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有り明けの月と鳥あれこれ、の巻 [日録]

今朝は起床が昨日より一時間ばかり遅くなり、昨日の朝と同じ経路を運転したのですが、月は昨日より高い位置にありました。十六夜(いざよい)の月」ですね。なるほど「有り明けの月」の名に背きません。


【有り明けの月】

陰暦16日以後、夜が明けかけても、空に残っている月。ありあけづき。ありあけづくよ。ありあけ。《季 秋》「―になりけり母の影/其角」
[類語]月・月輪・夕月・立ち待ち月・居待ち月・寝待ち月・残月・新月・三日月・上弦・下弦・弦月・弓張り月・半月・満月・望月・明月・名月・春月・朧月・寒月
出典 小学館デジタル大辞泉


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月は西に日は東に・・・(語呂が悪いですが)


朝ぼらけ、曙(あけぼの)、東雲(しののめ)・・・日の出前のひとときです。霧の深い朝でした。


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フェイスブックが、10年前の投稿を思い出させてくれました。


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こちらの過去記事もご覧ください。)


これらの鳥を探しに行きました。


pentaxk1Ⅱ+AFBORG 71FLを持って出たのですが、鏡筒側の組み合わせが失敗で、一定の距離以上にはピントが合いません。


これより遠くなると、合焦しません(とほほ)


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最近その鳴き声も聞き。姿も見かけるようになったジョウビタキですが、近くに現れてくれました。


トリミング画像です。


♀。


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♂。


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今日の付録


ハナミズキの紅葉


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トネリコ(またはシマトネリコ?)


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モミジバフウ。


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今日はこれにて。


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軽い違和感?の巻 [日録]

未明の暗い道を運転中、ふと西の空を見やると、思いがけず明るい月が輝いていました。それを眺めながら、何か軽い違和感のようなものを覚えたのでした。


というのは、昨日の夜見た月と同じ月であるはずなのに、形が微妙に違うような気がするのです。夜見た時は、満月かそれに近い状態に思えて、孫ともそうした話題を交わしたのでしたが、今見る月は、心なしか左の方が欠けているように見えるのです。


今日は十六夜だったか。それとも、立ち待ちの月?居待ちの月?などといぶかしがりながら、なおも運転を続けたのですが、そのうちに、気のせいか欠損部分が徐々に拡大してくるように思えるのでした。


あれこれ推理を働かせていましたが、カーラジオの気象情報が正解を教えてくれました。思った通り、部分月食なのでその天文ショーをカーウィンドウ越しに眺め、その刻々と変化する様を楽しむことができましたが、あいにく手元にカメラ車を止めてスマホで写してみましたが、世の達人たちのようには使いこなすことができません。なお、月の左上に映り込んでいる白い点は、木星だそうです(かなり、ぶれてますが)。


 


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月食が終わろうという時刻になったようやく家に帰り着き、急いでカメラを取り出して外に出てみましたが、月そのものが西の空に沈みつつある時刻で、家々の陰に隠れて写せません。月が見える場所を探して、1kmばかりは歩いたでしょうか、月食はすっかり終わってしまい、明るい満月を撮影することができました(bypentaxx5)。


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午前中は会議。昼間は畑仕事。夜は自治会会議。忙しい一日でした。


今日はこれにて。


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驚きの「緊急連絡」、の巻 [日録]

高知在住のN先輩から、「緊急連絡」と題するメールを頂戴しました。


学生時代以来の知己の面々に、高知でのニュースを知らせてくださったのです。


それは、以下の報道にあるとおりの驚きの内容でした。


県知事選に元県議会議員 米田氏立候補表明(10月24日NHKNEWSWEB)


任期満了に伴って来月行われる高知県知事選挙に元県議会議員の米田稔氏が共産党からの推薦を受けて、無所属で立候補することを表明しました。
米田氏は、24日、高知市で記者会見し、「高知から政治を変えようといううねりを巻き起こすのかが問われる大事な選挙になっている。格差と貧困、生活苦はいっそう深刻さを強めており、手厚いケアが求められている。そのために、4つのシステムチェンジで高知の力を引き出す地域循環型社会を作り、住民参加型の課題解決先進県、高知へ挑戦する」と述べ、来月の高知県知事選挙に共産党の推薦を受けて無所属で立候補することを表明しました。
米田氏は兵庫県出身の71歳。
高知市の市議会議員を経て、平成10年に行われた県議会議員の補欠選挙で初当選し、ことし4月まで務めていました。現在は、共産党高知県委員などを務めています。
県知事選挙には、このほか、いずれも無所属で自民党と公明党が推薦し2期目を目指す現職の浜田省司知事と、ともに新人で飲食店経営の中島康治氏と元リサイクル業の西内秀雄氏がすでに立候補を表明しています。
県知事選挙は、来月9日に告示、26日に投票が行われ即日開票されます。


【高知県知事選挙】元共産党県議・米田稔さんが無所属での出馬を表明(高知さんさんテレビ)


11月9日に告示される県知事)選挙への出馬を表明したのは元共産党県議で現在、党の県委員を務める米田稔氏(71)です。


(米田稔氏)
「浜田県政にこのまま対峙することなく、選挙をやらないという選択はないので、私でよければということで、決意をさせていただいた」

米田氏は今年4月まで7期25年、共産党の県議を務めていました。共産党・高知憲法アクションなどの推薦を受け、広く支持を集めるため無所属で出馬する意向です。

米田氏は浜田県政について「国の言いなり」と批判し、県民の暮らしの質を向上させつつ地域で循環する経済社会を作っていきたいと訴えています。

県知事選は11月9日告示、26日に投開票が行われます。これまでに現職の浜田知事、西内秀雄さん、中島康治さんが出馬を表明しているほか、香美市の男性も出馬の意向を示しています。

高知さんさんテレビ


 


学生時代の同期生である米田稔君については、当ブログでも度々ご紹介したことがあります。最初の登場はこの記事でしょうか。


夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて(2013-08-27)

「友が皆 我より偉く 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻と親しむ」という啄木の歌が、ことあるたびに念頭に浮かびます。でもそこに、自虐や自嘲の感情が入り込む余地はなく、ただ、感嘆の想いが募るばかりです。この日も、この歌が脳裡を幾たびも駆け巡りました。
この日、高知に一泊で出かけたわけは、学生時代のサークル(教育系の研究サークル)の同窓会に参加するためでした。
1950年代から1970年代まで、50名参加の大盛況で、旧交を温めたり、大先輩の経験談に耳を傾けたり、懐かしい、エネルギー充填のひとときは、瞬く間に過ぎました。
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(中略)


閉会挨拶をしているのは、高知県議米田稔氏(公人なので公表しておきましょう)。彼も同期で、教育学部中学校課程の出身。学生時代、アパートに泊めてめてもらったり、箱買いのインスタントラーメン(実家からの仕送りらしい)を食べさせてくれたりしました。「ラーメン食う?」という、独特の声音が今も耳に残っています。
英語教師への道を断念して、社会運動に身を投じ、市会議員を経て県会議員を五期勤めています。
ちなみに、7月の参議院選挙で東京選挙区から立候補して見事当選した吉良よし子さんのお父さんが、米田氏の同僚県議の吉良富彦氏。お母さんも、学生時代の年下の友人です。何も私の手柄ではないですが、テレビや新聞で注目を浴びる姿は「キラキラ」まぶしくて、我がことのように誇らしい気がします。
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最近ではこの記事参照。


とほほの旅を今日も行く、の巻(2023-05-15)


コロナのために間隔の開いていた,高知での恒例の同窓会が、今年は開催されることになり、心ウキウキと参加してきました。
第1回目はこの記事に書きました。

夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて

(中略)

10年前のことでした。
2回目はこちらの記事。

夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1)(2016-08-29)

実は、昨日、一昨日の土日に、高知まで一泊旅行をしてきました。
その目的は、三年前にブログを始めたばかりの書いたこの記事(◆夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて)から3年を経て、また開かれる同窓会に参加すること。

(中略)

3年前の記事でもご紹介しましたが、大学同期の米田稔君(高知県議会議員)は、この会の実行委員の一人で、今回も閉会挨拶をしてくれました。


上の記事は5月15日付ですが、この日付にちなんだ記事で、米田稔君のことを書きました。


またもやフライング,の巻(2022-05-15)


今日は,沖縄が本土に復帰してから50年の記念日。テレビ、ラジオ、新聞などで、色々な特集が組まれています。

ああ、もう50年か!の感慨もありますし、50年で何が変わり、何が変わらなかったか?!を思うと複雑な心境に囚われます。

過去記事でも、沖縄について色々書いてみました。その中でも、1972年5月15日にまつわる記憶を、この記事に書いたことがありました。

強行採決にまつわる記憶のエトセトラ、の巻(2015-09-18)

ふと思い出したのは、初めてデモに参加した頃の記憶です。
大学入学したての頃、70年安保、沖縄返還、ベトナム戦争反対などを主要テーマに、デモや集会を含む学生の運動が連日のように取り組まれていました。全くの初体験の私も、そのデモの後尾につながって、おそるおそる歩きました。
当時、アメリカ占領下にあった沖縄の日本返還にあたり、「核も基地もない、緑の平和な沖縄を返せ」という願いは、切実で道理のあるものでした。ここでボタンの掛け違いをしていなかったらならば、今日の「沖縄問題」の過半はとっくに解消できていたはずと、今も改めて思います。
しかし、当時の佐藤内閣は、この願いに反し、アメリカ言いなりの、核付き、基地付きでの返還協定を結び、1971年11月に強行採決で成立させました。
因みに、佐藤栄作氏はこの「沖縄返還協定」のお手柄と、彼の唱えた「非核三原則」の政策などが評価されて、1974年にはノーベル平和賞を受賞します。これについて、ウィキペディアに興味深い記事が掲載されていますので引用させて戴きます。

平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文 書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという。

(中略)

時々思い出す情景があります。
1972年5月15日、沖縄返還協定が発効する日、私たちはデモを終えて高知城のたもとの広場に集まっていました。
おとなしく真面目な、同期の友人Y君が、マイクに向かい、発言しました「屈辱のこの日を忘れない。今日は自分の誕生日です。」

Y君とは、2年前のこの記事「夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて」 でも紹介した米田稔君です。周囲の誰もが適職と見て疑わなかった教職の道に進まず、現在、高知県議(日本共産党)6期目を頑張っています。個人名と誕生日などという個人情報を出すことは、いったん躊躇しましたが、公人でもあり、ネット上にも公開されている事実ですので、許されるかな?

(中略)

一つだけ付け加えをしておきましょう。米田君は、県議7期を勤め上げ、次の改選で勇退されるそうです。お疲れ様でした。

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「核も基地もない緑の平和な沖縄」を求める沖縄県民、及び本土の人々の願いに反して、「本土並み返還」の口約束は反故にされ続けて50年。「辺野古」問題の推移は、それを象徴していますし、元首相が「核共有」まで高言する事態には、危惧された「本土の沖縄化」ここに極まれりと嘆かずにはいられません。


今年4月の県議選挙で後継にバトンを継ぎ、ほっと一息ついておられることだろうと察し、「お疲れ様でした」の言葉を心に繰り返したことでした。前にも書きましたが、細君は、実は私とは同郷の幼なじみで、幼稚園から小・中・高・大学とずっと同じ学校という、希有な友人です。その心情を慮れば、ようやく安堵のひとときを得たばかりでしょうに、またまた気の休まらない日々に突入とは、まことに心労、察して余りあります。が、立ったからには、人々の願いに応えて、知事の仕事をやり遂げて欲しい、と強く願っています。




付録に、機材ネタを少々。


ネットオークションで、ある部品を手に入れました。


BORG M57/60延長筒S【7602】


ダウンロード (1)


メーカーHPにはこうあります。


M57サイズのまま12mm延長することが出来ます。内径53mmと広いのでM57ヘリコイド【7857】やミニミニドロチューブ【7205】との併用も可能です。重量14gと非常に軽量なのでバランスを崩すことなく延長することが出来ます。内側の内側の遮光線及び艶消しも万全です。

<延長筒の効用>
野鳥や昆虫の撮影時にBORGに延長筒を装着すると、より近距離にピントが合うようになります。近すぎて諦めていた超近距離の撮影が可能になります。基本的には、延長筒を足せば足すほどいくらでも寄れるようになりますが、足せば足すほど遠距離が犠牲になるのと、前後のバランスが崩れますので、限界はあります。


pentaxK1Ⅱ+AFBORG 60Edに継ぎ足してみました。


わずか20mmの延長で、かなり近距離までピントが合わせられます。


自然環境体験公園の紅葉。


フルサイズカメラでは、周辺か少しケラれます。


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鳥や虫の写真は、さすがに距離があると豆粒大になりますので、トリミングして掲載します。


セグロセキレイ。


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カイツブリ。


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ギンヤンマ。


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赤とんぼ。


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今日はこれにて。


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高倍率ズームレンズと歩く岡山後楽園、の巻(2) [カメラ三昧]

昨日は、PENTAX k1Ⅱ+TAMRON  AF28-300mm F3.5-6.3 XR Diを持って、後楽園周縁遊歩道を歩いた記事を書きましたが、今日はその続きです。公園内の写真をご紹介します、


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園内から見える岡山城です。


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今日の付録、いずれもトリミング画像です。


シジュウカラ


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赤とんぼ


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ギンヤンマ


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今日はこれにて。


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高倍率ズームレンズと歩く岡山後楽園、の巻 [カメラ三昧]

「高倍率ズームレンズ」であるTAMRON  AF28-300mm F3.5-6.3 XR Di ( A061P)についての話題は、あてどなき「お散歩カメラ探求」、の巻に少し書きました。


そうこうするうちに、PENTAX k1Ⅱをお散歩に持ち出す機会もしばしばある中で、フルサイズ機であるならば、28mm始まりのZOOMレンズも、広角は十分ではないか?昔使っていたTAMRON28-200mmでも便利だったが、その後ポピュラーになったTAMRON28-300mmはお散歩用に使えないだろうか?などという悪魔のささやきが聞こえてくるようになり、ネット情報を探るうちに、TAMRON28-300mmとPENTAX istDLをセットにしたオークションが一万円ちょいで出品されていました。今更画素数わずか600メガピクセルの、旧機種に何の価値があろうか?最初に入手したデジタル一眼istDが、経年とともに性能的にも見劣りするようになり、いくつかの不具合を口実に買い換えたことを忘れたのか?しかも、istDLは、その初代istDの廉価版で、機能も性能も格下なのに・・・、と、理性の声は解くのですが、ついポチってしまいました。高額入札者があらわれてくれたら諦めようと、イヤむしろ品物を手に入れた後でトホホの気持ちに苛まれるよりは、高額入札者があらわれてほしい、とまで思ったのですが、幸か不幸から落札してしまい、昨日商品が届きました。


istDLによる「作例」は、昨日の後楽園写真でも、いい線いってる感じがあります。その時同時に持ち歩いた、PENTAX k1Ⅱ+TAMRON  AF28-300mm F3.5-6.3 XR Di での作例を、今日はご覧ください。


まずは、後楽園周縁散歩道から見える岡山城。広角から望遠まで、自由自在です。いずれもノートリミングです。


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モミジはもう少し先のようです。


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今日の付録。烏城(岡山城の別称)の烏。


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今日はこれにて。


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オールドカメラにオールドレンズで歩く後楽園、の巻 [カメラ三昧]

昨日(10月22日)久々に後楽園を散歩し、ついでに年間パスポートの更新をしました。シニア料金で830円です。


岡山後楽園 「年間パスポート」 好評発売中

大          人         :  2,080円

シ ニ ア(65歳以上): 830円

2024年3月31日まで高校生以下は入園無料です。

  • 有効期限は購入日より1年間で、ご使用はご本人様のみ有効です。

持参した機材は、オールドカメラのPENTAX *ist DL(発売: 2005年)にオールドレンズの SMC PENTAX-F FISH EYE 17-28mm F3.5-4.5(発売:1994年)というオールドコンビ。


何か、フィルムカメラのような味わいが漂います。


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今日はこれにて。


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ナードサークの二季?の巻 [日録]

我が地方では、今朝の気温が10度を切りました。9月の末まで酷暑を嘆いていただけに、足早の季節変化に感慨を覚えます。

9月30日撮影の写真です。深山公園で遊ぶ孫たちは、真夏の出で立ちでした。

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赤松の池に飛来するかもたちもまだ少数でした。

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これは、今朝の夜明け頃。あたかも晩秋の風情です。

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日本の気候は.いずれ、夏と冬の2季制に変貌するだろうとの予言めいた推測を、テレビなどでもしばしば見聞きするようになり、なるほど差もあろうかと思われてなりません。

そうなるとさしずめ、我がブログなどは、「ナードサークの二季」と改名しなくてはなりますまいか。

昨日、深山公園を歩いてみました。以前ヒヨドリバナに吸蜜するアサギマダラを見つけたことを思い出し、2度目のドジョウを期待したのですが、無駄足でした。

赤松池のカモたちを撮って帰りました。

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個体数ではヒドリガモが多く、オナガガモの姿も目につきます。

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アメリカヒドリ?もしくは、アメリカヒドリとの混血でしょうか?

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冷え込みが進むと、もっとたくさんの群れたちがやってくることでしょう。

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今日はこれにて。


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アサギマダラついつい記、の巻 [日録]

昨日は、コロナ禍の間しばらく実施されずにいた「年金一揆」がとり組まれ、そのあと、年金訴訟の裁判傍聴行動があったので参加してきました。「年金一揆」については、10年前にこんな記事を書いています。


昨日、地方版「年金一揆」なるものに参加してきました。物騒な名前です。この「年金一揆」東京・日比谷野外音楽堂では中央集会が開かれ、2800人が参加、全国で同趣旨の集会やデモがとりくまれたそうです。

 私も今年から年金受給者です(満額支給は、まだ数年先ですが)ので、先輩に誘われて「年金者組合」に加入しました。

収入が途絶し、年金のみに依拠する暮らしが始まったばかりで、不安がいっぱい。安心して生きられる世の中をめざして、弱い立場の者同士、力を合わせ、支え合っていくのは、大切なことですから。

その「年金一揆」の集会の場で、キーワードのように繰り返し飛び出してきた言葉が、「マクロスライド」「マクロ経済スライド」という言葉。もともと経済音痴の上に、脳血管疾患の影響で全く回転がスローになっている私の「灰色の脳細胞」(エルキュール・ポアロ)にとっては、異国の言葉(確かにカタカナ語ですが)のようで、さっぱり理解できません。
それでも、自然と、時代の「重要語」として刷りこまれましたの、で気になっていろいろ調べてみますが、それでもよくわかりません。


 


と書いていましたが、10年経つうちに、「悪魔のマクロスライド」のからくりが、よくわかるようになりました。

物価が高騰しても年金は切り下げられる(今年の場合は物価上昇や賃上げ水準に全く及ばない引き上げに抑制される)。現在の高齢者だけでなく、将来の高齢者の年金が、どんどんほとんど自動的に切り下げられるしくみ。「怒」しかありません。フランスを揺るがす年金闘争は、年金受給開始年齢引き上げに怒る若者が、たたかいの主体だそうな。日本の若者よがんばれと念じつつ、ジジババが声をあげています。

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今日のメインは、アサギマダラの記事の「追追記」です。

ついつい冗長な記事になってしまいます(汗)

子どもたちに人気のアニメ「鬼滅の刃」の登場人物で、「鬼狩りの剣士」の一人胡蝶しのぶのモチーフはアサギマダラで、その住まいである蝶屋敷にもアサギマダラらしき蝶が群れて舞う姿が描かれていると、ネット上で話題です。


 

先日写したアサギマダラの画像の残りを、こちらにストックしました。覗いてみていただければ幸いです。

https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-10-20

https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-10-20-1

https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-10-20-2

 





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アサギマダラ追書き、の巻 [日録]

前回記事で、例のごとく早とちりの知ったかぶりから、「アサギマダラの食草としては、フジバカマがよく知られていますが、よく似たヒヨドリ花も好きなようです。」と書きましたが誤りでした。お詫びして訂正いたします。


ウィキペディアには「幼虫はキョウチクトウ科(旧分類ではガガイモ科)のキジョラン、カモメヅル、イケマ、サクラランなどを食草とし、卵は食草の葉裏に産みつけられる。」とありました。さらに「幼虫の食草となる旧ガガイモ科植物はどれも毒性の強いアルカロイドを含む。アサギマダラはこれらのアルカロイドを取りこむことで毒化し、敵から身を守っている。アサギマダラは幼虫・蛹・成虫とどれも鮮やかな体色をしているが、これは毒を持っていることを敵に知らせる警戒色と考えられている。」とも解説されています。


フジバカマ、ヒヨドリバナなどは、食草というわけではなく.成虫が好んで吸蜜する花のようです。


ウィキペディアの解説を続けて引用すると、「成虫のオスがよく集まるヒヨドリバナやフジバカマ、スナビキソウなどには、ピロリジジンアルカロイド(PA)が含まれ、オスは性フェロモン分泌のためにピロリジジンアルカロイドの摂取が必要と考えられている」とのことです。


ところで、大雄山の第1・第2フジバカマ園で、アサギマダラの写真をたくさん撮りました。一部だけ掲載します。


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羽の模様が違う蝶が混ざっています。


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生来の模様と言うよりは、何かいたずら書きのようにも見えます。


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よく見ると「OKU」というローマ字が読みとれる気がします。


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そう言えば、この看板を見て、疑問に思ったことがありました。下の方に小さな文字で、「マーキング調査のためフジバカマを育てています」と書いてあります。「マーキング調査」??とっさには理解できず,後で調べてみますと、この蝶の移動情報など,生態を調査する取り組みのようです。


アサギマダラのマーキングとは
数千kmもの距離を旅する蝶、アサギマダラの移動状況調査のため、全国有志、団体が各地で蝶の翅にマーキングを施し、再捕獲情報を共有。再捕獲情報から移動ルートや時期、移動距離などが判明。近年、関連書籍などが発行され、NHKなどのメディアでも取り上げられています。 マーキングは1980年代から鹿児島で始まったとされています。1983年には「大阪のアサギマダラを調べる会」が発足し、会誌などでも活動事例が紹介され、徐々に活動が全国に広まりました。インターネット環境の普及に伴い、各地で行われているマーキングの情報共有や検索が容易になり、近年急速に拡大しているようです。
(中略)
アサギマダラのマーキング方法
マーキングの際は、翅など傷つけないよう優しい材質の補虫網で、吸蜜などでじっとしているところを下から掬うようにして網の中に捕らえます。下記(1)~(5)のようにマーキングを行った後は、優しく放します。
(1)ハネをやさしく持って、少しの間、台紙に乗せる
(2)台帳の固体番号を確認、記録日時を記入、性別、破損度、捕獲者・記録者を記入 ※オスは後ハネが一部黒くなっています。赤城自然園に飛来する個体の多くがオスです
(3)片面に、【日付】【標識コード・固体番号】を記入 (筆圧は触れる程度でやさしく) ※記入は、市販の油性ペンを使用
【参考】
https://akagishizenen.jp/asagimadara/marking/


この蝶が、遠く韃靼海峡を越えて、シベリアの少年に発見されることを想像すると面白いです。


アサギマダラたちに混じって、ヒメアカタテハも、吸蜜に余念がありません。


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今日の付録。


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今日はこれにて。


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アサギマダラ再び、の巻 [日録]

私が少しお手伝いをしている教育相談所の相談員仲間であるN山さんが、先日、ふとした雑談の中でアサギマダラを話題にされ、「大雄山にいらっしゃいましたか?」と問われました。


私は全く見当がつかず、「どこ?」と問い返しましたところ、瀬戸内市邑久町にある山で、山頂の展望台付近にフジバカマが植栽され、そこに多数のアサギマダラが飛来するののだとか。そして10月の今の時期が適季なのだと教えてくださいました。


大いに心引かれましたが、忙しさにかまけて日が経ちました。今日は少し余裕ができたので、思い切って出かけてみました。


地図は見てから出かけたのですが、道に迷いました。私の乗る中古車は、元の持ち主がカーナビを搭載してくださっていましたが、データが古いのか、肝心なときに役に立たないことが多いのです。スマホの道案内に頼って、何度も迷い道しては引き返しながら、ようやく立派なお寺の前に出ました。


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帰って調べてみると、大雄山大賀島寺(だいゆうざんおおがしまじ)は「奈良時代に報恩大師が創建した備前四十八ヶ寺の一つと伝えられる古刹。戦国大名・宇喜多家や岡山藩主・池田家の尊崇が厚く、ゆかりの古文書や用具などが伝わっている。」とありました。


ちょうど農作業中らしいご近所の方を見かけ、「展望台」への道を尋ねると、「ここを左に曲がって少し言ったところですが、車でも行けますよ。」と教えてくださいました。


上り詰めると、素晴らしい見晴らしです。その名も「アサギ平」の看板がありました。


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少し離れた2カ所に新旧の「フジババカマ園」がありました。


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居合わせたカメラマンさんたちのお噂では、地元TVのRSK山陽放送が、二・三日前に取材に来たが、その時はたくさんの蝶が現れたが、今日は少し少なめ、とか。


「おー来た来た!夢があるでしょう。」海を越え1000キロ以上移動「旅するチョウ」が大雄山にやってきた【岡山】(RSK山陽放送) - goo ニュースhttps://news.goo.ne.jp/article/rsk/region/rsk-776123.html


それでも、十分堪能させてもらいました。


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ところで、過去記事でも、アサギマダラの写真を載せたことがありました。


今年も晴れた10月10日、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2019-10-10)


深山公園では、ヒヨドリバナが群生する場所に、アサギマダラがいくつも舞っていました。

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アサギマダラの食草としては、フジバカマがよく知られていますが、よく似たヒヨドリ花も好きなようです。


アサギマダラに関する記事も、何度か書きました。愛知在住の旧友ハチロークンについて,前回記事にいろいろ書いた中で、夏の終わりの高知行、の巻(その5)(2016-09-02)を引きましたが、別の箇所を引用します。


さて、昨日までの記事で、思わせせぶりに先のばしてきた、今回の高知行の第2の目的とは?

高知が生んだ反戦詩人、槇村浩ゆかりの地を訪ねたいという「宿願」を達成することでした。
槇村浩については、これまでこんな記事を書いてきました。
◆サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻◆「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻
◆槙村浩と三月一日◆ビクトルハラをカーラジオで聞くの巻◆もうひとつの911
◆懐かしき便り嬉しき聖夜かなの記事では、こんなことを書きました。

もう一つの郵便物は、高知のN先輩からサークル会誌第11号が同封されたお便り。 (省略)この会誌11号は、ほとんどこのN先輩が中心に編集・発行してくださっています。(中略)

巻末の「事務局だより」に、高知県生まれの詩人槙村浩(まきむらこう)の生誕100周年を記念して今年11月に出版された雑誌『ダッタン海峡』10号の紹介があり、別刷りで、雑誌『ダッタン海峡』10号の目次を印刷してくださっていました。

雑誌『ダッタン海峡』は、「ダッタン海峡——ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××革命の同志たちに——」と題する槙村浩の詩のタイトルにちなんで名付けられた雑誌のようです。高知市枡形にある「平和資料館・草の家」のこの記事 が参考になります。


ついでにこの過去記事も引用しておきます。


サトキマダラヒカゲは海峡を越えるか、の巻


昭和初期の詩に
てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った
という、際だって短い作品があります。(中略)ところで、「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。

ダッタン海峡
――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに――
槇村浩

(中略)

つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。

文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。 児玉由紀恵記者
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。
〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉
この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。
多喜二虐殺の時代
前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。
この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。
日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。
「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のたたかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」
2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。
槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」
「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。
槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。
31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。
36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没

貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。(2012年06月24日,「赤旗」

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。

この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。
さらに実は、今週末、ここに書いたN先輩らのお骨折りで、当時の知己や遠い先輩、後輩たちが集う同窓会が高知で予定されています。
前回は2013年の夏に開かれ、↓この記事にあらましを紹介しました。私にとっては、肺癌手術を終えて、退院直後の頃でした。

夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて

懐かしい方々との再会に心弾み、指折り数えて週末を待っているところです。



ダッタン海峡を越えた蝶はアサギマダラだろうかと言われているそうですね。(中略)アサギマダラは「浅葱斑」。浅葱色 (薄い葱の葉のような、藍染の薄い青色)の斑模様にちなんだネーミング。「浅葱」を「浅黄」と書く場合がありますがこれは誤用、ということらしい。

今日はこれにて。


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ガラパゴスへの転居?の巻 [日録]

先日、愛知県在住の旧友ハチロークンが、『不意の電話』をくれました(いつものことですが---)。

ハチロークンは、当ブログの常連登場人物です。

例えばこんな記事。またまた追伸、の巻(2021-09-27)

先月、「学生時代の友人(後輩)S女史が、高知県議補選に立候補することになった」との記事を書きました。

思いもかけない大ニュース!の巻(2021-08-18)

候補者の安田せつ子さんとは浅からぬ縁があります。

第一は、大学の同じ学部、学科、専攻の後輩です。私は勉強好きでしたから、語学をはじめ一般教養の授業なども含めて数年がかりで習得しましたから、同じ授業やゼミでも、しばしばご一緒しました。

第二は、わが妻と同郷で、高校の同級生、大学入学当時は下宿まで同じでしたので、いきおい、しばしば共に行動する機会もありました。

第三は、ですから、卒業後も、妻とともに里帰りしたときなど、実家近くでお会いすることもある「昵懇」の間柄だったといえまず。

第四は、県は違っても、共に教職に就き、組合運動にも携わってきた共通点から、実際にお目にかかる機会は稀であっても、変わらず心通じる間柄だったと言えます。

第五は、当ブログでもしばしばご紹介している、数年前から何度か開かれている大学時代のサークルの同窓会でお目にかかる機会が増えました。

その後のことを書かねばと思ううちに、すっかり時間が経ちました。

そうこうしているうちに、愛知に住む旧友ハチロークンが、今日、思いがけず、何枚かの新聞コピーを送ってくれました。ハチロークンは、まめな人で、旧い友人たちの消息や近況を、丹念にウォッチングしていて、しばしば新聞切り抜きなどを添えて教えてくれます。たとえばこんな記事の場合のように、、、。

難読お名前クイズだ!の巻(2019-03-11)

難読人名クイズです。 次のAさん、Bさんの姓は、それぞれなんとお読みすればよいでしょうか 。

A 榑松さん

B 川后さん

学生時代からの古い友人で、愛知在住のハチロークンは、当ブログの常連登場メンバーです。最近では忘れてました、の巻(2019-02-21)にも、ちらりと登場願いました。そのハチロークンが、いつだったか「日本広しといえども(あるいは、愛知県内で、と言ったかも知れません)榑松、川后の両方が読める人物、しかも両方と面識がある人物は自分だけではないかと思う」などとヘンな自慢をしていたことを思い出します。

よいことを一つすれば、花さき山に一つ花が咲く、の巻(2019-01-18)

たぶん、ほとんど取るに足りない事実の紹介になりますが、実は、この方(注 郵便不正事件で誤認逮捕された元厚労省事務次官の村木厚子氏のこと)、大学の後輩にあたります。経済学科にも親しい友人がいましたし、そのうちの何人かは、確か、この方と同期のはずです。そういう面々とともに、同じ授業や講座を受けていたことがあったかも知れないと思うのですが、記憶はあいまいです。

当ブログ、故郷自慢や友達自慢がしょっちゅう登場しますが、今回はそのどちらでもなく、袖すり合うも多生の縁のレベルのささやかな「縁」のお噂になります。
事件後に、当ブログにもしばしば登場いいただくわが故旧のひとりハチロークンと交わした会話によると、彼は私より一年下であるだけに、彼女とも学年が近く、教授からも一目置かれていた彼女の優秀さをよく憶えているそうです。堅実・誠実な人柄と報じられる不正とのギャップから、えん罪であることは疑う余地もなかったのですが、160日にも及ぶ拘置に耐えた、粘り強い孤独なたたかいで、見事に無罪を勝ち取られたことに、頭の下がる思いでおりましたが、今日の番組で生の声をお聞きし、強く胸を打たれました。

ふと見かけたアトリ、の巻(2017-11-29)

この会を企画してくれたハチロークンの司会で、大学卒業以来今日までの半生を、「一人5分」で語ろうという提案に、こもごも語られる歴史は、それぞれ「山あり谷あり」がキーワードとなる、波乱に富んだ歩みでした。この日の出席者はいずれも「後輩」に当たりますが、ふかいリスペクトの思いなしに聞くことはできませんでした。
ところで、上述のハチロークンは、私のブログの常連出演者です。
たとえば、最近も、ミーハー雑感、の巻に、こんなことを書きました

ハチロークンには、以前この記事にご登場願いました。
夏の終わりの高知行、の巻(その5)

槙村浩について、私は、2014年12月24日のこの記事で、「槙村浩については、また、別の機会に触れたいと思っています。」と書きました。この約束の実行を何度か試みましたが、いつも挫けて、先延ばししてきました。
今日は少しだけ、書いてみたいと思います。 (中略) 冊子「槙村浩生誕100周年特集『ダッタン海峡10号』」(中略)が配達されて、ぱらぱらと斜め読みをしているちょうどその日の夜、愛知に住む古い友人のI君から電話をいただきました。
I君は、学生時代、同じ学科、同じ専攻の一年下で、なんと、当時私の間借りしていた下宿の、隣室に入居してきて、当時ご存命だったお父様と一緒に「引っ越し挨拶」に私の部屋を覗かれたのが最初の出会いでした。
部屋には個室のバス・トイレはもとより、共同の風呂もなく、トイレは母屋のものを共同使用、洗濯機も共同使用、台所も、冷蔵庫も、エアコンも、テレビも、電 話もない、「シンプル」そのものの、昔ながらの下宿生活でしたが、それ故、ある種の共同生活に似た親密な交際が始まりました。
これを綴れば、世にあるいろいろな「青春記」の上を行く、愉快でペーソスを帯びたスリリングなドラマが生まれるはずですが、それはまたの機会に譲ります。  同一下宿での共同生活は一年ほどで終わり、それぞれに別の下宿先やアパートに引っ越しましたが、大学・私生活を問わず、濃密な交友が卒業まで続きました。
卒業後は、住む場所も仕事も隔たって、彼は、学術書を中心とする出版業の中心的役割を得て奮闘を重ね、今は退職生活に入っています。何年かに一度、同窓会のような場で出会うレベルの頻度でのおつきあいですが、一瞬で当時に戻ります。
最近では、去年の11月、この記事で書いた出会いを楽しんだばかりです。
その彼からの、突然の電話の要件は、たまたま、 槙村浩と『ダッタン海峡10号』についてでした。
そして、きっといつか、高知市平和町の墓所にお参りをしたいねと約したことでした。 今日はここまでとし、またの機会に続きを書きたいと思います。

この記事で、愛知のI君と書いたのが、今の旅の弥次喜多散歩の相棒、ハチロークンのことです。同じホテルに宿泊しましたので、午前中、待ち合わせて宿願を果たそうと思い立ったのです。

際限がないので、以下割愛します。

さて、今回、彼が送ってくれた新聞コピーの一部を紹介します。「高知民報」という地方紙のコピーです。彼は、自称、この新聞の「唯一の愛知県在住購読者」なのです。

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全国紙では詳細には報道されない記事に、候補者安田せつこさんの人柄がありありと思い浮かべられて、改めて懐かしさとともに深い感銘を覚えたことでした。

真ん中の記事「安田節子さん第一声」のなかのこんなフレーズが、強く心に響きました。

「あなたが大切 にされる県政実現のために私を県議会に送ってください」    
「私は くらしと政冶は地続きだと思っています。声を上げ れば政治は変わる。暮ら しはよくなる。あきらめず しっかり声を上げ、声が集まり願いが叶う。私はこの声を集めて県政に届けたい-----一人ひとりが本当に大切にされる県政を一緒に作って参りましょう」

「地盤、看板、カバン」のいずれにもまったく縁がない、いわば政治のシロウトである彼女の訴えの、真実味と説得力は、おそらく少なからぬ人々の心をとらえたのではなかったでしょうか?

この安田節子さんについては最近のこの記事でも触れたばかりです。

らんまん外伝、の巻(2023-09-18)

私のお手伝いしている教育相談所の会報最新号が届きました。実はそこに私の投稿が掲載されているのです。その内容は、拙ブログ掲載の5月の一連の高知・佐川町訪問記をまとめて親しい友人・地人に送ったものをコンパクトにまとめた文章です。何ら新しい付け加えはありませんが(汗)

(中略)

(2)今年の5月、久しぶりに高知を訪ねる機会がありました。学生時代のサークルの「同窓会」への参加のためです。そのついでに、佐川町に立ち寄ることができました。

先の文章で「親しい友人の嫁ぎ先」と書いた「親しい友人」とは、大学で同じ専攻の後輩で、小学校教員退職の後、乞われて二〇二一年九月の県議補選に出馬、得票率43.5%と大健闘された安田せつこさんのことです。町の中には、まだ、選挙時の立て看板が残っており、あたかも町の風景の一部と化しています。その彼女が、牧野博士ゆかりの地を中心に、佐川を案内してくれるというので、数人の道連れとともに、お言葉に甘えることにしたのです


さて、ハチロークンのこのたびの電話の用件は・・・何だっけ?いつものことながら話題が多岐に及んで、主たる用件が思い出せません(笑い)。一つは、学生時代のサークルの同窓会誌の話題でした。ハチロークンもこれに執筆し,私も駄文を寄稿しました。拙ブログの過去記事を継ぎ合わせたこんな記事でした。

まいふぇばれいと短歌・俳句  (第十回)

(1)鮟鱇も目に泪
新年早々、気のせいか頭痛を感じるときがありました。熱はありません。理由として思い当たるのは、年末のインフルエンザワクチン接種に続く新年早々のコロナワククチン5回目接種のせいでしょうか?あるいは、相前後しての歯科治療のせいで、全身に無駄な力が入り、肩こりその他、筋肉の痛みが残ったかも知れぬと考えてみたりもしました。
コロナ流行以来、「不要不急」の通院を避けてきた経緯があって、歯科医通いも久しぶりになります。メンテナンスの案内ハガキをいただいておりながら、長くほったらかしにしていました。前回の受診は、拙ブログの記事をもとに思い返せば、二〇一八年の暮れでしたか?さらにさかのぼる二〇一五年春先の受診について、ブログにこんな記事を書いています。

鮟鱇も目には泪か寒戻り(2015-03-23)
2007年の脳動脈瘤の手術、2013年の肺癌の手術、どちらも、オペの前に執刀医が「頑張りましょう」と声を掛けてくださり、オペ中も、麻酔でうつらうつらしている中で、「大丈夫ですか~?頑張って~」とドクターの声が聞こえてきます。
でも、点滴針から伸びる管や、計器につながった配線が身体にまとわりつく姿のままベッドに固定され、半身、または全身の麻酔によって身動きならない状態で、頑張ろうにも、頑張れることはありません。「頑張ってください。」は、こちらのセリフで、心身共に消耗する長時間の手術を、頑張って遂行してくださるのは、あなたがた医療スタッフの皆さんでしょ。と反論したくなりましたが、それは遠慮して、「はい」とうなずいたものでした。
それに引き替え、この、歯科の治療は、患者も正味、頑張ることが求められますね。治療中にこんな句が浮びました。
鮟鱇のやうなおおぐちあけてゐる
つるされた鮟鱇のごと為すが儘
鮟鱇も目には泪か寒戻り
この大口を空いている様は、何に似ているだろうか、ワニかカバか、と想像をめぐらすうちに、吊し切りのために吊された鮟鱇の姿が目に浮かんだのでした。もちろん、イメージの背景にはこの句がありました。
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる 加藤楸邨
帰宅後、ちょいと探してみますと、こんな句もあるそうです。
泪目のまゝ鮟鱇の割かれけり 佐々木 鳴子
鮟鱇のあぎと全開宙にあり 野口 明子
吊されて老鮟鱇の無念かな 有永 実
とめどなき大鮟鱇の涎かな 岡田 耿陽
鮟鱇に似て口ひらく無為の日々 木下 夕爾
それにしても、無理してあんぐり口を開けたせいで、顎が痛いし、肩、首筋、こめかみなど、あちこちが凝って痛い上に、治療した歯の歯茎は腫れ、飲食物がしみます。
削られて歯の痛み増す寒戻り

(2)ハチマルニーマル異聞
しばらく後の記事にこんなことをかいています。
春長けてハチマルニーマルを考える、の巻(2015-03-30)
「八〇二〇(ハチマルニーマル)運動」という言葉には、聞き覚えがありましょう。
一九八九年(平成元年)より厚生省(当時)と日本歯科医師会が推進している「八〇歳になっても二〇本以上自分の歯を保とう」という運動だそうです。
愛知県に住む私の親しい友人I君が、以前、電話のよもやま話で、「八〇二〇(ハチマルニーマル)」の二〇(ニーマル)は、頑張れば大丈夫そうだが、八〇(ハチマル)のほうが、怪しいね」と、出色のジョークを飛ばしていました。「座布団一枚」です。このネタ、著作権は彼に属しますが、使わせて貰いますよ。
「八〇(ハチマル)」の方の保障はおぼつきませんが、「二〇(ニーマル)」目指して今日も歯医者通いです。このネタは、つい先日も友人に披露したところです。
予約なしの飛び込みでしたので、多少待たされましたが、待合室で米朝会談の模様が中継されていました。額面通りには受け取れない狸と狐の政治ショーだったとしても、あの握手と軍事衝突回避・和平への歩みは、歴史の進むべき道、国際世論の求めるところでしょう。

ちなみに、ここに登場する「愛知県に住む私の親しい友人I君」とは、我々世代の同研仲間、ハチロー君です。彼は、現役時代はパソコンも使ったそうですが、今は、パソコンもケータイも(もちろんスマホも)使わず、従ってネットにも縁がなく、文章は手書き、コミュニケーションは電話とファックスで済ますという浮世離れの生活をしているらしく、そのため、わがブログも一切読んではくれません。――「浮世離れと」とはいうものの、新聞や雑誌・書籍を通じての情報収集には熱心で、特に新聞の投稿欄や死亡欄には常に目を通し、一種マニア的(偏執的)に、消息に通じているのは、知る人ぞ知るところですが。

(3)鮟鱇も開いたる口が塞がらず
話題を引用記事に戻します。「額面通りには受け取れない狸と狐の政治ショー」であったにせよ、「軍事衝突回避・和平への歩み」の兆しがわずかに垣間見えたかと見えたあの米朝会談からわずか数年で、今日の前世紀的な軍事緊張に世界が席巻されることになろうとは、予測することもできなかった不明・うかつさを恥じるばかりです。
世界の人々の平和への希求を嘲弄して憚らないプーチン・ロシアの暴虐は時代錯誤と言わざるを得ませんが、その手を縛ることができるのは、国連憲章の誠実な遵守を求める国際世論を結集して暴虐を包囲し孤立させて道理に従わせる外交努力以外にはありません。憲法九条を持つ日本政府の役目はその方向にこそ発揮されるべきでしょう。
ところが岸田内閣は、ウクライナ危機に乗じて、また、中国・北朝鮮の拡張主義との緊張状態を強調しながら、歴代政府が表明してきた安保政策の大転換と軍備拡張への道を急いでいます。戦後の歴代政権が一貫して否定してきた敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有や、軍事費倍増を明記した「安保3文書」を閣議決定し、湾岸戦争・アフガン戦争で都市を破壊し、多数の人々を殺傷した長距離巡航ミサイル・トマホークを、自衛隊に実戦配備するなどをアメリカに約束。要請があれば日本が攻撃されていないもとでも、敵基地攻撃を実行する準備をすすめています。
国会にもはからず、国民の審判を仰ぐこともなく、独断専行で安保政策の大転換へと突っ走る岸田政権の専横ぶりを見かねて、当然と言えば当然ですが、自民党内の重鎮のなかからも危惧の声が漏れてきているそうです。こんな記事をメモしておきます。
「河野洋平氏、防衛政策転換『安倍政治が問題』外交努力足りないと『報道特集』で指摘」( デイリースポーツ1月7日)
元自民党総裁・河野洋平氏が7日、TBS系「報道特集」に出演し、岸田内閣の防衛政策について批判した。防衛費倍増、反撃能力の保有などについて河野氏は「尊い命を犠牲にして、われわれ今ここに繁栄を得ているのです。『決して忘れません、決してあの過ちは繰り返しません』。何十年もですね、言い続けてその結果がこの政策転換というのはわたしはあり得ないと思っている」とコメントした。
転換の起点については「安倍政治っていうものに非常に大きな問題があったと思う」と安倍晋三元首相が出発点だったと指摘。安倍氏、菅義偉氏とバトンを受け継いだ岸田文雄首相の時には「勢いがついていた」と流れができてしまっていたとした。「少なくとも国会で議論をする。これをテーマに解散して総選挙で国民の意思を問うくらい重要な問題」とした。(中略)
さらに「反撃能力っていうのは武力による威嚇ですよね」と明言。「威嚇を予算化しようとしている。政治や外交の努力を抜きにして、ただ壁だけを建てていく。壁の隙間から向こうへ鉄砲を狙うのは本当の安全だとは思わない」と、・・・持論を展開した。
「聞く力」を標榜するキシダさん。お身内からの忠言に対してすら聞く耳持たぬとは情けない限りです。
「平和を望むなら戦争を準備せよ」というラテン語のことわざを引用し、「平和を望むならば平和を準備した方がいい。・・・準備は容易に本当の戦争の方へ近付いていく。非常に早く」と語った故加藤周一さん(評論家・「九条の会」呼びかけ人の一人)の言葉が、重みを増す今日この頃です。
このまま安直な政治論文で終わっては気が咎めますので、話題を俳句に戻します。
鮟鱇の句にはこんなものもありました。
鮟鱇の大口あいて笑ふ哉 寺田寅彦
作者の寺田寅彦は、言わずと知れた高知出身の物理学者で、漱石の弟子。『吾輩は猫である』に登場する理学士寒村君のモデルです。母校の追手前高校の前に建つ銅像には「「ねえ君、不思議だと思いませんか 寺田寅彦」と刻んであります。
全く不思議です。敵基地攻撃能力で国を守れるなんて、一国の総理たる人が本気で考えているのでしょうか?軍備には軍備、ミサイルにはミサイル、核には核、恫喝には恫喝では、緊張をエスカレートさせるだけ。
鮟鱇だってあきれて笑い出しましょうとも。
最後に駄句。
鮟鱇も開いたる口が塞がらず

この投稿の「今は、パソコンもケータイも(もちろんスマホも)使わず、従ってネットにも縁がなく、文章は手書き、コミュニケーションは電話とファックスで済ますという浮世離れの生活をしているらしく、そのため、わがブログも一切読んではくれません」の部分が改めて話題にのぼり、話に花が咲きました。

彼曰く「近く住民票を移さねばと思っている」私,問うて曰く「何処へ?」彼曰く「ガラパゴスへ」---

彼は、重ねて曰く、最近まで「ガラケー」の意味も知らなかった。ガラケーとスマホの違いもわからぬ。ブログとはなんぞや?ホームページとはどう違う?フェイスブックやらlineやら、紛らわしい限り。

私が「ブログとは,ウェブログ。ウェブ上の日記のようなもの」としどろもどろの説明を試みると「何故に私的な日記を公開するのか、わからぬ」と問う---。このような禅問答が続いたことでした。

ところで、ハチロークンのご夫人は、連句を嗜まれる一方で、プログラミングなどもなさるほどコンピューターが堪能で、郵便のほかには家電話とFAXしか使わない夫の代わりに、メールやLINEのやりとりも(見かねて?)代行してくださる由。時には拙ブログをも閲覧してくださっているそうな(恐縮です)。

恐縮ついでに、「何故に私的な日記を公開するのか?」との問いへの、私なりの弁明を以下、試みますので、よしなにご伝達いただけると幸いです。


私にとってのブログの意義について、こんなことを書きました。奇しくも一昨年の今頃の記事です。

日本の夜明け、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(

2021-10-16)

ブログ更新が滞っています。

理由は多々ありますが、最大のものは、今一つモチベーションが上がらないことによるようです。

と言うのも、当ブログの最も熱心(?)な「読者」の一人である郷里の老父が、ここのところしばらくブログチェックをしていない状態が続いています。以前だと、ほぼ毎日チェックして、更新間隔が2~3日開くと、何かあったか、体調が悪いのかと、心配の連絡をよこしてくることもしばしばでしたから、、、。

ところがその父が、9月の終わり頃から、入院生活を続けています。(中略)

ところで、ブログ読者としての父の存在は、そもそも当ブログの執筆動機そのものにも関連しているのでした。そのあたりの事情はこんな記事にも書きました。

気がつけば へなちょこブログも三年目、の巻(2015-08-21)

私のへなちょこブログも3年目を迎えました。私にとっては、現在のところ、最も律儀におつきあいしている「趣味」はこれでしょう。

「趣味は?」と聞かれて答えに窮することは、子どもの頃からの習いでした。小中学生の頃は「読書」などと答えておりましたが、すぐに現実と離反するようになって、破綻に瀕してしまったことでした。
学生の頃「不平を言うこと」という名答を考案し(実はこれもある方からのパクリでした)、これは気に入っておりましたが、社会人になってからは自ずと出番がなくなりました。
以来、「無趣味」と答え続ける半生でした。    
〈中略)

さて、そんな私が、退職を前にして、内心焦りを感じた時期がありました。「~ねばならない」で生きてきて、その枠組みが外れると,自分を見失い,気力も生き甲斐も薄らいでしまう、なんてことになりかねない。「~ねばならない」から「~たい」への生き方の転換が必要だ。さしずめ「趣味をもたねばならない」と、思い至ったのです。やっぱり「~ねばならない」に縛られ続けていますが(笑)
そこで考えました。新たな趣味の必須条件は?
・やって楽しいこと。
・憂さを忘れられること。
・少しの努力で,長く続けられること。
・足跡が何か残ること。
・人と上達を比べられて落ち込まなくてもよいこと。
・出費が少なくてすむこと。
・体力、運動能力が求められなくてすむこと。
自覚的に、言語で意識したことはありませんでしたが,あえて箇条書きにすればこんな虫のいい条件がぐるぐる脳裏を回っていたのでしょう。
今思えば、「ブログ」という帰結は、結果的にですが、これらの虫のいい条件を、すべてみごとにクリアーしてますね。
私のブログ開始は、正確には、退職の瞬間から即時というわけではなく、いくらかタイムラグがありまして、癌手術を経てのリハビリ過程で、退屈しのぎのすさびごととして始めたというのが、経過です。
その時漠然と期待したのは、

①忘れっぽい自分の備忘録(紙に書く日記は,続けられないので)、

②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、

③自分自身の何らかの存在確認、などの雑多な要素を、お気軽に満たしてくれそうだという点。

今、三年目を迎えられていることをみれば、この予感は、まんざら外れてはいなかったようです。

私の意識の中では、上記記事の箇条書きの「②日頃ご無沙汰している友人、知人への消息、安否報告、生存確認、」の「友人、知人」の後ろに「家族」が書き加えられるべきであり、そこに父が含まれることは言わずもがなのことでした。

「ブログ執筆のモチベーションが上がらない」という点とともに、いろいろ所用に追われて気ぜわしいというのも大きいです。スケジュールの合間を縫って郷里までの片道60km+病院までの20kmの往復がありますから、なかなかブログに気が向きません。そして、そんななか、総選挙が始まりましたから、余計に慌ただしい毎日です。

今日の付録。

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秋晴れの朝散歩、の巻 [カメラde散歩]

今朝の最低気温は12℃。冷涼な空気に秋を感じる朝でした。


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当地は,比較的稲刈の時期が遅いのですが、刈り入れの終わった田もありました。


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朝露を宿したネコジャラシ(エノコログサ)が朝日に輝いています。


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すっかり、コスモスの季節です。


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前回記事のあと、モズを見る機会が増えました。


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今日の付録。


電柱の上に止まっているのは?


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カワウです。


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ハクセキレイ。


IMGP0165爽やかな青空ですが、明日は雨だそうです。


今日はこれまで。


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『踊りの祭典』,の巻 [日録]

大阪へ行ってきました。

こんなイベントがあり、孫娘が出場するというので、駆けつけました。

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撮り鉄というわけではありませんが、新幹線の列車にはついついカメラを向けてしまします。

新大阪駅です。

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会場は大阪城ホールです。

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早めについたので,大阪城方面を散歩してみました。

数年ぶりです。アフターコロナのインバウンドの影響は険所で、外国人観光客の姿が目立ちます。

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空の雲を映したビルの壁にもカメラが向きます。

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イベントの様子は、孫娘の姿を中心にたくさん写しましたが、個人情報の配慮もありますので,掲載は省略させていただきます。

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下の写真は、主催者がネット上に公開している全体集合写真です。

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帰りの大阪駅でも新幹線を写しました。

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今日はこれにて。


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ようやく今年のモズを見た,の巻 [カメラde散歩]

フェイスブック2013年9月19日付過去記事にこんなことを書いています。


モズの高鳴きを聞くようになりました。

「百舌」というくらいですから、色々の鳥のさえずりを真似るそうです。

今朝は、耳慣れない小鳥が鳴いているなと思って屋根を見上げたら、この姿でした。色々歌って、時々「キー、キチキチキチ」と本来の鳴き声が混じります。

これから、冬にかけて彼に出会うことも多くなるでしょう。

詳しい記事は、

http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2013-09-29



2014年9月付けブログでは・・・


高鳴きもはにかみがちの今朝の百舌


最近、百舌の高鳴きを聞くようになりました。
まだ時期が早いのか、心なしか、はにかみがちに聞こえます。

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百舌については、去年、この記事を書きました。

9月29日 10月27日


例年、9月のうちにモズを見ることが多いように記憶しています。


ようやく今朝になって、今年初めてモズを確認しました。


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秋の到来を感じさせるものの一つに,キンモクセイの花がありますが、例年だと10月の初めにその香りに気づきます。我が家の玄関先にも植えていて、毎年秋を知らせてくれていましたが、その根が地中にはびこって下水管にいたずらをするので、この夏,ほかの幾種類かの植木と一緒に切り倒してもらいました。さびしいことです。ですので我が家軒で確かめることはできませんが、今年はまだ咲いていないようです。


それにしても、ようやく涼しくなりました。


今朝も散歩は長袖です。


散歩中、足下からカワセミが飛び立ち、広々とした稲田を滑空していくのを、なんと3回も見ましたが、カメラで追う余裕はありませんでした。


写せたのは、アオサギとダイサギのコラボくらい・・・


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今朝の散歩は、汗だくになることもなく、興に乗って歩くうちに、一万歩超、8km余りになりました。


薄曇りの空は、暑さの心配はありませんが、写真にとっては光の加減がやや、いまいちでした。


PENTAX *istdl+SMC PENTAX-F FISH EYE 17-28mm F3.5-4.5(中古)にて。いわゆる魚眼レンズなのですが、極端な湾曲画像は扱いが難しく、広角レンズ的な使い方が無難なようです。


早朝の薄暗さと,曇り空との相乗効果で、光量不足が否めません。


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天使の階段が,水面に映っています。


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6時50分過ぎ。だんだんと明るくなってきました。


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稲田の向こうに聳えるのは常山です。


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一緒に持ち歩いたオリンパスE520+ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm F4.0-5.6で、朝の電車を写しました。


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実りの秋の田園風景。


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PENTAX *istdlは、2005年発売。


SMC PENTAX-F FISH EYE 17-28mm はさらに古く、1990年代の製品。


一方OLYMPUSE520、及び、ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm は、いずれも2007年発売で、少しだけ新しいのですが、十分オールドカメラ/レンズです。でも、まだまだ働いてもらいます。・


今日はここまで。


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10月になりました、の巻 [日録]

10月になりました。

さすがに今朝は、長袖が必要でした。昼間は日差しは強いけれど、空気が爽やかでした。

昨日、10月1日は、小3の孫が運動会。小学校入学した時から、コロナ対策で、競技らしい競技を経験できず、リレーを走るのも初めて、玉入れも初めて、初めてのあれこれを経験したようです。ただ、規模縮小型で、午前中のみ。家族とともにお弁当を応援席で食べる運動会ならではの光景は、今年もありませんでした。

夜は自治会の会議。集金や各種の支払いなど、会計の仕事もてんやわんや。帳簿付け、銀行預金その他、必要な処理が一応のめどが立つまで、今日一日かかりました。義務的仕事に拘束されていると、気晴らしへの渇望抑えがく、時間の余裕もないなか、ちょいと写真整理に励みました。

シギのストック箱2023.09-2:ナードサークの貯蔵庫:SSブログ (ss-blog.jp)

↑こちらのページに、幾点かアップしておきました。

例えばhttps://kazgphpto.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_959/kazgphpto/K1IM0471.jpg?c=a1

今日はこれにて。


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