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源流は土佐の山間に?、の巻 [日録]

「中央社会保障学校from岡山」という勉強会が開かれ、初日の昨日、参加してきました。2日目の今日は居住地の自治会の用事があり、参加できません。


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「NPO朝日訴訟の会」会長の則武弁護士による「朝日訴訟のたたかいの歴史から何を学ぶべきか」という記念講演を聴きました。


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講演は、詳細な資料とパワーポイント映像をもとに、このような構成で語られます。


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「2.生存権思想の源流は自由民権運動に」では、憲法25条の条項を掲げ、その源流に明治の自由民権思想があることを指摘。その例として植木枝盛「東洋大日本国国憲按」(1881年)を紹介されました。


憲法25条

第1項

すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

第2項

国は、すべての生活部面について,社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めねばならない


「東洋大日本国国憲按」

第44条

「日本ノ人民ハ生命ヲ全フシ四肢ヲ全フシ形体ヲ全フシ健康ヲ保チ面目ヲ保チ地上ノ物件ヲ使用スルノ權ヲ有ス」


とりわけ「面目ヲ保チ」の一句は、単なる生物的な生存にとどまらず、人間としての尊厳を重視した点に注目すべきと、則武弁護士は指摘されます。


続いて同じ植木枝盛の「貧民論」(1885年9月)の現代語訳を紹介され、その思想の先駆性を指摘されました。


貧民こそが生産の担い手であり富者はその寄生的消費者に過ぎず、国家財政を支える租税も一人一人の額は少ないが人口が圧倒的に多いので全体としては重要な部分を支えているのは貧民である。
しかも、なお彼らが貧民であるのは社会的原因に起因するものであって、個人の無知や怠惰によるものではない。
政治的権利においてもいささかも差別されてはならない。


ところで、少々脱線しますが、好評のうちに展開しているNHK朝ドラ「らんまん」 で、最近、主人公万太郎と思いがけない再会を果たすことになった郷里の民権活動家(現在は代議士となっている)早川逸馬のモデルは、ほかならぬ植木枝盛だそうです。


牧野富太郎と自由民権運動との関わりについては、テレビドラマでの展開を視聴する前に,こんな記事で触れたことがありました。


春らんまん、の巻(2023-04-06)


若き日の牧野富太郎自身、その郷里で自由民権運動に参画していたそうな。

「高知新聞プラス」の記事をお借りします。

「学問の自由を求めた政治活動」シン・マキノ伝【13】=第2部= 田中純子 (牧野記念庭園学芸員) | 高知新聞 (kochinews.co.jp)


当時、土佐出身の板垣退助が指導する自由民権運動が広がりを見せる中、明治14(1881)年、自由党が創設され、「自由は土佐の山間から出る」と言われるほど土佐では自由党が盛んとなった。当然、牧野も自由党員であった。牧野も政治に関する書物を読み、人間は自由・平等であるべきだという考えに共感していた。自由党の懇親会に参加していたことは、「土陽新聞」(明治16年9月)の記事からも分かる。これより後のことであろう、やがて自由党を脱退すること
を決めた。どうもわいわい言って騒いでいるだけで、国家のためなら政治家に限 ったことではなく、学問をやっても国家のためになろうと考えたからである。そして、やめる時に一芝居をうった。それは仁淀川の美しい河原で開かれた自由党懇親会に出席した時である。席半ばにして、特別に作らせた、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のいるところへ太陽が昇る図柄の旗を押し立て、世を風刺した新体詩を歌って会場を出た。その場にいた人たちはあっけにとられたという。

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写真は自由民権運動をしていたころの牧野富太郎(中央)と仲間たち=高知県立
牧野植物園所蔵


高校3年生の半ば過ぎ頃から、日本史の授業が近・現代に入り、ちょうどその頃読んでいた住井すゑ「橋のない川」(今井正の映画を学校行事として鑑賞したのがきっかけでした)の時代の空気感と重なる思いがして、中江兆民とその弟子植木枝盛、とか、「幸徳秋水名はデンジロー」といった人たちの名が、特別に親近感を持って胸に刻まれた記憶があります


自由民権運動や植木枝盛については、10年前のこの記事など、当ブログでも度々話題にしたことがありました。


高知の夏は、静かな雨だった。(2013-08-25)


石段の登り口に、板垣退助の像があります。明治維新、自由民権運動といった、「歴史」の出来事が、この地の同じ空気のもとで展開されたのだと、改めて感じさせられます。近代日本の巨大な動輪が、この地の若者達のエネルギーによって大きく前へと転がされたのです。
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昔、大学受験にこの地を訪れたときの心境を、後に歌にしてみたことがあったのを思い出しました。   
この土を維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや   
中江兆民や植木枝盛など、像を建てて顕彰されてはいませんが、見落とすことのできない思想家達も、この地の懐に抱かれて、自由壮大な進歩思想を紡いだのでしょう。
この前の衆院選・参院選の愛媛選挙に、続けて出馬して奮闘した植木正勝さんは、大学入学当時、「植木正勝が植木枝盛になるについての労働の役割」というダジャレめいた題の小文を、サークルの半ば私的な文集に寄せていたことを思い出します。


夏の終わりの土佐の旅、の巻(その1)(2016-08-29)


途中こんな碑がありました。


さすがに自由民権運動のメッカ。日常の当たり前さの中に、ごくさりげなく、数々の歴史の刻印がしるされていることに驚きます。
そういえば、昔、受験生時代の心境をこんな歌にしてみたことがありました。(◆悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り)参照 )   

この土を 維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや


「自由は土佐の山間より出づ」は、明治10年の立志社機関誌「海南新誌」創刊号に掲載された植木枝盛の文章に由来するそうです。




則武弁護士の記念講演は、全体において興味深く、逐一ご紹介したいところですが力が及びません。


一気に「7.おわりに」へ飛びます。ここでは朝日訴訟・最高裁での新井弁護士の陳述が紹介されるのですが、それはまさに、植木枝盛の「貧民論」の主張と、時空を超えて響き合うのでした。


(生活保護の目的は)資本主義経済の必然として大量に生み出される貧困層、いいかえればいくら努力しても能力を尽くしてもなお社会のしくみから不可避的に貧窮に陥ってゆかざるをえない多数の失業者・潜在的失業者・零細労・農・魚民たちに対し、(中略)あらゆる施策を講じて人間らしい生存権を保障しようとするところにあるということである。
   つまり今日の貧困は、個人的、偶発的な原因によって存在するのではなく、したがって貧困の解消と生存権の保障は、かかる社会的問題する社会的配慮ないし国家的施策としてなされなければならない必然性を有するのである。

そしてまた、ここにこそ国民の生存の保障が国家の恩恵ではなく、国民の権利、国民の義務としてなされるべき契機が有するといわなければならない。


20歳代の若さで、朝日訴訟の原告代理人となり手弁当でたたかった「新進気鋭」の弁護士新井章さんのお写真の若さに、本筋から離れた感慨を覚えました。


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新井章弁護士について、かつて触れたことがあったはずと思って探してみますと、こんな記事を書いたことがありました。


続すっかり忘れてました、の巻(2021-02-19)


先日の記事で朝日茂さんの『人間裁判』を話題にしました。これへのgonntan様のコメントに「この国では上級審にいくほど低級に、裁判官があからさまに国におもねるようになるという事実。自らの出世しか見えなくなるんでしょうね。それでいて、被害者に寄り添っているように言葉を弄する。良心に恥じる気持ちがあるんでしょうけど・・力にはならない。」といただきました。まったく同感と申し上げるしかありません。残念なことです。

朝日訴訟の浅沼(武)判決(1960年10月)、家永訴訟の杉本(良吉)判決(1970年7月)、そして近年では「極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題とを並べた議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」と明言して大飯原発(福井県)の運転差し止めを命じた樋口(英明)判決など、正義と公正に根ざした勇気ある判決が思い浮かびますが、それらは概して下級審の判決であって、上級審になるにつれて姿勢が後退しがちであることはよく知られています。しかも、このような勇気ある判決を下した裁判官の多くは、「見せしめ」的に左遷され後に続く者たちをすくませる材料にされるというのも、どうやら、かの業界では常識としてまかり通っているそうな。この国の情けない一断面というしかないですね。

公正と真実はとりあえず飾り棚の上に置き、まずもって「上」の意向を忖度すること、政治的力関係を『わきまえ』ることを至上の価値とし、出世と保身に汲々とするヒトタチからすれば、青臭く、融通がきかず、気に触るにちがいないこの勇気ある判決が少数ながらも存在するからこそ、司法への国民の信頼と希望のかろうじて保ち得ていることは、間違いのないところでしょう。

朝日訴訟における浅沼裁判長の判決を一部引用します。

「最低限度の生活」、すなわち「健康で文化的な生活水準」は、単なる生存の水準でなく、複雑な生活の基準であるから、算数的な明確さをもつて明らかにされる性質のものではないけれども、社会的、経済的な意味では客観的、一義的に存在するものというべきであるし、又それは時と場所をこえて絶対的に存在するものとまではいえず、各国の生活様式や生活水準により、あるいは年々の時代的、歴史的な発展段階に応じて相対的に決定されるものではあるが、さりとて変転常ならず一義的には決せられない性質のものではなく、特定の国の特定の時期的段階における生活状況の中ではやはり客観的、一義的に存在し、科学的、合理的に算定可能のものと考えられる。したがつてそれは年々の国家の予算額や政治的努力の如何によつて左右されるべきものでないことは当然である。しかして被告の定めた保護の基準によると、原告のように入院入所3ケ月以上の要保護患者は生活扶助として、1カ月当り金600円を最高限度とする日用品費が支給されることになつているが、1カ月当り金600円では後述の補食費を日用品費から除外するとしても、原告ら要保護患者の健康で文化的な生活の最低限度を維持するに足る費用を著しく下廻り、要保護者の年令別、性別、その他保護の種類等に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものとはとうていいえないのであるから、右基準は生活保護法第3条、第5条、第8条第2項に違背するものというべく、右基準に基いてなされた本件保護変更決定は違法である。

素人の私の胸にもストンと落ちる、血の通った判決です。ネット上に、朝日訴訟も家永訴訟も弁護団の一人として担当され、「人間裁判」という名称の考案者・名付け親でもあった新井章さんの証言が、NHKのアーカイブスの中に収録されています。浅沼氏ら東京地裁の三人の裁判官が、遠く岡山県・早島町の療養所まで臨床尋問に訪問したときのことが印象的です。

その浅沼さんたちと一緒にちょうどこれは朝日さんの部屋ですから、3年ぐらい前に最初に訪ねた時の朝日さんの証言の最後の段階は、最後のステップでは、裁判長がいろいろ裁判に関わるお堅い内容の質問を朝日さんにして、彼が証言したあとに、朝日さん今何か欲しいものがありますか、あるとすればどういうものが欲しいですかって、ちょっとそれまでの堅い質問に比べると最後の柔らかい質問をしてくれたんですね。したら朝日さんがちょっと意外だという顔をして、そんな優しい丁寧な質問、ゆるやかな質問をしてくれるのかという顔をして、「そうですな、たまにはバナナとかうなぎのかばやきを食べてみたいですな」って、そういう証言をしたんですよ。私今日のためにね、この書物も記録も読み直してきたけれど、さすがにね、バナナとうなぎという言葉は証言記録の中にはとってくれてなかったようですけれどね。ただこの場にいたもの、それから窓からのぞいてこの様子を見ていた多くの患者さんたちは、その最後の朝日さんの非常に悠揚迫らざる、「許されればバナナとかうなぎのかばやきなども食ってみたいですな」っていう、その言葉に感銘を受けたんですね。つまりそのぐらい日々の生活保護患者の生活っていうのはつましいし厳しいわけですよ。バナナなんていうのは夢のまた夢、うなぎのかばやきなんていうのも頭の中をかすめて通る存在。もし裁判長が本気であんた何か私の原告、朝日茂のために骨を折ってくださるとすれば、例えばそういう栄養価の高い少年の頃から夢だったバナナとかかばやきを食べてみたいってそういうふうに言ったんですよ。っていう話はね、多くの人が記憶しているんですね。

文字通りの「人間裁判」---裁く側の裁判官も、誠実な生身の人間であったのだと、胸を打たれるエピソードです。

ところで、この新井弁護士は、私たちの教職員組合運動においても顧問弁護団の一人としてお世話になった方で、若い頃(私は30歳前後の青年の頃で、新井先生も確か50歳そこそこの壮年でした)、しかるべき会議の場などで近い場所でお目にもかかりお話しも交わしたことがありました。すっかり忘れていましたが、今この懐かしいお名前に接し、ひそかに感慨を覚えているところです。


  


則武記念講演では、新井章弁護士が、同時期に、朝日訴訟とともに「砂川事件」の弁護団としても奮闘し、「大砲かバターか」のせめぎ合いの中で、国家権力と対決してこられた姿を強調されました。「砂川事件」についてウィキペディアはこう解説しています。


東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年(昭和34年)3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条デュー・プロセス・オブ・ロー規定)に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集1・3・776)ことで注目された(伊達判決)。


検察側は、直ちに最高裁へ「跳躍上告」(ちょうやくじょうこく=第一審判決に対し、控訴を経ずに最高裁判所に申し立てを行うこと)し、最高裁大法廷は、「(憲法9条が)禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論)などとして原判決を破棄し地裁に差し戻しました。当時の田中耕太郎最高裁長官は、駐日米公使らと密談し、上告審判決の見通しなどを述べていたことが。米国内の公文書で明らかになった(朝日新聞2013年4月9日記事)という衝撃の事実は、日本の支配権力の醜悪で救いがたい対米従属性・反国民性を象徴するエピソードであり、忘れてはならないと思いました。


私にとっては、新井章弁護士といえば、家永教科書裁判の弁護団の一員としての献身が、まず思い出されます。




以下、蛇足です。


今日書こうと思っていたこととかなり重複する内容を、8年も前のこの記事に書いていたことに気づきました。岡山県でも年金裁判が始まった年です。


「年金裁判」は何に貢献するか?の巻 (2015-09-26)


今日の午前中、「年金引き下げ違憲訴訟を支援する岡山の会(略称年金裁判を支援する会)」という会の設立総会が開かれるというので、おっとり刀で駆けつけてみました。

予想を超えて会場は満席で、開始時間30分以上前についたのですが、かつての同僚(先輩)の方を初め、面識のある顔ぶれも、つぎつぎとおいでになり、懐かしく、また、心強いことでした。

(中略)

「支援する会」設立総会での、印象に残った点をいくつか書き留めておきます。
○「訴状」はこの裁判の目的と意義についてこう述べています。
「原告らは、年金世代が憲法上の年金制度のあり方を問うことを通して、憲法が定めるこの国のあり方を明らかにし、次世代の人々が、本当に人間としての尊厳が守られ、人間らしく、安心して暮らせる平和で豊かな世の中にすることに貢献したいと考えている。これが本訴訟の目的であり、意義である。」
年金世代である自らが、その責任として、年金制度のあり方を問うのですが、真に求めているのは、次世代の人々が安心して暮らせる世の中に貢献することだというのです。私、これには全面的に賛成です。年金問題は、決して現在の高齢者の問題ではなく、将来の高齢者、つまり今の現役世代・若者の問題なのですね!
○「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した憲法25条を裁判で争った典型は、「人間裁判=朝日訴訟」でしょう。原告の朝日茂さんは、岡山県の人です。
ところで、朝日訴訟について、私は25年も前のある機会にこんな文章を書いたことがありました。

倉敷市に隣接する都窪郡早島町王山の麓に、「人間裁判」記念碑がある。
重度の肺結核を病み生活保護を受けながら、国立岡山療養所早島光風園に入院していた朝日茂が、生存権の保障を求めて裁判を起こしたのは1956年のこと。
この裁判は、憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」の内実について、国民的な問題意識を喚起し、広範な支援が寄せられたが、裁判は長引き、64年2月、茂は最高裁判決を待たず50歳の生涯を閉じた。
訴訟は、養子の健二・君子夫妻によって引き継がれたが、67年5月、最高裁は「本件訴訟は...上告人の死亡によって終了した」として上告棄却した。
「朝日訴訟は、今では日本の夜明けの原動力であります。この訴訟は、人間の生きる権利、生命の尊厳をまもりとおすことを主張するものですが、それは個人のちからでは決してできるものではありません。わたしたちみんなの力で、日本の夜を明けさせましょう」(口述筆記による茂の「遺書」の一節)
朝日訴訟関連リンク1
朝日訴訟権連リンク2
朝日訴訟関連リンク3
朝日訴訟関連リンク集4

○朝日訴訟を成り立たせたのは、原告の朝日さんご自身と弁護団の献身的な奮闘に加えて、「患者同盟」をはじめとする支援者の奮闘だったと、「支援する会」呼びかけ人のお一人、社会保障推進協議会の川谷さんが仰っていました。
朝日さんは、当時600円の生活保護費が不足だとして、1000円を要求してたたかいました。いかにその数値が現実妥当な根拠ある金額かを明らかにしていくうえで、患者同盟は、入院患者の詳細な調査などを踏まえて、病院食だけでは健康を維持できないこと、統計的に入院患者の捕食費が1000円程度であることからも、要求が妥当であることを明らかにしていったそうです。裁判が、単に原告の「たたかい」であるだけでなく、支援者と共に取り組む運動であることの一例。心に残りました。
○弁護団長則武透さんの講演:メモ1
朝日さんの死の直前の言葉。
・私は小林多喜二の小説「一九二八年三月一五日」の一節に、エピソードとしてある蟻の話に深い感銘を受けずにはおられない。
・朝日訴訟、人間裁判の戦いが、いささかなりとも、日本人民の一つの割栗石となれば、もって瞑すべきであると思う。
多喜二の「一九二八年三月一五日」にある蟻のエピソードとはこれです。

自分達の社會が來る迄、こんな事が何百遍あつたとしても、足りない事をお由は知つてゐた。さういふ社會を來させるために、自分達は次に來る者達の「踏臺」に
なつて、××××にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシ/\川に入つ
て、重り合つて溺死し後から來る者をその自分達の屍を橋に渡してやる、といふことを聞いた事があつた。その先頭の蟻こそ自分達でなければならない、組合の
若い人達がよくその話をした。そしてそれこそ必要なことだつた。

○弁護団長則武透さんの講演:メモ2
憲法25条は、明治の自由民権運動家植木枝盛の「東洋大日本国憲法案」の「人民ハ生命ヲ全フシ、四肢ヲ全フシ、形体ヲ全フシ健康ヲ保ツ」という一文を参考に、憲法研究会(高野岩三郎、鈴木安蔵ら)の案「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有スル」が作られ、1945年12月新聞発表と同時にGHQに提出された。戦勝国の「押しつけ」という言い分は当たらない。
---因みに、私の過去記事で、二度ほど植木枝盛にちょっとだけ触れたことがありました。
一昨年、高知市を訪ねた時のこの記事と、この記事です。
○弁護団長則武透さんの講演:メモ3
年金訴訟は、立憲主義を守る重要なたたかいの一つだとして、SEALDsのホームページの一節を紹介されました。もちろん、この「夏の陣」の関心の的ですので、斜め読みはしていましたが、改めて一言ずつ噛みしめて読んでみると、やはりスゴイ。大賛成です。

私たちが望むのは、格差の拡大と弱者の切り捨てに支えられたブラックな資本主義ではなく、豊かな国民生活の実現を通じた、健全で公正かつ持続可能な成長に基づく日本社会です。私たちは、多くの国民の生活を破壊しかねない現政権の経済政策に反対します。そして、公正な分配と健全な成長政略を尊重する政治を支持します。

若者の中に、このように健やかな未来社会への志向が、健全に育っている事実は、大きな励ましであり、私のみならず会場の多くの人が目頭を押さえて聞きました。
「支援する会」設立総会の記事。事実だけを記載して、あっさり終わるつもりが、書ききれず、最後までまとまりがつきません。まあ、ことは、はじまったばかりなので、また続きを書く機会もありましょう。


胴体よりも長い足になってしまいました(汗)


今日の付録。


明け方の風景。湿気が多く、また暑い一日になりそうです。


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早朝、たまたま通りすがりのお宅の駐車場側に、朝のアゲハがくつろいでいました .


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今日はこれにて。


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