を強めます。運動の中心地だったシカゴでは、2日後の5月3日に機械労働者4人が警察官に射殺され、翌4日にはヘイマーケット広場で労働者の集会が襲撃を受け、多数の犠牲者が出るなどの事件が続いたのをきっかけに、資本家側は8時間労働の約束をほごにします。
労働者側は、これにひるまず戦線を立て直し、ふたたびゼネストでたたかうことを決め、世界に共同行動を呼びかけました。これをうけて、「第2インターナショナル」は89年7月の結成大会で、1890年5月1日をアメリカの労働者と連帯し、世界各国で一斉に集会やデモをすることを決め、アメリカ、ヨーロッパ、中東欧、オーストラリア、ラテンアメリカなど世界各地で数十万の労働者が集会とデモをくりひろげました。これ以降、毎年5月1日に世界各国でメーデーが開催されるようになった。この日を「法律で8時間労働日を決めるよう要求する国際デモンストレーションの日とする」と決定しました。これが第一回メーデーでした。
(中略)

メーデーとなると、この詩を思い出します。

明日はメーデー

槇村浩

古ぼけたぜんまいがぜいぜいと音を立てて軋(きし)る
もう十二時になるのに
あなたはまだ帰ってこない
くすぶった電球の下で
私はもう一度紙きれを拡げてみる
―――八時までにはかならず帰る
待っていてください T
前の道路を行くヘッドライトが
急に大きく
ぽっかりと障子にうつる
私はぎっくりして
寒い下着の襟をかき合わす
あなたはもう帰ってこない
あなたはセンイのオルグ
朝の四時
氷柱(つらら)を踏んで私たちが工場へ急ぐ時
あなたはニコニコ笑いながら
電柱のかげからビラを渡してくれた
――賃銀三割値上げしろ!
――労働時間を七時間に!
――鬼のような見番制を廃止しろ!
――外出、外泊、通信の自由をよこせ!
――全協日本センイ××(1)分会の確立へ!
ゴジックで大きく書かれたその文句は
焼けつくように私の眼頭(めがしら)にしみ込んだ
毎日毎日
あなたは電柱のかげに立っていた
氷雨(ひさめ)の降る朝でも
破けた傘にチビけた駒下駄(こまげた)をはいて
あなたは根気強くビラを渡してくれた
「ありがとうよ」
そういってビラを取る私たちの胸に
あなたの姿はなんというなつかしい印象を残したか
字なみの揃ったインクのかおりは
苦しい生活のなかで
どんなにか私たちを力づけたことか
そして私たちの分会ができた!
乾燥場の奥で私たちは最初の会合を持った
私たちのただ一つの組合である
全協!
その署名を見るたびに
私たちの胸には何かしら熱いものがこみ上げてきた
私たちはこの二字のなかに
全国の同じ工場のなかで
つきのめされ、疲れ切って
資本への憎しみにかたまっているおおぜいの兄妹を見た
旗をかかげ
腕を組んで
最後の日までのたゝかいに突き進む
何万の同志らの叫びを聞いた
私たちは集まって工新の発行を協議した
名前は「セリプレン」ときまった
「セリプレン」は二度めには百部出た
その時から
監督の顔色が険(けわ)しくなり
スパイが工場のなかをうろつき始めた
毎日
不眠で眼をまっかにはらした見番が
何人かの名前を読み上げた
そして
フミちゃんも
しづちゃんも
呼び出されたきり帰ってこなかった
「赤い」というのを口実にしてそろ/\首切りも始まったし
おまけに一時間の居残り労働
積立金はビタ一文くれないで
「お国のために」しがない給料から天引きせねばならんという
「戦地にいる兵士のことを思って」とぬかしやがった社長のハゲチャビンめ
だれが働き手を戦場に連れ出したんだ
だれがもうけるために戦争を始めたんだ
アジビラは[#「アジビラは」は底本では「アシビラは」]毎日のように出たし
分会員の数は三倍にふえた
そこへ二割賃下げの発表だ
工場は急にどよめき出した
レンラクにいそいそとアジトへきた私なのに
立ち上がる日の近づいたという吉報をもって
あなたをよろこばせようとした私なのに
あなたはもう帰ってこない
どの街角であなたはあげられたのか
そして今夜
吹きっさらしの部屋のなかで
どんな拷問にあなたは耐えているのか
手紙を焼き
ガリ版をフロシキに包んで私は外へ出る
この寒空に
張っているパイ公もいないらしい
なつかしいアジトよ さようなら
あなたは帰ってこないが
あなたは後にたくさんの若芽を残した
さあ今夜はビラまき
夜が明けたら
すばらしい野天の五月のお祭りだ
フミちゃんやしづちゃんや
そしてあなたへの復讐に
私たちの解放のために
みんな!
がっちり腕を組んでストにはいろう
――明日はメーデーだ

―一九三二・三・一七―

(1)片倉

底本:「槇村浩詩集」平和資料館・草の家、飛鳥出版室
2003(平成15)年3月15日
入力:坂本真一
校正:雪森
2014年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:

(中略)

今日のメーデー。
雲一つない五月晴れに恵まれて、文字通り「すばらしい野天の五月のお祭り」になりました。


また、比較的最近の記事では、こんなことも書きました。


片付けあるある(2) 「二つのメーデー」、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp) 2022-01-29


前回に続けて、職場新聞縮刷版の冊子をひもといて、当時の時代感を彷彿とさせる記事を、もう少しご紹介しておきます。

先に引用した号を少しさかのぼって、1989年4月21日付 NO.437には、こんな囲み記事があります(編集担当の一人だった私が執筆したような覚えがあります)。

今週の新聞から

◎竹下内閣支持率ついに3.9%に。(共同通信社調べ)。
消費税の税率を下回るのも時間の問題?

◎ 高石 全文部次官起訴。汚れた文部官僚大量更迭。「上司は更迭、文書も押収されて仕事ができない」とは下級役人の嘆き。いっそ、いらぬ仕事はよしにして、学校現場にお任せになっては?

◎米下院議長ライト氏 、1900万円の献金で倫理委員会全員一致「規則違反」認定。竹下さんのリクルート献金はその10倍なのに、異常なのはどっちの国?

◎中央メーデー会場を巡る怪。東京都、遅れて申し込んだ「連合」に代々木公園の使用許可。従来の先着順のルールを無視した口実は、抽選でもじゃんけんでもなく”実績!”。
だが、これまで「連合」が代々木公園を使った実績は一度もない。片や我が統一労組懇・「軍事費を削って、くらしと福祉・教育の充実を」国民大運動実行委員会は、何度もそこで集会を成功させた実績があるにも関わらず不許可とは--- ---。

その上、メーデーの運動会化を主張する「連合」は、既に別途サッカー場を借りてある。メーデーを分裂させた「連合」の半端じゃない横車に「待ってました」とエールを送る自民党都政の合作劇。だが。これで正体がよくわかった。

続く4月28日付 NO.439では 「変質許さず第60回メーデーの成功を」という 大見出し のもと こんな記事があります。

俺たちは世直しをするつもりだ。骨折り損のくたびれ儲けにゃもうあきた。食いつなぐのにやっとこさ、考える時間なんて1時間もない。俺たちは陽の光を浴びたいのさ。俺たちは花の香りを嗅ぎたいのさ。 神様だってきっとそうしたいとおっしゃっている 。(中略)仕事に8時間を、休息に8時間を、後の8時間は俺たちの自由に。

1886年の5月、 シカゴをはじめとするアメリカ各地の労働者はこの「8時間労働の歌」を口ずさみながらゼネストに決起。十数時間という過酷な長時間労働の解消を求めるこのたたかいには、厳しい弾圧が加えられましたが、たたかいは米全土へ全世界へと広がりました。これがメーデーの起源。
戦前の絶対主義天皇陛下の日本でも、銃剣と死刑法による弾圧に抗して「労働者の生活・権利を守れ」の声は五月の空にこだましました。戦後においても、生活向上と権利の擁護、その時々の国民的課題を掲げて、労働者・国民の要求実現に大きな役割を果たしてきたのが、メーデーの歴史です。

ところが、今この伝統を断ち切り、「メーデー近代化」と称してその変質をはかる動きが全国で強まっています。 岡山県でも従来のメーデー実行委員会加盟組織にもはからず、総評・同盟・「連合」の3者による実行委員会を結成。「バザール・スポーツ・歌謡ショー・カラオケ大会」などを中心とするお祭りメーデー化を策しています。

これに対し、高教組、医労連、国労などが呼びかけて「第60回岡山県中央メーデー実行委員会」を結成。メーデーの歴史と伝統を守る「県中央メーデー」を実施します。

高教組は全ての分会が 分会旗を持ってこれに参加するよう呼びかけています。

さらに5月2日付NO.440 では「違いくっきり第60回メーデー」の見出しで次の記事が載っています。

   「連合」 による変身と分裂の動きの中で取り組まれた第60回メーデーは 、労働者・国民の利益の守り手が誰であるかをくっきりと 浮き彫り にしました
東京での中央メーデーは、「連合」と当局による会場妨害に抗して、急遽設定された江東区「辰巳の森公園」に、統一労組懇組合員を中心に23万人が結集。たたかうメーデーの伝統を受け継ぐ労働者の 気概とエネルギーを天下に示しました。また「連合」路線反対を掲げる都労連も、日比谷公園で3万人の独自集会を展開し、「連合」によるメーデー変質策動に批判の意思を表明。
一方「連合」・総評・同盟の「近代化」メーデーは代々木公園・サッカー場の両会場を合わせても「19万人」との主催者発表に失笑が漏れるほど閑散として白けムード。ゼッケン・プラカードならぬ自社のコマーシャルポスターを掲げて参加する同盟系労組の姿も見られ 、労資一体の面目躍如。

岡山県でも高教組・国労などの呼びかけによる「第60回県中央メーデー」に2200人が参加。雨の中、旭川河原での集会に続いて、約2 km の市内デモへ。思い思いのゼッケン・プラカード・横断幕による示威行動に市民の共感が寄せられていました。

そしてこの職場新聞記事には、「朝日新聞」ローカル版5月2日付記事の切り抜きが 添えられています。 興味深いので 引用します。   

二つのメーデープラカード比べ

「連合岡山」と「岡山統一労組懇」がそれぞれ開いた集会は、二つの労働団体の路線の違いがくっきり現れた。 連合の組合員等が持っていたのは自分たちの組合旗がほとんどで、政治的要求を掲げたプラカード類は20本程しかなかった。統一労組懇系の組合員は、政治要求・組合要求を書き込んだゼッケンを着け、プラカードは 百本を超えた。 横断幕なども多彩で、内容も消費税、リクルート疑惑、農政と、今日の政治の関心事や要求が並んだ。     
連合系と統一労組懇係がプラカード などに掲げた批判や要求を比べると、政治的色彩を弱めようとした姿勢と、強めようとした姿勢が浮かび上がってくる

消費税粉砕機械加工掃除など消費税批判
連合4
統一労組懇28
「汚染議員を許すな」などリクルート疑惑追及
連合1
統一労組懇13
「竹下内閣糾弾」など内閣や与党に対する批判
連合0
統一労組懇 8
「ご飯を食べよう」など農政に関する要求
連合2
統一労組懇2
「年金改悪反対」など福祉に関する批判や要求
連合0
統一労組懇13
「賃金あげよ」など 労働条件に関する要求
連合1
統一労組懇3 
「祝メーデー60回」などメーデー開催を祝う
連合14
統一労組懇5
「国鉄労組の雇用を確保せよ」など JR に関する批判や要求
連合0
統一労組懇20
「核はいらない」など反戦平和の主張
連合0
統一労組懇2
野党批判や婦人問題などその他の 批判 や要求
連合0
統一労組懇16

〔中略)

「統一労組懇」は「トウイツロウソコン」と読み「統一戦線促進労働組合懇談会」の略です。簡潔な説明や紹介がないだろうかと、NET上の用語辞書や毎度のウィキペディアなどで調べてみましたが、どうも不正確でわかりにくいので、自分なりの説明を加えようかとも思いましたが手に余りますので、「一次史料」をお示しするのが最上と思い、統一労組懇自身の表明を引用して紹介することにしました。

統一労組懇「労働戦線の真の統一のために」統一労組懇「真の労働者の利益をまもるナショナルセンターのあり方について全国的討論を」 | 自治労連Webアーカイブ (jichiroren.jp)

(中略)


ところで、連合設立から30年余、初めての女性会長ともてはやされている芳野友子サン、先の衆議院選挙の投票日前にも選挙後にも一貫して、「立憲と共産の共闘あり得ない」などとする特異な主張を繰り返し、これまで大切に育ててきた市民と野党の共闘に、外野から冷水を浴びせています。   


    

今年の連合メーデーでは、昨年に引き続き岸田首相が来賓として登壇、お互いに接近を誇示するような匂いが不快に思えます。


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下の表はどこからコピーしたものでしたっけ?ごめんなさい、忘れました。


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連合岡山のメーデー下記の通り実施されたようです。MAYDAYなのに4月に実施するのはなぜ?などと突っ込むのは野暮としても、徹頭徹尾「フェスタ」なのはがっかりです。確かに労働者のお祭りではありますが・・・


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一方、私が参加したかった県労会議のメーデーはこんな様子だったそうです。IさんがフェイスブックにUPされているお写真を無断借用させていただきます。


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今日はこれにて。


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初代ブログを更新しました、の巻 [日録]

現在、このブログ(vol.2)をメインブログとして更新していますが、初代ブログの方も、時々更新しないと、迷惑な広告がふんだんに表示され、なんとも見苦しく痛ましい状態になりますので、時には更新しなければなりません。前回は二月の更新でしたが、またまた迷惑広告に占領されていましたので、今日は、五月の田園風景を少々upしておきました。


前回記事の続きの写真です。


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