続20年前のベトナム訪問記(補遺3)、の巻 [私の切り抜き帳]
20年ほど前のベトナム旅行の記事の完結編です。
あとがき
このホームページの発端となった「ベトナムへの旅」は、2002年の8月のことでした。
その年のABUロボコン (Asia-Pacific Robot Contest, ABU Robocon)でホーチミン市工科大学が優勝したことが、なにか印象深く記憶に残っていますが、その後も同大学は何度も優勝をさらっていて、「世界でもっとも精緻な頭脳」をもつと表されるベトナム民族の面目躍如というところでしょうか?そういえば、ベトナム旅行の車窓から見た、商店街や路上マーケットの商品にも、新鮮野菜やトロピカルフルーツ、生鮮魚介類などとともに、細かな機械部品や工具類が魅惑的に陳列されて売られていたのも、お国柄かと思えて妙に納得させられたりもしたものでした。
第1回 東京大会 (2002)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/中国科学技術大学 (中国)
日本代表/豊橋技術科学大学(ベスト4) 金沢工業大学(ベスト4)
第2回 バンコク大会 (2003)
優勝/スワンデンディン技術専門学校 (タイ)、準優勝/キングモンクット工科大学 (タイ)日本代表/愛知工科大学(ベスト4)
第3回 ソウル大会 (2004)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/西南科学技術大学 (中国)
日本代表/東京大学(予選リーグ敗退)
第4回 北京大会 (2005)
優勝/東京大学 (日本)、準優勝/北京科学技術大学 (中国 )
第5回 クアラルンプール大会 (2006)
優勝/ホーチミン市工科大学(ベトナム)、準優勝/サムットソンクラーン技術大学(タイ)
日本代表/東京農工大学(ベスト8)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はたまた、サーズあり、鳥インフルエンザありで、マイナスの脚光を浴びたこともありましたが、最近のhotなニュースは、あの二重体児「ベトちゃん=ドクちゃん」の弟「ドクちゃん」の結婚の話題。
下の記事は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
ベトちゃん=ドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として産まれた双子の兄弟の愛称である。兄はグエン・ベト(Nguy?n Vi?t, 1981年2月25日 - )、弟はグエン・ドク(Nguy?n ??c, 1981年2月25日 - )。二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者であると言われている。そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられた。その後、ベトが急性脳症となったため、二人は分離手術を受けた。ドクは病院事務員となり結婚もしたが、ベトは現在も寝たきりの状態となっている。
ベトナム中部高原ザライ・コントム省出身。二人は上半身二つが一つの下半身でY型に繋がった結合双生児として産まれた。母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。母親は二人をコントム病院に預け、失踪。二人は1歳の時にハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院へ移され、そこからベト(ベトナム)、ドク(東ドイツ)と名づけられた。下半身がつながった結合双生児の写真は世界中に紹介され、ベトナム戦争の爪あととして衝撃を引き起こした。特に日本では話題になり大規模な支援活動が起こった。1985年6月2日、「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成され、募金を募って二人に車椅子を送った。
1986年6月11日、ベトが急性脳症となり、治療のために日本に緊急移送された。6月19日、東京の病院で手術が行われたが、後遺症が残った。
1988年3月に母親と再会。その後、ベトが意識不明の重体となる。二人とも死亡してしまうのを避けるため、10月4日にホーチミン市立ツーズー病院で分離手術が行われた。この手術には日本から医師団が派遣、高度な医療技術も提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人、17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。
分離後、ドクは障害児学校から中学校に入学。中学校は中退したが、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。ボランティア活動も行っている。一方、ベトは重い脳障害を抱え、現在も寝たきりの状態である。2006年12月16日、ドクはボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエン(Nguyen Thi Thanh Tuyen)と結婚。このことは日本でも大きく取り上げられた。結婚式では「将来は障害者も働ける旅行会社を設立したい」と語った。
枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。
なお、「枯葉作戦」についての詳細な解説はこのページhttp://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htmを参照されることをおすすめします。
また、シンガーソングライターで、枯れ葉剤の被害児を支援する運動にもとりみ続けている横井久美子さんのホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm に、次のような記事がありました。
■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。
この記事も参照してください
ここで話題となっている「戦車は動けない」は横井さんの持ち歌で、1970年代、米軍相模原からベトナムへの戦車輸送をストップさせた市民の抵抗を歌ったもの。
1.戦車は動けない
このまちの橋をわたって
銃口をベトナムに
子どもらをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない2.戦車は動けない
このまちの夜をゆさぶり
血のにおいをキャタピラに
ベトナムをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない3.戦車は動けない
この国の若者たちは
恋人をひきさいて
平和をねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない
戦争は通さない
戦車は動けない
元共同通信ハノイ特派員だった作家辺見庸氏の「いまここに或ることの恥」に次の記述があるのは、確かこの運動にふれたものだと思います。
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)
氏は、つづけて、今日のイラク状況や、日本の海外自衛隊派遣・軍事行動の拡大が、あまりにも抵抗なくやすやすとすすめられていて国民がそれを見過ごしていることに大きな危機感といらだちを表明しています。脳梗塞とガンという、二重の厄災に突如見舞われながらの氏の発言は、痛切に私たちに響きます。
ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。
https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25
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終わり
続20年前のベトナム訪問記(補遺2)、の巻 [私の切り抜き帳]
特に3.1運動(万歳事件)について
3月1日といえば、私の住む地方では高校の卒業式が行われる事の多い日であり、まず思い浮かぶのはそのことです。その次には、1952年の3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって振りまかれた死の灰の犠牲となったマグロ漁船「第五福竜丸」の悲劇。「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」という無線長久保山愛吉さんの言葉とともに思い起こされるビキニデーです。
そして、それらとは格段の疎さで、記憶の片隅をよぎるのが、3・1運動(万歳事件)です。リンクフリーとありましたので、このたび勝手にリンクを張らせていただきましたたむたむ(多夢・太夢)さんのページには、この事件について次のような解説があります。
日本の植民地であった朝鮮・京城(ソウル)のパゴタ公園で1919(大正8)年3月1日午後2時過ぎ、朝鮮の宗教人らによって起草された「われらはここにわが朝鮮が独立国であることを、及び朝鮮人が自由民たることを宣言する」にはじまる「独立宣言書」が発表され、それを契機に、学生・労働者・市民ら数10万人の民衆が熱狂して「独立万歳」を叫び、反日デモを行った運動をいう。
当時日本は、1910(明治43)年8月22日に朝鮮併合(「日韓併合ニ関スル条約」調印=韓国皇帝が、韓国の一切の統治権を永久に放棄、日本国皇帝に譲渡し、それを日本国が受諾して韓国の日本帝国の併合{国際法上、一つの国家が他の国家、またはその領土の一部を自国のものとすること}を承認する⇒大韓帝国李王朝500年の歴史ここに終焉する)して以来の武力による抑圧(弾圧)的な統治政策を行いったが、1911(明治44)年4月17日には土地収用令を制定、多くの農民から土地を奪った。また、朝鮮総督府は日本の会社の権益を擁護するため会社令により、朝鮮の民族産業の発達を阻止していた。そのため生活の基盤を奪われた朝鮮民衆の不満と怒りは頂点に達していた。
そのころ、ロシアでは社会主義革命が成功(1917年)、さらに翌1918年1月8日、アメリカでは、ウッドロー・ウィルソン米大統領の民族自決宣言(世界平和のために-第1次世界大戦講和の条件-発表した14か条の一つ)が行なわれた。こうした国際的潮流を背景に朝鮮の人々は、独立運動を展開するところとなる。
この運動を3・1独立(反日)運動または万歳事件と呼ぶが、運動は1919年3月下旬から4月下旬にかけて頂点に達する。これに対して日本軍が徹底的な弾圧政策を断行、そのため運動は暴動化し、朝鮮全土に拡大するところとなった。一連の運動の参加者は200万とも1,000万人ともいわれ、日本軍との衝突による朝鮮側の死者は実に7,645人におよんだ。
さしもの日本軍もこれに大きな衝撃をうけ、以後、朝鮮統治の方向転換を余儀なくされるのである。
外務省文書「不逞(ふてい)団関係雑件」には、「朝鮮の3・1独立運動に立ち上がった人々を教会に閉じこめて火を放って殺した。失火として処理した」と記述されている。
3・1独立運動当時の朝鮮総督府政務総監が関東大震災直後の大混乱中で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることを恐れ、朝鮮人暴動なるものを作り出して戒厳令発令による治安を掌握の口実を作り戒厳令を発布したのが、内務大臣・水野錬太郎であり、朝鮮総督府警務局長が内務省警保局長の後藤文夫であった。
なお、韓国の盧武鉉大統領は05年3月1日、ソウルで行われた「3・1独立運動」の記念式典での演説で「過去の真実を究明し、心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければならない」と訴え、日本政府や国民に、日韓和解に向けた「真摯(しんし)な努力」を求めた。日韓基本条約締結(日韓国交回復=1965年6月)40周年といったこともあり、演説全体の7割もの部分を日韓関係に割く異例の内容となった。
朝鮮・韓国の人々に真っ先にこの事件が念頭に浮かぶでしょうから、この重みが必ずしもピンと来ないでいる私たち日本国民との意識のギャップは覆いようがありません。侵略した側とされた側、いわば、いじめた者といじめられた者の立場の違いでしょうか。
しかし、この3.1運動を、ほぼリアルタイムで共感的に歌い上げた青年詩人が当時存在していたことは、日本人にとって救いです。プロレタリア文学と反戦・平和の運動に青春を捧げ、弾圧・投獄の痛手のため夭逝した詩人槇村浩です。
槙村浩(本名・吉田豊道、1912~38)は高知県生まれで、幼少期から神童の誉れ高く、英才教育で知られた土佐中学に入学しますがその思想をとがめられて退学。リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動しました。
文学活動とともに、反戦平和の青年運動にも参加し、高知市朝倉の歩兵44連隊(現在の高知大学)で夜陰に紛れて反戦ビラをまくなどの決死の活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯の反戦詩を次々に発表します。しかし、治安維持法違反により逮捕・拷問を受け、獄中で病気となり26歳の若さで世を去りました。槇村浩の人生は、高知の小説家土佐文雄の小説「人間の骨」で描かれ、1978年には映画化されました。
劇中の牧村浩が、激しい拷問に絶えながら、他の転向者たちを評して 「あの人らあは、政治家じゃきに、転向という判断もあるかもしらん。けんど、ワシは芸術家じゃきに、信念を偽るわけにいかん」と不屈に非転向を貫く場面があったかと記憶しています。
間島(かんとう)パルチザンの歌
思い出はおれを故郷に運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え
蘆(あし)の根の黒く凍る沼のかなた
赭(あか)ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子(こうらいきじ)が谷に啼く咸鏡(かんきょう)の村よ
(中略)
おお3月1日!
民族の血潮が胸をうつおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが
1919年3月1日を忘れようぞ!その日
「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし
踏み躙(にじ)られた日章旗に代えて
母国の旗は家々の戸ごとに翻った
胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思い出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝わり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺した
おお、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱい万歳をはるかの屋根に呼び交わす老人と
眼に涙を浮かべて古い民衆の謡をうたう女らと
草の根を齧りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない。
間島パルチザンの歌―槇村浩詩集 (1980年) (新日本文庫)
- 作者: 槇村 浩
- 出版社/メーカー: 新日本出版社
- 発売日: 2023/08/25
- メディア: 文庫
安重根記念館
朝鮮総督府初代長官伊藤博文を暗殺した暴漢として、日本ではその名前すら記憶されているかも疑わしい安重根ですが、韓国では愛国的な英雄アンジュングンとして小さな子どもたちまでが敬愛しており、立派な記念館によって顕彰されています。記念館は、手入れされた緑に囲まれ、あらこちらに石碑や、銅像などが配置されていて、静謐な空気に包まれています。
館内には安重根の遺筆が収められた額縁や関係写真、勲章や獄中自叙伝、遺言、書簡、文献などが展示,保管されており、その生い立ちや行動、思想の遍歴がしのばれます。いずれをとっても、そこには暴虐無道、軽佻浮薄のテロリストという面影はいっさいなく、高潔な憂国の士という人柄が浮かんできます。テロリズムを手放しで礼賛し英雄視することには組みするわけにはいきませんが、凶悪卑劣な暴徒とのみ矮小化する描き方も不適切と気づかずにはいられません。
これらのスポットを選りすぐり、案内してくれたガイドの金さんは、聞けば金大中大統領(当時)と同郷、同姓で、遠い親戚だといいます。我々旅行団の「特注」として、「歴史に詳しいガイドさん」を、旅行会社が確保してくれた甲斐あって、歴史、地理、世情に対する該博な知識と教養の持ち主。自国の歴史や文化・伝統への誇りと自負が言葉の端々に感じ取れます。教師の経験もあるとかで、ガイドぶりにも、なにか講義のような風情が感じられ、ふと、できの悪い生徒のようなくすぐったさを覚えるバスの中でした。
特に、多くの韓国の方々にとって、熱い「愛国心」が共通教養として身についていることの表れでしょうが、自国の歴史や自国政府の諸政策への支持・共感が、言葉の端々にうかがわれます。特に、南北分断・家族別離の不幸を伴う朝鮮戦争への評価、31万人あまりの韓国軍兵士を投入して本格参戦したベトナム戦争の位置づけ等において、「共産勢力の脅威」「ベトコンとの戦い」などの言葉がしばしば口に上るのは、彼女の真率な思いのあらわれと言えましょうが、幾分の気後れを覚える場面も、正直ありました。 しかし、その愛国の思いが、掛け値なく純粋なものであることは、誰しも容易に感じ取ることができ、何かまぶしくすら思われるのは、私だけの感覚でもないように思われます。
特に、直前に起きた米軍による韓国少女ひき逃げ事件に話題がおよんだとき、彼女の口調がいつになく強くなり、「アメリカ国内でアメリカ人の中学生が、ひき逃げされたときでも、アメリカ軍はこのような態度をとることができるでしょうか?」と激しいまでの義憤を表明している様子に、それは格別に感じられたことでした。
彼女が話題にしていた少女轢殺事件のあらましと、その後の経緯は、おおむね次のようなものでした。
日・韓共同開催のFIFAワールドカップで沸き返る6月13日、友だちの誕生会に行こうと一般道を歩いていた韓国の女子中学生シン・ヒョスンさんとシム・ミソンさん(ともに中学2年生の14歳)が、米第2師団工兵隊所属の架橋運搬用装甲車(重量54トン)にひかれて即死した。装甲車は米韓合同演習に参加して計7台の車列の3番目を走行中だったが、対向車線からくる車両を避けるために歩道に乗り上げたのだった。
米軍は当初、単純な「公務中の事故」として、見舞金程度で処理しようとし,具体的な原因も明らかにせず、責任者に対する処罰も行おうとしなかった。それどころか、韓米駐屯軍地位協定(SOFA)を盾に、事件の裁判権も、韓国側に渡そうとしなかった。
現場は地域の通学路にもなっている片側一車線の一般道路。道幅は約三・三メートル。一方、装甲車は幅三・七五メートルで、車線から四五センチもはみ出す車だった。この装甲車が何の警告もなしに一般道路を疾走して、対抗車線の車(戦車?)とすれ違うために道路端に車を寄せ、そこにいた二人の女子中学生(それぞれ一四歳)をひき殺したという。死亡した場所の少し手前の草むらに一人のはいていた靴が残されていたので、装甲車に気付いた二人は必死に逃げたが逃げ切れず、車は二人を押しつぶしてしまった。
米韓地位協定では公務中の事故に関してはアメリカ軍に裁判権があるとされているため韓国側は捜査すらできない状態だった。世論の激しい非難の中で、七月一〇日に韓国政府はアメリカに裁判権の放棄を申し入れたが、アメリカ軍はこれを拒否。 さらに運転手の上司である部隊長や師団長も早々に帰国させてしまった。
結局、米軍の検事が、装甲車の運行を管理していた通信管制兵のフェルナンド・リノ兵長と、運転兵だったマーク・ウオーカー兵長の2名だけを業務上過失致死で起訴し、裁判は基地内で米軍人を判事とし、米軍人から選ばれた陪審員7名によって行われた。弁護人は被告人自身が本国のそれぞれの出身地から専任した。
審理はまず通信管制に当たったリノ兵長について行い、彼には重大な職務怠慢や過失が証明されないということで無罪評決をした。続いて運転兵だったウオーカー兵長についても同様趣旨で、リノ兵長とバランスをとる形で無罪評決をした。米軍軍裁では検察側に控訴権がないため、11月22日ですべてが終結した。
アメリカ側のこの横暴かつ不誠実な態度に、国民的な抗議の声が急速に高まり、署名、集会、街頭行動が連日のように繰り広げられた。特に学生・生徒を含む若者たちの参加が目立った。この機運は、12月の大統領選挙にも波及し、独自外交路線を掲げアメリカからの自立を政策として鮮明にした盧武鉉(ノムヒョン)の当選に大きく影響を及ぼした。
彼女は幾度か映画「JSA」 (映画紹介その2)を話題にしましたが、これこそが絵空事でなく自国・自民族のおかれている抜き差しならない現実だという思いが彼女の言葉の端々から伝わってくるようでした。本来友愛で結ばれてあるべき同胞が、長く分裂・対立の不幸にさいなまれ、時として一触即発の危機にさらされているという状況は、センチメンタルに嘆きたてるべきものでもなければ、諦観をもって冷ややかに甘受すべきものでもなく、時事地として直視する以外にないという受け入れ方、担い方を、ここの国の人々はしているのだなあと、感じさせられたのです。そこに、国の針路や戦争と平和への向き合い方において、私たち日本人との大きな落差を感じたような気がしました。
ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。
https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25
https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1
つづく
続20年前のベトナム訪問記(補遺)、の巻 [私の切り抜き帳]
20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログに小分けでご紹介しました。
20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23)
元は、以前公開していたプライベートホームページに掲載していた記事なのですが、プロバイダの契約を解消してから、消滅状態にありました。古いデータを探って復元したのが、上の諸記事です。もう少し続きを書いていたような気がしていたのに、当初は見つかりませんでした。
その後、掘り起こしたデータを、この記事で再現しました。全景記事の続きに相当するものでした。
続20年前のベトナム訪問記、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)
さらに、続いて以下の記事も見つけましたので、この機に掲載させていただきます。
6.ハノイからソウルへ
水上人形劇の余韻を楽しむうちに、いよいよベトナムともお別れ。名残惜しい思いのまま、ハノイ空港を深夜11時半に出発、ソウル経由で日本に向かいます。
機中泊を経て、私たちの乗った大韓航空機が韓国仁川空港に着いたのは8月11日(日)の早朝。ソウル-岡山便は夕方の出発とあって、待ち時間をつぶすための余分のスケジュールとはいえ、ほとんど丸一日のソウル見学ができたことは、いわば余得でした。
往路と同じく,空港で私たちを迎えてくれたのは女性ガイドの金(キム)さん。まずは鮑粥など韓国の味満喫の朝食をすませます。
ソウルでの見学先は、一般の観光ツアーでは訪れることの少ない厳選スポットを堪能。午前中は本場「垢すり」体験コースと、戦争紀念館、独立記念館などの歴史モニュメントを中心とした見学コースの二手に分かれ、私は同行の歴史家諸氏に混じって後者に参加しました。
戦争記念館(戦争紀念館)
94年6月に開館した戦争紀念館には、5千年の間の抗争史、軍事遺物資料など、戦争教訓の生きた資料が展示されています。殉国者追悼室、戦争歴史室、韓国戦争室、海外派兵室、国軍発展室、大型装備室などの展示室のほか、屋外展示室には、陸海空の実戦に用いられた武器が生々しく展示されており、その重みに圧倒されます。愛国心に満ちた韓国の少年少女の目には、たくましく心強い味方と写るのでしょうし、また、日本からの行きずりの観光客らにとっては、かっこいいミリタリー調の記念写真にでも収まりたい代物でしょうか?そこには沖縄を飛び立ってベトナムに出撃した血塗られた爆撃機、戦闘機らの実物もまがまがしく実在をアピールしていて、複雑な思いを抱かざるを得ません。
独立記念館
「侵略」を「進出」になど、教科書の書き換えを強要した1982年の「教科書歪曲問題」事件をきっかけに、国民的募金によって建設されたのが「独立記念館」。ここには、次の七つの展示館があり、全てを見学し終えるには何日もの時間が必要な豊富さです。逆コースを加速する小泉→阿倍流のアジア観、日本観が、なにやら針路を危うくさせている今だけに、この展示内容に真摯に目を凝らすことは、私たち日本人にとって必要不可欠とおもえます。過去の過ちを過ちとして認めたうえで、日韓・日朝関係の望ましいあり方を冷静に考えていくことは、新たな友好関係を発展させる礎と言うべきではないかと改めて感じます。
民族伝統館
高句麗広開土王碑のレプリカや亀甲船の模型などが展示してあります。
近代民族運動館
日本の朝鮮半島侵略から韓国併合に至るまでの主な民族運動が展示されています。十三道倡義軍のソウル進撃のようすがミニチュアで展示してあります。
日帝侵略館
日本の植民地時代の展示がしてあります。蝋人形での展示も生々しく歴史を伝えます。
3・1運動館
3・ 1独立運動についての展示があります。
独立戦争館
入り口を入ると安重根、尹奉吉、金佐鎮三氏の像があります。三氏はいずれも独立運動の闘士です。この館は、文化運動や、学生運動など独立運動の様子が紹介されています。
臨時政府館
上海に設立された大韓民国臨時政府や中国など世界各地で展開された独立運動が紹介されています。
大韓民国館
その他の展示物:朝鮮総督府撤去建材の展示公園 なお、上の表にある朝鮮総督府は、日本が日韓併合のあと朝鮮支配のためにおいた役所。その庁舎は李王朝の宮殿であった景福宮 の敷地を破壊して宮殿正面に造られ、宮殿を街から覆い隠す位置にそびえ立つことからも、日帝支配による屈辱の象徴と人々にはとらえられてきました。解放50周年目にあたる1995年8月15日の光復節の日に撤去され、その撤去建材で展示公園が造成されています。
ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。
https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25
https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1
つづく
生徒に話したベトナムへの旅、の巻(3) [私の切り抜き帳]
ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 講談社 アレン・ネルソンISBN4062119048
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)
- 作者: アレン・ネルソン
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/03/12
- メディア: 文庫
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)
- 作者: 三枝義浩
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/12/29
- メディア: Kindle版
死体のにおい、戦場の音・・・・・・
戦争の本質は今も昔も変わらない。「ミスター・ネルソン」
女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐに見つめると、たずねました。
わたしにとって運命的な質問でした。
「あなたは、人を殺しましたか?」
だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。
わたしの体はこわばり、重くなり、教室の床にめりこんで
いくような気がしました。
(本文より)★ベトナム戦争を知らない読者のために★
世界地図を広げたら、まず、あなたの国、日本をさがし、
そして東京を指さしてみましょう。そこから南西へ、つまり
左下へ指を少しずつ動かしていくと、沖縄の島々を見つけることができます。
それからさらに左下へと指を動かせば、東シナ海をわたって、
あたなの指は大きな半島の、海に面した南北に細長い国にたどりつくことでしょう。
それがベトナムです。
二十世紀の中ほどから、ベトナムではさまざまな戦乱が続き、
それは一九四九年、ついにベトナムを北と南の二つの国に分断
してしまいました。一九六十年代にはいると、アメリカ合衆国が
ベトナムの戦乱に介入をはじめました。アメリカ軍は南政府軍とともに、
ベトコンとよばれる反政府軍のゲリラ兵たちを敵として戦ったのです。
一九七五年、南ベトナム政府がなくなり、アメリカ軍が完全撤退するまで、
この熱帯のジャングルを舞台にした悲惨な戦乱は続きました。
それがベトナム戦争です。
あなたはもう生まれていたでしょうか?
それとも、まだ生まれていなかったでしょうか?
いずれにしても、戦争の本質は、今も昔も変わりません。
ほんとうの戦争は無慈悲で残虐でおろかで、そして無意味です。目次
1「あなたは、人を殺しましたか?」
2 わたしが海兵隊に入ったわけ
3 沖縄での一か月
4 ほんとうの戦場、ベトナムへ
5 これが戦争の現実
6 わたしを変えた体験
7 もう殺したくない
8 それからの戦い
子どもたちの感想より
【資料5の①】
ソンミの虐殺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベトコンの拠点とされる民家を焼き払うアメリカ軍兵士ソンミの虐殺(英:Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のウィリアム・カリー中尉率いる部隊(第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊)が南ベトナム・中南沿海地方 クアンガイ省のソンミ村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺。当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にアメリカの雑誌「ニューヨーカー」のセイモア・ハーシュ記者がこの事件を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。
なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー中尉自身もその後懲役10年に減刑された上、1974年3月には仮釈放されたため、この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
【資料5の②】 パンフレット「ソンミ村を振り返る」より
コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。
同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。 [右の写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール]
この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。
トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第Ⅱ小隊と第Ⅲ小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー中尉の率いる第Ⅰ小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」
(中略)
メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。
メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。
トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。
――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。
――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。
しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。(以下略)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/A%20look%20back%20upon%20Son%20My.htm
【資料6-①】シンガーソングライター:横井久美子さんのホームページより(http://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm)
■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。
【資料6-②】 戦車は動けない【作詞】門倉 訣【作曲】青山義久
(省略)
【資料7】辺見庸「いまここに或ることの恥」より
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)
著者紹介
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』文学
辺見 庸(へんみ よう、1944年9月27日 - )は、日本の小説家、ジャーナリスト。
本名、辺見秀逸。宮城県石巻市出身。宮城県石巻高等学校、早稲田大学第二文学部卒業。共同通信社記者を経て作家に。1991年、『自動起床装置』で、第105回芥川賞受賞。
『もの食う人びと』で、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限的な生の中の食を扱い、講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。最近は、テロリズムとの戦いをテーマに活発な論陣を張っている。2004年には講演中に脳出血で倒れたが、1年ほどの療養の後、2006年には『自分自身への審問』を復帰作として上梓した。
[編集] 主な著書
『自動起床装置』 『ハノイ挽歌』 『赤い橋の下のぬるい水』 :今村昌平監督で映画化 『不安の世紀から』 『ゆで卵』 『もの食う人びと』(共同通信社1994年 ISBN 4-7641-0324-9、角川文庫1997年 ISBN 4-04-341701-2) 『屈せざる者たち』 『眼の探索』 『反逆する風景』(講談社1995年) 『夜と女と毛沢東』(吉本隆明・辺見庸対談) 『単独発言』(角川書店2001年) 『永遠の不服従のために』 『抵抗論』(毎日新聞社2004年) 『自分自身への審問』 『
』(毎日新聞社)
【資料8】
原点その1「教え子を戦場に送るな」
1952年(ちょうど私の生まれた年)、高知県教組機関誌「るねさんす」に、当時の青年教師竹本源治さんが、「戦死せる教え児よ」と題する詩を発表しています。
戦死せる教え子よ 竹本源治
「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/慚愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/繰り返さぬぞ絶対に!」
この詩がウイーンの第一回世界教員会議で紹介された時、これを聞いた人々は、国の違いを越えて、ハンカチで顔をおおい嗚咽したといいます。「教え子を戦場に送らない」これが、戦後教職員運動の原点であり、万国普遍の教師の誓いであったわけです。
ところで5月20日付山陽新聞に、イラク人捕虜へのおぞましい虐待に加わった7人のアメリカ人兵士が、顔写真入りで紹介されています。
捕虜虐待に関わったとされる兵士
ジェレミー・シビッツ技術兵(24)
ペンシルベニア州出身。軍用車両の修理が専門、全裸のイラク人収容者がピラミッド状に折り重なった虐待写真を撮影したなどの疑い。
ジャバル・デービス3等軍曹 (26)
メリーランド州出身。高校時代は陸上競技のスター選手。信仰心の厚いキリスト教徒との証言もある。収容所の手や足を踏みつけるなど6件の虐待に加担した疑い。
リンディ・イングランド上等兵(21)
ウェストバージニア州出身。高校卒業後気象学者を志し、大学で勉強するための補助がえられる軍に入隊。全裸の収容者の首に巻いたひもをひいたり、くわえたばこで全裸の収容者を指さす写真が世界中のメディアで報道され、虐待事件の”象徴的存在”に。
サブリナ・ハーマン技術兵(26)
バージニア州出身。ピザの宅配などをやりながら、大学入学を目指して入隊。全裸の収容者がピラミッド状に折り重なった背後で、グレーナー技術兵と笑っている写真が報じられた。 (以下略)
侵略者のおごりの上に立った卑劣な行為に憤りをおぼえながらも、一面では、戦争さえなかったら、まばゆいほどの才能と一途な向上心にあふれた、頼もしい若者として、家族からも周囲からも、愛と誇りをもって遇されたはずの彼らが、いま、みじめな後悔に身を灼いていることに対して、内心、痛ましさをも禁じ得ないのです。
収容所からの連想で、映画「シンドラーのリスト」の中の、「戦争というものは、欠点ばかりを増幅させるものだ。」という言葉を思い浮かべずにはいられません。子どもの健やかな発達という意味からも、子どもを戦場に、とりわけ侵略の戦場に送らない誓いを新たにしたいのであります。
長くなりますので、続きは次回といたします。
生徒に話したベトナムへの旅、の巻(2) [私の切り抜き帳]
前回記事の続きです。
【資料3】枯葉作戦とは何だったのか 北海道AALA副理事長 鈴木 頌 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/ippnw/defoliate.htm)
アメリカにとって史上最大の戦争
ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。
現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。
この戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。
アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。
最初はケネディの時代から
アメリカはベトナム解放を阻止するため、61年には介入を開始していました。それが本格化するのは63年になってからです。しかし枯葉作戦はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。
そもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、食料としては使えなくすることを目的としていました。
散布された農薬はエージェントと呼ばれました。オレンジ、ホワイト、ブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、成長や代謝を阻害するものです。2・4-D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5-T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物がエージェント・オレンジと呼ばれました。ホワイトは、2・4-Dと4-アミノ-3・5・6-トリクロロピコリン酸の混合物です。このうち特に大量に使用されたのがオレンジ・エージェントでした。
稲などにはブルーが用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をはかります。
通常、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。これにF-4ファントムが護衛の任につくこともありました。現場上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから除草剤を森林に噴霧します。こうして1ヘクタールあたり27リットルの除草剤が撒かれていきました。
散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。こうして、通常の10倍もの濃度を持つ除草剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。
作戦全体に投入された薬剤は72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及んだといわれます。
散布面積の合計は、170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。
対象の大部分は密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争中期には、「ホーチンミン・ルート」周辺の密林を破壊する、もっとも大規模な特別作戦が企てられました。
ダイオキシンとは何か?
正式名称は、ポリ塩化ダイベンゾダイオキシンといい、化学構造は、2個の亀の甲が2個の酸素で結ばれ、亀の甲の残りの炭素にどのように塩素が結合するかによって、理論的には75種の同族が存在し、塩素の結合のしかたによって、毒性は千差万別です。
その中では、2,3,7,8-ダイオキシンの毒性が最強です。この他に、コプラナーPCBと、ジベンゾフランも毒性が強く、これらはダイオキシン類として同等に扱われています。
1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。またベトナム戦争で、アメリカ軍が撒いた枯葉剤にダイオキシンが混入していて、流産や奇形の発生が多いことが報道され、史上最悪の毒物として有名になりました。
ちなみに、ダイオキシンの毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれています。またサリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシン類は1300℃の超高温でしか高速分解しません。
ダイオキシンは何が問題か?
ダイオキシンの1日の摂取許容量は、農薬の100万分の1です。つまりダイオキシン類の毒性は農薬より100万倍強いのです。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素、遺伝子や染色体に作用する結果、健康が害されます。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。
これに対しダイオキシンは、細胞質内のリセプターと呼ばれる物質と結合した後、遺伝子の特定部分と結合し、いろいろな遺伝子を活性化させます。そのために酵素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などが起こります。この作用は極微量のダイオキシンで起こすことが出来ます。
ベトナム戦争におけるダイオキシン被害
1962~1965年に使用されたエージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。総量170kgと考えられています。
枯葉剤の撒かれた地区と、枯葉剤を扱った兵士とのあいだで子供を作ろうとした1545人の妻を対象にしたダイオキシン被害の調査結果を掲げます。
ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果
先 天 異 常散布前(A)散布後(B)B/A
流産 ルンフー村5.22 %12.20 %2.3 倍
ルンファ村4.31 %11.57 %2.7 倍
タンディエン村7.18 %16.05 %2.2 倍
奇形児0.14 %1.78 %12.7 倍
出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)
ベトナム戦争参加アメリカ兵士の妻を対象とした先天異常発生調査結果
先天異常発 生 率B/A
対照群(A)さらされた群(B)
不 妊1.20 %2.80 %2.3 倍
早 産0.61 %2.01 %3.3 倍
流 産9.04 %14.42 %1.6 倍
奇 形 児0.21 %3.14 %15.0 倍
枯葉剤散布地区では、流産が枯葉剤散布前に比べ2.2~2.7倍に、奇形は約13倍になっています。また、ダイオキシンに直接さらされなかったアメリカ兵士の妻までも影響を受けています。これは、ダイオキシンが精子に影響を与えているためです。
この他に、ベトナム帰還兵とその家族には、癌から子供の身体障害にいたる疾病が現われ、原因は枯葉剤に混入していたダイオキシンであると確信されるようになりました。この関係を調査したアメリカ科学アカデミーの1993年の報告書は、ダイオキシンに暴露すると、軟組織腫、非ホジキンリンパ腫、およびホジキン病の3種類の癌になる可能性があるとしています。
【付録】ベトナム戦争とは何だったのか
第二次世界大戦終了直後の1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。
しかしその1月後、旧支配者フランス軍が再侵略し、戦闘に入りました。1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。
1954年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。
ジェム政権は腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていきました。ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していくなかで、1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まりました。
アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られました。
強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。
アメリカ軍は、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒きました。ベトナムでは現在でもその後遺症に苦しむ人々が多数います。
アメリカは、北ベトナムへの空爆も始めました。しかし次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費から、次第に厭戦気分が高まっていきました。
ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。
アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカは軍事援助を続行しました。戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。
北ベトナム軍と解放戦線は反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫りました。こうして1975年4月、ついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されたのです。実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。
長くなりますので、続きは次回といたします。
生徒に話したベトナムへの旅、の巻(1) [私の切り抜き帳]
20年ほど前のベトナム旅行の記録を探っておりましたら2007年2月15日付で、生徒向けに作ったこんなプリントが見つかりました。「特別授業」の形式で、それぞれの教員が専門教科を離れて講義を行った機会にに、ベトナム旅行の経験を報告したものです。
ベトナムへの旅
レジュメ
1 はじめに .「歴史」と私
2 ベトナム略史【資料1】
3. 現代史としての「ベトナム」
・「ベトちゃん」「ドクちゃん」のこと【資料2】
・ベトナム戦争と「枯れ葉作戦」【資料3】
・ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?【資料4】
・高校時代の小品 と ソンミ村【資料5-①、②】
・ベトナム戦争と日本
横井久美子への電子メールと「戦車は動けない」という歌【資料6-①、②】
と 辺見庸【資料7】
と あさのあつこ
4.「歴史」に学ぶ=先人の痛苦の体験を無にしない。【資料8】
5.ベトナムへの旅
「紀要4号」に補筆 【資料9】
【資料1】
ベトナム略史 (インターネット上より拝借)
<B.C.>
2000年 フングエン文化 紅河デルタに栄える
400年 青銅器文化 ドンソン文化が栄える
111年 前漢 ベトナムを占領
<A.D.>
938年 南漢を破る
966年 大瞿越国となる
1054年 国名を大越国とする
1858年 フランスのベトナム侵攻開始
1945年 ベトナム民主共和国独立宣言
1954年 ディエン・ビエン・フーの戦い
ジュネーブ会議で南北に分断
1975年 サイゴン陥落
1976年 南北統一ベトナム社会主義共和国成立
1977年 ベトナム国連加盟
1986年 ドイモイ(刷新)政策発表
1992年 新憲法発布
1994年 アメリカの経済制裁措置解除
1995年 アセアン加盟
アメリカと国交樹立
枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。
長くなりますので続きは次回とします。
続20年前のベトナム訪問記、の巻 [私の切り抜き帳]
年金者組合作品展に出品した写真についてある遺失物、の巻でご紹介しました。ベトナム戦争後も、ベトナムに置き去りにされた米軍戦車の残骸が、記念物として展示されていたものの写真です。
これをきっかけに、古い記憶と記録をたどり、20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログの方に小分けで掲載してみました。
20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23)
色々過去データを探っているうちに、こんな文章も発掘しました。
この文章は、どう使ったのか?どこかに発表したものかどうかも、記憶が曖昧です。ともあれ、この機会に、アーカイブ化しておくことにします。
ベトナム最後の夜
ベトナム最後の夜は、1000年もの歴史をもつという「水上人形劇」の鑑賞。「水上人形劇」は、ベトナムを代表する民俗芸能のひとつで、湖沼の多いベトナム北部の農村で生まれ、収穫の祭りの時などに屋外の水辺で演じられていたものが、娯楽として宮廷にまで広がったものと言われます。私たちが見学したのは、ハノイ中心部ホアンキエム湖畔の「タンロン水上人形劇」で、主として外国人観光客を相手に毎日演じられているそうです。
入り口でパンフレットと素朴な扇を貰って、こぎれいな劇場に入ると、客席は西洋系、中国系など多彩な観客で埋まっています。見下ろす位置に張られた水の上を舞台に、民族音楽の演奏をバックに、コミカルに、また優美に、人形達の演技がスケール大きく繰り広げられます。説明はベトナム語で行われますので、詳細はわかりかねますが、一話一話が短くテンポ良く展開することと、人形達の所作や表情がリアルで、農民達の暮らしぶりや伝説・伝承のあらまし程度は彷彿と想像できるので、最後まで舞台に引き込まれ、客席は期せずして、笑い声や歓声に包まれます。
演目は表の通り。
タンロン水上人形劇プログラム
1.祭の旗上げ
2.テウさんのナレーション
3.竜の踊り:4匹の火を噴く竜の共演
4.水牛とフルートを吹く子供
5.田植え作業
6.カエル採り
7.アヒル農法と狐狩り
8.釣り
9.凱旋帰郷
10.獅子舞
11.不死鳥(鳳凰)の舞い
12.レロイ王、ホアンキエム湖の伝説
13.水遊び
14.ボートレース
15.獅子のボール遊び
16.仙女の舞い
17.(竜,獅子,鳳凰,亀)4匹の共演
プログラム12番「レロイ王、ホアンキエム湖の伝説」は、ハノイ市民の憩いの場ホアンキエム湖にまつわる伝説を題材としています。黎(レ)朝を建国したベトナムの英雄レ・ロイにちなむ、次のような伝説です。15世紀初め、中国明の圧政に耐えかねたレ・ロイは、天から授かった宝剣で明を打ち破り、中国の支配からベトナムを解放します。その後、レ・ロイ王が湖で遊覧していると、突然黄金の亀が出現し、「国が平和になったので、神に宝剣を返して欲しい」と告げて、宝剣を口にくわえて湖底に帰っていったといいます。ホアンキエム(Ho Hoan Kiem)は「還剣湖」の意。湖の名前の由来は、ベトナム建国・独立の誇りと結びついたものでした。
さて、この旅行後数年経った2006年、11月11日共同通信が次のような記事を配信していました。
18日からアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれるハノイで、観光名所ホアンキエム湖に1匹だけ生息するとされる大きなカメが久々に姿を現し話題を呼んでいる。
ベトナム自然環境保護協会のハー・ディン・ドク教授によると、カメが現れたのは8日午前。湖に浮かぶ小島に約30分はい上がった後、水中に戻ったという。
地元で「偉大なおじいさん」と呼ばれ親しまれているカメは「体長約1・8メートル、重さ約200キロ」とされる。2005年までの15年間で200回目撃され、うち37回は胡錦濤・中国国家主席のベトナム訪問など重要な政治日程と重なった。地元紙は「ベトナムの世界貿易機関(WTO)加盟承認やAPEC開催を祝福しているのでは」と報じている。
ドク教授は「政治イベントとカメ出現を結びつけるのはその人次第」と話している。
今日はここまで。
三度目の正直、の巻 [日録]
酷暑続きで、真っ昼間は外歩きなど出来ません。涼しいうちにと、早朝散歩を心がけますが、6時台にはもう日射しが強く、ひと歩きして帰ると朝シャワーが書かせません。
昨日も一昨日も、同じ場所で、足下から不意に青い鳥が飛び立ち、まっしぐらに遠く稲田の向こうへま去って行く後ろ姿を恨めしく見やりました。一昨日は、広角レンズのコンデジしか持っていませんでしたので、諦めもつきましたが、昨日はあわよくばと、一定の望遠ズーム性能を持つPENTAXx5を持って歩いていましたのに、カメラを向けるいとまもなく飛び去ってしまいました。
今朝も念のためにPENTAXx5を片手に、ブログタイトルを「三度目の正直」とすることが出来るか、それとも「二度あることは三度ある」に終わるか、などと考えながら歩いたことでした。
「きのこの森」でもいいか、、、、と思ったりもしました。
ヒバリのメスらしい鳥が散歩していました。
昨日、一昨日と同じような場所に、いました、いました!今日は、逃げる前にカメラを構えることが出来ました。
が、慌てたせいかピントが合いません(トホホ)
何枚撮っても同じです。
トリミングし手みても、残念な写りです。
朝から暑い一日です。
子ども達の夏休みも、残りわずかとなりました。プリント、読者感想文、図画、自由研究・・・など、毎年同じような光景が繰り広げられます。大阪の孫一家は、昨日、さよならしましたが、少しは宿題完成のめども立った様子で、何よりでした。
今日は、前回記事に書いた年金者組合の作品展の最終日でした。
この写真作品を撮影した、20年ほど前のベトナム訪問の顛末を、初代拙ブログ「ナードサ-クの四季」で連載しています。ご覧いただけると幸いです。
20年前のベトナム訪問記(1):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
20年前のベトナム訪問記(2):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
20年前のベトナム訪問記(3):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
20年前のベトナム訪問記(4):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
今日はこれにて。
ある遺失物、の巻 [日録]
今日(8月16日)から、年金者組合岡山県本部の第12回作品展が、岡山県生涯学習センターで20日までの5日間開かれ、初めて出品しました。
ある遺失物という題の写真です。
説明なしでは何の写真やらわからない、というご指摘がありましたので、急遽説明文を付け加えました
【解題】2002年8月、岡山高教組の研修活動の一環としてベトナムを訪ねる旅が企画されました。帰国後に作成した「文集」への私の原稿の一部を紹介し、展示写真の解題とします。
ホーチミン市というのは、南北ベトナムが統一され「社会主義共和国」に生まれ変わった時に、サイゴンから改名されたもの。ただ、それは公式な呼び名であって、対外的に用いるけれども、日常的にはどちらの呼称も通用しているそうです。
いかに人々から敬愛されている「ホ-おじさん」の名前であろうと、それを歴史的な愛着ある「サイゴン」の呼称に換えて「上から」強要することは、社会主義の制度共々「北」からの押しつけというイメージがつきまとい、住民感情はいかがなものかと気になっていましたが、人々は以前通り、日常的には「サイゴン」と呼んでいるようで、それで何ら差し支えはないようでした。
さて、貸し切りバスで移動する先は、午前中の目的地クチ。サイゴンでのガイドとして私たちの世話をしてくれるのは、若いが、なかなか日越の事情に通じたゴァンさん。日本語は、独学で学んだそうですが、ことわざや慣用句を含め、言葉のアヤや表現の機微に至るまで軽やかに使いこなし、思いもかけない堪能さです。(中略)
バスの車窓から眺めるサイゴンは、「生き馬の目を抜く」という死語を思い出させるようなエネルギッシュな活気に満ちています。道路沿いには多彩な小商店が立ち並び、道ばたにも、果物、野菜、食品、小間物などをとりどりに積み上げた露店が、思い思いに場所を占めています。そのあちらこちらで、人だかりあり、通行人とのやりとりあり、近隣同士の語らいありで、日本のさびれた商店街を見慣れた目には、人々の豊かな交流・コミュニケーションに彩られた日常の姿が、ひどくまぶしくうらやましく感じられました。
そして、何といっても目につくのは、無数のバイクの波。一番人気は日本製。ホンダ、カワサキ、スズキなど。これは高価でなかなか手が出ないが、故障知らずで憧れの的。お手ごろ価格の中国製も普及している由。乗用車は普及していないので、一家に一台バイクを持つのが市民の夢。これも、ドイモイで急速にかないつつあり、今、街はバイクの洪水に---。(中略)ベトナムの交通法規では、二人乗りまでは可。子どもに限り、三人乗りも可だそうです。でも、実際には、大人の三人乗り、時には四人乗りも目に付きます。人々は思い思いの格好で、バイクを走らせています。実直そうなおじさんや、颯爽とした若者や、ハイセンスなお嬢さん。多彩な人々が、それぞれかなり真剣な表情で、二人乗り、三人乗りのバイクを走らせています。
わずかながら交通信号もありますが、余り守られているようではありません。一番頼りになるのは、お互いのかけ声とクラクション。そういうコミュニケーションのなかで、日々の交通秩序(かなり無秩序というかカオスを感じますがね)が形成されているようです。
隣のバイクとなじり合いをしている姿も目に付きます。後部座席に乗っているお嬢さんが、激しく隣のバイクをやりこめている様子も見て取れます。ベトナムの女性はしんが強いと言いますが、街角でもそれは感じ取れます。 (中略)
民衆の大らかな楽天性には好ましさを感じる一方で、「独立と自由」(の基礎)を勝ち取ったあとの時点での新たな困難、「貧しさを分かちあう社会主義」(古田元夫)を乗り越える上での諸課題について考えさせられました。
クチ地下トンネル
この日の午前中の主な見学先は、ベトナム戦争当時、解放戦線の拠点が置かれたクチ地方の地下トンネル・歴史遺跡地区。サイゴンの中心部をやや離れ、水田や水牛の姿も見える農村部を経て、ゴム樹林を通過する頃、ガイドのゴァンさんは、車窓から見えるゴム林をはじめ周囲の樹林が痩せて貧相なことを指摘します。すなわち、悪名高い枯葉剤投下の影響が、いまも残る場所だというのです。解放戦線がひそんでいるとして、焼き尽くし枯らし尽くそうとした、狂気の蹂躙のあとなのです。
クチ地区には地下何層にも及ぶトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらされ、空爆や砲撃、戦車、火炎放射器による襲撃にも耐えて、守りぬかれた要塞だったのです。地下トンネルは、小柄な人がやっと通れそうな狭い出入り口、通路で結ばれているのですが、内部は複雑な構造となっていて、会議室、台所、戦闘参謀室もおかれていたそうです。
私たちは、まず、解放戦線の抵抗ぶりや、地下トンネルでの生活ぶりを記録した当時の記録映画(ビデオ)を視聴します。ナレーションは、ちゃんと日本語です。
その後、手作りの罠や、地雷が至る所に仕掛けてあって、米兵にとっては恐怖の難所であったに違いない森林内を見学、併せて、地下トンネルの内部もほんの一部体験してみます。それは、スコップとモッコで堀広げられた精妙なラビリンスで、「アリと象の戦争」とたとえられるこの戦争において、アリが勝利した秘密をかいま見た思いがします。
私たちのグループのほかにも、日本からの観光客の姿が見えますし、ヨーロッパからの訪問者らしい一行も、感嘆の声を上げながら、進みます。観光客の便宜のために、一定広げられて整備されたトンネルだと言いますが、その狭さ息苦しさと圧迫感はたまりません。四六時中ここに生活しながら、恐怖と戦いつつこの陣地を守りぬいた少年、少女を含む解放戦線兵士の苦痛は、並大抵ではなかったろうと想います。わが水島の、亀島山地下壕や、ひめゆりの乙女たちをはじめ多くの少年少女が戦い生活した沖縄のあれこれの壕のことも想われて、いま、やすやすと明るい日差しのもとに立ち戻ることのできる幸福を、改めてかみしめたく思います。そして、アフガンであれイラクであれ、世界中のどの地域の若者も、永遠にこの幸せを享受できるようにと、願わずにはいられません。
展示写真は、解放戦線の抵抗によって米軍戦車が損傷し、置き去りにされもの。戦争の記念物として展示してあったものを、その存在感の重みに惹かれて、撮影したものです。
戦争証跡博物館
続いての見学地は、戦争証跡博物館。
科学の粋を集めた近代兵器を駆使し、物量に飽かして展開された、アメリカの威信をかけた戦争のすさまじさが、実物の兵器、武器、爆弾、記録写真その他の展示物を通して実感的に伝わってきます。枯葉剤による奇形児の遺体がホルマリン漬けされて展示されているのも、痛ましく重苦しいかぎりです。
石川文洋氏をはじめとする日本および世界の写真家・ジャーナリストたちが、命がけで記録・報道した写真や記事も、確かに見覚えのあるものを含めて数多く展示されており、改めてその衝撃的なメッセージ性に目をとらえられます。沢田教一氏や一ノ瀬泰造氏など、戦場で行方を絶った日本人カメラマンたちの遺作も多く展示されています。真実の報道に命を捧げた写真家・ジャーナリストの多さも、ベトナム戦争のもう一つの側面であったことを改めて思い起こします。
また、館内には、ベトナム人民の抵抗闘争に対する、世界的な支援の運動についても実資料や写真が展示されており、日本での支援運動の模様も、相当のスペースを割いて紹介されています。その中には、ベトナム人民支援ポスターやカレンダーなど、確かに見覚えのあるもの、自身、実際に下宿の自室の壁に貼った覚えのあるものもあり、一瞬30年前にタイムスリップしたような感慨にとらわれました。そして、同時に、このベトナム戦争で、わが日本国民が、侵略の加担者としてのみではなく、平和、解放、国際連帯と人類の進歩の方向への寄与者としての栄誉ある役割を、辛うじて果たし得たことへの感謝と誇りを、改めてかみしめることができたことは、大きな喜びでした。
展示室のなかには、私たち外国人観光客に混じって、熱心にノートを取りながら、展示を食い入るように見つめている、白いアオザイのベトナム少女がいました。たしか、白いアオザイは、高校生の制服と聞きました。この聡明そうな少女の胸にどのような思いが去来しているかを思うと、痛ましい思いにこちらの胸がふさぎます。彼女の悲しみと心の痛みを、同時代・同世代のアジア人、いや、地球人として共感できるだけの感受性と基礎的歴史認識を、いまの日本の高校生に育ててやれているか、考えさせられました。
過去の過ちを粉飾・糊塗する「国民の歴史」流のゆがんだ歴史認識ではなく、戦争による被害と加害の両面を直視し、あわせて、民衆の抵抗の歴史にも光を当てる歴史学習こそが、自国・自民族への誇りを真に育て、アジア諸国の人々と、真に友好的な関係を取り結んでいく基礎となるはずです。
今日はこれにて
なおも自由研究は続くノダ、の巻 [趣味]
お盆をめがけて台風7号が接近中です。
接近前の昨日、お墓参りはできました。
お盆休み中の大阪の次男も一緒です。
帰りに、長福寺三重塔に立ち寄りました。
睡蓮が静かに咲いています。
大学生の孫は、飛行機が欠航で、帰省は2.3日後になる由。この一家は、後日、改めて墓参りに行く予定だそうです。
学生時代、試験の最中に限って、いつもは澪向きもしない読書に手を出したり、急ぎでもない要件に着手してみたりするのは、「あるある」かもしれません。年を取っても、急ぐべき用事を後回しにして、とりとめのない趣味・道楽にあたら時間を費やす習癖は、いつになっても収まりません。あれこれ撮影機材をいじる遊びの堂々巡りが、まだまだ続いています。
アダプターを用いての機材の組合わせ実験の興味はあらぬ方向へと発展します。機材蔵に眠っているペンシルボーグ25を、GXRにつないでお散歩用に使えないかと、思いつきました。何か新しいアイディアのように思えましたが、何のことはない、相も変わらぬ二番煎じ、三番煎じのお粗末です。
例えばずっと以前にこんな記事を欠いていたことなどすっかり忘れておりました。
ガラクタ較べ続きます、の巻(2018-10-14)
今日持って行ったカメラシステムはこんなヤツ。
異様な風体です。
右からリコーカメラGXR+MOUNT A12(ライカM互換マウント)+PENTAXKマウント変換アダプタ+pentaxヘリコイドエクステンションチューブ+oasis CAMERA MOUNT forPENTAX KM+OASISk36.4→m57/60AD+ペンシルボーグ25という、怪しいシステムです。
単眼鏡サイズの望遠鏡レンズを写真撮影に使うという、遊び心たっぷりのシステムですが、こんな写真が撮れます。
カマキリ。
まだまだガラクタ較べ、の巻(2018-10-15)
帰ってきた小学生の孫が、庭のカナヘビを捕まえました。
トリミングして大きくします。
下は、前回紹介したペンシルボーグp25で写しました。
(中略)
妹(右)も、こわごわ持ってみます。
マニュアルによるピント合わせは骨が折れますが、画像の鮮明度はなかなかのものです。わずか15,000円ほどの、見た目もおもちゃのようなレンズで、これだけの写りは感動ものです。生産中止になっているのは残念です。
このペンシルボーグを久しぶりに使ってみようと取り出してみましたが、これをカメラと接続するための部品が、どこかに紛れて見当たりません。あり合わせの代替品をいろいろ試しますが、うまくいきません。BORG 【7457】M57→M57ADというパーツがあれば解決できそうですが、送料込みで4000ー5000円ほどかかりそう。迷いましたが段電子真下、そして思いついたのが、粘着テープで固定する原始的手法。
人様には見られたくない姿ですが、まあまあ写せます。
この被写体は、大阪帰りの五歳の孫。
ROCOH GXRには内蔵フラッシュがあったのでした。
PENTAXQ+ロシアレンズインダスター61だとこう写り
ます、
しばらく会わないうちに大きくなりました。
この子のためにパパは、庭のカナヘビを飼育を試みようとしています。ペットショップで売っているトカゲ用の餌を与えてみますが、なかなか難しそう。
過去ブログに載せたカナヘビの写真を再掲させていただきます。
は虫類が苦手な読者様は、どうぞご用心ください。
日本維新の会の馬場伸幸代表が、7月23日に出演したインターネット番組で、日本共産党について「日本からなくなったらいい」と発言した件。備忘的な追加メモです。
「考えの違う他党の意見も尊重するのが民主主義のあるべき姿で、馬場氏の発言は他党、ひいてはそれを支持する有権者をも否定するものだ」(法政大大学院白鳥浩教授のコメント「朝日」7/25)
「民主主義をどう思っているのか。共産党を支持する人がいて、何万人、何十万人が選挙で投票している。それが国の代表に名乗りを上げている」(7/25文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」)
「他党を『なくてもいい政党』と言う。これはけしからんですよ」(7/25TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!」で森本氏)
「政策で議論すべきで、発言は撤回すべきだ」「(第2自民党でいいとの発言について)本音が出た。自民党の『別動隊』と言い切った」(コメンテーターの酒井綱一郎「日経ビジネス」元編集部長)
「いろんな意見があって、一致点を見つけていくのが民主主義の最も基本のところ。全くそのことが分かっていない。立憲民主党に対する発言も含めて撤回を求めたい」(7/25立憲民主党 岡田克也幹事長)
「『共産党はいなくなったらいい政党』と言う者が公党の代表である事に強い危機感を禁じ得ません」「民主主義そのものを否定する危うさに黙っていてはならない」(立憲民主党 原口一博元総務相ツイッター投稿)
「共産党は政策や考え方が私たちとは全然違うが、違うからと言って無くなってよいとは思っていない」「多様な意見があるのが政治の世界であり、いかに合意形成していくかが政治の大事な役割ではないか」(7/28 公明党北側副代表)
いなくなってほしい人間に向けて小さなスイッチをカチと押す。すると、相手はたちまち消えうせ、もともと存在しなかったことになる。「どくさいスイッチ」は『ドラえもん』(藤子・F・不二雄さん)のひみつ道具の中でもおっかない▼野球でのへまをののしられた、のび太はつい、ジャイアンを消してしまう。次にスネ夫を。最後には、「だれもかれも消えちまえ」。結果、世界にいるのは自分独り。子どものころに読んで震えた人もいるか▼日本維新の会の馬場代表。五十八歳は小欄と同じ世代だが、『ドラえもん』は読まなかったか。最近のインターネット番組で共産党について「日本からなくなったらいい」と述べたそうだ▼立憲民主党には「立憲がいても日本は何もよくならない」。公党に対し、のび太のような「消えちまえ」は聞き捨てならぬ▼他党の主張や政策に批判を加えて自分たちの意見をぶつける。それはよい。考え方の違う者同士が互いの意見をぶつけ合い、よりよい方法を探る。それこそが民主主義の肝だが、その発言は対立する党の存在自体を否定してしまっている。別の考え方はいらぬ、消えろ。そう言っているのも同じだろう▼漫画ではドラえもんが消えた人々を取り戻す。反省した、のび太の言葉が印象に残る。「まわりがうるさいってことは、楽しいね」-。馬場代表、よかったらお貸しする。(7/29 東京新聞コラム「筆洗」)
ハヒフヘホー。その一言だけで、子どもたちは大喜びだ。アンパンマンの敵役ばいきんまんは、あまり悪者らしくない。ドキンちゃんのわがままに振り回されてばかりだし、「とどめだ!」と叫ぶわりに、アンパンマンをとことんやっつけたりはしない▼それはお互い様であるのだろう。アンパンチを打たれても、ばいきんまんは自分の家に逃げ帰るだけだ。どちらも徹底的には打ちのめさない。「その手前で止めるということが、ぼくは大事だと思っています」。作者はそう語っていた(『やなせたかし 明日をひらく言葉』)▼今年は、アンパンマンが絵本に登場して50年、やなせさんが亡くなって10年という節目だそうだ。改めて作品を読んで感じるのは、絶対の正義などどこにもないのだ、という「共生」のメッセージである▼翻って、いま私たちの目の前にある政治はどうだろう。「共産党はなくなったらいい」。日本維新の会の代表が放った言葉に、ため息がでた。政策論争ではなく、政党の存在そのものを否定するような発言は見過ごせない▼そうでなくても、自らの支持者にしか向き合わない国会議員が目立つ昨今である。広く国民の代表として熟議を重ねる。分断を避け、合意を探る。そんな民主政治の基本をよもや忘れてもらっては困る▼「正義でいばっているやつは嘘(うそ)くさい」とも、やなせさんは言った。自分だけが正しいとの排除の政治に陥れば、ばいきんまんに嗤(わら)われるだろう。ははは、ハッヒフッヘホーと。(8/1 朝日新聞「天声人語」)
今日はこれにて。
果てなき自由研究は今日も続くノダ、の巻 [日録]
今朝も、PENTAXQ S1+ライカ→Qマウントアダプター+廉価ロシアオールドレンズ インダスター61L39マウントのセットで散歩です。
インダスター61 L39は焦点距離50mmのレンズですから、PentaxQシリーズで使用すると、かなりの望遠レンズになります。
PENTAX Qは、胃勇魚1/2.3型のセンサーを搭載しており、35mm換算だと焦点距離を約5.5倍、Q-S1のセンサーは1/1.7インチですので、35mm換算で4.6倍になります。つまり、50mmレンズが、PENTAXQだと275mm、Q-S1だと230mmの望遠レンズ相当になるわけです。
Q-S1による撮影結果は下のとおりです。
アメリカフヨウ。
ネコジャラシ(エノコログサ)。
稲の露。
田園風景。
室内での人物撮影は、どうしてもドアップになってしまいます。
三歳の孫。
この子、元気に暴れ回っていたのですが、お昼寝中に熱を測ると、39度です。お母ちゃんは出勤中で、じじばばは慌てます。お盆だというのに困ったことです。
話変わって、昨日の記事の補足。
午前中参加した学習会での「半ナマ小池」の講演の模様を、今朝の「新聞赤旗」が紹介してくれていました。私自身、十分なメモも取らずに聞きましたので、改めて参考にさせていただきます。
日本共産党の小池晃書記局長は11日、岡山県内の各地で開かれた党の集いにオンラインで講演し、戦争する国作りを進める岸田政権に正面対決しているのが共産党だとし、「命がけの外交交渉で、戦争を未然に防ぐために政治がある。戦争の準備はやめ、平和の準備を始めよう。共産党に加わっていただき、戦争を止める仕事をご一緒に進めよう」と(中略)呼びかけました。
小池氏は事前に寄せられた質問に答える形で講演しました。「政党に入ることの意味がよくわからない」との質問に、小池氏は共産党を「『今の政治、社会を変えたい』『平和、自由、人権、民主主義を守りたい』『人間らしい暮らしをしたい』。そんな思いで、いろんな分野で頑張っている人たちの集まりです。だから日本中の津々浦々に共産党員がいて、党の支部がある」と紹介しました。
その上で「一人では社会を変えられないから、力をあわせて政治を動かし、社会を変える。これが共産党です。政治を変えていくために多くの人に働きかけ、仲間を増やし、地域で、職場で声を上げて理不尽を正し、一つひとつ変えていく。本当に楽しい仕事です。私も共産党に入って本当によかった」と述べました。
さらに、どの政党も「改革」を掲げるなか、「どの政党も絶対に言わない問題がある」とし、米国言いなりと財界のもうけ最優先の問題を指摘。「この二つの問題に切り込む、ただ一つの政党が共産党です。そして101年間、反戦平和を貫いてきた」と語りました。
「今の政治にみんなが苦労している。ならば、ひどい政治の犠牲になって苦労して終わるのでなく、その政治を変えるために苦労する方がよっぽどやりがいのある苦労ではないでしょうか」と小池氏。「周りの共産党員を見てください。多くの人々の幸せのために働くことにこそ自分の幸せがあると頑張る人間集団です」と強調し、入党を訴えました。
そのほか、途切れ途切れに思い出す話題と、それに触発されて考えてみたことをとりとめなく書き加えておきます。
・アメリカ言いなりと財界優先の政治が国民を苦しめ、破綻に瀕している。トラブル続きのマイナカードの強行も、財界の要求によるもの。暮らしと安全を脅かす岸田大軍拡も、すべてアメリカの要求で、世界に例を見ない従属ぶり。これと対決して、自主的な平和への道をめざしている共産党への支持が広範な国民に広り、市民と野党の共同による政治転換への気運が高まることは、アメリカと財界にとっては脅威だから、政治転換の要となる日本共産党への攻撃が様々な形で強められている。
・維新馬場代表の「(共産党は)日本からなくなったらいい政党」発言。政策批判する権利はどの党にもあるが、『なくなったらいい』と、存在そのものを否定するのは、民主主義を根本から否定する暴論。気に食わない勢力の祖内を認めようとしないのは、戦前の軍国主義と同じ。彼らは異論・批判者を抹殺して戦争への道を進んだ。そのとき真っ先に弾圧されたのが、小林多喜二の虐殺をはじめ、命がけで戦争反対を掲げた共産党。共産党を『日本からなくす』というのは、こういう歴史を繰り返すこと。
・与党だけではできないことをやってのけるのが補完勢力の役割だが、馬場代表が、維新をみずから「第2自民党」と明言し、「第1自民党と第2自民党が競い合う」と発言。これまで、維新のことを『自民の補完勢力』と指摘してきたが、自分で言ったのは初めてで分かりやすくなった。「身を切る改革」を強調し、改革者を装う維新の政策の基本は、強者・資産家に厚く、必要な住民サービスを切り下げて弱者・少数者に負担を強いる新自由主義そのもの。賭博上33億円超もの政党助成費は無批判に受け取っている。
・最近目立つ攻撃のパターン。「委員長の任期が長すぎる、プーチンと一緒」「異論を許さない独裁体制」「民主集中制を見直すべき」etc.に関連して、大いに頷かされる解明がありました。その一つ。
民主集中制の『民主』は党内民主主義のことであり、『集中』とはみんなで一致団結して力を合わせること。政党として当たり前。党大会にむけ全国の支部で何カ月も議論し、党大会(前28回大会)では5日間の議論を経て方針を決める。「徹底した民主的運営」を実行している。一方、自民党=1時間半、公明党=1時間50分、維新=45分、など短時間で終了したのが、他党の大会運営の実態。「共産党は他党とは比べ物にならない民主的運営をしている」
ところで、元公明党副委員長 二見伸明さんが、『赤旗』紙にこんな文章を寄せておられます。
先日(6月25日)、以下のようなツイートをしたんだ。
「志位委員長が党幹部会(第8回中央委員会総会)で吠(ほ)えた。民主集中の『民主とは党内民主主義のこと。集中とは統一した党の力を集めること。この両方の要素は国民に責任を負う近代政党ならば当たり前』。集中とは別言すれば団結だ。政治学者二見伸明は百点満点を付けた。自民党は利権に群がり、利権のために集中する徒党集団だ」と。
「当たり前」のことを言っただけなのに、閲覧数はいつもよりケタ違いに多かったよ。
昼間の酷暑が収まるのを待って、、これから、お孫さん達を家まで送り届けますので、今日の記事はここまで。
ではまた。
堂々巡りの"自由研究"、の巻 [趣味]
朝の散歩は、健康のために課している義務ともいえます。が、暑さにめげて、なかなか実行に移せません。
早朝六時前後に歩いても、帰り着くと汗のために着替えが必要です。ただ、ここ2ー3日は、遠くを通過した台風6号の影響による強風で、涼しさは感じています。といっても、尋常の強風ではなく、いろんな物が飛ばされたり倒されたりして、身に危険を覚えるほどです。
義務感で歩くだけでは気が進みませんので、いささかでも楽しみを得ようと貪欲になります。あれこれ考えるうちに、しばらく使わないでいたPentaxQと後継機のQs1を引っ張り出してみました。さすがに電池が消耗していて、充電して挿入しても、日時情報などが消えてしまっています。
何を思いついたかというと、前回記事で紹介したロシアレンズインダスタ-を着けてみてはどうかという”自由研究”のアイディアです。衝動買いで、ライカ→PENTAXQマウントアダプターを注文してしまいました。
これが手に入るまでの間、ひさびさにPENTAXQ S1を持ち出してみました。
8月9日の朝散歩の画像です。
ペンタックス Kマウント用アダプターQを介して、カメラ庫の奥にあったマニュアルオールドレンズPentax M1.7 50mmを装着しました。こんな“精悍な”姿になります。
ちなみにこのアダプターについては、ずっと前、こんな記事で紹介したことがありました。
なんちゃってマクロも楽し古レンズ(2014-03-09)
社外品のアダプターでは、例の「こんにゃく現象」とやらに悩まされます。
で、ここは奮発して、純正アダプターを購入しました。
- 出版社/メーカー: ペンタックス
- メディア: Camera
今日は、オールドレンズをいろいろ試してみました。
名もめでた貧者の和製ズミクロン(2014-03-10)
今日の携行機材は、昨日にひきつづき、PENTAXQに、PENTAX Kマウントレンズ用アダプターQを介してオールドマニュアルレンズを使う実験のために、RICOH XR RIKENON 50mm 1:2 というマニュアル式標準レンズをつけてみました。
このRICOH XR RIKENON 50mm 1:2 は、安価な割にはちょっと評判のあるフィルムカメラ時代のレンズで、ペンタックス純正レンズとはまた違う写りをするようです。その道でのツウは「和製ズミクロン」とか「貧者のズミクロン」とか呼ぶのだそうで。
私は、オリンパス社などのフォーサーズ規格・マイクロフォーサーズ規格のカメラで、アダプターを利用してKマウントレンズを使用することも楽しい遊びなので、いろいろなレンズを試してみています。このリコーのレンズは、構造上、装着に問題があって苦労した記憶があります。確か、宮本製作所(近代インターナショナル)のアダプタがそれを解消してくれたような。うろ覚えで済みません。Rayqual 国産レンズマウントアダプタ Pentax K マウントレンズ-マイクロフォーサーズマウントボディー PK-MF
- 出版社/メーカー: レイクォール
- メディア: Camera
ところで、RICOH社は、かつて、生産していたフィルム一眼カメラにおいて、PENTAX社と共通のKマウントを採用していましたので、双方のレンズとボディを共用できるうれしさがありました。最近では一眼レフから離れてコンパクトカメラ中心に独自の存在感を示すメーカーとして好感を持っていました(実際に何台か使ってきましたし、今も使っています)が、とうとう吸収合併により、「リコーイメージング株式会社」が、ペンタックス・リコー両ブランドのデジタルカメラを製造・販売することになったので、ちょっとした感慨を覚えます。
RICOH XR RIKENON 50mm 1:2 は、どこへやったか見当たりません。Pentax M1.7 0mmについてはこの記事で書きました。
孫二人カメラの腕を競うとや(2014-08-15)
きのう、早朝散歩に持って出たカメラは、K5Ⅱ+AFAD+smc PENTAX-M 50mm F1.7という組み合わせ。軽快さをコンセプトに、「散歩」を優先させてみました。
このレンズは、私が最初に一眼レフ機(pentaxME)を買ったとき、ついていた標準レンズと同じものものです。そのときの個体は、露出関係の故障か、オート露での撮影が信頼できなくなり、かといって修理のコストもかさみそうなので、随分前、下取りカメラとして手放したのしたのですが、惜しくなって、また後で別のもの(カメラとレンズのセット)をヤフオクで買いました。
買いはしたものの、MF撮影の、単焦点レンズで、気合いを入れて撮影するというシチュエーションがほとんどなくて、出番に恵まれないままに、急速にデジカメ時代に突入しましたので、カメラの方は、今では時々触って楽しむだけのおつきあいになっています。
レンズの方は時々引っ張り出しては見ていますが、同じようなスペックなら、アドバンテージに勝ると思える他のレンズを使う機会が多く、 「並レンズ」のこれは、「コンパクト」さが私にとっては一番の特徴となっています。ガラスと金属の固まりですから、最近のプラスチック製品と比べると決して軽くはありませんが、見た目のキュート(?)さは、いい感じです。
写りはどうでしょう?
8月10日の朝散歩では、定番標準単焦点レンズの01STANDARDPRIMEを装着。
実にキュートな出で立ちです。このシリーズ、市場から撤退して久しいですが、つくづく残念に思われます。
写りも決して侮れません。
さて、注文中のライカ→Qマウントアダプターが到着しましたので、今朝の散歩では、ロシアレンズインダスターを試してみました。
見た目もなかなかGOOD。持ち心地も好ましい。
肝心の写りはというと・・・
精密なピント合わせが難しいのと、性能上、精細クリアな画像は望めないようですが、レトロな味わいは嫌いではありません。
早朝散歩を楽しんで、午前中は、日本共産党の小池晃書記長が来岡しての学習会があるいというので、出かけてみました。が、搭乗予定の飛行機の故障で、時間に間に合わないとのことで、急遽、代々木の共産党本部と会場を結値のリモート学習会になりました。それでも、大画面いっぱいに「ナマ小池」ならぬ「半ナマ小池」をみつめがらの学習会。充実した時間でした。
夕方は、怒濤の孫守り。お泊まりのメニューもある由。
今日はこれにて。
かぜのおとにぞおどろかれぬる,の巻 [日録]
昨日は立秋だったそうです。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる藤原敏行
雨の前日と比べて、気温はうなぎ登り、熱中症アラートも出されるなかの立秋でしたが、たしかに風の音は聞こえました。台風の影響らしいです。
早朝散歩の写真を載せます。
RICOH GXR+廉価オールドロシアレンズ ンダスター61という取り合わせを久々に持ち歩いてみました。
この組み合わせを最初に紹介した記事はこれでしょうか?。
冬晴れの半田山植物園でインダスターレンズを試す、の巻(2018-12-12)
携行カメラの選択に迷いましたが、最近手に入れた中古お遊びレンズを試してみたいと思いました。既に生産中止になっているリコーGXR本体に、レアなMマウントユニット「GXR MOUNT A12」を装着し、マウントアダプターを介して、インダスター61L39マウントというロシア製(!)のレンズを付けてみたのです。どれも、旧時代の「ゲテモノ」機材の類ですが、なかなか精悍な風貌ではありませんか?
上の記事の写真には写っていたビューファインダーが、破損して使えなくなり、今は液晶画面だけでピント合わせをしなければなりません。もちろん、マニュアルフォーカスです。
朝焼け雲に目を引かれました。
山の端からの日の出。
散歩道からの田園風景。
このオールドレンズ、モノクロフィルム時代の製品でしょうが、なかなか侮れない発色です。
白いムクゲの花。
おまけは、8月7日の早朝の写真です。
今日は、朝から「秋の風」というには熱風ですが、台風由来の強い風が音を立てて吹き荒れています。
今日、8月9日は、ナガサキ原爆の日ですが、地元9条の会が毎月行う「9の日行動」の日でもありました。今回は、酷暑を避けて野外でのスタンディングに代えて,冷房の効いた室内での学習会。
冒頭、世話役のQさんが、『憲法くん』のパフォーマンス。おなじみ松本ヒロさんのネタを、『絵本 憲法くん」を読み上げる形で演じてくださいました。
メインの学習は、いつものとおりAさん(九二歳)が「個人の尊厳と憲法」と題してレクチャーしてくださいました。
Aさんは、「はじめに」で、今年の通常国会が、6つの悪法案を次々と成立させた異常さを指摘。自公に加えて維新・国民民主が悪法成立に手を貸すという翼賛状況を批判するとともに、外国人・性的少数者など社会的に立場の弱い人々の「個人の尊厳」に対する攻撃を強めている点を強調。「前回は自公政権が先取り的に行使してきた安保三文書によって、世界3位の軍事大国として『戦争する国』の道に踏み混む恐れを指摘し、『新しい戦前』を許さず、今こそ平和憲法を輝かせるとき」であることを訴えました。『9条の会』がこの道を進むとき、今まで以上に『個人の尊厳」の破壊を許さない」という声を大きく高め広げることが重要ではないかと考えます」と、テーマ設定の理由を述べておられます。
レジュメの表題だけ紹介します。
1.改悪入管法の『個人の尊厳』侵害
2.立法自体が理不尽
3.ウィシュマさん事件-維新の会の本質を問う
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学習会が終わっての帰り道、何気なくカーラジオを置きいていると、こんな言葉が耳にとまりました。
今年5月のG7広島サミットでは、参加各国リーダーがそろって広島平和記念資料館を訪れ、被爆者と面会し、被爆の実相を知ることの重要性を自らの行動で世界に示しました。また、このサミットの成果文書である「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」では、「核戦争に勝者はいない。決して戦ってはならない」ということが再確認されました。
しかし、この広島ビジョンは、核兵器を持つことで自国の安全を守るという「核抑止」を前提としています。核抑止の危うさはロシアだけではありません。核抑止に依存していては、核兵器のない世界を実現することはできません。私たちの安全を本当に守るためには、地球上から核兵器をなくすしかないのです。
核保有国と核の傘の下にいる国のリーダーに訴えます。
今こそ、核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべきです。人間を中心に据えた安全保障の考えのもと、対決ではなく対話によって核兵器廃絶への道を着実に歩むよう求めます。
誠にその通りと感じ、どなたの発言かと興味をそそられました。
確かめてみると、鈴木史朗長崎市長による「長崎平和宣言」の朗読の場面でした。
全文を引用掲載させていただきます。
「突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ、道路に叩(たた)きつけられました。背中に手を当てると、着ていた物は何もなく、ヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。3年7カ月の病院生活、そのうちの1年9カ月は背中一面大火傷(やけど)のため、うつ伏(ぶ)せのままで死の淵をさまよいました。私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます」
これは16歳で被爆し、背中に真っ赤な大火傷を負った谷口稜曄(すみてる)さんが語った体験です。1945年8月9日午前11時2分、長崎の上空で炸裂(さくれつ)した1発の原子爆弾により、その年のうちに7万4000人の命が奪われました。生き延びた被爆者も、数年後、数十年後に白血病やがんなどを発症し、放射線の影響による苦しみや不安を今なお抱えています。
谷口さんは6年前にこの世を去りましたが、生前、まさに今の世界を予見したかのような次の言葉を遺(のこ)しました。
「過去の苦しみなど忘れ去られつつあるようにみえます。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます」
長期化するウクライナ侵攻の中で、ロシアは核兵器による威嚇を続けています。他の核保有国でも核兵器への依存を強める動きや、核戦力を増強する動きが加速し、核戦争の危機が一段と高まっています。
今、私たちに何が必要なのでしょうか。
「78年前に原子雲の下で人間に何が起こったのか」という原点に立ち返り、「今、核戦争が始まったら、地球に、人類にどんなことが起きるのか」という根源的な問いに向き合うべきです。
今年5月のG7広島サミットでは、参加各国リーダーがそろって広島平和記念資料館を訪れ、被爆者と面会し、被爆の実相を知ることの重要性を自らの行動で世界に示しました。また、このサミットの成果文書である「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」では、「核戦争に勝者はいない。決して戦ってはならない」ということが再確認されました。
しかし、この広島ビジョンは、核兵器を持つことで自国の安全を守るという「核抑止」を前提としています。核抑止の危うさはロシアだけではありません。核抑止に依存していては、核兵器のない世界を実現することはできません。私たちの安全を本当に守るためには、地球上から核兵器をなくすしかないのです。
核保有国と核の傘の下にいる国のリーダーに訴えます。
今こそ、核抑止への依存からの脱却を勇気を持って決断すべきです。人間を中心に据えた安全保障の考えのもと、対決ではなく対話によって核兵器廃絶への道を着実に歩むよう求めます。
日本政府と国会議員に訴えます。
唯一の戦争被爆国の行動を世界が見つめています。核兵器廃絶への決意を明確に示すために、核兵器禁止条約の第2回締約国会議にオブザーバー参加し、一日も早く条約に署名・批准してください。そして、憲法の平和の理念を堅持するとともに、朝鮮半島の非核化、北東アジア非核兵器地帯構想など、この地域の軍縮と緊張緩和に向けた外交努力を求めます。
地球に生きるすべての皆さん、一度立ち止まって、考えてみてください。
被爆者は、思い出すのも辛(つら)い自らの被爆体験を語ることで、核兵器がいかに非人道的な兵器であるのかを世界に訴え続けてきました。この訴えこそが、78年間、核兵器を使わせなかった「抑止力」となってきたのではないでしょうか。
その被爆者の平均年齢は、今年85歳を超えました。被爆者がいなくなる時代を迎えようとしている中、この本当の意味での「抑止力」をこれからも持ち続けられるか、そして核兵器を廃絶できるかは、私たち一人一人の行動にかかっています。
被爆地を訪れ、核兵器による結末を自分の目で見て、感じてください。そして、世界中で語り継ぐべき人類共通の遺産ともいえる被爆者の体験に耳を傾けてください。
被爆の実相を知ることが、核兵器のない世界への出発点であり、世界を変えていく原動力にもなり得るのです。
私は、両親ともに被爆者である被爆2世です。「長崎を最後の被爆地に」するため、私を含めた次の世代が被爆者の思いをしっかりと受け継ぎ、平和のバトンを未来につないでいきます。
日本政府には、被爆者援護のさらなる充実と一日も早い被爆体験者の救済を強く求めます。
原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧(ささ)げるとともに、長崎は、広島、沖縄、そして放射能の被害を受けた福島をはじめ、平和を希求するすべての人々と連帯し、「平和の文化」を世界中に広め、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2023年(令和5年)8月9日
長崎市長 鈴木 史朗
「自民党と公明党が推薦し、国民民主党が支持した元九州運輸局長」という政治的立場だそうですが、核兵器廃絶に向けてのこの思いはホンモノと見受けられます。同じ被爆地たる広島出身を売りにするキシダ首相。虚心坦懐に,この被爆地の声に耳を傾けていただいてはいかがでしょうか?
まとめ書き夏休み日記、の巻 [日録]
小学生の孫が、夏休みの宿題の日記を持て余していますが、私も記憶の薄らいだ日々の出来事を,まとめ書きでお茶を濁そうと思います。私などの子ども時代、宿題の日記で一番やっかいなのは、その日のお天気で、古い新聞を引っ張り出してお天気欄を書き写すのが苦行でした。その点、今の時代は、ネット検索で事足りるので,子どもの負担は雲泥の差といえるでしょうか。しかも今年は、我が地方は毎日晴れですから、天気の記録には困りません。菜園の土もカラカラで、キュウリやトマトが、次々にしおれて無惨です。そんななか、昨日、ようやく何十日ぶりかにちょっぴりお湿りがあり、ほっとしています。ちょうど今、豪雨被害に見舞われている地方の皆様には申し訳ないですが・・
8月1日
郷里の墓周りの草取り。除草剤散布。鹿による食害で、栽培できる作物が思い当たらない山の畑に、秋植えカボチャの苗を植え付けてみました。
8月2日
暑さにめげて,散歩回数も激減していますが、クーラーを効かせた部屋で、パソコンに向かって座りっぱなしの作業をつつけているのも体に悪いので、えいやっと真っ昼間に歩いてみましたが・・・
この連中は元気です。
ツマグロヒョウモン。
アゲハ。
アオスジタテハ。
アオサギ。
撮影機材は、Pentaxks+afミニBORGアクイロマート50mm。軽いです。
飛んで8月6日。
原爆忌の記事は割愛。
孫娘が発表会だというので、チケットをもらって出かけました。
カメラはPentaxk5を持ってきたのだけれど、会場内撮影禁止だそうです。
駐車場かr会場まで,炎天下歩きます。まぶしい光の中、岡山城や旭川がくっきりまぶしいです。
RICOH GXR+カメラユニット GR LENS A12 28mm F2.5も一緒に持って行きました。くっきり感が冴えています。
8月7日
予報通り、ささやかな雨。カンカン照りの中での農作業よりましだろうと考えて、郷里の畑の草刈りを計画。早朝我が家を出発したのですが、60kmをドライブして,作業を始める頃には九時を回っていましたから、いつもなら熱射に辟易するところですが、この日は最高気温が28度とかで、燃料が切れるまでのワンラウンドを、まずまず平気でこなせました。途中から雨が少し強くなりましたが、濡れるのが心地よいレベル。
この日は写真はありません。
今日はここまでです。