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閑谷学校の史跡メモ,の巻 [日録]

見なければすむのですが、気になって念のためにと、過去記事をチェックしてみますと、またまた二番煎じを繰りす事になりそうだと気づきます。できるだけ話題がダブらないようにセーブしたいと思います。

旧閑谷学校の史跡、建物について、過去にもこんな記事を書いています。

閑谷学校の楷の木、の巻(2018-11-15)

紅葉の旧閑谷学校補遺、の巻(2018-11-29)

紅葉の旧閑谷学校補遺(2)、の巻(2018-12-01)

湯島聖堂(昌平坂学問所)=昌平黌も、閑谷学校も、昔、「教職教養」の参考書で覚えたものでした。
で、ウィキペディアからコピペです。

湯島聖堂
歴史

1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。

大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。

昌平坂学問所

沿革 

もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。

ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。

山本周五郎や藤沢周平の作品に、登場して来たように思います。(うろ覚えですが)

そして、閑谷学校についてもウィキペディアからコピペ。

概要

岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。

建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。

地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。

カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ

設立時期の違いもさることながら、武士のための教育機関か、庶民学校かの違いは特筆されるべきでしょうか。その名残は、この建物にも残されています。

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例によって、旧閑谷学校HPの史跡各所案内のページから引用します。

重要文化財
習芸斎(しゅうげいさい)

農民たちも学んだ、教室として使われた施設。

毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。

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彼らはこの飲室門をくぐって学問に励んだのでしょう。
重要文化財
飲室門(いんしつもん)

日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門であった。

一方、藩主の通り道は、この公門だったようです。

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重要文化財
公門(こうもん)

藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。

これらの門を結んで、印象的な石塀が学校全体を取り囲んでいます。

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重要文化財
石塀(せきへい)

300年を経て今も整然たる姿をたたえる。

学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧閑谷学校に独特の景観を生み出しています。

(中略)

その先に佇むのは、「資料館」。明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建てられた建物が利用されています。

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有形文化財
資料館(しりょうかん)

明治38年の姿が残る、校舎を利用した資料館。

明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設されました。
現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示 されています。

      

今回も写真を写してきたので、旧閑谷学校のHP記事史跡各所案内 | 特別史跡旧閑谷学校 (shizutani.jp)を参考に、少しだけ紹介しておきます。

重要文化財
聖廟(せいびょう)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。

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重要文化財
校門(こうもん)
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。

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重要文化財
飲室門(いんしつもん)

日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門であった。

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重要文化財
【国宝】 講堂(こうどう)
「学問の殿堂」、旧閑谷学校を代表する国宝。

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K1IM7750

K1IM7758

重要文化財
習芸斎(しゅうげいさい)
農民たちも学んだ、教室として使われた施設。
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。

火除山(ひよけやま)
この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。

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画面左にある石塀との狭い隙間道を行くと、正面に資料館があります。

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有形文化財
資料館(しりょうかん)
明治38年の姿が残る、校舎を利用した資料館。明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設されました。現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。

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最後に遠景です。

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旧閑谷学校見学シリーズをこれで終わります。


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RICOH GXRで撮った閑谷学校の紅葉、の巻 [カメラ三昧]

かつてこんな記事を書きました。


チャボツレンズの大奮闘、の巻(2018-11-14)


以前「チャボツレンズ」と訳のわからない愛称をつけたレンズがあります。↓こんな記事参照。

チャボツレンズもまた楽し
あな哀れ チャボツレンズに 秋の風

今朝は、「tamron」と「単焦点」の両要素を満たすレンズ、「tamron BBAR MULTI C AUTO 135mm F2.8」を引っ張り出してみたのだ。これは、ヤフオクで手に入れたもので、おなじtamronでも、かなり世代が旧いレンズらしいが、描写は気に入っている。ただ、用途が限られるので、いつも持ち歩くことにはならない。 (中略)

このレンズは、バッグにしまって、しばらく散歩と撮影を続けた。

と、何やら、腿のあたりがひんやり冷たい感じがする。 不審に思って確かめてみると、ズボンにかなり大きいシミができている。雨に濡れた覚えもないし、水を浴びた記憶もない。何かにもたれたときに濡れただろうかと、少々不気味な不思議さを覚えたが、訳がわからない。

そのまま歩いていると、バッグからぽたりぽたりと水がしたたり落ちている。中を覗いてみると、ペットボトルのお茶が、蓋がはずれてぜんぶこぼれてしまっている。バッグの中は、水(訂正お茶!)びたしとなっている。

すると、レンズは?

水没レンズは聞き覚えがあるが、茶没(チャボツ)レンズは初耳だ。

あな哀れ チャボツレンズに 秋の風

傷心のうちに帰宅し、ティッシュで拭いたが、レンズ内部までびしょ濡れで、効果がない。

ドライヤーを最強で当てて数十分、レンズが熱くて持てないほどに熱して、ほとんど乾かしてみたものの、まだレンズの曇りが取り切れない。防湿庫にて安らかに休ませている所だが、さてどうなることやら。とほほ。

このガラクレンズを久しぶりに引っ張り出し、リコーGXR MOUNT A12に装着してみました。(中略)11月13日(火)、訪ねたのは岡山県備前市閑谷(しずたに)にある「特別史跡旧閑谷学校(しずたにがっこう」です。

今回は、このチャボツレンズの奮闘ぶりをご紹介します。

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(中略)

    

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悲運のガラクタオールドレンズにしては、なかなか雰囲気のある画像になっていませんか?切りがないので今日はここまで。


先日の訪問では、このリコーGXR MOUNT A12ではなく、GR LENS A12 28mm F2.5をバッグにしのばせていました。この記事で紹介した機材です。    


 


GR LENS A12 28mm F2.5、の巻(2022-10-22)


リコーGXRに装着するレンズユニットとして、「GR LENS A12 28mm F2.5」というものを、最近、中古で購入しました。10年以上も前に発売された製品で、しかもこのGXRというシリーズ自体、製造中止になってから久しいのですが、物好きにも、中古で手に入れて時々使っています。


ところが、いつどこをどう間違ったのか、露出補正(EV)を大幅にマイナスに設定)(大体-3ほど)したまま撮影していたことに、あとになって気がつきました。


すべてがこんな画像です。


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悔しいので、画像処理ソフトで、露出をいじってみたのが次の画像です。あまり明るくしすぎると、画像が荒れてしまうので、微妙なレベルで補正してみたのですが、適正露出での撮影を心がけるべきだという初歩的原則に、今更気づかされた次第です(トホホ)



今日はこれにて。


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薄氷を踏むカメラ遊び、の巻 [日録]

前回記事にマクロ撮影を試みようと、OLYMPUS E-M1+Zuiko digital 35mm  macroも用意していたことを書きました。

マクロ撮影を想定して、OLYMPUS E-M1に、フォーサーズ→マイクロフォーサーズアダプターを介して、フォーサーズレンズのZuiko digital 35mm  macroを装着してバッグに入れていたのですが、なぜか作動不良で、カメラがレンズを認識しない場合がしばしばあります。

このカメラのトラブルについては、以前こんな記事に書きました。

A friend in need is a friend indeed、の巻(2022-01-27)

ところで、「いざというときの友こそ真の友」という言葉を、カメラ散歩の際に思い浮かべる機会が、最近何度かかさなりました。

一つは、OLYMPUS OM-D E-M1 が、撮影時に液晶もファインダーも真っ黒にブラックアウトする現象が時々起きていたのですが、先日の散歩の時もこれに見舞われ、シャッターチャンスを失いました。悔しいので、カメラ店に持ち込み修理を依頼したところです。修理見積もりがハガキで送られてくるそうで、その金額を見た上で修理するか否かを最終決定する予定です。それから数日になりますが、まだ連絡がありません。パソコン(HDD)修理に予想外の経費を費やしたばかりなので、大変痛いですが、破れかぶれの気持ちも湧いてきています。

10日遅れのセツブンソウ、の巻(2022-02-14)

鳥に出遭ったときに備えて、もう一台 持参したカメラがあります。 オリンパス M-D E-M1+OLYMPUS ZUIKO DIGITAL ED 70-300mmという組み合わせです。

実はこのカメラ、OLYMPUS機としては上級機に属するため、ネットで価格を見比べて、お買い得物件を 中古で入手したのですが、どうも何かと調子が悪く、 肝心な時に ブラックアウトし 言うことを聞かなくなることがしばしばありました。 機嫌をとりながら、我慢して 使ってきたのですが、不満がつのり、 思い切って修理に出したのでした。

昨年末の パソコンハードディスクの修理(データ復旧) の一件以来、 出費にたいする感覚が麻痺し、少々のことでは 驚かなく なってしまったせいか、 カメラの 修理代金2万円強と聞いても、二つ返事で修理を依頼してしまいました。これまで購入した 中古カメラ やレンズ の代金に匹敵またはそれを凌駕する金額ですが、現在所持しているOLYMPUSカメラがいずれも一部破損や部品欠落などの損傷を被っている中で、新たに購入するかそれともいずれかを修理して使うかと考えた場合、この機種に応分の投資をするのが最も費用対効果がまさっているのではとこじつけて決断した次第です。

新カテゴリ-「カメラ三昧」、の巻(2022-02-28)

さて先日、中古カメラの購入代金にほぼ匹敵しそうな修理費を投入して、OLYMPUS OM-D E-M1を 修理したことを書きました。

その前後の顛末を、一くさり愚痴らせて下さい。
正月に写した、家族の集合写真をプリントするため、立ち寄ったカメラ店で、プリントが仕上がるまでの 待ち時間に、中古カメラの展示棚を何気なく眺めておりましたら、M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F4.0-5.6の中古品が、お手頃価格で展示してありました。
これはずっと以前 マイクロフォーサーズ機を 使い始めた頃に、やはり中古で手に入れて 使って いて コンパクトさと 操作感の良さ そして写り具合もまずまず 満足できる印象を持っておりましたが 、ある時、落下事故のために鏡筒が致命的に損傷し、使えなくなっていました。(中略)

やはり、遠くにいる獲物を狙うには、 多少 重くてかさばりますが  OLYMPUS ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm F4.0-5.6 が、望遠 性能も高く 、自然と持ち出す機会が増えました。 ただ、これは 先代のフォーサーズ規格のレンズですから、マイクロフォーサーズカメラで使うためには マウント変換アダプターを 装着して使用する必要があります。また、測距方式にコントラストAFを用いる多くの マイクロフォーサーズ機では、どうしても測距に手間取る傾向がありましたから、オリンパス マイクロフォーサーズ機で 鳥撮りに挑む 頻度は低くなり ペンタックス機 の使用機会 がおのずと多くなりました。
しかし、 OM-D E-M1は、ハイスペック機だけあって コントラストAFと撮像面位相差検出AFを両方搭載する「DUAL FAST AF」とやらを備えていて、フォーサーズ レンズとの マッチングも 優れているそうなので、このZUIKO DIGITAL ED 70-300mm  やZUIKO DIGITAL 35mm F3.5 Macro.( これも 初代は破損して、中古で買い換えました)を活用しつつ、その一見望遠レンズとはとても思えない 軽量コンパクトさが特長のM.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mmを、 OM-D E-M1の 常用レンズとして装着しておけば ポケットに入れて 散歩をすることだって可能だ と思えたので 喜んで買って帰ったのでした。
こうして、OM-D E-M1の全面的な活用をはかろうと夢を膨らませていた矢先に、重篤な 故障がはっきりし、痛い 修理 となった次第でした。
そんないきさつで、修理あけ以来、 私のブログの 掲載写真も、特に、撮影データを 明らかにしていない場合も含め、 OLYMPUS E-M1 機によるものが かなり増えました。

長ったらしい引用になりましたが、こうやって今年の初め修理したOM-D E-M1なのですが、またまた大事なときにブラックアウト現象を発現してしまいました。前回の修理前の状況と違うのは、m.zuikoのレンズは問題なく使用できることです。で、試しにマウント変換アダプターの電気接点あたりをティッシュで磨いてやったり、ガチャガチャッと接続部をつなぎ直してやると、うまく作動したり、安心しているとまたブラックアウトが再現したりします。そんな薄氷を踏むような作業で写したマクロ画像を載せておきます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA         PB240343OLYMPUS DIGITAL CAMERA         PB240360マクロレンズでも用途は近接撮影に限るわけではありません。

PB240341OLYMPUS DIGITAL CAMERA         PB240345OLYMPUS DIGITAL CAMERA

PB240341

帰宅後、試しに、もう一個所有しているマウントアダプター(mmf1)に換装してみると、今度は問題が起こらないようです。これからは用心してこのアダプターをつかうように心ににきめました。

余談になりますが、上の引用で話題にしたM.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F4.0-5.6は、先代同様、落下事故でマウント部が割れて使い物にならなくなっています。つくづく縁がなかったと諦めるしかありません。

今日はこれにて。


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閑谷学校の紅葉、の巻(その2) [日録]

閑谷学校の記事の続きです。


今回は手当たり次第、紅葉の写真をupします。


機材は、前回記事と同じPENTAX k1Ⅱ+TAMRON SP 17-50mm f2 です。


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これ以上は寄れないので、水玉のクローズアップの意図が果たせず、迫力ありません。


マクロ撮影を想定して、OLYMPUS E-M1に、フォーサーズ→マイクロフォーサーズアダプターを介して、フォーサーズレンズのZuiko digital 35mm  macroを装着してバッグに入れていたのですが、なぜか作動不良で、カメラがレンズを認識しない場合がしばしばあります。どうやら、接点の具合で電気信号がうまく伝わってしまう模様。記憶をたどると、以前から、フォーサーズアダプターに問題があったかも知れません。とりあえず撮影できていた水滴のマクロ写真はこの1枚だけ。冴えません。


 PB240337.jpg


さて、わたしの初代ブログ「ナードサークの四季」に、今日、こんな記事を書きました。


日本の民主主義の恥辱的一コマ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


 


こちらの元祖ブログの更新が滞って、広告非表示を希望しているのに、望まぬ広告が頻繁に表示されます。一定間隔で更新しておけば回避できるようです。(ただしこれはPC版の場合で、スマホ版は野放しで、広告を停める方法がわかりません)

ですので、この初代ブログも、思いついたように、時々は更新させていただいております。

どうぞ寛容にお付き合いいただければ嬉しいです。


(中略)


世の中は、サッカーW杯のニュースでもちきりですが、こちらのニュースも予想外でした。


YahooNEWS(ABCニュースより)


【速報】「指示した人間が何も責任問われないのは許されない」赤木雅子さん「控訴の方針」森友公文書改ざん訴訟 元理財局長の賠償責任認めず
11/25(金) 15:12配信

公文書の改ざんを強いられて自ら命を絶った赤木俊夫さん(当時54)の妻・雅子さん(51)が、佐川宣寿元理財局長に損害賠償を求めた裁判。雅子さんが法廷で闘い続けて2年半あまり。大阪地裁は訴えを退けました。 近畿財務局の職員だった俊夫さん。森友学園に対し、8億円を値引いて国有地を売却した際の決裁記録を改ざんするよう国から指示されました。 (赤木俊夫さんの妻・雅子さん)「これ(土地)がなければ、夫は死ぬことはなかったんだなと思います。でもこの土地があっても、国のやり方できちんと処理しておけば、こんなことにはならなかったと思う。」 俊夫さんはなぜ自殺に追い込まれたのか。雅子さんは2020年3月、改ざんの真相を明らかにするため国と佐川氏を提訴しました。 (雅子さん)「きょうがスタートかなと思います。ただ夫の真実が知りたい。」 去年6月、雅子さんは裁判を通じて、俊夫さんが改ざんの経緯をまとめた「赤木ファイル」の開示を勝ち取ります。 それから約半年後の去年12月、国は突如、雅子さん側の請求を受け入れて訴訟を終結させる「認諾」を表明。賠償を支払い、“幕引き”した形です。 (雅子さん)「ふざけんなと思いました。お金を払えば済む問題じゃないです。」 残ったのは佐川氏を被告とする訴訟です。佐川氏側は、国家公務員が職務の中で損害を与えた場合「公務員個人は責任を負わない」と主張。大阪地裁は、佐川氏本人から話を聞く「尋問」の機会すら認めませんでした。 そして25日の判決。雅子さんの訴えは退けられました。 (雅子さん)「夫は法律に守ってもらえなかったけど、佐川さんは法律で守ってもらえる。個人として働いているときに犯罪行為をしても(国に)守ってもらえるって理不尽だなと。何のために裁判2年8ヵ月頑張ってきたんだろうと。これが答えと思うと残念でならない。」

ABCテレビ


日本の民主主義の恥辱的一コマとして、記録しておくことにします。


今日はここまで。紅葉は次回に続きます。


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閑谷学校の紅葉、の巻(その1) [日録]

昨日の記事に、「紅葉狩りと洒落ようかと、『特別史跡旧閑谷学校』へと向かいました。」と書きました。昨日の記事は、楷の木の話題で終わりましたので、少しは紅葉に触れなければなりません。

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駐車場近くの家屋(廃屋?)が紅葉に覆われていました。

入り口の案内板に紅葉が散り敷いていました。

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目に触れるあちらにもこちらにも、カメラを向けたくなる素材が、ふんだんにあります。今日はそのほんの一端をご紹介します。

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撮影機材は、PENTAXk1MARKⅡ+TAMRON SP 17-50mm f2 8です。


ところで、昨日の記事に引用させていただいた竹内良雄さんの文章に、「岡山県閑谷中学校の昭和8年3月29日付け庶務日誌に、『明石照男氏来校・・・』」と記されており、「この前々日・27日の庶務日誌には、『西薇山先生ノ三十回忌二當ルヲ以テ』令息西虎夫氏とその令息二人の墓参と来校があったことと、『本日ヲ以テ我国ハ国際聯盟ヲ離脱セリ』の一行が記録されていました。」という記述がありました。

西薇山(毅一)については、ウィキペディアにこう紹介されています。

西 毅一(にし きいち、1843年8月11日(天保14年7月16日) - 1904年(明治37年)3月28日)は、明治時代の教育者、政治家。岡山藩士、儒者。字は伯毅、号は薇山[1]。

経歴
岡山藩士霜山氏の子として生まれ、儒者で森田節斎の門人にあたる西後村の養子となる。岡山藩の外交応接方として活躍。明治維新後の1871年(明治4年)に岡山県学校督事となり、学校改革・洋学振興などに努め、岡山県士族の中で中心的な役割を果たした。

岡山県参事や東京上等裁判所判事を歴任した後は自由民権運動に参加し、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選、衆議院議員となる(当選2回)[2]。

晩年は旧岡山藩の閑谷学校の再興を図り、1884年(明治17年)に再興された閑谷学校の初代校長となるが、1904年3月28日に自殺した[注釈 1]。62歳。

閑谷学校資料館の傍らに、大きな碑が建てられています。

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今日はこれにて。


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楷の木は散っていた、の巻 [日録]

先日39℃超の高熱を出した2歳児は、ほとんど回復して元気なのですが、まだ保育園に預けるのは憚られるというわけで、今日もバアバの出張孫守が要請されました。バアバを送り届けるため、早朝6時半出発で出かけましたが、出勤ラッシュの時間帯でもあり、一時間あまり罹りました。ママが出勤するのを見送り、しばらく孫守を手伝った後、バアバを残して私は孫宅をあとにしました。ついでですので、足を伸ばして、紅葉狩りと洒落ようかと、「特別史跡旧閑谷学校」へと向かいました。


以前こんな記事を書きました。


紅葉の旧閑谷学校補遺、の巻(2018-11-29)


歴史が専門の友人Sさんの仰るには、岡山県には九つの国宝があるそうです。建造物としては、一つは吉備津神社本殿及び拝殿、今ひとつが旧閑谷学校の講堂だそうです。ちなみに、他には美術工芸品として、赤韋威鎧〈兜、大袖付〉、太刀〈無銘一文字(山鳥毛)〉、太刀〈銘吉房〉、太刀〈銘備前国長船住左近将監長光造〉、短刀〈無銘正宗(名物九鬼正宗)〉などの武具と、絹本著色宮女図〈伝桓野王図〉、紙本墨画淡彩山水図〈雪舟筆〉などの七点。


閑谷学校の楷の木、の巻(2018-11-15)


この季節、聖廟(せいびょう)前に植栽されている2本の楷の巨木が一本は紅色、一本は黄色に色づき、見学者を感嘆させます。特別史跡旧閑谷学校HPの記事を引用します。

楷の木(かいのき

四季を通して情緒豊かな「学問の木」。

聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。

紅葉の季節には美しく色づく楷の木を見ることができます。

聖廟前に植えられた二本の楷の木は、中国山東省曲阜の孔林から種子を持ち帰り苗に育てられた内の2本です。

重要文化財
聖廟(せいびょう

儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。

孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。

奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。

( 中略 )

以前楷の木を話題にしたこの記事でも、閑谷学校のそれに触れました。

再生の象徴 楷の葉は緑(2015-09-22)

先日、so-netブログのmajyo様の9月19日付の記事「国会前へピクニック」のなかで、憲法制定50周年に記念植樹されたという櫂(楷)の木(カイノキ)が、平成25年の台風で倒壊したけれど、残された種子から後継樹が育っていると紹介してくださっていました。

(写真、お借りしました。 )
そこで、majyoさんはこう書いておられました。

日本国憲法は、改正されてはいませんが
一内閣で大きく変えました。戦える国にです
しかし、倒れたこの木のように、また私たちはこの国を再生させなくてはなりません

まことにその通りと、心を胸を打たれました。
ネット検索すると、奇しくも同じ日の「東京新聞」のコラムにこんな記事を見つけました。

国会議事堂の前庭に、一本の若木がある。憲法施行五十周年を記念して、参議院が植樹したという「楷(かい)」の木だ▼楷は紅葉が美しいウルシ科の落葉樹で、孔子の墓に弟子が植えたとの伝承がある。文人が好んで庭に植えたため「学問の木」とも呼ばれる。楷の字には、「正しく、規範となる」との意があるから、なるほど立法府が植えるにふさわしい木だろう▼さて、国会での安保法制の審議と採決のありようは「楷」に恥じぬものであったろうか。多くの法学者らが「違憲だ」と言うだけでなく、研究室から国会前に駆けつけて廃案を訴えた▼憲法学の泰斗・樋口陽一さん(81)も先日、マイクを握って議事堂に向かい、「みなさん一人一人が歴史に責任を持っている。自分の良心に照らして投票を」と呼び掛けたが、多数の力で押し切る与党の姿はまるで、「学問の木」を切り倒すかのようであった▼ただ樋口さんは国会前で声を上げ続ける市民らを見て、こうも語っていた。「(政権は)憲法のみならず、これまで積み重ねられたあらゆるものを壊そうとしているが、壊れないものを私たちはもうつくった。何があろうとも壊れない、壊させない。それが、ここにいる人たちとの絆です」▼実は国会前庭の楷の木は二年前の台風で倒れてしまったが、しかと再生したという。たくましき楷は国会の外で大きく育っていくはずだ。

正確には、majyo様の記事の通り、種子から苗を育成したようですが。


majyo様が亡くなられて、はや3年が過ぎました。残念至極です。majyo様のブログ記事は、今もこちらで読むことができます。宮沢賢治になれない魔女の独り言:SSブログ (ss-blog.jp)


先の記事の引用を続けます



ところで、楷の木は、孔子の死を悼んで、その墓(孔子廟)に弟子の子貢(しこう)が植えたとされます。「学問」、「規範」のシンボルとされる木だそうで、科挙(官吏登用試験)の合格祈願木ともされたそうです。楷書の「楷」もこの木にちなむとされます。
まことに憲法を象徴するにふさわしい木といえます。暴虐の嵐にいったんは倒れることがあったとしても、必ず不屈に再生させることができるのだと、勇気づけられるエピソードです。
因みに、子貢は字(あざな)=呼び名で、姓は端木、名は賜といいました。孔子の高弟のうちでも際立って弁論に優れ、また実業の才覚もあり、孔子一門を財政的にも支えたといわれます。

( 中略 )

正面に見えるのが「校門(鶴鳴門)」です。

HPの解説から引用します。

重要文化財
校門(こうもん)

屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。

廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある。

中国最古の詩集である「詩経」の中の詩に因んで鶴鳴門ともよばれる。

両脇に花頭窓のある付属屋を付けるなど中国の建築様式を模しており、貞享三年(1686)の造営である。

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左に赤、右に黄色の楷の木が見えます。

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石塀越しに講堂が見えます。

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今回は、入場料を払って敷地内を見学しようと固く決意して出かけたのでした。一般400円の入場料が、65歳以上は200円になります。そして、駐車場も無料です。

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「岡山高退教」(「岡山県高校・障害児学校退職教職員の会」)の会報「高退教岡山」(2022年10月発行)に、竹内 良雄さん(元高校教師・特別史跡閑谷学校顕彰保存会・元閑谷学校研究編集委員会委員・閑谷学校資料室)が、このような文章を寄せておられます。無断で、一部引用させていただきます。


「吉永町岩崎は明石照男生誕の故郷(ふるさと) 渋沢栄一邸に『孔子木』・『学問の木』━━それは『楷の木』」 竹内 良雄

まもなくあの渋沢栄一さんのご尊顔が一万円札とかになってご登場なさるということですよね。『論語と算盤』でも有名な渋沢栄一はまさに論語の心を軸としながら、正しい資本主義・経済の発展をもたらした人物です。その渋沢大先生に私がちょっかいを出すのでは全くないのですよ。閑谷学校の楷の木との関わりからお話させていただくのです。
楷の木は渡来種で、しかも雌雄異株の木です。中国曲阜の孔子廟墓所に育っていた楷の木の種を持ち帰ることが、東京の白沢保美林学博士によって実現されます。目黒の林業試験場で何度も試行錯誤が繰り返されてやっと発芽に成功し、幾本かの苗を育て上げることが出来たのでした。湯島聖堂・多久聖廟・足利学校など孔子を祀る歴史ある施設へは、その生育を期待して苗木がもたらされるのですが、閑谷学校の場合は全く別の経緯から楷の木の苗木の入手が実現するのでした。

閑谷隧道の開通は大正12年

大正東宮の行啓は大正15年

                                
渋沢栄一の娘婿に吉永町岩崎の生まれである明石照男なる人物がいました。第一高等学校から東京大学に進み、渋沢栄一の造り上げた国立第一銀行の取締役さらには頭取になってゆきます。ところで、実は閑谷学校の教授役であった武元君立は明石照男の曾祖父なのですよ。生まれ故郷吉永の地とその谷奥に開かれている閑谷学校のことはどこにあっても忘れられない存在なのです。渋沢邸の庭で「孔子木」とも「学問の木」とも呼ばれる〝楷の木〟が植樹され育っていることを知った明石照男が、故郷の閑谷学校聖廟前に〝楷の木〟の植樹をぜひ実現させて欲しいと、義父渋沢栄一に願ったのは極めて自然な成り行きでした。
閑谷学校へ二本の楷の木の苗木が届けられ、聖廟前の緩やかな斜面にそれぞれしっかりと植樹されたのは大正末か昭和初期のことです。
閑谷の東谷と西谷とを繋ぐ形で閑谷隧道が開鑿され開通したのは大正12年、同時に泮池が埋め立てられてグラウンド拡張が進められ、大正天皇の閑谷学校行啓がなったのが大正15年のことです。明石照男は明治14年の生まれですから、楷の木の聖廟前植樹は40歳半ばの頃の実現かと思われますが、植樹は明石照男の手によってというより、渋沢栄一・明石照男の手配によって楷の木は閑谷学校にもたらされたと考えるのが妥当でしょう。あるいは同時に大正東宮の記念植樹に当てられたと考えることもできます。

庶務日誌に「明石照男氏来校」

楷樹の成長ぶりを確かめて

                                
岡山県閑谷中学校の昭和8年3月29日付け庶務日誌に、「明石照男氏来校」、「元本校教授武元君立ノ後裔ニシテ現在第一銀行常務取締役ナル明石照男氏、本日午後零時三十分頃、夫人・令息二人ヲ伴ヒ来校、史跡ゴ参観、午後二時帰ラル。」の一文が記録されていました。明石照男50歳台初めの忙しい日程を割いての閑谷学校参観は、ひとえに聖廟前の二本の楷の木の成長ぶり確認にあったと言って間違いないでしょう。
参考までに、この前々日・27日の庶務日誌には、「西薇山先生ノ三十回忌二當ルヲ以テ」令息西虎夫氏とその令息二人の墓参と来校があったことと、「本日ヲ以テ我国ハ国際聯盟ヲ離脱セリ」の一行が記録されていました。
ちなみに、同期生であり山陽新聞社社長であった谷口久吉氏は、「あの木は明石君が送ってくれた。会うたびに『楷の木は大きくなっているか?』とよく聞かれた。」と話されていたということです。

以下省略


残念ながら、今日の楷の木はすべて落葉しておりました。


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今日はここまで。


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雨中散歩、の巻 [日録]

昔こんな記事を書きました。

朝のうち濃霧、のち氷雨の中の三重塔、の巻(2017-11-23)

昨日は「いい夫婦の日」、今日は「いい兄さんの日」ではなくて勤労感謝の日です。勤労感謝の日と言えば、以前何か書いた記憶がありましたので探ってみると、2013年にこんな記事がありました。
勤労感謝の日の不思議

昔から、「勤労感謝の日」って、不思議な祝日でした。子供の頃は、誰に教えられたか、「勤労する人に感謝する日」と理解していましたが、それならなぜ、働かない子供の学校がやすみになるのか? 謎でした。
いつの頃からか、「勤労できることに感謝する日」という説明をきいて、誰に対して感謝すればいいのか?疑問でした。お上に?神に?それとも雇用者に?祝日法第2条の規定では、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨が述べてありますが、ますますわかったようなわからないような気持ちにさせられます。
で、もう少し探ってみると、古い宮中行事である「新嘗祭(にいなめさい)」 が起こりだそう。「新嘗祭」は、祭祀を司る最高責任者たる天皇が、その年収穫された穀物を神に供え、自らも初めて食すという宗教儀式です。 (中略)

今夜は、三歳になる孫娘の誕生日パーティーで、お呼ばれ。

指で、三歳をアピールしています。

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この記事の三歳児が、今年は12歳になりました。lineで親族一同に伝えるお祝いメッセージに「13歳」と書き間違えて、訂正するのが今朝の仕事初めでした(汗)


先日来、隣市に住む2歳児が39℃を超える高熱で、ばあばが泊まりがけで出張孫守に出かけてました。
毎週一度は、夫婦で郷里の母の元へ通い、買い物の手伝いなどをするのが習慣ですが、昨日は一人で出かけ、帰りにバアバを拾って帰りました。件の2歳児の高熱は、気管支炎との診断で、処方された薬が適合したのか、昨日のうちに熱も下がり、元気回復しました。今日は父母とも仕事が休みですので、ばあばは無事お役御免というわけです。

早速今日は、こちらの孫のお相手です。


昨夜から、かなり強い雨が降りました。

お散歩には適さないお天気ですが、防滴カメラを手に、出かけてみることにしました。傘を差し、PENTAXK1+smcPENTAX DAL50-200(防塵防滴レンズ)を持って深山公園を歩きました。

雨に濡れた落ち葉道がいい感じです。

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木の葉が 思い思いに色づいています。

桜紅葉です。

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蜘蛛の糸に吊された桜紅葉。K1IM7587K1IM7599K1IM7600K1IM7707K1IM7710

K1IM7706見飽きる事がありません。

TVでは、外国人観光客を含む大勢の人々が、京都を初めとする紅葉の名勝へ、長蛇の列をなして押し寄せている様子が報じられていました。

この散歩道は、雨のせいもあって、閑散として、貸し切り状態です。

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今日はこれにて。


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雨のち霧のち小春日和、の巻 [日録]

11月になって2度目の更新です。

なかなか忙しい日々です。

なぜ、こんなに毎日ゆとりがないのか、ふと考えてみることがあります。

先日、市の補助つきの年一度の健康診断を受けた際、今年は久しぶりに胃の内視鏡検査を希望しました。過去に検診を受けた事のあるいくつかの医療機関では、胃カメラがメニューになく、これまで縁がなかった総合病院に初めてお世話になることにしました。

その時、自分の病歴や 新身体状況を申告する 問診票に記入しながら、色々と思い出すことがありました。 そういえば もう10年ほども前になりますが、退職前後の私は、 いわば、健康優先の生活を心がけていました。その あたりの事情は 旧ブログ開始当時の古い記事に書きました。

私の「2007年問題」 病気自慢その1(2013-08-06)

その年の、1月1日に、飼い犬が19歳で天寿を全うしました。人間に換算すると90歳あまりと言われる長寿で、家族皆、覚悟はできていましたが、喪失の痛みはぬぐえませんでした。
そして、夏には敬愛する先輩が退職まもなく癌で亡くなりました。新任の地での同僚(先輩)で、独身時代、飲み屋や互いの下宿その他で、夜昼ない交流を重ねたものでした。私の結婚式では、無理に司会をお願いした間柄でもありました。
相前後して、幼なじみの同級生が病のため死亡しました。私のアルバムには、小学校入学式の日でしょうか、今ではとっくに廃校となったその小学校の校門の前で、彼とツーショットで写った写真が貼ってあります。
何か、この世とあの世の境目が隣り合わせに感じられる気がする出来事が重なったその年の秋、私自身、前々から経過観察していた脳動脈瘤が、放置できない状態に肥大しているということで、手術に踏み切ることになりました。

もう一つの2013年問題 私の病気自慢その2 vol2(2013-08-07

正月早々、散歩道で転倒した心理的衝撃と、肉体的苦痛のために、半ば苦笑、半ば苦悶の表情の私は(目撃者はいないので,証拠はないですが)、その姿勢のままじっと動けずにいましたが、やっと足先に感覚がもどって恐る恐る動かすことができることを確認して、片足を引きずりながら家に引き返しました。
医療機関もさすがに三が日は休診ですので、2・3日後に見てもらいましたら、レントゲンによると骨折ではないが、くるぶしあたりの関節に大きく隙間が空いている。靱帯が伸びたのでしょう。スポーツ選手だと即手術、普通にはギプスで固定というところですが、痛がり方がそれほどでもないので.古い怪我のあとかもしれません。とりあえず湿布とテーピングで様子を見ましょう。ということでした。
松葉杖も特に必要なし。元々私には、2007年の脳動脈瘤の後遺症で、足を引きずって歩く癖があったので、はたから見るとこのねんざは気に止められる程のものではありませんでしたが、本人的にはかなり痛い新年でした。

もう一つの2013年問題 私の病気自慢その2 vol5(2013-08-07)

この三月で定年退職し、悠々自適の年金生活に入りたいところでしたが、この間の年金制度の改変で、若い頃描いていた老後の設計は画餅に帰してしまいました。年金が満額支給される65歳までは、多少なりとも収入がほしいところ。
というわけで、4月からは週4日間の限られた時間、非常勤の仕事を始めました。馴れない仕事ではありましたが、生活にメリハリはあって、これもなかなかよかろうかと思っていた頃でした。非常勤ながら、職場の健康診断を受診させていただきました。ここ何年か、頻繁に人間ドックも受けてきているので、特別な意識もなく受けた検診でしたが、「レントゲンの異常」を指摘され、精密検査の受診を指示されました。
半信半疑で受診した精密検査、レントゲンではとくに異常は見られないが、「念のためCTを受けておきましょうか。これで何もなければ安心ですから。」と、CTを受けたところ、画像に、影があります。「職場の検診では、よくぞ見つけてくれましたねえ」と医師が感心するほどラッキーな早期発見でした。
こうして、急遽入院手術の運びとなりました。
「禍福はあざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」2007年の手術の時に、身にしみて感じた格言でしたが、今度も改めて密かに口ずさんだことでした。

これでまた病気自慢に箔がつき(2013-08-06)

開票速報見ながらの夜更かしでしたが、熟睡できました。
選挙結果も、自民圧勝はいただけませんが、対抗の受け皿がほかになく、共産党への期待につながったというのは、わかりやすくて大変結構。
東京の吉良よし子さん、キラキラしていてまぶしいです。学生時代、この人のお母さんは、私たち夫婦の共通の友人でした(もちろん、みんな未婚でしたが)。
さて、私は、今日の午後入院、明日が手術です。
明易や さも遠足の朝のごと
入院手術を前に、日常から非日常へ足を踏み入れるわくわく感を覚えている、なんて言うと不謹慎で罰が当たりそうですが、強がりばかりでもない、不思議な心境です。(7/22記)

(中略)
昨日の手術は約4時間かけて無事終わりました。といっても,私が覚えてえいるのは、手術室に入って麻酔の注射を打ってもらっている場面と、「終わりましたよ」と看護師さんに呼び掛けられた場面だけ。間はぐっすりねていました。
医師によると内臓脂肪が邪魔で苦労したが、手術は大成功。すぐに退院できるだろう、とのこと。
またひとつ拾うたいのち夏の宵

肺腺癌という言葉さえ知らざりき 私の病気自慢最新版(2013-08-22)

肺癌手術から、約一ヶ月が経過しました。
予約してありましたので、午前中、病院へ行ってきました。血液検査、レントゲン検査、肺機能検査とスムーズに済ませて、診察を待ちます。予約の時刻より、1時間以上前には待合室にいましたが、なかなかお呼びがかからず、40分ほど遅れて、順番がきました。
手術で切除した肺の、組織検査の結果を知らされました。「肺腺癌」の初期で、リンパへの転移はないとのことで、今後は特別の治療はなく、転移・再発がないか、経過を見ていくことになります。
そもそも肺は、大きく左右に部屋が分かれており(左肺・右肺)、さらに右は上中下の三室。左は上下の二室に分かれていますが、私の病変は左肺下葉に発見されました。
手術前には、CT画像による診断で癌の疑いがあるが、気管支鏡検査および同時に実施した組織検査では、グレーなまま。PET検査(「陽電子放射断層撮影法」=Positron Emission Tomogoraphy)でも、陽性とは断定できません。
一番確実な診断は、実物を取りだして顕微鏡で検査する方法。ただ、うかつに触ると転移しやすいので、2~3センチの影が見つかった左肺下葉を全部摘出し、同時に転移を封じるため周縁のリンパ腺を切除するというのです。当初、病変部位を中心に、多少大きめに切り取るのかなと、安直に想像していましたら、相当大がかりな手術なのです。しかも、肺は、心臓と動脈で直結し、毛細血管が網の目のように張り巡らされているので、それらを慎重に止血しながら摘出するのだそうで、それに伴うリスクはこれこれのものがあります、と説明を受けますが、「じゃ結構です」とも言えず、了承の印をついてしましました。
医師は、画像診断ではほぼ癌に間違いなく、ほかの場合は考えにくいが、絶対に癌だとも断定できないので、「もし間違っていたらごめんなさい」と、冗談めかしておっしゃいます。
患者にとっては、もし間違っていたら、健康な臓器を切除された痛ましさはあるけれど、転移の恐れが解消するという意味で、ラッキーなことです。私も、心の片隅で、その僥倖を期待しないわけでもなかったのですが、やはり事実は冷厳でした。
「肺腺癌」という言葉も知りませんでしたが、①多く肺の末梢に発症する、②発生頻度が高い、③転移しやすい、などの特徴があるようです。あなどれません。
とは言え、想定される範囲での、最上の展開ですので、何の異存もありませんとも。早期発見、早期治療というラッキーに恵まれ、名医の執刀で手術も成功し、人事は尽くした(私は何も頑張っていませんがね)訳ですので、この後どう転ぼうと「天命」とみなすしかないでしょうね。
but、いつも平常心でいられるほど人間ができてはいませんので、まだまだじたばたあがくつもりです。このブログ、いつまで続くかお楽しみ。

入院記念日に思うこと、の巻(2016-07-24)

2年目も病室で聞く蝉時雨

窓の外からしきりに蝉時雨が聞こえています。
クマゼミのようです。
気づけば、2年前の肺ガンによる入院手術の記念日です。
可笑しい事に、またまた同じ病院に入院してます。2年前は呼吸器内科→外科。今度は消化器内科ですが。念のために付け加えれば、2007年には、脳外科で検査入院しました。これも結構辛かった。
前回、記事の更新をした日の夜、救急外来を受診し、そのまま入院となりました。
と書くと、大変深刻な事態が想像されますが、人騒がせでごめんなさい。
ビロウなはなしで恐縮ですが、経験したことのない血便で便器が赤く染まったので、なんの苦痛もないのですが、念のため病院に電話したところ、「心配なら救急外来に来てください。割増料金が必要ですが」とのこと。妻の運転で連れて行ってもらいました
癌の転移を見守るための検査の結果を、近々聞くことになっていたので、関連を怖れたのですが、無関係の由。ホッとしました。
腸の壁がなにかのはずみで傷ついて出血したらしい。
最近何か断腸の思いを体験したっけ?
格安スマホしかないので、更新も訪問もおろそかになりますが、悪しからず。
ではまた。

続けてこんな記事も。
◇丑の日の腹に沁み入る三分粥

大腸憩室出血というのだそうです。
この年になって、いろいろな病名をいただきます。まだ初心者のつもりですが、高齢者道の入り口というところですかな。
大腸の内視鏡検査については、体験者から聞き及んではおりましたが、結構辛いものですね。30代のはじめに胃の内視鏡を初めて飲んだ時に、地獄を経験したような気がしたものでしたが、回を重ねるごとにだんだん慣れて、「飲み方がお上手ですね」とドクターに褒められるほどになりました。多分、スコープも径が細くなり、部分麻酔などの改良もあるのでしょうが。
ですから、胃カメラ検査は苦痛じゃありません。
それに引き換え、大腸の内視鏡検査は、聞きしにまさる大仕事ですね。
それでも、病気自体に大した苦痛がないのは、ありがたいことです。歯の治療のほうがよりストレスが大きいかもかもしれません、
辛いことといえば、四六時中点滴チューブと心電図計などに繋がれて、行動が制限されることと、 ネット環境が不自由なこと。そしてスムーズに入力することもできなくて、ブログ更新をへこたれそうになることですね。写真掲載の方法もわからないので、今日も文字だけ記事です。
点滴だけで食事が摂れない不満を書こうと思っていましたが、昼食から、三分粥を食べられるようになりました。夕食は、今日は丑の日、うなぎを食べる習慣がありますと、メモが添えてありましたが、オカズはうなぎではなく、白身の魚の煮付けでした。でも美味しゅうございました。

今年の丑の日は?と思ってググってみましたら、七月三〇日だそうですね。たとえサンマやちくわの蒲焼きであっても、できれば、我が家で迎えたいものです。

    

そんな事情で、体調に自信が持ちきれず、責任を伴うお仕事や役割は、極力避けるようにしてきました。でも、喉元過ぎれば、というわけでしょうか、次第に心に油断が生じたのか、最近なにかと大小の役目を仰せつかることが重なっています。指折り数えてみますと、あれこれの場で柄にもなく「長」や「委員」などの名を頂戴して、持て余している次第です。その上、つい先日は、降って湧いたかのように町内会の役員の仕事がまわってくることになりました。

なにぶんにも気が塞ぎますが、思い煩っても精神衛生に悪いので、ケセラセラで行くしかありますまい。


十一月の初めに玉ねぎの苗を植えて、何度か水やりはしましたが、そのあと、ほとんど雨が降りません。活着してくれているかどうか心配で、昨日、久しぶりに水やりをしてきました。・・・・と、昨日の夜の間に、まとまった雨がありました。なんとも間が悪いことでしたが、畑の作物に雨は有り難いです。

昨夜の雨の湿気のせいもあってか、今朝は、一面、濃い朝霧に包まれました。早朝、暗いうちから、必要があって車の運転をしましたが、ヘッドライトで前方を照らしても一寸先も見通しがきかず、「ホワイトアウト」とはこのような状況かと、運転中片時も緊張が融けず、ひどく消耗させられました。

日が昇り、明るい陽射しによってものの姿が確認できるようになって、ようやく人心地がついたことでした。

神々しいばかりの陽光に誘われて、久しぶりに児島湖畔まで出かけてみました。

湖は、なおも朝霧に包まれています。

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正面に見えるのは、たびたび記事にする常山(つねやま)です。湖に映る逆さ常山もよく記事にしてきました。

述引用記事と同じ頃にこんなことを書いています

逆さ児島富士(2013-08-06)

自身の備忘のために古い記事を掲載しておきます。
児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。
真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)
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こちらは、水田に映った逆さ児島富士です。
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富士の世界文化遺産登録が話題を呼ぶ中、「○○富士」が脚光を浴びています。
常山は、かつて児島半島が瀬戸内海に浮かぶ島であった時代、海に面して聳える小高い山でした。戦国時代、ここには山城が築かれ、城主は幾代かにわたって交代しましたが、女軍の戦で知られる「常山合戦」は、現地の案内板には次のように記されています。(後略)

  日が高くなるにつれて、次第に霧が薄れて、静謐な秋の湖のたたずまいが、くっきりと現れます。

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早朝から漁に出かける小舟があります。

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のどかに遊ぶ 水鳥たちの姿があります。

K1IM7515  K1IM7530コサギとシギが寛いでいます。 

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トリミングします。

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イソシギでしょうか?

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梢に止まっているのは、カワラヒワ。

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ホオジロもいます。

湖畔を散歩するうちに、陽射しはぽかぽかと温かく、上着を脱いでもぐっしょり汗をかくほどの小春日和となりました。小春日和とは、秋から冬にかけての暖かい天気と理解していましたが、もともと「小春」は、旧暦十月をさす言葉だそうですね。文化庁広報誌「分刈る」の記事から一部引用します。「小春日和」はいつ頃の天気か。 - 言葉のQ&A - 文化庁広報誌 ぶんかる (bunka.go.jp)

「小春日和」はいつ頃の天気か。

文化部国語課

「小春日和の暖かな1日でした。」とお天気キャスターが話しています。「小春日和」とは,どんなときに使う言葉なのでしょうか。

問1
「小春日和」とは,どのような気候のことを言うのでしょうか。
晩秋から初冬の頃の,穏やかで暖かな天気のことです。「春」という言葉が使われていますが,春の天候ではありません。

「小春日和」の意味を辞書で調べてみましょう。

「明鏡国語辞典」第2版 (平成22年 大修館書店)

こはる-びより【小春《日和》】

初冬のころの,暖かくて穏やかな天気。

「三省堂国語辞書」第7版 (平成26年 三省堂)

こはるびより【小春日和】

十一月から十二月にかけての,よくはれた春のような感じがする,あたたかいひより。「―のおだやかな日」

(中略)

辞書や実際の用例からも分かるとおり,「小春日和」は,秋の終わりから冬の始め頃に掛けての,穏やかで暖かな気候を指す言葉です。兼好による「徒然草」の155段には「十月は小春の天気,草も青くなり梅もつぼみぬ。」(訳:(陰暦)10月は春のような暖かな気候で,草も青くなり梅もつぼみを付けた。)という一文があります。春のように温暖な様子が「小春」と呼ばれ,それが陰暦の10月の別称としても使われるようになったのです。陰暦10月は,現在で言うと,おおよそ11月から12月上旬に当たります。「日和」には「天候」「空模様」や「晴天」といった意味があります。

問2
「小春日和」について尋ねた「国語に関する世論調査」の結果を教えてください。
本来の意味とされる「初冬の頃の,穏やかで暖かな天気」と答えた人が5割強であったのに対し,「春先の頃の,穏やかで暖かな天気」と答えた人が4割強でした。また,年代によって理解の仕方に違いが見られます。

平成26年度の「国語に関する世論調査」で,「小春日和」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したのが本来の意味とされるもの。)

  • 〔全体〕
  • (ア)初冬の頃の,穏やかで暖かな天気・・・・・・・ 51.7%
  • (イ)春先の頃の,穏やかで暖かな天気・・・・・・・ 41.7%
  • (ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・・・・   3.1%
  • (ア)や(イ)とは全く別の意味・・・・・・・・・・   1.8%
  • 分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   1.8%

全体の調査結果を見ると,本来の意味とされる(ア)「初冬の頃」を選んだ人が5割強(51.7%)と過半数となっていますが,(イ)「春先の頃」を選んだ人も4割を超えており(41.7%),その差は10ポイントです。(中略)

そもそも,現代においては,陰暦の10月を指した「小春」という言葉が日常生活の中で使われることはほとんどありません。辞書には「小春風」「小春空」「小春凪」といった言葉も見付かりますが,俳句の季語として用いられることなどはあっても,ふだんこうした言い方を聞くことはなかなかないでしょう。「小春日和」は比較的よく使われるものの,知識がなければ「春」という語の印象に引きずられて,「春先の頃の」といった受け止め方をしてしまうこともありそうです。

(中略)

なお,近年,春先でないことは理解した上で,陰暦10月頃(11月~12月上旬)に限らず,寒さの厳しい1月や2月に訪れる暖かな日についても「小春日和」を使う傾向が生じています。「小こ」には,接頭語として名詞の上に付いて,「小石」「小雨」などのように,物事の量や程度の小ささを表す使い方があり,「小春」はそういった用法の周縁にあるものと言えるでしょう。似た表現に「小こ江戸」があります。埼玉県川越市や千葉県香取市などが小江戸と呼ばれますが,もちろん,それらの土地は「江戸」そのものではなく,「江戸のように栄えた町」といった意味でそう言われています。「小春」という語だけを見れば「春そのものではないけれども春のような気候」と読み取れるでしょう。本来は,真冬などには使われなかった言葉ですが,陰暦10月の別名であったことを知らなければ,1月や2月にもたまに訪れる暖かな日に「小春日和」と言ってしまうのも分からないではありません。

勉強になりました。

hoojiro


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11月最初の更新、の巻 [日録]

2週間ぶりのブログ更新です。

気がつくと、11月になって初めての更新です。

夜明け方の田園風景。

霧の朝、籾殻をいぶしてつくる燻炭の煙とあいまって、季節を感じさせられます。

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刈り入れが終わった田園が深い霧に包まれる朝が多くなりました。日が射してくると次第に遠くまで見晴らせるようになっていきます。

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霧の中のジョウビタキ♂。K1IM7493

おや不思議、このジョウビタキ♂はどうなってるの?

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そしてこのコガモは?

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撮影中は気づきませんでしたが、何かの加減で多重露出の設定になってたみたいです。表現意図もなくこんな撮影したって、ねえ。しかも盛大な手ぶれです(汗)

今年も小川にコガモの群れがやってきています。

通常の撮影。

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先週は、孫たちと深山公演に行きました。

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オナガガモ、ヒドリガモ、アイガモ、オオバン、ハクチョウなどの姿が見えます。最近、養鶏場のニワトリが次々にトリインフルエンザに感染し,県内でも何万羽もの鶏が殺処分されているそうですが、野鳥たちは大丈夫でしょうか?

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モミジバフウの紅葉が見事でした。

今日はこれにて。


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