SSブログ

秋色いよいよ深く、の巻 [日録]

秋色いよいよ深まって参りましたが、お変わりありませんか?

朝霧の中、児島富士の異名を持つ常山(つねやま)が姿をあらわしています。

R9046053

日が射すにつれ、霧はすっかり晴れ、爽やかな青空に覆われます。

久しぶりに後楽園を歩いてみました。

前回訪れたのはこの時でした。

昨日の失敗、の巻(2022-05-16)

本当に久しぶりです。去年の夏以来かも知れません。年間パスポートの期限が2月で切れたはずですが、その後更新もしないまま、早や5月ですので、この辺でパスポートの更新もしておきたいと思いました。

そこで、正門窓口に向かいますと、いつもにない賑わいで、しばらくの順番待ちの末、更新を申し出ますと、「コロナのため休園がありましたので、パスポート期間が延長されます」とのことで、今年の8月まで有効のシールを貼って下さいました。嬉しい限り。

この時期間延長してもらった年間パスポートが、実際には使用しないまま8月で期限切れになってしまっていましたので、更新手続きも済ませました。

紅葉が、やっと色づき始めています。

R9046054

「新殿」の前の柿の実が熟すのはもう少し先のことでしょうか?

R9046068

1月にはこんな真っ赤な柿の実が、鳥たちを興奮させることでしょう。

後楽園散歩 by PENTAX K5Ⅱ(2015-01-09)

新殿の柿の木。

_K525456_R.JPG

メジロなどの鳥が寄らないのは、渋柿だからだろうか、と話しておりますと、烏が飛んできて柿を囓っていました。

_K525465_R.JPG

岡山後楽園の鳥たち 追補(シジュウカラ、メジロ、ツグミ、シロハラなど)(2015-01-26-1)

この記事で書いた新殿のほとりの柿の木に、たわわに実る柿の実がすっかり熟したようです。
_K525456_R.JPG

鳥たちが賑やかに歌いながら、饗宴に興じています。
大食漢のヒヨドリが、大胆にかじったりすすったり、大騒ぎです。

_K526374.jpg

_K526385.jpg

メジロの群れも、負けじと大忙しです。

岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ
岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ posted by (C)kazg

岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ
岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ posted by (C)kazg

岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ

岡山後楽園の柿の木に遊ぶメジロ posted by (C)kazg

芝生と澄明な水の流れと青い空。一段とこの公園の魅力を引き立ててくれます。

R9046076R9046080

R9046067

正面遠くに、岡山城が望めます。

R9046058

R9046064

この日は、後楽園の駐車場に車を停めて、徒歩で教育相談ボランティアの事務所まで歩いてみました。

色々な表情の岡山城を眺めながら歩きます。

R9046103R9046112

工事中だった天守閣が、11月3日、リニューアルオープンだそうです。

R9046107

前回記事でも紹介したシンフォニーホールの特徴あるたたずまいを、別の方角から眺めてみるのも面白いです。

R9046096R9046098

R9046101

今日はこれにて。


nice!(31)  コメント(2) 

GR LENS A12 28mm F2.5、の巻 [カメラ三昧]

リコーGXRに装着するレンズユニットとして、「GR LENS A12 28mm F2.5」というものを、最近、中古で購入しました。10年以上も前に発売された製品で、しかもこのGXRというシリーズ自体、製造中止になってから久しいのですが、物好きにも、中古で手に入れて時々使っています。


そういえば、以前こんな記事を書きました。


孤高の名機?の巻(2019-12-09)


RICOH GXRというユニーク(キワモノ、ゲテモノ?)カメラを、時々使います。すでに生産中止になって、旧時代の遺物となってから、中古で買いました。

このカメラ、「ユニット交換方式」という唯一無二の独自システムをとるデジカメです。ウィキペディアの解説をお借りします。

このカメラの最大の特徴である世界初の「ユニット交換方式」とは、ボディは入出力機能(ボタンと液晶画面)にフラッシュ等の補助メカニズムを付加したI/Oモジュールとシステムの電源を一体化したものに他ならず、レンズはおろかイメージセンサーすら搭載されていないという奇抜な設計である。カメラとしての実質機能は全て交換ユニット側に集約されているが、カメラユニット側だけでなく本体側にも画像処理エンジンを搭載している。そのためカメラユニットを外した状態で本体の電源をオンしても動作は可能であり、撮影したデータを表示、加工するなどがボディ単体でも行える。

この「骨組み」とも言えるボディに対して、レンズ、イメージセンサー、画像処理エンジンを一体化したカメラユニットを、本体にスライド挿入して使用する。トータルではやや大型のコンパクトカメラとなり、背面液晶かオプションのEVFを用いて撮影する。

先日の後楽園散歩に持ち出したのは、1台で28-300mm相当の働きをする「P10」というユニット・・・


また、GR LENS A12 28mm F2.5については、「デジカメウォッチ」2010/11/22 付記事にこんな紹介がありました。


新製品レビュー:リコーGR LENS A12 28mm F2.5 - デジカメ Watch Watch (impress.co.jp)


約1年前にリコーが発売したGXRは、「ユニット交換式カメラ」という新ジャンルを世に問うかたちで登場。撮像素子、レンズ、画像処理エンジンをまとめたカメラユニットを交換式とすることで、異なる撮像素子とレンズの組み合わせをひとつのボディで楽しめるという、斬新なコンセプトを提示して話題になった。

GR LENS A12 28mm F2.5を、レンズフードLH-1、EVFのVF-2を装着したGXR

画質面では、ボディと同時に発売されたAPS-Cサイズ相当のカメラユニット「GR LENS A12 50mm F2.5 MACRO」(以下A12 50mm)の評価がすこぶる高い。撮像素子に合わせた専用設計のレンズのためか、キレとヌケの良さは格別。ボケも自然でケチのつけようがない。唯一の悩みといえたコントラストAFの遅さもほぼ解消した。ただし、なまじA12 50mmの出来が良いだけに、「この画質で広角カメラユニットがあれば……」と、当時、無い物ねだりをするユーザーが多かったのも仕方がないところだろう。

そうしたユーザーの気持を当然予測できていたのだろう。即座にリコーは3月のCP+2010で、APS-Cサイズ相当の撮像素子を搭載した広角単焦点カメラユニットを参考出品。その後約9カ月を経て正式発表されたのが、今回とりあげる「GR LENS A12 28mm F2.5」(以下A12 28mm)になる。

撮像素子はA12 50mmと同じく23.6×15.7mmのCMOSセンサー。有効画素数は約1,230万。レンズの焦点距離は18.3mmで、製品名に含まれる28mmの表記は、35mm判に換算したときの数値になる。

(中略)

■周辺までシャープな画質

JPEGでの階調性や色再現は素晴らしく、全体的にクリアでヌケが良い。S10 24-72mmやP10 28-300mmとは歴然とした差を感じる部分であり、A12 50mmユーザーの期待を裏切らない高画質だ。(中略)

APS-Cセンサーで開放値F2.5ともなると、28mm相当でも近距離での撮影なら、前景と背景をそれなりにぼかせる。近距離撮影時の画質も文句なし。ピントがあった面からボケへとつながる面のなだらかさが気持よく、しっとりとした情感を誘う。点光源ボケはきれいな円形だ。前述した通り、それほど被写体には近寄れないものの、テーブル上の料理の皿をいくつか収めるような構図ではちょうど良い。ボケ味の良さと絶妙な距離感に、かなりはまりそうな予感を覚える。


10月19日の夜明け方のスナップ。



R9045925


R9045901R9045909R9045913R9045948


R9045945


10月19日の街中スナップ。


R9045953


正面に見えるのはシンフォニーホール。


R9045958


R9045965


R9045966


街路樹の紅葉が始まりかけています。


R9045970


県立図書館のガラス窓。



県立図書館付近から岡山城方面を望む。



晴れ渡った田園風景(10月20日朝散歩)


R9045984R9045989R9045991R9045993R9045996R9045997


玉野市深山公園のカモたちも数を増してきています。


R9046011


今日はこれにて。


nice!(28)  コメント(0) 

ついてません、の巻 [日録]

最近ついてません。

やることなすこと、裏目に出ます。

その1

昨日は、「物価急騰に見合う年金引き上げを」と訴える署名宣伝行動があるというので、出かけました。

自動車を有料駐車場に預けてから、徒歩で宣伝場所に向かう予定でしたが、もう少しで駐車場というところになって、後ろから何かスピーカーからの声が流れてきます。最初は気にも留めていませんでしたが、どうやら、「その車、道路橋に寄って止まって下さい」みたいなことを言ってるらしいです。振り向いてみると、パトカーから、女性警察官が降りて小走りに近寄ってきます。一旦停止違反だそうです。「止まっ手安全確認してから進んだんですがねえ」と抗弁するも、聞き入れてもらえません。後ろで見ていたけれど、きちんと停止できてなかったとの由。反則金7000円だそうです。物陰から、獲物(鴨)を狙っておられたのでしょうね。

「年金引き上げ」どころか、とんだ出費で、トホホです。

その2

今日は、年金者組合地元支部の集まりがありましたので、しっかり愚痴り、同情もしていただきましたが、一週間以内に払い込まない場合は署まで出頭せよと申し渡されている反則金を払い込むチャンスを失いました。銀行に立ち寄ったときには3時を過ぎていて、窓口が閉まっていました。郵便局の窓口は4時まで営業とありましたが、孫のお迎えの約束をしていましたので、間に合いません。すると、土曜日、日曜日を挟みますので次の営業日の月曜まで待たねばなりません。

その3

退職同業者の会誌の編集をお手伝いしています。今回はS先輩が主たる編集者で、私が最後の印刷原稿(版下)作成係でした。火曜日に、お仲間が集まって印刷と発行のさ行をしました。

S先輩の編集による原稿を、私がプリントアウトし、それを版下として印刷・発送するというお決まりのプロセスでしたが、思わぬアクシデントに見舞われました。

私の用意した版下の、ページが足りないのです。F先輩が抜かりなくチェックして気づいて下さいました。そんなこともあろうかと、私はUSBメモリーに、原稿のデータファイルを入れて持ってきていました。印刷作業に協力戴いている現役同業者の事務所で、パソコンをちょこっとお借りして、ちょこっとプリントアウトすればOK!のはずでした。

ところが、思わぬアクシデントがさらに続きます。この会誌の編集担当者は、3人で、いずれも一太郎の愛好者です。その合議によって、これまでWORDで編集してきたこの会誌を、最近、思い切って一太郎で編集することにしたのですが、これは世の中の動きに逆行するドンキホーテ的な所業であることを、思い知らされました。というのは、この現役同業者の事務所には、一太郎のインストールされたパソコンが一台もないのです。トホホです。

致し方ありませんから、自宅まで取って返し、足りないページをプリントアウトして持ち帰るのに 2時間近くかかりました。やっとの事で印刷・製本・発送ができました。

その4 今日は、会誌が会員さんの手元に届いたようです。そこで、さらなるアクシデント。今回の主任編集者のS先輩から。「訂正前の物が印刷されていましたね。」とのメールを戴きました。ありゃりゃ!すべて私の責任です。

格安レーザープリンタで印刷した写真の写りが悪いので、プリンターを変えて何度か印刷するうちに、校正前の古いファイ ルを出力したものを、誤って印刷原稿にしてしまったもののようです。トホホ。

失敗に離れてますが、あまりに続くと腐ります。

最後についてる話題を一つだけ。

今朝、我が家のごく近所で、この鳥を見つけました。

K1IM7427

ジョウビタキ♀、今シーズン初見です。

今日は別の場所でジョウビタキ♂も見かけました。

季節は進んでいます。

例年より遅いですが、キンモクセイが、よい香りを漂わせています。

今朝の空。雲の様子が楽しいです。

R9046000R9046002R9046004

今日はこれにて。


nice!(11)  コメント(2) 

ノビタキ?の巻 [鳥三昧]

 前号記事のモズの写真の出来に気を良くして、玉抜トキナー + ミニボーグ50ミリ(アクロマート)を 散歩に持ち出しています。


K 1 と組み合わせたりもしています。


ダイサギの飛翔(トリミング画像)


K1IM7338


ヒバリが朝食中。


K1IM7336


 K1IM7328


K1IM7323


刈り入れ前の 稲田 に、スズメではない 小鳥 の姿を見たような気がしました。丸く囲ったところにいます。


K1IM7340


おもいきって トリミングしてみます。 確かにスズメではないようです. では 、この鳥なあに ?


K1IM7344K1IM7348K1IM7350K1IM7351K1IM7353


調べてみると ノビタキかもしれません。そういえば、 ずいぶん前の記事に初撮りの 話題を書きました


長月晦日は降ったりやんだり、の巻(2016-09-30)


チッチッチという声の方を見ると、稲穂の間を小鳥が見え隠れしています。
これなあに?
セッカノビタキでしょうか?
稲田のセッカ
稲田のノビタキ posted by (C)kazg稲田のセッカ
稲田のノビタキ posted by (C)kazg


またこの記事にも登場します。


月の輪古墳と三笠宮、の巻(2016-10-28)


今日は、午前中、ウルトラスーパーのプチ散歩を済ませました。しかも冷たい雨に降られて、早々に退散した次第。
が、そんなときに限って、出会いに恵まれたりします。

(中略)

雀かと思いましたが、動きが少し違うように思って念のために撮影してみると、、、、
ノビタキ♀でしょうか?


今日の付録


またまた モズの画像をゲットです。


K1IM7304K1IM7306K1IM7307K1IM7310K1IM7313K1IM7396K1IM7402K1IM7407K1IM7411K1IM7418K1IM7423


今日はこれにて。


nice!(22)  コメント(2) 

続々芋づる式、の巻 [日録]

先日の記事汽車の話、の巻でモズの写真を載せました。今年の初撮りでしたが、機材がイマイチ非力でしたので、「いずれまた写す機会があるでしょう。」と書いておきました。

モズは、秋から冬にかけての季節感をしっかり味あわせてくれる鳥で、珍鳥とは言えまいまでも、その声も、小柄ながら精悍なその姿も、たいそうゆかしい鳥ですので、ついついカメラを向けたくなります。

この記事を書いたのは、つい最近のことのように思えましたが、一昨年のことでしたね。

コットン水車もまわってる,の巻(2020-09-18)

後楽園の水路を水車が回っていて、涼を感じさせてくれます。

KS_15532

ところで、ここを通るといつも「コットン水車もまわってる」というフレーズが,口をついて出てきます。「もずが枯れ木で」の歌の一節です。古いところではこんな記事を書いたことがありました。

ムクドリとモズが我が家の窓から見えました。(2013-09-29)

元職場では、廊下で出会った時など同僚のSさんと、百舌の鳴き声を確認しあうのが、この季節の習わしになっていました。Sさんは音楽にも秀でた方で、洋楽のレパートリーも豊富なのですが、「『もずが枯れ木で』が好きなんです」とおっしゃったことがありました。
私もモズを見ると、この歌を想い出します。
もずが枯れ木で
【作詞】サトウ ハチロー
【作曲】徳富 繁
もずが枯木で鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさん
コットン水車も 廻ってる
みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ

(中略)

「兄さ」は徴兵により、凍える満州に送り出されていきました。
サトウハチローの作詞が昭和10年(1935年)、徳富繁の作曲が昭和13年(1938年)だそうです。
軍国主義華やかなりしこの頃、人為による「兄の不在」、「愛する者の不在」を、こうも切々と訴えた詩が生まれたことは、驚きです。この時代、反戦や民主主義を目指す思想や運動には徹底的な弾圧がくわえられ、ありとあらゆる芸術、文化、言説が、「戦意高揚」へと駆り立てられていきました。
石川達三の「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)が発行禁止処分を受けるなど、表立って「反戦」を唱えなくとも、少しでも戦争の悲惨を伝え、戦意喪失させるような作品は、発売禁止にされました。そんなご時世に、「鉄砲が涙で 光っただ」なんて、日本男児にあるまじき「女々しい」歌が検閲を免れ、地方の民謡として歌い継がれたことは、希有な奇跡だったかも知れません。.

まったく牽強付会の、文章展開ですが(汗)、「もずが枯れ木で」の歌詞には、「綿びき車は おばあさん コットン水車も 廻ってる」とあります。「綿引き車」「コットン」と二つも綿に関わる言葉が出てきますので、きょうの話題は「綿」に決めました(汗)。

モズについては、以前から何度も書いています。

これも、随分昔の記事です。

高鳴きするモズの姿をとらえました、の巻(2017-10-01)

大きな声で、高鳴きしています。
毎年、秋~冬の記事にしょっちゅうモズが登場します。
一番最近の登場は、この記事↓のようです。
◇も一度一本の鉛筆、の巻そこでも引用しましたが、この記事↓に、モズにまつわる蘊蓄をいろいろ書いています。
◇散歩道のモズが思い出させたこと、の巻
そしてこの記事↓にも。
◇ムクドリとモズが我が家の窓から見えました。
今日の記事では、くり返しません。
今日、思い出したのは、先日観劇した劇団青年座「ブンナよ木から下りてこい」(水上勉原作)の一場面です。
◇金星と月寄り添ふや野分晴

(中略)

椎の木のてっぺんの、わずかな土の中に身を潜めているブンナの頭上に、音をたてと放り落とされたものは、瀕死の状態の雀と百舌でした。
こんな会話が聞こえて来ます(原作本から引用します)。

「わたしをたべないだろうね……百舌さん……わたしは、鳶につつかれて、半殺しの目にあって、こんなところへつれてこられたんだ。 羽のつけねが折れて立つこともできない……。百舌さん……おまえさんは、こんなわたしを、たべたりはしないだろうね」
ブンナはびっくりしました。 雀が話している相手は仲間ではなくて、百舌らしいからです。いや、おどろいたことには、雀は、鳶にさらわれてきたようです。羽のつけねを折られ、このてっぺんにつれてこられて泣いていることがわかったのです。
「たべないさ。おれだって、おまえさんと同じ身だ。おまえさんは、羽のつけねなら、まだいいほうだ。みてごらん。 おれはうしろ首をあの、鳶のヤツのくちばしで突かれて、ここをわしづかみにされた上に、何度も地べたに落とされたから、じまんのくちばしも折れてしまった。たべはしないよ。たべたって、おれの寿命がのびるわけでもない。おれたちは、ふたりとも、やがて鳶のねぐらへつれてゆかれて、餌食になる運命なんだ。こわがらなくてもいい。雀くん……」
百舌がそういっています。ブンナは、からだがこわばりました。百舌も、鳶にやられているらしいのでした。さらに驚いたことには、この椎の木のてっぺんは、鳶がねぐらへえさをはこぶとちゅうの貯蔵場所だったのです。

翌日の記事にも、話題は続きます。

百舌とブンナと彼岸花、の巻(2017-10-02)

鳶の暴虐の前には、哀れな百舌はなすすべもなくその命を差し出すしかないのですが、カエルは常にその百舌の犠牲者です。
以前書いたこの記事では、はやにえとされた無惨なカエルの骸を話題にしました。
◇冬天(とうてん)を仰ぎて骸(むくろ)乾きたり

新潮文庫の「ブンナよ木から下りてこい」の末尾には、作者水上勉からの「母への一文」というメッセージが添えられています。
一部を引用します。

私は、この作品を書くことで、母親や子供とともに、この世の平和や戦争のことを考えてみたかった。 それから子供がよりぬきんでたい、誰よりもえらい人間になりたい、と夢を見、学問にも、体育にも実力を発揮し、思うように他の子をしのいでゆくことの裏側で、とりこぼしてゆく大切なことについても、いっしょに考えてみようと思った。まことに、今日の学校教育は、人なみの子にするというよりは、少しでも、他の子に勝る子にしあげようとする母親の願いを、ひきうけているようなところがあって、子は、ひたすら学習であけくれている。 いったい誰が人なみでいることをわるいときめたか。また、人なみでないことをダメだときめたか。そこのところをも、私は子供とともに考えたいと思った。生きとし生けるもの、すべて太陽の下にあって、平等に生きている。蛙も鳶も同じである。 だが、この世は、平等に生きているといっても、弱肉強食である。賢い者は愚かな者を蹴落し、強い者は弱い者をいじめて生きている。動物の世界だけではない。人間の世界がそれである。
ブンナは、こんな世の中で、もっとも弱いものの象徴である蛙である。ブンナという名は、釈迦の弟子の一人の名にちなんでつけられているが、賢明な弟子の苦悩を、ブンナは蛙の身でなめるという物語である。
母たちに、 右のような作者の思いがったわっておれば、子供に話しきかせる方法もまたちがってくるだろう。 今日の学歴社会を生きぬこうとする凡庸の子らに、どのような夢を作者は托したか。凡庸に生きることが如何に大切であるかを、 母親は先ず自分の心の中で抱きとって、子に話してほしい。そうであれば、ブンナが木の上で体験した世にもおそろしく、かなしく、美しい事件のすべてが、子供に、なんらかの考えをあたえ、この世を生きてゆくうえで、自分というものがどう確立されねばならぬかを、小さな魂に芽生えさせてくれる、と作者は信じる。

今朝のカメラ散歩で写したモズはこちらです。

KS_19484KS_19491KS_19494KS_19497

KS_19500KS_19499

ここ数日、何度かモズに出会うたびに、写そうとはしたのですが、機材が非力で、お見せできるような画像がありませんでした、今朝の散歩は、PENTAXK5Ⅱ+トキナー100-300mmAF+miniborg50の組み合わせで、期待以上の写りでした。

今日はこれにて。


nice!(20)  コメント(2) 

続芋づる式、の巻 [日録]

前回記事にサツマイモ収穫の話題を書きました。

m_imo03_R.jpg

この女の子は保育園児でしたが、今は小6。

 

今朝から修学旅行に出発しました。コロナ禍のため経験したことがなかった、初めての宿泊を含む学校行事で、いそいそと出かけました。

 

 

この男の子は、何歳だったでしょうか?

imo.jpg

気になってあれこれ探してみましたら、灯台もと暗しで前日の記事にも彼が登場していました。

蛇笏忌や屋根の蛙の物想い(2014-10-03)

追伸

孫たちが庭に植えていたサツマイモの蔓を試し掘りしてみると、こんな大きなイモが実っていました。

IMGP6075_R_R.JPG

孫の頭サイズのイモでした。

ほかにも、ごろごろ、焼き芋サイズの安納芋を収穫。

私が、畑に植えたイモよりも、遙かに上出来でした。

 

そして同じ年の夏休みの記事がこちら。

倉敷のそぞろ歩きは孫の供(2014-08-12)

計画分の宿題が終わったら、そこを訪ねてみようと、出かけましたが、途中で、月曜日が休館日だと気づきました。

引き返すのもしゃくなので、「商店街を歩いてみたい」という小五生のリクエストに応えて、当初の目的地近くまで行くことにしました。「倉敷自然史博物館」は「倉敷市立図書館」と同じ敷地にありますが、そこも休館日でした。そこの駐車場(有料です)に車を停めて、徒歩で周辺を歩きました。

_K529966_R.JPG

商店街(アーケード街)は、定休日のお店、お盆休みのお店が多く、閉店・休業状態のお店も少なくないようで、さしずめシャッター街の趣でした。

芋の写真と同じ服装をしています。小5と書いて兄が今大学生です。弟は小1だったでしょうか?

この弟は、小学校高学年になってなぜか学校に行きづらくなり、保健室登校の日々を重ねました。修学旅行も、出発日にはみんなと一緒に出かけることができず、2日目に、ママに送ってもらって京都で一行に合流したのでした。

ところが、なぜか、中学校では何事もなかったかのように、部活にも授業にもフツーに参加し、もうすぐ来る修学旅行を楽しみにしています。

この記事の続きを見てみると、、、。

(中略)

なぜか、こんな所も通りました。駐車場は遠かった。

_K520028_R.JPG

 


 芋づる式にこんなことを思い出していたのは、実は先日、隣市に住む孫(小1)の舞踊の発表会(の予行)が、倉敷市の会場で行われるというので、妻がお手伝いに行きました。

odori.jpg



そのアッシーとして倉敷まで妻を送り、終わるまでの4時間ほどを、あちらこちらで時間をつぶしながら、こんな写真を撮ったりしたからでした。


s-K1IM7267.jpg


s-K1IM7269.jpg



このレンガ造りの建物は、倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績の工場跡)です。

ウィキペディアの解説を引用します。

当施設は、江戸幕府の代官所跡に、1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、1973年(昭和48年)に改修され、観光施設として再生された。倉敷紡績の関連会社 株式会社倉敷アイビースクエアが経営・管理し、現在も倉敷紡績の登記上の所在地である。場所は倉敷美観地区に含まれ、建物は2007年(平成19年)11月30日に経済産業省より「近代化産業遺産」に認定されている。2016年(平成28年)5月には伊勢志摩サミットG7倉敷教育大臣会合の会場になった。

いつもは素通りすることが多い場所ですが、時間があるので、あちこちパチリしておきました。

 

s-K1IM7255.jpgs-K1IM7260.jpgs-K1IM7262.jpg

 

s-K1IM7256.jpg

足を伸ばして、備中国分寺近辺をプチ散歩しました。前回記事の写真はその時のもの。追加を少々載せておきます。

s-K1IM7211.jpg

手前の田圃には、古代米が実っています、

s-K1IM7234.jpg

一面見渡す限り、コスモスが群生しています。

保育士の娘が、仕事柄必要だというので、森のどんぐりを拾って帰りました。

秋たけなわです。

きょうはこれにて。

 


nice!(12)  コメント(2) 

芋づる式、の巻 [私の切り抜き帳]

サツマイモの収穫も終わり、先日は久しぶりに芋やカボチャの天ぷらが食卓を飾り,孫たちにも好評でした。


そう言えばずっと以前、庭の芋掘りを記事にしたことがありました。


素十忌や独りごつなる庭蛙(2014-10-04)


思い出したのが、草野心平氏の「ごびらっふの独白」。

カエル語による独白を、日本語訳して示すという、風変わりな詩( どの詩も風変わりですが)です。

ごびらっふの独白
るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。
けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。
きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。
じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。
ぷう せりを てる。
ぼろびいろ てる。
ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる
ける ありたぶりあ。
ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。
ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。
いい げるせいた。
でるけ ぷりむ かににん りんり。
おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。
びる さりを とうかんてりを。
いい びりやん げるせえた。
ばらあら ばらあ。



日本語訳
幸福というものはたわいなくっていいものだ。
おれはいま土のなかの靄(もや)のような幸福につつまれている。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇(くらやみ)のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあうたしかな存在をほのぼの意識し。
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
ジュラ紀の先祖がやってくれた。
考えることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもっとも永い歴史をわれわれがもっているということは
平凡であるが偉大である。
とおれは思う。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
いわばすなわち天である。
美しい虹だ。
ばらあら
ばらあ。

 

私もまた、ただたわいない幸福をこそうれしいとするのです。

たとえば、こんな芋や、

imo03_R.jpg

こんな芋を掘り当てた幸福を。

imo01PA04033220141004_68_R.JPG

imo02_R.jpg




肝心なことは皆、靄がかかったように曖昧ですのに、とりとめもなく脈絡のないよしなしごとが、芋づる式に思い出されてなりません。前回記事で、高3の頃の記憶を話題にしました。


そう言えば、先日、亡父の供養のために詣でた際に、ご近所の壮年の方に行き会わせました。私自身、深い交友はないものの、老父母が色々お世話になっています。話が弾む中で、「私が小学生の頃、高校生のあなたは、よく本を読みながら、犬を連れて散歩されていましたね。」と思いがけない指摘を受け、面映ゆいことでいた。それは、確かに事実ですが、目撃されていたとははずかしい。


その犬というのは、この記事で書いた犬でした。


安酒をちびりちびりの物思い(2015-12-21)


そもそも文学というものは、「入試」とか「競り合い」とかの、世俗的な世界にはそぐわない、どちらかと言うとその対極にに位置するような気が漠然としますが、不思議なことに、文学の持つ力は、それに触れるシチュエーションや環境にお構いなしに、読者のハートをわしづかみにすることがあるらしいです。たとえば、同じく二〇〇一年度のセンター試験で、江國香織さんの「デューク」が出題された時には、試験会場に時ならぬすすり泣きの声が広がったと伝えられていますね。死んだ飼い犬の「デューク」が若い感性の柔軟さに、うらやましささえ感じるエピソードです。

著作権問題が気になりまが、まったく無断で少々引用します。

歩きながら、わたしは涙が止まらなかっ た。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、ほか の人たちがいぶかしげにわたしを見たの も、無理のないことだった。それでも、 わたしは泣きやむことができなかった。
デュークが死んだ。
わたしのデュークが死んでしまった。
わたしは悲しみでいっぱいだった。
デュークは、グレーの目をしたクリーム 色のムク毛の犬で、プーリー種という牧 羊犬だった。わが家にやってきたときに は、まだ生まれたばかリの赤ん坊で、廊下を走ると手足が滑ってぺたんと開き、 すーっとおなかで滑ってしまった。それ がかわいくて、名前を呼んでは何度も廊下を走らせた。(そのかっこうがモップに 似ていると言って、みんなで笑った。) 卵料理と、アイスクリームと、なしが大 好物だった。五月生まれのせいか、 デュークは初夏がよく似合った。新緑の ころに散歩に連れていくと、におやかな 風に、毛をそよがせて目を細める。すぐ にすねるたちで、すねた横顔はジェーム ス=ディーンに似ていた。音楽が好きで、
わたしがピアノを弾くといつもうずく まって聴いていた。そうして、デュークはとても、キスがうまかった。
死因は老衰で、わたしがアルバイトから帰ると、まだかすかに温かかった。ひざ に頭をのせてなでているうちに、いつの まにか固くなって、冷たくなってしまっ た。

この、死んだ愛犬「デューク」が、飼い主である彼女の前に、少年の姿であらわれるのです。

大通りにはクリスマスソングが流れ、薄青い夕暮れに、ネオンがぽつぽつつきは じめていた。
「今年ももう終わるなあ。」
少年が言った。
「そうね。」
「来年はまた新しい年だね。」
「そうね。」
「今までずっと、ぼくは楽しかったよ。 」
「そう、わたしもよ。」
下を向いたままわたしが言うと、少年は わたしのあごをそっと持ち上げた。
「今までずっと、だよ。」
懐かしい、深い目がわたしを見つめた。 そして、少年はわたしにキスをした。
わたしがあんなに驚いたのは、彼がキスをしたからではなく、彼のキスがあまりにもデュークのキスに似ていたからだっ た。呆然として声も出せずにいるわたしに、少年が言った。
「ぼくもとても、愛していたよ。」
寂しそうに笑った顔が、ジェームス=ディーンによく似ていた。
「それだけ言いに来たんだ。じゃあね。元気で。」
そう言うと、青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、少年は駆けていってしまった。わたしはそこに立ちつ くし、いつまでもクリスマスソングを聴いていた。銀座に、ゆっくリと夜が始まっていた。

やっぱり泣けますね。


ところで、まったく何の関係もないのですが、私が高校生の頃に飼っていた、捨て犬上がりの雑種犬は、気取って「デューク」と名づけました。公爵という称号に特別の思い入れがあったわけではありませんが、語感の良さ、呼びやすさから思いついたのだったと思います。

でも、昔人間の父母には、発音しにくかったようで、「リュックサックのリュック」と、近所の子どもたちに紹介しておりました。 賢い犬で、大抵の言葉は理解しているようでした。田舎のことですから、鎖を外して自由に野に放っていても、私の指笛を聞きつけると、どこからでも駆け戻ってきました。狩猟犬の素質もあるらしく、野鳥を捕らえて、自慢そうに咥えて帰ることもありました。私が大学に入学し、故郷を離れたのを最後に、お別れしました。近所の養鶏場の鶏を襲ったとの嫌疑を受け、恐縮した両親が、保健所に処分を委ねたのだそうです。初の夏休みに帰省した時、鎖と首輪の残滓だけが残っているのを見つけ、事情を聞いたわたしは、抗うこともならず、黙ってうなずくばかりでした。

まもなく、父が会社の合理化・縮小の影響で、東京の関連企業に転勤し、近郊の狭いアパートに引っ越すという環境変化があって、 犬を飼い続けるなどの条件もなくなったのですが、、、、。


その犬を遊ばせながら、私は文庫本を読んだり、詩をつくったりしていたのでした。


春 其の2 木下透(2014-02-21)


このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
今回は、高3の時の作品。「春」という同一の題の詩を、ソネット(14行詩)形式で何編か作ったうちの一つだ。
ブログに掲載するに際して、便宜的に其の2と名付けることにする。


春 其の二 木下透

うららかの春の一日(ひとひ)
萌える若草の香を淡く感じながら
私はひとり寝そべっていた
柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた
耳元の小川のせせらぎ
――軽やかおまえのささやき
つつましいツメクサの花
――はにかんだおまえの笑み
確かに交わされた約束であるように
私はおまえを――あてもないおまえの訪れを
胸をときめかせて待っているのだ。
私はおまえを知りはしないのだが
おまえは私を知りはしないのだが
ああ それはだれでもいいのだが――おまえ――


「恋に恋する」という感傷を表現してみた。本当は、意中の「おまえ」はいたのかも知れないが、それはヒミツ。
散歩中、ツメクサの花を探してみたが、まだ蕾も見えない。しもやけたクローバーの葉が、まだ寒そう。


手にしていた文庫本は、確か、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンといったドイツ文学だったことが、昨日のことのように思い出されます。


11月の終わりに寄せて(2013-11-30)


傷つきやすく鋭敏な思春期の少年たちの、切ないまでに美しい心の動きを見事にとらえた「トーマの心臓」に、ドイツ文学の空気を感じ取ることは、ごく自然な第一印象でした。私が、高校時代最も耽溺した作家は、ヘルマン・ヘッセでしたから、ここまでその世界を「映像化」できた作品に衝撃を覚えるほどでした。ヘッセの作品は、新潮文庫版として出版されていたものは、高校時代にほとんど読んだと思いますが、中でも繰り返し読んだのは「デーミアン」でした。「トーマの心臓」には、同じ空気が流れていると感じました。

現に萩尾さんご自身、ヘッセやロマン・ロランからの影響については、しばしば、色々な場で語っておられます。

2012年に、紫綬褒章を受章された時のNHKのインタビューを引用します。

Q)いつごろヘッセを読んでおられましたか?
20歳ごろでしょうか。自分自身もなんかいろんなことを考えて、例えば私はなぜ存在しているんだろうとか、どんな風に生きて行けばいいんだろうとか、そういうことを悩むわけですが、日常の生活ではそんなことを考えていないで、ちゃんと勉強しなさいとかちゃんと就職しなさいとか、なんかきちんとやることというのが求められる。きちんとやるためにいろんな悩みを考えていると邪魔だから、そんなことは考えないように生きていく方向に大体は行くんですね。確かに邪魔だなと思うんですけど。

ころがヘッセなんかは悩みを正面から書いて、自分がどんな風に迷っているか、自分がどんな風に生きていけばいいか、自分はこういうことを選択したけどこれでいいのかと反復したり周りの人に助けられたり、ある時は失敗したり、うまくいったりしながら。迷いもいいんだ、迷ってもいいんだ、いろんな事を考えてもいいんだということを、ヘッセの小説から教えられたと思います。


もうひとつ、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」も、高校時代の私のお気に入りでした。北杜夫さんが、「トニオ」のカタカナの形態的連想から、自分のペンネームを付けたというエピソードを後に読み、嬉しく思ったことでした。その「トニオ・クレーゲル」の世界とも響き合うものが、「トーマの心臓」にはあるように思えました。

トニオクレーゲルの冒頭の一節。高橋義孝氏の訳が、私は一番好きでした。
冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風づくりの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霙みたいなものが降ってきた。
学校がひけた。石を敷きつめた中庭から格子門へかけて、解放された生徒たちは、雪崩をうって外に出ると、右に左に思いおもい急いで帰って行った。年のいった少年たちは、勿体ぶって本の包みを左の肩に高々と押しつけ、昼飯を目ざして、右手で舵をとりながら風に逆らって歩いて行く。小さな生徒たちは、氷まじりの泥をあたりにはね返しながら学校道具を海豹皮のランドセルの中でがちゃがちゃいわせて、嬉々として小走りに走って行く。けれどもときどき、落着いた足どりで歩いてくる上級教師の、ヴォータンのような帽子とユピテルのような髭に出会うと、みんな恭しい目つきでさっと帽子を脱ぐ。……
「やっと来たね、ハンス君」長いあいだ、車道で待っていたトニオ・クレーゲルは微笑を浮べながら友達のほうへ寄って行った。相手はほかの仲間たちと校門を出て、そのまま一緒に帰り去ろうとしていた。……「ええ」ときき返して友達はトニオを見つめた。……「ああ、そうだったっけ。じゃこれから少し一緒に行こう」


その頃書いた習作「カルロス爺さんの思い出」などには、ヘッセやマンの作品世界が醸し出す空気感を、色濃く反映しているに違いありません。


郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第3回)


嶺の雪も溶けて、ぼくらの村にも春が訪れた。
村の小学校での、うんざりする長い授業が終わると、子どもたちは一斉に校門を飛び出した。
さわやかなそよ風が、萌えいずる若草の目をゆるがす。
子供たちの栗色のうぶ毛をゆるがす。
柔らかに額にまといつく髪の毛をゆるがす。
ガタガタ揺れるランドセルと、額を流れる快い汗を楽しみながら、ぼくは、爺さんの小屋まで一目散にかけてゆく。ぼくらの小学校からほんの二百メートルばかりの所にある水車小屋が爺さんの家だ。
小川の土手には、つくしんぼやたんぽぽがそおっと顔を出している。
あんなに固く閉ざしていたネコヤナギや野いばらが、柔らかに芽ぶいていて、それを見つけた少年に、素直で新鮮な驚きに目を見張らせたのだった。
そっと芽を出した芝草に腰を下ろして、健康な早春の生気に酔いしれている時、ボクの右手を何かがくすぐった。
振り向くとそこには、一匹の子犬が――――ほんとに小っちゃくて、そう、ぼくの両てのひらに楽に隠れそうな大きさだったが、それでいて丸々太ってて、黒いまん丸い瞳が利口そうにキラキラしてる――――その短いしっぽをピンと垂直に立てて、しきりに左右にふっていた。


今日の付録 備中国分寺の秋景色です。


K1IM7217


K1IM7207


K1IM7206


今日はこれにて


nice!(14)  コメント(0) 

汽車の話、の巻 [日録]

秋を飛ばして初冬のような冷え込みになっています。

コスモスが花盛りです。

PA080183PA080184

PA080185

モズの姿も見かけるようになりました。

トリミング画像です。

中望遠のレンズでは鮮明に写りません。

いずれまた写す機会があるでしょう。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

ムクドリもよく姿を見せます。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

これはなに?と思って鳥の群れにカメラを向けましたが・・・いつものドバトのようです。

取り立てて注目するような鳥ではないでしょうが、でも、平和の象徴として、敢えて掲載しておくことにします。

P9140158

昨日、9日は,恒例の「九の日行動」として国道脇でのスタンディングを行いました。

この日は、あたらしいグッズがお目見えしました。

Exif_JPEG_PICTURE

若いH女史の,手づくり新作宣伝物です。ポスター三枚分が横につながり、蒸気機関車が二両の車両を引っ張って走る姿になっています。

「戦争という汽車は、走り出したら簡単には止まらない」と書いてあります。

最初は「走り出したら止まらない」と書いたけど、今私たちは止めようと声を上げているのだから,「止まらない」と言いきるわけにはいかないと、小さく「簡単には」と書き加えました。とのこと。

最後の車両には、「憲法9条を守り発車させない平和な日本に!」と書いてあります。

「素晴らしい」と、こもごもに賞賛の声を上げながら、ふと思いついて、”汽車”という言葉に、「今の若者は汽車を知らないかも?」と私がツッコミを入れる手見ました。当のH女史をはじめ、現役世代の方々は、汽車を利用する実体験モス買うないでしょうし、日常用語として”汽車”という言葉を使わないのではなかろうかと思ったからでした。(というのも、随分以前、生徒にそんな指摘をされたことがありましたから)

「それもそうですね」と,一時”汽車”の話題が交わされました「汽車汽車シュッポシュッポ」の歌。「銀河鉄道の夜」または「銀河鉄道999」の話題。年配者の実体験のことなど・・・。そう言えば現代の子どもたちに人気の「鬼滅の刃」にも汽車が登場する,なども思い出したりしたことでした。

あとで思えば、イルカの名曲「なごり雪」の歌詞も「汽車を待つ君の横で ぼくは時計を気にしてる」とありましたっけ。伊勢正三作詞作曲のこの曲が世に出たのは1974年発表の「かぐや姫」のアルバム『三階建の詩』だそうですね。1974年はまさに”汽車”が現存するスレスレの時期だったかも知れませんね。

思い出しついでに、これまでも何度か引用したこの記事にも、汽車が登場したことを思い出します。

悪夢のインフルエンザ体験(追憶の昔語り)(2014-01-28)


高三で、まさに「受験生」だった私は、勉強の手を休めて(と言うとかっこいいけれど、あんまりまともな勉強をしていたわけでもありません。)、「体力づくり」のために、エキスパンダー運動と、踏み段昇降運動とで汗を流していました。すると突然、ズキズキと激しい頭痛に襲われ、寒気でがたがたと体が震えてきました。
その数日前でしたかね、ある先生の授業中の雑談で、「風邪などは、弱気になると負けてしまう。自分なんかは、熱い風呂に入ってかーっと汗を流して、卵酒を飲んで風邪を追い出す。風邪薬なんか飲まなくても、すぐに治る。」というような話(ディテールはあいまですが)をされていたのを思い出し、やってみました。熱~い風呂に入って、汗をかーっと流すと、、、、ますます寒気がひどくなり、頭痛も激しくなってきました。
耐えられず、翌日医者に駆け込むと「流感だろうな。」という診断。「流感」という言葉は、現在では聞かなくなりましたが、「流行性感冒」。普通の風邪と区別して、インフルエンザ様の感冒をそう呼んだのでしょう。
熱い風呂に入った事を告げると、とんでもないこととたしなめられました。

人間は、肉体からできていて、精神力・気力だけではいかんともしがたいという、唯物論的鉄則を、痛感した一こまでした。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などという言葉が好きな子どもでしたがーーー。


薬を服用しながらの受験行は、私にとっての忘れがたい試練でした。その頃まで、私は、自分自身の天運というか、運気というか、運勢というようなものに、妙な自信を持っているところがあって、自分はいつも何かに護られていると、無条件に感じているところがありました。今で言う自己肯定感情を、さまざまな行動のエネルギーにしていたといえます。

ところが、この時期の、病み上がりの心身状況での不本意な受験行と、私大受験の相次ぐ失敗に、それはこっぴどく痛めつけられてしまったわけです。
その頃の心情を、後に振り返って、再現ドラマ的に歌にしてみたことがありました。
今から二〇年ほども前に勤務していた高校の、受験を控えた生徒達に、担任としてのメッセージのつもりでプリントにして配ったものです。

遥かなる日々
A 京の街の路面電車の女生徒の
   白き歯並びゆかしかりけり
B 地下街の人ごみの中さまよいぬ
   前途(みち)急ぎ行く人装いて
C この街の幾千人の雑踏の
  ただの一人も我を知るなし
D 自害せし三島由紀夫の一冊を
繰りつつ受験の宿に眠れず
E 受験場のダルマストーブのゴウゴウと
燃える音のみ耳にさわりて
F 英文字は目に踊れども意味なさで
  脈音痛くこめかみをうつ
G〃熱のせい〃の言い訳をすでに準備してる
  その心根のうとましいこと
H 合格者の名の並びたる新聞に
   あるはずもなき我が名捜しをり
I 発表の日は過ぎたるを
習性(さが)のごと郵便受けを探る未練よ
J かばかりのことに動ずる汝(な)なるかと
  問えど鏡のわれは黙しをり
K はじめから覚悟してたと涼しげに
  笑うつもりの顔がこわばる
L 本当は僕の心はズタズタです
  助けてくれと叫びたいです
M 劣等のそしりに深くうなだれて
  おっしゃるとおりと泣かましものを
N 学歴にとらわれる人を醜しと
   言い来(こ)し言葉も強がりに似ん
O “どこへ行くの”とこだわりもなく問う人の
   言葉の端も我を鞭打つ
P 人生に早や疲れたる人のごと
   うらぶれて吾は受験に旅ゆく
Q 飽くほどの長き道程(みちのり)たどり来て
汽車は土佐路に我をはこびぬ
R 「地の果て」と溜め息もらす友もあり
  南国高知は雲厚くして
S 高校の先輩と名乗る人あまた
  宿訪ね来てしばし和みぬ
T 快く土佐の言葉は耳うてど
  異邦人(とつびと)我の孤独いや増す
U この土を
維新の志士も民権の若者達も踏みて駆けしや
V 帰り来ていよよ土佐路は恋しかり
  再び見んことなしと思えば
W 幾たびも間違いならんとたしかめぬ
  我が名宛なる祝い電報
X これしきのことにと恥づれど
我ならず「ゴウカク」の文字霞み見えたり
Y 呪われの受験生の名の解けし日よ
   イヌノフグリの花の愛しさ
注 A~Oは、関西の私大受験に失敗した顛末。38度を越える発熱のせいと言い訳をしながらも、ショックは大。辛うじて合格をくれた一校は、第3志望ゆえに、「行こうか浪人しようか、不本意ながらもやっぱり行くんだろうな」という、忸怩たる思い。 近所のおばさんの、「あんた、どこへ行くん」の言葉にも、心は傷付くのでした。
P~Yは、国立受験の顛末。当時は1期校・2期校の時代ですから、いよいよ3月の話。都落ちのつもりで受験したそこに、是が非でも入りたい気持ちになっていただけに、合格は、正直うれしかった。         
5年ばかり前の現代文の授業で、短歌を扱った機会に、当時の高校生に短歌を創作させました。その際の動機づけとして、私がつくってみたのがこれです。受験生であった頃の自分を、ほろ苦く、また甘酸っぱい懐かしさとともに思いだすような、中年男の感性が交じっているかも知れませんが、極力、誇張や美化は避けて当時の自分を客観視してみたつもりです。
(中略)


拙劣ながら懐かしい、古い記事を今再読してみながら、時代背景についての説明が、今ではもう少し必要かと思えてきました。

(Aの歌について)

当時の京都には路面電車が走っていました。町中をのどかに走る路面電車の情景は、しっくりと古都になじんでいました。たまたま乗り合わせた白い歯並びが印象的な女学生の姿もエレガントで、さすが「京女」の土地柄と、こころひかれるものがありました。
後に、この路面電車は赤字経営、クルマの走行の邪魔、地下鉄化の方が近代的、などの理由で、70年代の終わり頃廃止されたようです。今となっては残念なことです。

B・C・Dの歌は、受験前夜のつれづれに、大阪の地下街を彷徨しました。乾燥した冷たい風の吹きつのる街角は、たくさんの人々が行き交う雑踏でしたが、 それがかえって孤独を募らせました。立ち寄った書店で、銀色の派手な表紙の三島由紀夫作品集花ざかりの森」を買って流し読みしましたが、没入できず、かといって眠りにもつけず悶々とした不眠の夜を送ったことでした。

E・F・G。当時の受験会場は、石炭ストーブがごうごうと音を立てていました。暖かいのは結構なのですが、熱のある体には苦痛なほど、顔と頭だけが熱せられて、冷静な思考ができませんでした。ちょうど脳手術後の今のレベルくらいの、脳の回転力だったかも知れません。

H~Oは、受験での失敗体験に、私がいかに傷ついたかの記録です。打たれて強くなるとか、悔しさをバネにとか、いろいろ言いますが、できればこんな試練は経験しない方が望ましいのではないかと思います。

個人情報の観点からは、とうてい容認できない事態でしょうが、当時の新聞には、大学ごとの合格者氏名が、堂々と掲載されていました。合格者は、新聞を見ることによって結果を知ることができますが、新聞に掲載されない場合は、掲載漏れではないかとか、追加発表があるのではないかと、なかなか未練が断てません。

P~Y は、国立大受験記。
四国の高知。最初の印象は、空気が臭いということ。実は当時、反公害の運動の歴史の中でも注目される「高知パルプ」という製紙会社が、工場そばの江の口川という小川に、工場排水を垂れ流し、そこから高知市内の中心部を流れて浦戸湾に至るまでの川水を真っ黒に汚染していたさなかのことでした。
当時は、今の中国の状態ほどではないものの、全国で野放しの公害垂れ流し状態がありました。そのため、工場地帯に近い大都市には住みたくないという心情が、当時の私などには根強くありました。それだけに、都市から遙かに離れたこの地方で、まさかこんな公害に出会おうとは思っても見ませんでした。その意味で、私の第一印象は、かなり気が滅入るものでした。

でも、受験を終えて帰宅した後になって、土地にまつわる歴史や文化、風土を、改めて認識するにつれて、憧憬する気持ちが強くなっていきました。Wの歌の「我が名宛てなる祝い電報」というのは、私大入試で結果がわからずやきもきした経験から、今度は合否電報を依頼していたのでした。今なら、ホームページ上に合格者の受験番号が発表され、発表時間と同時に合否が確認できるわけで、時代は変わったものです。

いつもどおり、本題よりも余談が長い私のブログ。余談ついでに、今年は鉄道開業150周年だそうですね。10月14日の鉄道記念日(鉄道の日)を中心に、各地でイベントが盛りだくさんのようです。

日本大百科全書(ニッポニカ)「鉄道記念日」の解説
鉄道記念日
てつどうきねんび

日本の鉄道開通を記念する日。毎年10月14日。日本で初めて鉄道が開通したのは、1872年(明治5)6月12日の品川―横浜間であるが、これは仮営業で、新橋―横浜間29キロメートルの開通をみた同年10月14日、明治天皇の臨席のもと、新橋(のちの汐留(しおどめ)駅、1986年廃止)、横浜(現桜木町駅)両駅で盛大な開業式典が挙行され、翌日から正式営業に入った。これを記念して、1922年(大正11)国鉄では10月14日を鉄道記念日に制定した。1987年(昭和62)、国鉄は分割民営化され、その後、1994年(平成6)から「鉄道の日」と改名された。

[吉村光夫]

鉄道記念日とは - コトバンク (kotobank.jp)

今日はこれにて。


nice!(25)  コメント(0) 

高裁宛要請、の巻 [日録]

今日は、年金訴訟の原告の皆さんを中心に、広島高等裁判所岡山支部に対して,要請行動が行われました。参加者は,各人、裁判長宛に要請書を作り、これを読み上げて、係の職員に手渡すという計画です。私の属する支部からはあいにく希望者がなく、僭越ながら私が「枯れ木も山の賑わい」の役割を勤めさせていただきました。十数人の先輩方に混じって,私が読み上げたのは,こんな文章でした。


要請書

広島高等裁判所岡山支部第2部(民事)裁判長 河田 泰常殿

岡山市○○区○○ Kazg

貴裁判所におかれては,係争中の年金訴訟において,高齢者の命綱と言える年金の制度が,子々孫々に至るまで安心の制度として機能できるよう,十分かつ公平な審理を尽くされ,後世に範となる公正判決を勇気を持ってお示し下さるよう強く要請いたします。

要請趣旨

私は,1952生まれの70歳で,2015年及び2016年の提訴の時点では,年金未受給者であったため,原告には加わっていませんが,自身の死活に関わる問題であることから訴訟のなりゆきに注目し,ほぼ毎回の公判を傍聴してまいりました。

原告の訴えは,それぞれ,年金生活者自身の血の叫びであるとともに,将来の年金生活者(すなわち現在の現役世代)のいのちと人権を護るための,「孫子のための,ジジババの」伝言にほかならず,裁判傍聴者はもとより,裁判官,さらには国側代理人の胸をも深く動かしたものと確信しています。ところが,一審判決は,原告側の訴えた,女性の低年金の実情,ILO102号条約の提示する国際水準に乖離,年金削減の地域経済に及ぼす悪影響,などの指摘にまともな顧慮を払うことなく,国の主張をオウム返しするのみで,司法としての判断を回避した不誠実なもので,落胆を禁じることができませんでした。

私ごとになりますが,過日,郷里の父が94歳で逝去し,残された母への遺族年金の手続きのために,管轄の年金事務所を訪ねた時のこと,対応して下さった職員の方が,「さすがに昭和の厚生年金ですね。これだけの金額を目にすることは滅多にありません」と,率直な感想を漏らされました。

寒村の貧困家庭で育った父は,高等小学校を卒業してすぐに,つてを頼って東京の軍需工場に就職しましたが,東京大空襲で焼かれて故郷に帰り,地元企業に勤めました。その後,人減らし合理化の波を受けて,県外の企業で働いて定年を迎えました。社会の下積みとも言える境遇で,爪に灯を点すような生涯を送った父でしたが,この年金のおかげで老後の生活が支えられたのだということを改めて実感しました。

その父が骨身を削って学費を捻出してくれたおかげで,私は大学へ行くことができ,高校教員として定年まで働きました。ところが,現在私の受給している年金額は,なぜか,父にまったく及びません。空前の物価上昇が続くなかでも,物価スライドは適用されず,その上マクロスライドというマジックによって,今後益々削られていく状況のもとで,将来への不安は切実です。ましてや,より低年金の方々の不安は,察して余りがあります。

さらに深刻なのは,若者世代です。私の死後,私の子や孫が,年金事務所の職員から,「この時代の人は,まだマシでしたね。今では年金で暮らしていける人なんかほとんどいませんから」と言われるような残酷な未来を,決して彼らに残したくないと,強く思うところです。「将来の現役世代の負担を軽減」と謳うマクロ経済スライドは,現在の高齢者ばかりでなく,将来の高齢者(現在の現役世代)に一層過重な負担を強いる致命的なシステムバグといわなければなりません。現役世代に,慢性的な将来不安をおしつけ続ける社会システムは,結婚しない若者たち,出産・子育てを忌避する若者たちを量産し続け,少子高齢化を加速させ,高齢世代を支えるべき若者世代が減り続けることは自明であり,この悪循環を転換することこそ,焦眉の課題というべきでしょう。

どうか,原告はじめ,若者世代を含む国民の声に真摯に耳を傾けて戴き,高齢者・若者ともに安心して老後を迎えることができる温かい社会に向けて,日本国憲法の理念にしっかり立脚した判決をお願いするものです。


よしんば、自己満足・独りよがりと見られようが、やむにやまれぬ思いを、裁判官に伝える数少ない機会には違いないので、それなりに気合いを入れて参加してきましたよ。

そういうわけで、あれやこれやでここ2~3日、カメラ散歩はできてません。日曜日の散歩で見かけたのは,この鳥でした。

K1IM7098K1IM7124K1IM7131K1IM7154

サメビタキでしょうか?

今日はこれにて。


nice!(26)  コメント(2) 

コアオアシシギ?の巻 [鳥三昧]

先週通りかかった道路沿いに見事なヒガンバナの群生を見ました。


Exif_JPEG_PICTURE                                              Exif_JPEG_PICTURE                                              Exif_JPEG_PICTURE


一週間後の今朝の眺めです。花の色がさすがにあせてきているようです。白花のヒガンバナも混じってはいるのですが・・・


Exif_JPEG_PICTURE


10月なのに30℃超えの夏日とは驚きますが、湿度が低いせいか、不快さは以前ほどではありません。予報では,今週中頃から全線が冷たい空気を運んできて、一気に11月並の寒さになるそうです。


シギ・チドリの話題が続いています。前回記事で、アメリカウズラシギ?としてアップした画像も、相変わらずトンチンカンで、混乱の極み(汗)。


M様より、「背中の羽が、良くわかりませんが嘴から見るとコアオアシシギではないかと思われます。」「アメリカウズラシギは胸の縦縞が広く濃く腹の白い部分との境界がはっきりしています。これらの画像には縦縞が見えません。」と懇切なご教示を戴きました。この場所に「コアオアシシギ」が来ていることは、先だっても教えてくださっていたので、どの鳥がそうだろうかと気にはしていたのですが・・・


そう言えば以前、こんな記事を書きました。


寄り道、の巻(2021-09-13)


ツルシギは、赤い脚が特徴だそうですから、左側の白っぽい鳥は別の種のようですね。

K1IM1323

K1IM1367

脚が黄色いように見えるのでキアシシギですかね?

K1IM1298


ここでキアシシギと書いたのが、アオアシシギでした。(これまたM様のご指摘で知りました)


この「アオアシシギ」の小型版が「コアオアシシギ」だろうと想像はしていたのですが・・・


すると、これらの画像がコアオアシシギでしょうか???


IMGP4979IMGP4981IMGP4982IMGP4988IMGP4994IMGP4996IMGP4998


脚の色がよくわからないのが辛いところですが・・・


もう一度確認したくて,昨日も今日もこの場所兵って見たのですが、、、あれほど沢山いた、色々な種類のシギたちの姿が、どこにも見当たりません。


確認できたのは、コチドリだけでした。


_K520063_K520067_K520069K1IM6957K1IM6959K1IM6984


K1IM7032


_K520080


かわいらしい鳥ですので、いつもなら会えただけで大喜びなのですが、今回ばかりは,身勝手ながら少々がっかりしています。


今日はこれにて。


nice!(26)  コメント(0) 

アメリカウズラシギ?の巻 [鳥三昧]

蝶の同定も迷ってばかりで、Enrique様の助けなくしては立ちゆきません(笑)。


鳥の同定が同様で、特にシギ・チドリの仲間は、ことごとく外れます。小学生の孫が、セキレイを見てスズメというのを,あながち笑えません。


昨日の記事で,タカブシギと称して掲載した写真のうち、


https://kazg.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_59a/kazg/image/2022-10-01T18:05:23-e738c.jpg



https://kazg.c.blog.ss-blog.jp/_images/blog/_59a/kazg/image/2022-10-01T18:05:27-d6e4d.jpg


の写真は、アメリカウズラシギでは?とM女史にご指摘を戴きました。たしかに、羽根の模様が鷹斑とは違います。 それと。体の大きさが違ったはずですが,写真にしてしまうと記憶が薄れて、いい加減な判断をしてしまうのです(汗)


図鑑と照らし合わせて見ても、ウズラシギ、ヒバリシギ、トウネンetc.の、小柄なシギが、特に見分けられません。


これらもアメリカウズラシギでしょうか?


そうだとすれば,人生初撮りとなりますが・・・


IMGP4753IMGP4762IMGP4791IMGP4844IMGP4857IMGP5020IMGP4899


ところで,下の写真は,タカブシギでよろしかったでしょうか??見れば見るほど迷います。


IMGP4750IMGP4806IMGP4929IMGP5036


IMGP4939


K1IM7024K1IM7068K1IM7076K1IM7077


IMGP4744


一番下の写真で、奥にいるのはタシギでしょうか。


タシギも、多数目にしました。


IMGP4684IMGP4687IMGP4690


この独特のフォルムは、余り迷わずに済みます。


シギの写真は次回も続きます。


今日はこれにて。


nice!(19)  コメント(0) 

タカブシギ?の巻 [鳥三昧]

今朝の散歩の途中で、ヒガンバナに戯れるアゲハを見ました。


_K520008


昨日の早朝、出かけてみた場所はまだ暗く、写真撮影には適さない光量でした。


R0019630


R0019634


R0019636


EXIF情報では午前五時半前でした。


このあたりで夜明けを待ちました。


6時13分の画像がこれです。暗すぎますが。が、どうやらタカブシギのようです。


_K529916


ここは、前回記事でご紹介した、オグロシギに出会った場所です。ここには、他にも色々なシギがやってきていることを、前回記事をアップしたあとM女史が教えてくださいました。未見の珍鳥の名前がずらりと並んでいました。


欲に駆られて,その後も何度か訪ねてみました。


K1IM6943K1IM6945K1IM6967K1IM6983


その何回かの訪問で撮影したこれは、タカブシギだと思いますが・・・


_K520036_K520047_K529942K1IM7002K1IM7035K1IM7043K1IM7045K1IM7066K1IM7068


他の鳥については,次回ご報告することにします。


世の中のニュースときたら、どれも気を塞がせます。


・プーチンが4州を「併合」ですって?閉口閉口。


・75才以上の医療費が今日から二倍に引き上げ!


物価が上がって医療費も上がる。そして年金は引き下げられる。まったく筋が通りません。
【問題】上の赤字の文の「上」と「下」を入れ替えて、筋の通る正しい文に直しましょう。


・今日は、オスプレイ普天間基地強行配備10周年。沖縄の地元紙はこんな記事を載せています。


米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの普天間飛行場への配備から1日で10年となった。県内ではこの間、普天間配備のオスプレイは墜落や緊急着陸など17件の事故を起こしている。沖縄からの全機撤去を求める。
さらには陸上自衛隊が運用するV22のオスプレイの訓練が県内で行われる可能性がある。これ以上の負担増は断じて認められない。
開発段階から構造的な欠陥が指摘されてきた。県議会は反対を訴える抗議決議を3度にわたって可決するなど、総意として反対姿勢を示したが強行配備された。
普天間のオスプレイは2016年12月に名護市安部で墜落、17年にも豪州で墜落し、18年には機体の一部を落下させるなど事故が相次いでいる。海兵隊のMVと構造や性能が同一である米空軍のCV22について米空軍はことし8月、不具合があるとして約1カ月にわたって飛行を停止した。欠陥機と言わざるを得ない。
オスプレイが事故を起こすと、地元自治体や議会は当然のこととして民間地上空の飛行停止などを求めている。オスプレイ以外の米軍機にも共通しているが、県民の不安が拭い去られないまま米軍の裁量で飛行は再開される。
つまりは県民の求めが一顧だにされない。その不安を増幅させるのは、日米の隠蔽(いんぺい)体質である。(中略)
普天間のオスプレイは危険なつり下げ訓練や那覇軍港への飛来など沖縄の空をわが物顔で飛び回っている。普天間所属以外にも米空軍、海軍のオスプレイが恒常的に飛来する。さらには陸上自衛隊が運用するV22について吉田圭秀陸上幕僚長は沖縄を含む南西諸島周辺で訓練を行う可能性があることを認めた。理解は得られまい。
県民生活を脅かし、構造的、差別的とも言われる基地問題の根源の一つには主権国家であることが疑われるような日本政府の対米追従の姿勢があり、また一つには航空法など国内法の適用を免じる日米地位協定の欠陥がある。
沖縄だけの問題ではない。普天間のMV22の低空飛行訓練が県外で実施される。沖縄の負担軽減の名目で、住宅地を避けると言うが、そのような飛行は不可能ではないか。欠陥機の飛行に理解は得られないはずだ。国民を危険にさらすオスプレイの普天間飛行場からの撤去と地位協定の抜本改定を強く訴える。

<社説>オスプレイ配備10年 普天間配備機の撤去を - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト (ryukyushimpo.jp)


空飛ぶ欠陥機」と呼ばれるMV22オスプレイが、「世界一危険」といわれる米軍普天間飛行場に配備されてから、きょうで10年になる。
沖縄の民意を無視し続ける政権の姿勢が、政府不信を広げている。
配備の約1カ月前の2012年9月9日、宜野湾海浜公園であった県民大会には、計画の即時撤回と普天間飛行場の閉鎖、撤去を求め、主催者発表で約10万1千人が集まった。県議会と全41市町村議会の反対決議を背景に、基地絡みの集会では復帰後、最大となった。
普天間飛行場の返還合意の原点である「危険性の除去」に逆行する配備に、沖縄戦体験者から小さな子どもまで、赤いプラカードを掲げて「レッドカード」を突き付けた。保革の枠を超えた、まさに県民が一体となった訴えだった。
あれから10年。この間、普天間所属のオスプレイは、その呼び名の通り重大事故を繰り返している。緊急着陸、部品落下、そして名護市安部の沖合への墜落事故…。配備後、飛行中に少なくともクラスAとされる10件の重大事故が発生している。
「ドドドドドド」という不快な重低音に、慣れることはない。県民は日々の暮らしの中で、墜落の不安を抱えている。
「これ以上の基地負担を断固として拒否する」と訴えた大会決議に、日米両政府は今も目を向けないままで不条理が続く。

社説[オスプレイ配備10年]強行が政府不信広げた(沖縄タイムス+プラス / 2022年10月1日 12時29分)


聞く耳持たぬのはプーチンのみではない、という泣くに泣けない真実。「自由と民主主義の価値観を共有する」と称する日・米両国政府の「自由と民主主義」の意味するものはなんでしょうか?


今日はこれにて。


nice!(18)  コメント(4)