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閑谷学校の史跡メモ,の巻 [日録]

見なければすむのですが、気になって念のためにと、過去記事をチェックしてみますと、またまた二番煎じを繰りす事になりそうだと気づきます。できるだけ話題がダブらないようにセーブしたいと思います。

旧閑谷学校の史跡、建物について、過去にもこんな記事を書いています。

閑谷学校の楷の木、の巻(2018-11-15)

紅葉の旧閑谷学校補遺、の巻(2018-11-29)

紅葉の旧閑谷学校補遺(2)、の巻(2018-12-01)

湯島聖堂(昌平坂学問所)=昌平黌も、閑谷学校も、昔、「教職教養」の参考書で覚えたものでした。
で、ウィキペディアからコピペです。

湯島聖堂
歴史

1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた。翌1691年(元禄4年)2月7日に神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している。

大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。

昌平坂学問所

沿革 

もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とする。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承したが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。

ついで1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関とした。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立である。この時外部から尾藤二洲・古賀精里が教授として招聘され、以後は直参のみならず藩士・郷士・浪人の聴講入門も許可された。

山本周五郎や藤沢周平の作品に、登場して来たように思います。(うろ覚えですが)

そして、閑谷学校についてもウィキペディアからコピペ。

概要

岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校である。藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。

建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。

地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。就学年齢は8歳頃から20歳頃までであった。

カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。頼山陽などの著名人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだ

設立時期の違いもさることながら、武士のための教育機関か、庶民学校かの違いは特筆されるべきでしょうか。その名残は、この建物にも残されています。

_K521096 

例によって、旧閑谷学校HPの史跡各所案内のページから引用します。

重要文化財
習芸斎(しゅうげいさい)

農民たちも学んだ、教室として使われた施設。

毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。

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彼らはこの飲室門をくぐって学問に励んだのでしょう。
重要文化財
飲室門(いんしつもん)

日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門であった。

一方、藩主の通り道は、この公門だったようです。

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重要文化財
公門(こうもん)

藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。
本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。

これらの門を結んで、印象的な石塀が学校全体を取り囲んでいます。

_K521086

重要文化財
石塀(せきへい)

300年を経て今も整然たる姿をたたえる。

学校全体を取り囲む765mにも及ぶ石塀は、備前焼瓦と並んで、旧閑谷学校に独特の景観を生み出しています。

(中略)

その先に佇むのは、「資料館」。明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建てられた建物が利用されています。

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有形文化財
資料館(しりょうかん)

明治38年の姿が残る、校舎を利用した資料館。

明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設されました。
現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示 されています。

      

今回も写真を写してきたので、旧閑谷学校のHP記事史跡各所案内 | 特別史跡旧閑谷学校 (shizutani.jp)を参考に、少しだけ紹介しておきます。

重要文化財
聖廟(せいびょう)
儒学の祖、孔子の徳を称える最も重要な施設。孔子廟、西御堂とも呼ばれ、最も重要な施設として中央の一番高い所に配されています。奥の大成殿には孔子像が安置され、毎年10月には儒学の祖、孔子の徳を称える「釈菜(せきさい)」の儀式が行われます。

K1IM7751

重要文化財
校門(こうもん)
屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門。

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重要文化財
飲室門(いんしつもん)

日通いの生徒や、毎月朔日(ついたち)の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門であった。

K1IM7761

重要文化財
【国宝】 講堂(こうどう)
「学問の殿堂」、旧閑谷学校を代表する国宝。

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K1IM7750

K1IM7758

重要文化財
習芸斎(しゅうげいさい)
農民たちも学んだ、教室として使われた施設。
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日(ついたち)には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました。

火除山(ひよけやま)
この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。

K1IM7765

画面左にある石塀との狭い隙間道を行くと、正面に資料館があります。

K1IM7762

有形文化財
資料館(しりょうかん)
明治38年の姿が残る、校舎を利用した資料館。明治38年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建設されました。現在はその本館部分を資料館として公開し、旧閑谷学校の貴重な資料が展示されています。

K1IM7802

最後に遠景です。

K1IM7756

旧閑谷学校見学シリーズをこれで終わります。


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