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芋づる式、の巻 [私の切り抜き帳]

サツマイモの収穫も終わり、先日は久しぶりに芋やカボチャの天ぷらが食卓を飾り,孫たちにも好評でした。


そう言えばずっと以前、庭の芋掘りを記事にしたことがありました。


素十忌や独りごつなる庭蛙(2014-10-04)


思い出したのが、草野心平氏の「ごびらっふの独白」。

カエル語による独白を、日本語訳して示すという、風変わりな詩( どの詩も風変わりですが)です。

ごびらっふの独白
るてえる びる もれとりり がいく。
ぐう であとびん むはありんく るてえる。
けえる さみんだ げらげれんで。
くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。
なみかんた りんり。
なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。
けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。
きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。
じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。
ぷう せりを てる。
ぼろびいろ てる。
ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる
ける ありたぶりあ。
ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。
ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。
いい げるせいた。
でるけ ぷりむ かににん りんり。
おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。
びる さりを とうかんてりを。
いい びりやん げるせえた。
ばらあら ばらあ。



日本語訳
幸福というものはたわいなくっていいものだ。
おれはいま土のなかの靄(もや)のような幸福につつまれている。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇(くらやみ)のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあうたしかな存在をほのぼの意識し。
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
ジュラ紀の先祖がやってくれた。
考えることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもっとも永い歴史をわれわれがもっているということは
平凡であるが偉大である。
とおれは思う。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
いわばすなわち天である。
美しい虹だ。
ばらあら
ばらあ。

 

私もまた、ただたわいない幸福をこそうれしいとするのです。

たとえば、こんな芋や、

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こんな芋を掘り当てた幸福を。

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肝心なことは皆、靄がかかったように曖昧ですのに、とりとめもなく脈絡のないよしなしごとが、芋づる式に思い出されてなりません。前回記事で、高3の頃の記憶を話題にしました。


そう言えば、先日、亡父の供養のために詣でた際に、ご近所の壮年の方に行き会わせました。私自身、深い交友はないものの、老父母が色々お世話になっています。話が弾む中で、「私が小学生の頃、高校生のあなたは、よく本を読みながら、犬を連れて散歩されていましたね。」と思いがけない指摘を受け、面映ゆいことでいた。それは、確かに事実ですが、目撃されていたとははずかしい。


その犬というのは、この記事で書いた犬でした。


安酒をちびりちびりの物思い(2015-12-21)


そもそも文学というものは、「入試」とか「競り合い」とかの、世俗的な世界にはそぐわない、どちらかと言うとその対極にに位置するような気が漠然としますが、不思議なことに、文学の持つ力は、それに触れるシチュエーションや環境にお構いなしに、読者のハートをわしづかみにすることがあるらしいです。たとえば、同じく二〇〇一年度のセンター試験で、江國香織さんの「デューク」が出題された時には、試験会場に時ならぬすすり泣きの声が広がったと伝えられていますね。死んだ飼い犬の「デューク」が若い感性の柔軟さに、うらやましささえ感じるエピソードです。

著作権問題が気になりまが、まったく無断で少々引用します。

歩きながら、わたしは涙が止まらなかっ た。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、ほか の人たちがいぶかしげにわたしを見たの も、無理のないことだった。それでも、 わたしは泣きやむことができなかった。
デュークが死んだ。
わたしのデュークが死んでしまった。
わたしは悲しみでいっぱいだった。
デュークは、グレーの目をしたクリーム 色のムク毛の犬で、プーリー種という牧 羊犬だった。わが家にやってきたときに は、まだ生まれたばかリの赤ん坊で、廊下を走ると手足が滑ってぺたんと開き、 すーっとおなかで滑ってしまった。それ がかわいくて、名前を呼んでは何度も廊下を走らせた。(そのかっこうがモップに 似ていると言って、みんなで笑った。) 卵料理と、アイスクリームと、なしが大 好物だった。五月生まれのせいか、 デュークは初夏がよく似合った。新緑の ころに散歩に連れていくと、におやかな 風に、毛をそよがせて目を細める。すぐ にすねるたちで、すねた横顔はジェーム ス=ディーンに似ていた。音楽が好きで、
わたしがピアノを弾くといつもうずく まって聴いていた。そうして、デュークはとても、キスがうまかった。
死因は老衰で、わたしがアルバイトから帰ると、まだかすかに温かかった。ひざ に頭をのせてなでているうちに、いつの まにか固くなって、冷たくなってしまっ た。

この、死んだ愛犬「デューク」が、飼い主である彼女の前に、少年の姿であらわれるのです。

大通りにはクリスマスソングが流れ、薄青い夕暮れに、ネオンがぽつぽつつきは じめていた。
「今年ももう終わるなあ。」
少年が言った。
「そうね。」
「来年はまた新しい年だね。」
「そうね。」
「今までずっと、ぼくは楽しかったよ。 」
「そう、わたしもよ。」
下を向いたままわたしが言うと、少年は わたしのあごをそっと持ち上げた。
「今までずっと、だよ。」
懐かしい、深い目がわたしを見つめた。 そして、少年はわたしにキスをした。
わたしがあんなに驚いたのは、彼がキスをしたからではなく、彼のキスがあまりにもデュークのキスに似ていたからだっ た。呆然として声も出せずにいるわたしに、少年が言った。
「ぼくもとても、愛していたよ。」
寂しそうに笑った顔が、ジェームス=ディーンによく似ていた。
「それだけ言いに来たんだ。じゃあね。元気で。」
そう言うと、青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、少年は駆けていってしまった。わたしはそこに立ちつ くし、いつまでもクリスマスソングを聴いていた。銀座に、ゆっくリと夜が始まっていた。

やっぱり泣けますね。


ところで、まったく何の関係もないのですが、私が高校生の頃に飼っていた、捨て犬上がりの雑種犬は、気取って「デューク」と名づけました。公爵という称号に特別の思い入れがあったわけではありませんが、語感の良さ、呼びやすさから思いついたのだったと思います。

でも、昔人間の父母には、発音しにくかったようで、「リュックサックのリュック」と、近所の子どもたちに紹介しておりました。 賢い犬で、大抵の言葉は理解しているようでした。田舎のことですから、鎖を外して自由に野に放っていても、私の指笛を聞きつけると、どこからでも駆け戻ってきました。狩猟犬の素質もあるらしく、野鳥を捕らえて、自慢そうに咥えて帰ることもありました。私が大学に入学し、故郷を離れたのを最後に、お別れしました。近所の養鶏場の鶏を襲ったとの嫌疑を受け、恐縮した両親が、保健所に処分を委ねたのだそうです。初の夏休みに帰省した時、鎖と首輪の残滓だけが残っているのを見つけ、事情を聞いたわたしは、抗うこともならず、黙ってうなずくばかりでした。

まもなく、父が会社の合理化・縮小の影響で、東京の関連企業に転勤し、近郊の狭いアパートに引っ越すという環境変化があって、 犬を飼い続けるなどの条件もなくなったのですが、、、、。


その犬を遊ばせながら、私は文庫本を読んだり、詩をつくったりしていたのでした。


春 其の2 木下透(2014-02-21)


このカテゴリーの文章は、おおむね、私自身の回想に関わるので、常体(だ・である調)で書くことにする。
木下透は、私の高校時代の筆名である。彼の作品を紹介するのが、この項の趣旨である。
未熟さは、その年齢のなせる業なので、寛容な目で見てやっていただきたい。
今回は、高3の時の作品。「春」という同一の題の詩を、ソネット(14行詩)形式で何編か作ったうちの一つだ。
ブログに掲載するに際して、便宜的に其の2と名付けることにする。


春 其の二 木下透

うららかの春の一日(ひとひ)
萌える若草の香を淡く感じながら
私はひとり寝そべっていた
柔らかな空を 二つのかげが ゆうるりと舞うていた
耳元の小川のせせらぎ
――軽やかおまえのささやき
つつましいツメクサの花
――はにかんだおまえの笑み
確かに交わされた約束であるように
私はおまえを――あてもないおまえの訪れを
胸をときめかせて待っているのだ。
私はおまえを知りはしないのだが
おまえは私を知りはしないのだが
ああ それはだれでもいいのだが――おまえ――


「恋に恋する」という感傷を表現してみた。本当は、意中の「おまえ」はいたのかも知れないが、それはヒミツ。
散歩中、ツメクサの花を探してみたが、まだ蕾も見えない。しもやけたクローバーの葉が、まだ寒そう。


手にしていた文庫本は、確か、ヘルマン・ヘッセやトーマス・マンといったドイツ文学だったことが、昨日のことのように思い出されます。


11月の終わりに寄せて(2013-11-30)


傷つきやすく鋭敏な思春期の少年たちの、切ないまでに美しい心の動きを見事にとらえた「トーマの心臓」に、ドイツ文学の空気を感じ取ることは、ごく自然な第一印象でした。私が、高校時代最も耽溺した作家は、ヘルマン・ヘッセでしたから、ここまでその世界を「映像化」できた作品に衝撃を覚えるほどでした。ヘッセの作品は、新潮文庫版として出版されていたものは、高校時代にほとんど読んだと思いますが、中でも繰り返し読んだのは「デーミアン」でした。「トーマの心臓」には、同じ空気が流れていると感じました。

現に萩尾さんご自身、ヘッセやロマン・ロランからの影響については、しばしば、色々な場で語っておられます。

2012年に、紫綬褒章を受章された時のNHKのインタビューを引用します。

Q)いつごろヘッセを読んでおられましたか?
20歳ごろでしょうか。自分自身もなんかいろんなことを考えて、例えば私はなぜ存在しているんだろうとか、どんな風に生きて行けばいいんだろうとか、そういうことを悩むわけですが、日常の生活ではそんなことを考えていないで、ちゃんと勉強しなさいとかちゃんと就職しなさいとか、なんかきちんとやることというのが求められる。きちんとやるためにいろんな悩みを考えていると邪魔だから、そんなことは考えないように生きていく方向に大体は行くんですね。確かに邪魔だなと思うんですけど。

ころがヘッセなんかは悩みを正面から書いて、自分がどんな風に迷っているか、自分がどんな風に生きていけばいいか、自分はこういうことを選択したけどこれでいいのかと反復したり周りの人に助けられたり、ある時は失敗したり、うまくいったりしながら。迷いもいいんだ、迷ってもいいんだ、いろんな事を考えてもいいんだということを、ヘッセの小説から教えられたと思います。


もうひとつ、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」も、高校時代の私のお気に入りでした。北杜夫さんが、「トニオ」のカタカナの形態的連想から、自分のペンネームを付けたというエピソードを後に読み、嬉しく思ったことでした。その「トニオ・クレーゲル」の世界とも響き合うものが、「トーマの心臓」にはあるように思えました。

トニオクレーゲルの冒頭の一節。高橋義孝氏の訳が、私は一番好きでした。
冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風づくりの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霙みたいなものが降ってきた。
学校がひけた。石を敷きつめた中庭から格子門へかけて、解放された生徒たちは、雪崩をうって外に出ると、右に左に思いおもい急いで帰って行った。年のいった少年たちは、勿体ぶって本の包みを左の肩に高々と押しつけ、昼飯を目ざして、右手で舵をとりながら風に逆らって歩いて行く。小さな生徒たちは、氷まじりの泥をあたりにはね返しながら学校道具を海豹皮のランドセルの中でがちゃがちゃいわせて、嬉々として小走りに走って行く。けれどもときどき、落着いた足どりで歩いてくる上級教師の、ヴォータンのような帽子とユピテルのような髭に出会うと、みんな恭しい目つきでさっと帽子を脱ぐ。……
「やっと来たね、ハンス君」長いあいだ、車道で待っていたトニオ・クレーゲルは微笑を浮べながら友達のほうへ寄って行った。相手はほかの仲間たちと校門を出て、そのまま一緒に帰り去ろうとしていた。……「ええ」ときき返して友達はトニオを見つめた。……「ああ、そうだったっけ。じゃこれから少し一緒に行こう」


その頃書いた習作「カルロス爺さんの思い出」などには、ヘッセやマンの作品世界が醸し出す空気感を、色濃く反映しているに違いありません。


郷愁という名のメルヘン カルロス爺さんの思い出 連載第3回)


嶺の雪も溶けて、ぼくらの村にも春が訪れた。
村の小学校での、うんざりする長い授業が終わると、子どもたちは一斉に校門を飛び出した。
さわやかなそよ風が、萌えいずる若草の目をゆるがす。
子供たちの栗色のうぶ毛をゆるがす。
柔らかに額にまといつく髪の毛をゆるがす。
ガタガタ揺れるランドセルと、額を流れる快い汗を楽しみながら、ぼくは、爺さんの小屋まで一目散にかけてゆく。ぼくらの小学校からほんの二百メートルばかりの所にある水車小屋が爺さんの家だ。
小川の土手には、つくしんぼやたんぽぽがそおっと顔を出している。
あんなに固く閉ざしていたネコヤナギや野いばらが、柔らかに芽ぶいていて、それを見つけた少年に、素直で新鮮な驚きに目を見張らせたのだった。
そっと芽を出した芝草に腰を下ろして、健康な早春の生気に酔いしれている時、ボクの右手を何かがくすぐった。
振り向くとそこには、一匹の子犬が――――ほんとに小っちゃくて、そう、ぼくの両てのひらに楽に隠れそうな大きさだったが、それでいて丸々太ってて、黒いまん丸い瞳が利口そうにキラキラしてる――――その短いしっぽをピンと垂直に立てて、しきりに左右にふっていた。


今日の付録 備中国分寺の秋景色です。


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K1IM7206


今日はこれにて


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