SSブログ

続20年前のベトナム訪問記(補遺3)、の巻 [私の切り抜き帳]

20年ほど前のベトナム旅行の記事の完結編です。


あとがき
このホームページの発端となった「ベトナムへの旅」は、2002年の8月のことでした。
その年のABUロボコン (Asia-Pacific Robot Contest, ABU Robocon)でホーチミン市工科大学が優勝したことが、なにか印象深く記憶に残っていますが、その後も同大学は何度も優勝をさらっていて、「世界でもっとも精緻な頭脳」をもつと表されるベトナム民族の面目躍如というところでしょうか?そういえば、ベトナム旅行の車窓から見た、商店街や路上マーケットの商品にも、新鮮野菜やトロピカルフルーツ、生鮮魚介類などとともに、細かな機械部品や工具類が魅惑的に陳列されて売られていたのも、お国柄かと思えて妙に納得させられたりもしたものでした。


第1回 東京大会 (2002)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/中国科学技術大学 (中国)
日本代表/豊橋技術科学大学(ベスト4) 金沢工業大学(ベスト4)


第2回 バンコク大会 (2003)
優勝/スワンデンディン技術専門学校 (タイ)、準優勝/キングモンクット工科大学 (タイ)日本代表/愛知工科大学(ベスト4)


第3回 ソウル大会 (2004)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/西南科学技術大学 (中国)
日本代表/東京大学(予選リーグ敗退)


第4回 北京大会 (2005)
優勝/東京大学 (日本)、準優勝/北京科学技術大学 (中国 )



第5回 クアラルンプール大会 (2006)
優勝/ホーチミン市工科大学(ベトナム)、準優勝/サムットソンクラーン技術大学(タイ)
日本代表/東京農工大学(ベスト8)



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


はたまた、サーズあり、鳥インフルエンザありで、マイナスの脚光を浴びたこともありましたが、最近のhotなニュースは、あの二重体児「ベトちゃん=ドクちゃん」の弟「ドクちゃん」の結婚の話題。
下の記事は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


ベトちゃん=ドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として産まれた双子の兄弟の愛称である。兄はグエン・ベト(Nguy?n Vi?t, 1981年2月25日 - )、弟はグエン・ドク(Nguy?n ??c, 1981年2月25日 - )。二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者であると言われている。そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられた。その後、ベトが急性脳症となったため、二人は分離手術を受けた。ドクは病院事務員となり結婚もしたが、ベトは現在も寝たきりの状態となっている。
ベトナム中部高原ザライ・コントム省出身。二人は上半身二つが一つの下半身でY型に繋がった結合双生児として産まれた。母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。母親は二人をコントム病院に預け、失踪。二人は1歳の時にハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院へ移され、そこからベト(ベトナム)、ドク(東ドイツ)と名づけられた。

下半身がつながった結合双生児の写真は世界中に紹介され、ベトナム戦争の爪あととして衝撃を引き起こした。特に日本では話題になり大規模な支援活動が起こった。1985年6月2日、「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成され、募金を募って二人に車椅子を送った。

1986年6月11日、ベトが急性脳症となり、治療のために日本に緊急移送された。6月19日、東京の病院で手術が行われたが、後遺症が残った。

1988年3月に母親と再会。その後、ベトが意識不明の重体となる。二人とも死亡してしまうのを避けるため、10月4日にホーチミン市立ツーズー病院で分離手術が行われた。この手術には日本から医師団が派遣、高度な医療技術も提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人、17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。
分離後、ドクは障害児学校から中学校に入学。中学校は中退したが、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。ボランティア活動も行っている。一方、ベトは重い脳障害を抱え、現在も寝たきりの状態である。

2006年12月16日、ドクはボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエン(Nguyen Thi Thanh Tuyen)と結婚。このことは日本でも大きく取り上げられた。結婚式では「将来は障害者も働ける旅行会社を設立したい」と語った。

枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。


なお、「枯葉作戦」についての詳細な解説はこのページhttp://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htmを参照されることをおすすめします。


また、シンガーソングライターで、枯れ葉剤の被害児を支援する運動にもとりみ続けている横井久美子さんのホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm に、次のような記事がありました。



■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


この記事も参照してください
ここで話題となっている「戦車は動けない」は横井さんの持ち歌で、1970年代、米軍相模原からベトナムへの戦車輸送をストップさせた市民の抵抗を歌ったもの。


1.戦車は動けない
このまちの橋をわたって
銃口をベトナムに
子どもらをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

2.戦車は動けない
このまちの夜をゆさぶり
血のにおいをキャタピラに
ベトナムをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

3.戦車は動けない
この国の若者たちは
恋人をひきさいて
平和をねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない
戦争は通さない
戦車は動けない


元共同通信ハノイ特派員だった作家辺見庸氏の「いまここに或ることの恥」に次の記述があるのは、確かこの運動にふれたものだと思います。



ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)



氏は、つづけて、今日のイラク状況や、日本の海外自衛隊派遣・軍事行動の拡大が、あまりにも抵抗なくやすやすとすすめられていて国民がそれを見過ごしていることに大きな危機感といらだちを表明しています。脳梗塞とガンという、二重の厄災に突如見舞われながらの氏の発言は、痛切に私たちに響きます。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1



終わり


nice!(31)  コメント(2) 

続20年前のベトナム訪問記(補遺2)、の巻 [私の切り抜き帳]

特に3.1運動(万歳事件)について
3月1日といえば、私の住む地方では高校の卒業式が行われる事の多い日であり、まず思い浮かぶのはそのことです。その次には、1952年の3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって振りまかれた死の灰の犠牲となったマグロ漁船「第五福竜丸」の悲劇。「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」という無線長久保山愛吉さんの言葉とともに思い起こされるビキニデーです。
そして、それらとは格段の疎さで、記憶の片隅をよぎるのが、3・1運動(万歳事件)です。リンクフリーとありましたので、このたび勝手にリンクを張らせていただきましたたむたむ(多夢・太夢)さんのページには、この事件について次のような解説があります。


日本の植民地であった朝鮮・京城(ソウル)のパゴタ公園で1919(大正8)年3月1日午後2時過ぎ、朝鮮の宗教人らによって起草された「われらはここにわが朝鮮が独立国であることを、及び朝鮮人が自由民たることを宣言する」にはじまる「独立宣言書」が発表され、それを契機に、学生・労働者・市民ら数10万人の民衆が熱狂して「独立万歳」を叫び、反日デモを行った運動をいう。
当時日本は、1910(明治43)年8月22日に朝鮮併合(「日韓併合ニ関スル条約」調印=韓国皇帝が、韓国の一切の統治権を永久に放棄、日本国皇帝に譲渡し、それを日本国が受諾して韓国の日本帝国の併合{国際法上、一つの国家が他の国家、またはその領土の一部を自国のものとすること}を承認する⇒大韓帝国李王朝500年の歴史ここに終焉する)して以来の武力による抑圧(弾圧)的な統治政策を行いったが、1911(明治44)年4月17日には土地収用令を制定、多くの農民から土地を奪った。また、朝鮮総督府は日本の会社の権益を擁護するため会社令により、朝鮮の民族産業の発達を阻止していた。そのため生活の基盤を奪われた朝鮮民衆の不満と怒りは頂点に達していた。
そのころ、ロシアでは社会主義革命が成功(1917年)、さらに翌1918年1月8日、アメリカでは、ウッドロー・ウィルソン米大統領の民族自決宣言(世界平和のために-第1次世界大戦講和の条件-発表した14か条の一つ)が行なわれた。こうした国際的潮流を背景に朝鮮の人々は、独立運動を展開するところとなる。
この運動を3・1独立(反日)運動または万歳事件と呼ぶが、運動は1919年3月下旬から4月下旬にかけて頂点に達する。これに対して日本軍が徹底的な弾圧政策を断行、そのため運動は暴動化し、朝鮮全土に拡大するところとなった。一連の運動の参加者は200万とも1,000万人ともいわれ、日本軍との衝突による朝鮮側の死者は実に7,645人におよんだ。
さしもの日本軍もこれに大きな衝撃をうけ、以後、朝鮮統治の方向転換を余儀なくされるのである。
外務省文書「不逞(ふてい)団関係雑件」には、「朝鮮の3・1独立運動に立ち上がった人々を教会に閉じこめて火を放って殺した。失火として処理した」と記述されている。
3・1独立運動当時の朝鮮総督府政務総監が関東大震災直後の大混乱中で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることを恐れ、朝鮮人暴動なるものを作り出して戒厳令発令による治安を掌握の口実を作り戒厳令を発布したのが、内務大臣・水野錬太郎であり、朝鮮総督府警務局長が内務省警保局長の後藤文夫であった。
なお、韓国の盧武鉉大統領は05年3月1日、ソウルで行われた「3・1独立運動」の記念式典での演説で「過去の真実を究明し、心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければならない」と訴え、日本政府や国民に、日韓和解に向けた「真摯(しんし)な努力」を求めた。日韓基本条約締結(日韓国交回復=1965年6月)40周年といったこともあり、演説全体の7割もの部分を日韓関係に割く異例の内容となった。


   
朝鮮・韓国の人々に真っ先にこの事件が念頭に浮かぶでしょうから、この重みが必ずしもピンと来ないでいる私たち日本国民との意識のギャップは覆いようがありません。侵略した側とされた側、いわば、いじめた者といじめられた者の立場の違いでしょうか。


   
しかし、この3.1運動を、ほぼリアルタイムで共感的に歌い上げた青年詩人が当時存在していたことは、日本人にとって救いです。プロレタリア文学と反戦・平和の運動に青春を捧げ、弾圧・投獄の痛手のため夭逝した詩人槇村浩です。
槙村浩(本名・吉田豊道、1912~38)は高知県生まれで、幼少期から神童の誉れ高く、英才教育で知られた土佐中学に入学しますがその思想をとがめられて退学。リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動しました。
文学活動とともに、反戦平和の青年運動にも参加し、高知市朝倉の歩兵44連隊(現在の高知大学)で夜陰に紛れて反戦ビラをまくなどの決死の活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島パルチザンの歌」(32年)など、国際連帯の反戦詩を次々に発表します。しかし、治安維持法違反により逮捕・拷問を受け、獄中で病気となり26歳の若さで世を去りました。槇村浩の人生は、高知の小説家土佐文雄の小説「人間の骨」で描かれ、1978年には映画化されました。



人間の骨 (1966年)

人間の骨 (1966年)

  • 作者: 土佐 文雄
  • 出版社/メーカー: 新読書社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: -




劇中の牧村浩が、激しい拷問に絶えながら、他の転向者たちを評して 「あの人らあは、政治家じゃきに、転向という判断もあるかもしらん。けんど、ワシは芸術家じゃきに、信念を偽るわけにいかん」と不屈に非転向を貫く場面があったかと記憶しています。


間島(かんとう)パルチザンの歌

思い出はおれを故郷に運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え
蘆(あし)の根の黒く凍る沼のかなた
赭(あか)ちゃけた地肌に黝(くろ)ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子(こうらいきじ)が谷に啼く咸鏡(かんきょう)の村よ
(中略)
おお3月1日!
民族の血潮が胸をうつおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたたきつけたおれたちのどのひとりが
1919年3月1日を忘れようぞ!

その日
「大韓独立万才!」の声は全土をゆるがし
踏み躙(にじ)られた日章旗に代えて
母国の旗は家々の戸ごとに翻った
胸に迫る熱い涙をもっておれはその日を思い出す!
反抗のどよめきは故郷の村にまで伝わり
自由の歌は咸鏡の嶺々に谺した
おお、山から山、谷から谷に溢れ出た虐げられたものらの無数の列よ!
先頭に旗をかざして進む若者と
胸一ぱい万歳をはるかの屋根に呼び交わす老人と
眼に涙を浮かべて古い民衆の謡をうたう女らと
草の根を齧りながら、腹の底からの嬉しさに歓呼の声を振りしぼる少年たち!
赭土の崩れる峠の上で
声を涸らして父母と姉弟が叫びながら、こみ上げてくる熱いものに我知らず流した涙を
おれは決して忘れない。


 


間島パルチザンの歌

間島パルチザンの歌

  • 作者: 槙村 浩
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2015/06/18
  • メディア: Kindle版



間島パルチザンの歌―槇村浩詩集 (1980年) (新日本文庫)

間島パルチザンの歌―槇村浩詩集 (1980年) (新日本文庫)

  • 作者: 槇村 浩
  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: 文庫



安重根記念館


    
朝鮮総督府初代長官伊藤博文を暗殺した暴漢として、日本ではその名前すら記憶されているかも疑わしい安重根ですが、韓国では愛国的な英雄アンジュングンとして小さな子どもたちまでが敬愛しており、立派な記念館によって顕彰されています。記念館は、手入れされた緑に囲まれ、あらこちらに石碑や、銅像などが配置されていて、静謐な空気に包まれています。


ansekihi    
館内には安重根の遺筆が収められた額縁や関係写真、勲章や獄中自叙伝、遺言、書簡、文献などが展示,保管されており、その生い立ちや行動、思想の遍歴がしのばれます。いずれをとっても、そこには暴虐無道、軽佻浮薄のテロリストという面影はいっさいなく、高潔な憂国の士という人柄が浮かんできます。テロリズムを手放しで礼賛し英雄視することには組みするわけにはいきませんが、凶悪卑劣な暴徒とのみ矮小化する描き方も不適切と気づかずにはいられません。        



これらのスポットを選りすぐり、案内してくれたガイドの金さんは、聞けば金大中大統領(当時)と同郷、同姓で、遠い親戚だといいます。我々旅行団の「特注」として、「歴史に詳しいガイドさん」を、旅行会社が確保してくれた甲斐あって、歴史、地理、世情に対する該博な知識と教養の持ち主。自国の歴史や文化・伝統への誇りと自負が言葉の端々に感じ取れます。教師の経験もあるとかで、ガイドぶりにも、なにか講義のような風情が感じられ、ふと、できの悪い生徒のようなくすぐったさを覚えるバスの中でした。
特に、多くの韓国の方々にとって、熱い「愛国心」が共通教養として身についていることの表れでしょうが、自国の歴史や自国政府の諸政策への支持・共感が、言葉の端々にうかがわれます。特に、南北分断・家族別離の不幸を伴う朝鮮戦争への評価、31万人あまりの韓国軍兵士を投入して本格参戦したベトナム戦争の位置づけ等において、「共産勢力の脅威」「ベトコンとの戦い」などの言葉がしばしば口に上るのは、彼女の真率な思いのあらわれと言えましょうが、幾分の気後れを覚える場面も、正直ありました。 しかし、その愛国の思いが、掛け値なく純粋なものであることは、誰しも容易に感じ取ることができ、何かまぶしくすら思われるのは、私だけの感覚でもないように思われます。


     
特に、直前に起きた米軍による韓国少女ひき逃げ事件に話題がおよんだとき、彼女の口調がいつになく強くなり、「アメリカ国内でアメリカ人の中学生が、ひき逃げされたときでも、アメリカ軍はこのような態度をとることができるでしょうか?」と激しいまでの義憤を表明している様子に、それは格別に感じられたことでした。
彼女が話題にしていた少女轢殺事件のあらましと、その後の経緯は、おおむね次のようなものでした。


日・韓共同開催のFIFAワールドカップで沸き返る6月13日、友だちの誕生会に行こうと一般道を歩いていた韓国の女子中学生シン・ヒョスンさんとシム・ミソンさん(ともに中学2年生の14歳)が、米第2師団工兵隊所属の架橋運搬用装甲車(重量54トン)にひかれて即死した。装甲車は米韓合同演習に参加して計7台の車列の3番目を走行中だったが、対向車線からくる車両を避けるために歩道に乗り上げたのだった。
米軍は当初、単純な「公務中の事故」として、見舞金程度で処理しようとし,具体的な原因も明らかにせず、責任者に対する処罰も行おうとしなかった。それどころか、韓米駐屯軍地位協定(SOFA)を盾に、事件の裁判権も、韓国側に渡そうとしなかった。
現場は地域の通学路にもなっている片側一車線の一般道路。道幅は約三・三メートル。一方、装甲車は幅三・七五メートルで、車線から四五センチもはみ出す車だった。この装甲車が何の警告もなしに一般道路を疾走して、対抗車線の車(戦車?)とすれ違うために道路端に車を寄せ、そこにいた二人の女子中学生(それぞれ一四歳)をひき殺したという。死亡した場所の少し手前の草むらに一人のはいていた靴が残されていたので、装甲車に気付いた二人は必死に逃げたが逃げ切れず、車は二人を押しつぶしてしまった。
米韓地位協定では公務中の事故に関してはアメリカ軍に裁判権があるとされているため韓国側は捜査すらできない状態だった。世論の激しい非難の中で、七月一〇日に韓国政府はアメリカに裁判権の放棄を申し入れたが、アメリカ軍はこれを拒否。 さらに運転手の上司である部隊長や師団長も早々に帰国させてしまった。
結局、米軍の検事が、装甲車の運行を管理していた通信管制兵のフェルナンド・リノ兵長と、運転兵だったマーク・ウオーカー兵長の2名だけを業務上過失致死で起訴し、裁判は基地内で米軍人を判事とし、米軍人から選ばれた陪審員7名によって行われた。弁護人は被告人自身が本国のそれぞれの出身地から専任した。
審理はまず通信管制に当たったリノ兵長について行い、彼には重大な職務怠慢や過失が証明されないということで無罪評決をした。続いて運転兵だったウオーカー兵長についても同様趣旨で、リノ兵長とバランスをとる形で無罪評決をした。米軍軍裁では検察側に控訴権がないため、11月22日ですべてが終結した。
アメリカ側のこの横暴かつ不誠実な態度に、国民的な抗議の声が急速に高まり、署名、集会、街頭行動が連日のように繰り広げられた。特に学生・生徒を含む若者たちの参加が目立った。この機運は、12月の大統領選挙にも波及し、独自外交路線を掲げアメリカからの自立を政策として鮮明にした盧武鉉(ノムヒョン)の当選に大きく影響を及ぼした。



 



JSA [DVD]

JSA [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東芝デジタルフロンティア
  • 発売日: 2006/06/23
  • メディア: DVD



JSA(吹替版)

JSA(吹替版)

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2023/01/16
  • メディア: Prime Video



彼女は幾度か映画「JSA」 (映画紹介その2)を話題にしましたが、これこそが絵空事でなく自国・自民族のおかれている抜き差しならない現実だという思いが彼女の言葉の端々から伝わってくるようでした。本来友愛で結ばれてあるべき同胞が、長く分裂・対立の不幸にさいなまれ、時として一触即発の危機にさらされているという状況は、センチメンタルに嘆きたてるべきものでもなければ、諦観をもって冷ややかに甘受すべきものでもなく、時事地として直視する以外にないという受け入れ方、担い方を、ここの国の人々はしているのだなあと、感じさせられたのです。そこに、国の針路や戦争と平和への向き合い方において、私たち日本人との大きな落差を感じたような気がしました。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1


つづく


nice!(4)  コメント(0) 

続20年前のベトナム訪問記(補遺)、の巻 [私の切り抜き帳]

20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログに小分けでご紹介しました。


20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23


元は、以前公開していたプライベートホームページに掲載していた記事なのですが、プロバイダの契約を解消してから、消滅状態にありました。古いデータを探って復元したのが、上の諸記事です。もう少し続きを書いていたような気がしていたのに、当初は見つかりませんでした。


その後、掘り起こしたデータを、この記事で再現しました。全景記事の続きに相当するものでした。


続20年前のベトナム訪問記、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)


さらに、続いて以下の記事も見つけましたので、この機に掲載させていただきます。


6.ハノイからソウルへ


  
水上人形劇の余韻を楽しむうちに、いよいよベトナムともお別れ。名残惜しい思いのまま、ハノイ空港を深夜11時半に出発、ソウル経由で日本に向かいます。
機中泊を経て、私たちの乗った大韓航空機が韓国仁川空港に着いたのは8月11日(日)の早朝。ソウル-岡山便は夕方の出発とあって、待ち時間をつぶすための余分のスケジュールとはいえ、ほとんど丸一日のソウル見学ができたことは、いわば余得でした。


往路と同じく,空港で私たちを迎えてくれたのは女性ガイドの金(キム)さん。まずは鮑粥など韓国の味満喫の朝食をすませます。


ソウルでの見学先は、一般の観光ツアーでは訪れることの少ない厳選スポットを堪能。午前中は本場「垢すり」体験コースと、戦争紀念館、独立記念館などの歴史モニュメントを中心とした見学コースの二手に分かれ、私は同行の歴史家諸氏に混じって後者に参加しました。 


戦争記念館(戦争紀念館)


misairu1 


    


94年6月に開館した戦争紀念館には、5千年の間の抗争史、軍事遺物資料など、戦争教訓の生きた資料が展示されています。殉国者追悼室、戦争歴史室、韓国戦争室、海外派兵室、国軍発展室、大型装備室などの展示室のほか、屋外展示室には、陸海空の実戦に用いられた武器が生々しく展示されており、その重みに圧倒されます。愛国心に満ちた韓国の少年少女の目には、たくましく心強い味方と写るのでしょうし、また、日本からの行きずりの観光客らにとっては、かっこいいミリタリー調の記念写真にでも収まりたい代物でしょうか?そこには沖縄を飛び立ってベトナムに出撃した血塗られた爆撃機、戦闘機らの実物もまがまがしく実在をアピールしていて、複雑な思いを抱かざるを得ません。


 


紹介サイトはこちらその2  


独立記念館
 


  「侵略」を「進出」になど、教科書の書き換えを強要した1982年の「教科書歪曲問題」事件をきっかけに、国民的募金によって建設されたのが「独立記念館」。ここには、次の七つの展示館があり、全てを見学し終えるには何日もの時間が必要な豊富さです。逆コースを加速する小泉→阿倍流のアジア観、日本観が、なにやら針路を危うくさせている今だけに、この展示内容に真摯に目を凝らすことは、私たち日本人にとって必要不可欠とおもえます。過去の過ちを過ちとして認めたうえで、日韓・日朝関係の望ましいあり方を冷静に考えていくことは、新たな友好関係を発展させる礎と言うべきではないかと改めて感じます。


民族伝統館



高句麗広開土王碑のレプリカや亀甲船の模型などが展示してあります。


  


近代民族運動館


 
 
日本の朝鮮半島侵略から韓国併合に至るまでの主な民族運動が展示されています。十三道倡義軍のソウル進撃のようすがミニチュアで展示してあります。


 


日帝侵略館   



日本の植民地時代の展示がしてあります。蝋人形での展示も生々しく歴史を伝えます。 


 


3・1運動館


3・ 1独立運動についての展示があります。


 


独立戦争館


        
入り口を入ると安重根、尹奉吉、金佐鎮三氏の像があります。三氏はいずれも独立運動の闘士です。この館は、文化運動や、学生運動など独立運動の様子が紹介されています。


 


臨時政府館 


  上海に設立された大韓民国臨時政府や中国など世界各地で展開された独立運動が紹介されています。



大韓民国館


miya2


   
その他の展示物:朝鮮総督府撤去建材の展示公園     なお、上の表にある朝鮮総督府は、日本が日韓併合のあと朝鮮支配のためにおいた役所。その庁舎は李王朝の宮殿であった景福宮 の敷地を破壊して宮殿正面に造られ、宮殿を街から覆い隠す位置にそびえ立つことからも、日帝支配による屈辱の象徴と人々にはとらえられてきました。解放50周年目にあたる1995年8月15日の光復節の日に撤去され、その撤去建材で展示公園が造成されています。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。



https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1



 

つづく


nice!(3)  コメント(0)