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らんまん外伝、の巻 [日録]

私のお手伝いしている教育相談所の会報最新号が届きました。実はそこに私の投稿が掲載されているのです。その内容は、拙ブログ掲載の5月の一連の高知・佐川町訪問記をまとめて親しい友人・地人に送ったものをコンパクトにまとめた文章です。何ら新しい付け加えはありませんが(汗)




らんまん外伝(抄)


(1)NHKの朝ドラ「らんまん」が、好評です。酒蔵「峰屋」の跡取りとして高知県佐川町に生まれた槙野万太郎が主人公。モデルは、植物学者牧野富太郎博士です。


郷里が舞台となった番組前半では「民権ばあさん」こと楠野喜江など、熱い民権活動家群像が登場しますが、若き日の牧野富太郎自身、地元佐川で自由民権運動に参画していたそうです。「高知新聞」の記事(「学問の自由を求めた政治活動」シン・マキノ伝【13】=第2部=牧野記念庭園学芸員田中純子さん執筆)をお借りします。


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「当時、土佐出身の板垣退助が指導する自由民権運動が広がりを見せる中、明治一四(一八八一)年、自由党が創設され、『自由は土佐の山間から出る』と言われるほど土佐では自由党が盛んとなった。当然、牧野も自由党員であった。牧野も政治に関する書物を読み、人間は自由・平等であるべきだという考えに共感していた。自由党の懇親会に参加していたことは、『土陽新聞』(明治一六年九月)の記事からも分かる。」


[写真は自由民権運動をしていたころの牧野富太郎(中央)と仲間たち=高知県立牧野植物園所蔵]


私ごとながら、佐川町は、学生時代、地域の「子ども会」の縁で、何度か足を運んだことがある土地ですし、親しい友人の嫁ぎ先でもあり、格別の親近感を覚える土地でもあります。


後に(「昭和」の終わりの頃でしたか)、職場の職員旅行の際、「司牡丹酒造」の酒蔵を見学し「利き酒」を楽しんだこともありました。大吟醸とか純米酒とか、色々ある酒の種類を利き分けるクイズなどもあり、全問正解で「認定証」をいただいたことがありました。実は、同行のMさんの答えをチラチラ見ながら、カンニングさせていただいた結果でした(汗)が、それなりに確信を持って書いた答えではありました。悲しいことに、近年そのMさんの訃報に接することになりました。


(2)今年の5月、久しぶりに高知を訪ねる機会がありました。学生時代のサークルの「同窓会」への参加のためです。そのついでに、佐川町に立ち寄ることができました。


先の文章で「親しい友人の嫁ぎ先」と書いた「親しい友人」とは、大学で同じ専攻の後輩で、小学校教員退職の後、乞われて二〇二一年九月の県議補選に出馬、得票率43.5%と大健闘された安田せつこさんのことです。町の中には、まだ、選挙時の立て看板が残っており、あたかも町の風景の一部と化しています。その彼女が、牧野博士ゆかりの地を中心に、佐川を案内してくれるというので、数人の道連れとともに、お言葉に甘えることにしたのです。


待ち合わせ場所のJR佐川駅前を皮切りに、徒歩で町歩きを堪能しました。佐川町は、仁淀川の中流域に位置し, 古くから清流を利用して酒造が盛んだった由。牧野博士の生家「岸屋」をはじめ、かつてはたくさん存在したという造り酒屋を統合して、いま佐川の酒造りを一手に継承している司牡丹酒造の酒蔵が、整然としたたたずまいを見せています。


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「司牡丹」の名は、佐川出身の維新の志士で、後に明治政府の高官となった田中光顕が愛し「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」の一筆を寄せて命名したものとされています。


牧野博士の生家「岸屋」跡地に、大正時代の写真を手がかりに再生されたのが「牧野富太郎ふるさと館」。博士の遺品やゆかりの資料を展示してあります。


ふるさと館を経由し、佐川城址堀跡を横目に見ながら歩くと、メインの見学場所「牧野公園」に着きます。牧野公園は、牧野博士寄贈のソメイヨシノの苗を植えたことから整備され、昭和33年に公園内の町道が完成した時に「牧野公園」と称するようになったそうです。そこに生えている種々の植物には、克明にネームプレートが標示してあり、親切なことに、今開花中の花には、「咲」と標示されているのが嬉しいです。


「土佐の野山がわしの血肉じゃ!」のセリフが真実味を持って響く、豊かな植物相が、手厚い管理のもと、見事に命を輝かせています。「雑草ゆう草はないき。必ず名がある。天から与えられ、持って生まれた唯一無二の名があるはずじゃ」「わしは信じちゅうき。どの草花にも必ず、そこで生きる理由がある。この世に咲く意味がある」―――我がネットワークの想いにも通ずる言葉です。


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一番好きな花は、亡き母が愛した「バイカオウレン」で、この花の名前を知りたいということが、彼を植物学へ誘うきっかけだったと言います。あいにく今は花時期ではなかったため、こんな姿で存在をアピールしていました。


「春先にこの子が一面に咲いているのを見ると、光の粒がキラキラしゆうようです。」とテレビで万太郎が言うごとく、あたり一面、思いもかけない大規模な群生です。花時の様子は、まさしく言葉の通りだったろうと想像されます。花はよく似ているが葉が違う「セリバオウレン」も、見事な群生を見せてくれます。


ところで、妻、寿恵子さんのモデルとなった寿衛子夫人は、困窮に耐えて博士の学究活動を支え、55歳でこの世を去りますが、没後発見した新種の笹に、博士は夫人の名を取って「スエコザサ」と名付けたそうです。夫人の墓は、東京・谷中天王寺に博士の墓とともにあり、墓碑には博士の俳句が二句刻まれているそうです。


家守りし妻の恵みやわが学び


世の中のあらん限りやスエコ笹


(3)六月のはじめ、東京で開かれた「全退教」(退職教職員の全国組織)の総会に参加して来ました。一日目の夜、結成三〇周年のレセプションが開かれ、大勢の来賓の皆さんの挨拶に続いて、参加者も地域ブロックごとに発言や出し物を発表しました。


その中で、四国ブロックの高知から、朝ドラ「らんまん」にちなんだクイズが出題され、全問正解したら賞品が出ると言います。奇しくも、高知からの参加者の一人は、学生時代の親しい友人でもあり、懐かしさが募ります。しかも、直前に「現地視察」を体験してきたこの私、自信満々で臨んだ第一問は・・・・


「主人公のモデル牧野富太郎の出身地は「四万十ブルー」で知られる四万十川流域である。○か×か。」


これを間違ってなるものかと、瞬時に反応し、これ見よがしに大きなジェスチャーでアピールしながら○を選びました・・・。が、はずかしや!!「四万十ブルー」ではなく、正しくは「仁淀ブルー」の仁淀川でした。一問目で失格・リタイアのお粗末でした。


実は、仁淀川は、学生時代、その川原で新入生歓迎の交歓会などがもたれたこともあり、なじみ深い川でもあります。最近よく耳にする「仁淀ブルー」という言葉は,その頃は聞き覚えがなかったよな、と思って調べてみますと、二〇一二年三月に放映されたNHKスペシャル「仁淀川――青の神秘」がきっかけで、カメラマン高橋宣之と番組ディレクターとの会話の中から“仁淀ブルー” (NIYODO BLUE) という言葉が生まれたものだそうです。このことは、以前、ブログネタとして調べてあったのですが、『四万十』に引っかけられてしまいました(赤面)。


今日はこれにて。


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