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続20年前のベトナム訪問記(補遺3)、の巻 [私の切り抜き帳]

20年ほど前のベトナム旅行の記事の完結編です。


あとがき
このホームページの発端となった「ベトナムへの旅」は、2002年の8月のことでした。
その年のABUロボコン (Asia-Pacific Robot Contest, ABU Robocon)でホーチミン市工科大学が優勝したことが、なにか印象深く記憶に残っていますが、その後も同大学は何度も優勝をさらっていて、「世界でもっとも精緻な頭脳」をもつと表されるベトナム民族の面目躍如というところでしょうか?そういえば、ベトナム旅行の車窓から見た、商店街や路上マーケットの商品にも、新鮮野菜やトロピカルフルーツ、生鮮魚介類などとともに、細かな機械部品や工具類が魅惑的に陳列されて売られていたのも、お国柄かと思えて妙に納得させられたりもしたものでした。


第1回 東京大会 (2002)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/中国科学技術大学 (中国)
日本代表/豊橋技術科学大学(ベスト4) 金沢工業大学(ベスト4)


第2回 バンコク大会 (2003)
優勝/スワンデンディン技術専門学校 (タイ)、準優勝/キングモンクット工科大学 (タイ)日本代表/愛知工科大学(ベスト4)


第3回 ソウル大会 (2004)
優勝/ホーチミン市工科大学 (ベトナム)、準優勝/西南科学技術大学 (中国)
日本代表/東京大学(予選リーグ敗退)


第4回 北京大会 (2005)
優勝/東京大学 (日本)、準優勝/北京科学技術大学 (中国 )



第5回 クアラルンプール大会 (2006)
優勝/ホーチミン市工科大学(ベトナム)、準優勝/サムットソンクラーン技術大学(タイ)
日本代表/東京農工大学(ベスト8)



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


はたまた、サーズあり、鳥インフルエンザありで、マイナスの脚光を浴びたこともありましたが、最近のhotなニュースは、あの二重体児「ベトちゃん=ドクちゃん」の弟「ドクちゃん」の結婚の話題。
下の記事は、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から


ベトちゃん=ドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として産まれた双子の兄弟の愛称である。兄はグエン・ベト(Nguy?n Vi?t, 1981年2月25日 - )、弟はグエン・ドク(Nguy?n ??c, 1981年2月25日 - )。二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者であると言われている。そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられた。その後、ベトが急性脳症となったため、二人は分離手術を受けた。ドクは病院事務員となり結婚もしたが、ベトは現在も寝たきりの状態となっている。
ベトナム中部高原ザライ・コントム省出身。二人は上半身二つが一つの下半身でY型に繋がった結合双生児として産まれた。母親フエは終戦の1年後に枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。母親は二人をコントム病院に預け、失踪。二人は1歳の時にハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院へ移され、そこからベト(ベトナム)、ドク(東ドイツ)と名づけられた。

下半身がつながった結合双生児の写真は世界中に紹介され、ベトナム戦争の爪あととして衝撃を引き起こした。特に日本では話題になり大規模な支援活動が起こった。1985年6月2日、「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が福井県敦賀市で結成され、募金を募って二人に車椅子を送った。

1986年6月11日、ベトが急性脳症となり、治療のために日本に緊急移送された。6月19日、東京の病院で手術が行われたが、後遺症が残った。

1988年3月に母親と再会。その後、ベトが意識不明の重体となる。二人とも死亡してしまうのを避けるため、10月4日にホーチミン市立ツーズー病院で分離手術が行われた。この手術には日本から医師団が派遣、高度な医療技術も提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人、17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。
分離後、ドクは障害児学校から中学校に入学。中学校は中退したが、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。ボランティア活動も行っている。一方、ベトは重い脳障害を抱え、現在も寝たきりの状態である。

2006年12月16日、ドクはボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエン(Nguyen Thi Thanh Tuyen)と結婚。このことは日本でも大きく取り上げられた。結婚式では「将来は障害者も働ける旅行会社を設立したい」と語った。

枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。


なお、「枯葉作戦」についての詳細な解説はこのページhttp://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htmを参照されることをおすすめします。


また、シンガーソングライターで、枯れ葉剤の被害児を支援する運動にもとりみ続けている横井久美子さんのホームページhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm に、次のような記事がありました。



■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間
昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


この記事も参照してください
ここで話題となっている「戦車は動けない」は横井さんの持ち歌で、1970年代、米軍相模原からベトナムへの戦車輸送をストップさせた市民の抵抗を歌ったもの。


1.戦車は動けない
このまちの橋をわたって
銃口をベトナムに
子どもらをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

2.戦車は動けない
このまちの夜をゆさぶり
血のにおいをキャタピラに
ベトナムをねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない

3.戦車は動けない
この国の若者たちは
恋人をひきさいて
平和をねらいうつ
戦争は通さない
戦車は動けない
戦争は通さない
戦車は動けない


元共同通信ハノイ特派員だった作家辺見庸氏の「いまここに或ることの恥」に次の記述があるのは、確かこの運動にふれたものだと思います。



ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)



氏は、つづけて、今日のイラク状況や、日本の海外自衛隊派遣・軍事行動の拡大が、あまりにも抵抗なくやすやすとすすめられていて国民がそれを見過ごしていることに大きな危機感といらだちを表明しています。脳梗塞とガンという、二重の厄災に突如見舞われながらの氏の発言は、痛切に私たちに響きます。


ソウルの写真はこのリンクからどうぞ。


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25


 


https://kazgphpto.blog.ss-blog.jp/2023-08-25-1



終わり


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コメント 2

Enrique

現在の若者(に限らず大人一般)にベトナム戦争の知識(や記憶)もあるのでしょうか?
その構造を理解した上で日々生活を送るのならまだしも,全く戦争に関して思考せず,そもそもの知識すらない状態に陥っているのが現状ではないでしょうか。
8月は戦争について考え直すせめてものシーズンだったと思いますが,それすら軽くなって来ています。
ベトナム戦争の時代であっても,日本人は高度経済成長に酔いしれ,足元で米軍に協力しておきながらも,他国の戦争くらいの関心の人が多かった。そして,現在ではもっと無知無関心なまま軍事費の拡大などもやすやすと容認してしまっている現状があります。
せめてこのシーズンを非戦を考える機会にしないといけません。そのためにもこちらの様な記事は貴重だと思います。
by Enrique (2023-08-27 11:09) 

kazg

>せめてこのシーズンを非戦を考える機会にしないといけません。
全く同感です。何しろ、自分自身が、世の流れに流されて、戦争と平和への思いなど、淡く遠くなってしまっています。いまなおリアルタイムで進むウクライナの悲劇も、ブラウン管(今は死語で、液晶画面と言うべきでしょうか)の中に閉じ込められた出来事になってしまっているように思えます。あえて、意識して思い出し。思い返し、発信していかなければなりませんね。実は私、退職後、何年か、専門学校で外国人留学生に日本語を教えるアルバイトを経験しました。ベトナムの若者も、大勢いました。が、直接ベトナム戦争に触れる会話を交わしたことがないのです。いつかの機会に、と思ううちに、リタイアしてしまい、今では残念です。ベトナムの若者も、日本の若者と共通して、ベトナム戦争も「過去のこと」になっているような感じはありました。デリケートな問題を含んでいるので、確かめないまま終わりました。そのほかの話題では、仲良くなったのですが・・・ 

by kazg (2023-08-27 18:38) 

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