SSブログ
今日の暦 ブログトップ

3月3日に寄せて、の巻 [今日の暦]

昨日(3月2日)は、小二と三歳児の姉弟が我が家にお泊まりということで、近くに住む従兄姉たちと一緒に半田山植物園で時間を過ごしました。


梅、マンサク、サンシュユ、ハナニラ、セツブンソウ、福寿草、クリスマスローズなど、過去ブログで紹介した初春の花々のほか、アヤメ(カンザキアヤメ)、サクラ(ツバキカンザクラ)が季節をさきどりしています。


カンザキアヤメ。


K1IM2165


ツバキカンザクラ。


K1IM2200


寒風吹きすさび、雪花もちらほらする寒さでしたが、上は20歳から下は保育園児の六人が、それなりに楽しく睦まじく時を過ごしたようです。




さて、今日、3月3日は「桃の節句」です。


過去記事でも何度も話題にしました。


例えば、2021年の記事。


桃の節句、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 


お手伝いしている教育相談ボランティアのブログに、こんな記事を投稿しました。我ながら気に入っているので、恥ずかしながら転載させていただきます。

アッという間に3月です。
そして今日は3月3日、桃の節句。
かわいいひな人形を愛おしみつつ、雛あられを喜んで食べている女の子たちが、真にジェンダーフリーの世の中で輝くことができますように、、、。
そういえば、今日は、「人間平等」を宣言した「水平社」創立の日でもありました。




 


そうでした。水平社創立記念日でした。


「水平社一〇〇周年」を記念して、昨年11月に、こんな企画が催されました。


 


391730164_6677469139041416_6783327311890263347_n


続いて、その第2弾が昨日催されました。


425900588_7094703090651350_1894101237890170455_n


私自身は都合が合わなくて、鑑賞できませんでしたが、好評であったようです。


上述の「お手伝いしている教育相談ボランティア」の相談員の一人、H女史とも、つい先日、この映画会を話題にしたばかりでした。と言うのも、彼女は退職同業者という縁もあって、いつも四方山の歓談に花が咲くですが、ほぼ同世代(少し彼女が若い)なので、青春期にこの映画に強い印象を受けた共通の経験をもち、また大学は異なるのですが、共に「部落問題・社会問題・同和教育」の研究サークルに携わっていた共通体験からも、話が弾むのでした。




   というわけで、今日は、芋づる式に思い出された記憶を、とりとめもなくたどってみたいと思います。    


前回(3月1日付)の記事にで触れた槙村浩については、こんな記事も書いています。



文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。

     
児玉由紀恵記者

     
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。      
(中略)     
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。 (後略)  

  
(2012年06月24日,「赤旗」

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。


防災の日に寄せて、の巻(2015-09-01)

この「大雨の中を嬉しき宅急便」(2013-09-04)の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学したての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。




「橋のない川」にまつわる記事は、ほかにも何度か書きました。


防災の日に寄せて、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2015-09-01)


住井すゑさんの代表作「橋のない川」(新潮社)のハードカバー版が手元にあります。その第六部を手に取り、奥付を見ると、「昭和四十八年十一月十日印刷、十一月十五日発行、定価五百円」とあります。時代を感じさせられます。
「橋のない川」は、ご存じのように「部落問題」(同和問題)を正面から扱った小説で、高校時代に、島崎藤村の「破戒」などとともに、教師や、意識を持った級友などからも薦められた作品でした。
しかし、何につけても、人に薦められたものを、素直に受け入れることのない私ですので、なかなか読もうということにはなりませんでした。
そんなとき、今井正監督作品の映画「橋のない川」(第一部)が「ほるぷ映画」により制作され(1969年だそうですね。)、全国上映がすすめられました。学校近くの映画館(当時は、こんな田舎にまで映画文化が根づいていました)で上映されたものを、学校行事の一環として全校生徒で鑑賞する機会がありました。
当時、私の通う高校でも、比較的熱心に取り組まれていた「民主教育」の一環として行われたものでした。
この映画鑑賞の前後にも、ホームルームでの学習や話し合いなどが行われたと思います。この課題に限らず、いろいろな人権問題、平和問題、社会問題、当時ホットな「沖縄返還」問題など、多彩な問題をテーマに、高校生自身の身の丈での「時事討論」なども、頻繁に行われていました。
HRの時間内におさまらず、次の授業の教科担任に、授業の時間をくださいと無謀なお願いに行き、認めてもらったこともありました。「牧歌的」「純真」「初心(ウブ)」「世間知らず」と、いろいろに批評されるかも知れませんが、同じ時代を生きる者同士としての信頼感が、生徒と教師、生徒同士の間に、確かに存在していた時代ではなかったかと思います。
私などは、ほかの級友達に比べても、自覚も薄く、気づきも遅い方でしたので、幼稚な、短絡的な、自分本位の、時には人を傷つけかねない意見などもよく口にしたものでした。しかし、それを、客観的・冷静にたしなめる意見をくれる級友もいて、ずっと後になってじわりと納得させられることもよくありました。
思えば、今では考えられないほど、伸びやかな、そして大らかな高校生時代だったかも知れません。もちろん、追憶特有の美化を含んでいることは間違いなく、それにふさわしく割り引いて考える必要はあるでしょうけれど。

(注 )   当時、岡山県では、古い身分遺制に起因する半封建的な差別の解消をテーマとする教育を、「同和教育」とは呼ばずに、「民主教育」と呼称していました。「民主主義教育の一環としての民主教育」という位置づけでした。これは今も通用する的確な認識だったと思います。
ところが、岡山県教育委員会は、1983年、県下の教育関係機関あてに突如通達を発し、1950年以来続いてきたこの「民主教育」 の名称を、「同和教育」 に変更しました。(現在は、「人権教育」の呼称を使用)。
水面下では、一部運動団体の動きや政治的圧力があったようですが、現場にとっては寝耳に水の出来事でした。
全国的には、「同和教育」の呼称は問題ありとして「解放教育」と唱えるべきだとする立場の人びとが、岡山では「同和教育」の名称を強く求めて来たようです。ここからも問題は「名称」そのものではなく、行政を「屈服」させて、自己の方針・見解を思うがママに採用させる点に狙いがあったものと思われます。
この無理強いの「名称変更」問題は、教育の中でことさらに、「部落問題(同和問題)」の課題を肥大化させることにつながり、いろいろな差別問題や人権課題に優先させて特別視するものだという批判や懸念を呼び、実際に、少なからぬ混乱を教育の現場に引き起こしました。
「最大の人権問題」「一番重大な差別」「最も重要な教育上の課題」「人権問題の柱」が存在するということは、とりもなおさず、子ども達が直面する切実な人権問題のなかに、自ずと、「一番大事とは言えない」、「二の次に回してもよい」、「柱ではない」ような問題(そんなものがあるの?)を想定することになります。
生徒と教師が、身の回りの切実な人権課題を、わがこととして受け止めて、その発達段階に応じながら、精一杯解決の筋道を探る、また解決の力を身につけるという、優れて自発的・創造的・自己変革的な営みがはぐくまれてきた「民主教育」という場が、ほとんど部落問題(=同和問題)にのみターゲットを絞った、しかも、いわば、あらかじめ定められた模範解答の習得に重きを置いた、「対策的」な「心がけ教育」の色合いが濃くなりました。
人権課題のテーマを並べて、子ども達に、優先順位をつけさせるといった、大まじめな「実践報告」まで目にする始末でした。
一般に、「特別扱い」がまかり通る空間では、必ず言動に不自然な慮りや制約がつきまとい、それゆえ、自由な、本心からの「納得」が阻まれるという事態が起こりがちです。
教育現場では、「上から」示される、この方針への受け止め態度が、その教員の「従順度」「真面目度」をはかる指標ともされ、何かと窮屈な空気が、職場に流れたのも事実でした。
このような、無理強いの方策が長続きするはずもありませんし、しかも、本来、封建制の残りカスである身分遺制にもとづく部落問題(同和問題)は、社会の民主主義の成熟の度合いに伴って、解消の方向に進むのが自然です。すでに、「混住(=旧「同和地区」への、他地域からの人口流入や、またその逆の現象により、地区内外の隔てが薄らいできている)」、「通婚(つうこん)(=旧「同和地区」出身者と、地区外出身者との、隔てのない婚姻)」などが大きく進行するもとで、かつての部落問題(同和問題)の痕跡すら、大きく薄らいいる現況では、「(地区の子ども達は)依然として厳しい差別にさらされている」というテーゼ自体、現実味を失ってきています。
そのようなわけで、すったもんだの挙げ句に強制された「同和教育」の呼称は、今は、素知らぬ顔で「人権教育」に改称され、まずまずのおさまりどころにおさまっているといえます。
しかし、この経緯の中で、失われたものは、どんなに大きかったかと、秘かに思っているのは、私だけでしょうか?

ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いています)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は、雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。
いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
映画「橋のない川」(第一部)については、過去の、
「大雨の中を嬉しき宅急便」や、「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」などの記事で、話題にしました。


別の角度から書いた記事もあります・・・。


世の愁い燃やし尽くすや西の空:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2015-09-08)


先日話題にした今井正監督「橋のない川」(第一部)の1シーンに、こんな場面があったような気がします。
北林谷栄演じる老婆、畑中ぬいが、地主の元に小作米を収めての帰り道、空になった大八車(荷車)に乗るよう嫁のふでに勧められ、寛いで後ろ向きに腰を下ろした彼女の目に、みごとな夕焼けで西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。
「見てみい。おふで。あの向こうが西方浄土ゆうてなあ、お釈迦はんが住んではるところやで。あそこには、差別も貧乏もないのやで。この世で、どんなに辛くても、辛抱して、お釈迦はんにおすがりしとったら、あそこへ行けるんやで。」
というようなことを、しみじみ語る場面。まことにあやふやなうろ覚えで、正確なところは確かめるいとまがありませんし、住井すゑさんお原作も斜め読みに当たってみましたが、見あたりません。でも私の記憶の中では、印象的な場面なのです。
前にも書きましたが、映画「橋のない川」(第一部)は、モノクロ映像がずーっと続きます。ですから、この「西方浄土」を眺めやる場面も、実際はモノクロ映像だったのでしょうが、私の脳裏には鮮やかな紅い夕焼けの映像が刻まれています。
ところで、この映画、ラストシーンの一瞬、カラーに変わります。(「パートカラー」と呼ばれるそうです)。そのラストシーンは、小森の村の人達が歩いているシルエットを包んで、夕日が空一面を真っ赤に染める、鮮烈な映像でした。
空腹の弟のために豆を炊こうとした永井武は、失火により村を焼く火事を起こします。在所の消防団は、「小森」が被差別部落であるゆえに、消火しようとせず、
火事を放置します。失火をとがめられた武はその夜自殺してしまうのでした(武は、小学校1年生でした)。武の父藤作(一年前の脳溢血による半身不随からリハビリによって復活したばかりの伊藤雄之助さんが演じています)は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うと決心し、娘を遊郭に売った金を、消防ポンプの購入に充てます。村対抗の提灯落し競争で、その新しい消防ポンプにより「小森」が優勝しますが、それを承認したくない他地区の連中により、優勝旗を焼かれてしまいます。
堪え難い憤懣を抑えながら、村に向かって歩む小森の人々を、夕焼けが包むなか、画面には、1927年(大正十一年)三月三日、全国水平社が結成された旨、テロップが流れます。。
「水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」


 夕焼けつながりで、話題が飛んで次回に続きます。


 


nice!(19)  コメント(0) 

3月1日に寄せて、の巻 [今日の暦]

3月1日にちなんだ記事を、過去何回か書いています。


まずは10年前の記事。


60年目のビキニデ-:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2014-03-01)


以前、東京都江東区東陽町というところに住んでいたことがありました。
長男が3歳、長女が1歳、次男はまだ生まれていませんでした。地下鉄東西線が、私の通勤電車でした。
先日も、家族で話題になりましたが、「東京ディズニーランド」が千葉県浦安市にできる直前のことでした。その頃、両親は、総武線津田沼駅近辺に住んでいたものですから、東西線や総武線を、幼い子ども連れで、よく電車で通りました。
(中略 )

夢の島公園にも何回か行きました。そうでした。「赤旗まつり」というイベントが、ここで開かれて、子ども連れで出かけたこともありました。

その、夢の島公園の一角に、いまも、「第5福竜丸展示館」があります。
いまから60年前の今日。1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島内・ビキニ環礁で行った水爆実験で、爆心地から150kmほど離れていた所で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の犠牲者は私で最後にして欲しい」という遺言を残して亡くなるなど、痛ましい放射能被害を受けたのでした。

「第五福竜丸」は、水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて「はやぶさ丸」として東京水産大学で使われていましたが、1967年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に廃棄されていたものを発見されて、保存運動が高まり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されています。

(中略 )

ヒロシマ、ナガサキ、ビキニと、3度の核被害を体験した日本人にとって、フクシマの災厄は、悔やんでも悔やみきれませんね。事ここに及んでも、原発再稼働に固執し、他国への売り込みに躍起になり、核武装論の本音もチラリとのぞける、、、どんな「強靱な」神経構造をしていらっしゃるのか、改めて感心しますし、真底身震いを禁じ得ません。

実のところは、単に想像力が乏しいだけなのでは?と、疑っているのですがね。


次はその翌年の記事。


槙村浩と三月一日:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-03-01)


今日から3月。

「弥生」の声を聞くと春が遠くないことを感じます。

(中略)

ところで、去年の3月1日の記事は、これ。1954年(昭和29)の今日、 マーシャル諸島のビキニ環礁で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」などが、アメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びて無線長の久保山愛吉さんが亡くなるなどの被害を受けた「ビキニデー」の話題でした。

3月1日にまつわるもう一つの歴史的事件は、 「三・一運動」または「三・一事件」、「三・一独立運動」、「万歳事件」とも呼ばれる出来事。
この事件に対する日本国内の反応は、概して植民地支配を是とする立場からの一面的なもの立ったようです。

ウィキペディアの記事をお借りしますと、こうあります。

発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。
 

そんな中にあって、民族の独立と国際連帯、平和・民主主義を希求する立場から、この運動を高らかに歌いあげた日本の詩人がいました。

つい最近もこの記事などで話題にした、高知の革命詩人槙村浩(まきむらこう)が、その人です。

彼は、その代表作「間島パルチザンの歌」の中で、独立運動に立ち上がった若い姉弟に仮託して、こう歌っています。

おゝ三月一日!
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!


 


翌年にはこの記事を書きました。


里村欣三は日生の生まれ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2016-03-01)


槙村浩については↓これらの記事でも話題にしました。

●懐かしき便り嬉しき聖夜かな

●多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
上記の記事中紹介した槙村浩の略歴を、再掲します。

(中略)      
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。

故郷の中学校を放校になった槙村が、岡山の私立関西中学(現在の私立関西高校)の転校し、そこを卒業したことは、岡山在住の私にとっては奇しき縁です。
昨日の日生への旅で、その関西中学に縁のある人名を目にしたのは、またまた奇しき縁でした。
その人名とは、プロレタリア作家の里村欣三(さとむらきんぞう)です。
昨日の記事でも紹介しました備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料のプリントに、里村欣三の略歴がありました。

(中略)
大正7年地元の福河小学校を卒業すると家族の強い希望で幼年士官学校を受験するが、白紙答案を出し入学を拒否する。そして岡山市関西中学校へ進学。4年の時に有名な関中ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器庫を開放、学生を武装させ学校に立てこもった。警官隊が出動し解散となったが、首謀者二享ら3名は退校処分に。金川中学校に転校するも日々図書館通いですぐに退校。その後出郷し、郵便配達、電車の車掌等を転々とする。
徴兵年齢に達したことから姫路歩兵連隊に入営するが、自殺を装い脱走。満州へ渡り、里村欣三を名乗って各地を放浪する。大正12年帰国し文筆活動に入り、「世論と電車罷業」「真夏の夜と昼」を「文芸戦線」に発表。続いて発表した深川の貧民窟のルポルタージュ 「富川町から」で文壇の注目を集める。
(中略)
大正I4年プロレタリア文芸連盟の創設に参加、「苦力頭の表情」でプロレタリア作家としての地位を確立したが、厳しい左翼弾圧と自分の経歴を隠すため、官警の目を逃れ常に家を転々としながら、活発な作家借動を展開した。
昭和I0年、子女の学齢のこともあり、徴兵を忌避し逃亡していることを自首して出て裁判となったが、家族が失綜宣告で戸籍から抹消しており、「戸籍のない者(幽霊)は裁判出来ない」との判決で、姫路師団に3ケ月人隊する。
(中略)
太平洋戦争勃発後は陸軍報道班員として井伏鱒二・海音寺潮五郎らとボルネオ・マレー・華北・フィリピンにと戦線を駆け巡り、その間数十編を越すレポート・小説を書き続けた。

彼がプロレタリア作家として注目を浴びた、代表作とも言える「苦力頭(クーリーがしら)の表情」を再読しようと、手許にある「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」を久しぶりにひもといてみました。


思い出しついでに、こんな記事も再掲しておきます。上の記事に続く一連の話題の一つとして書きました。


ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2016-03-04)


日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数首載せられています。

(中略)

現代日本文学大系39巻は島木赤彦や木下利玄らと並んで土屋文明が取り上げられています。折り込み附録として添えられた「月報」に、諏訪高女校長時代のエピソードを、文芸評論家臼井吉見がこう書いています。

諏訪高女の校長のとき、上級生の平林たい子が修学旅行をすっぽかして、堺枯川を訪ねて上京するという事件があった。当時として普通の校長なら、おびえうろたえて、退学を申し渡すところだろう。この日文明校長は、たい子を呼びつけて、「おやじが三味線弾いて、娘が踊るか、よし、帰れ!」と一言あびせただけですんだという。これほたい子自身から聞いた話である。

(中略)               

平林たい子の同級生伊藤千代子は、のちに非合法運動に関係して捕えられ、獄から松沢病院へ移されて、そこで死んだ。のちに歌人土屋文明は彼女の出身校の東京女子大を訪ねた折、次のような歌を作っている。

高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

  こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ      

こうした思いは、文明の胸底にいよいよ烈々と伝わっている

(後略)

前述『六月風』に所収の、「某日某学園にて」と題する一連の作品には、上記の2首のほかこんな歌が収められています。

語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに

思想的には、伊藤千代子の抱いたマルクス主義・社会主義とは距離のある、自由主義・リベラリズムの立場でしたが、官憲の非道な弾圧と、ファシズムの暴虐にたいして、静かな鋭い告発を投げかけていて、心打たれます。


伊藤千代子についての詳しい紹介は、こちらのサイトを参照させていただきました。伊藤千代子の生涯 (tiyoko-17.org)




ついでのついでですが、先日(2/26付)の「しんぶん赤旗」の記事の一部を引用させていただきます。

と言うか、この新聞記事に触発されて過去ブログを思い出したのが、実際の順序です。

戦前の日本共産党員、伊藤千代子さんについて

長野懇談会 志位議長が語る

写真

(写真)伊藤千代子

日本共産党の志位和夫議長は24日、長野県上田市で開かれた「日本の真ん中から志位さんと希望を語るわくわく懇談会in信州」で、同県諏訪市出身で、戦前、天皇絶対の専制政治の迫害で命を落とした日本共産党員、伊藤千代子さん(1905~29年)について語りました。その部分を紹介します。

天皇絶対の専制政治のもとでの不屈のたたかい

戦前の日本は、天皇絶対の専制政治の国でした。日本共産党は「国賊」「非国民」と迫害されました。悪いことをやったからではないのです。命がけで「国民主権」の国をつくろう、「侵略戦争反対」と主張したために迫害されたのです。

多くの先輩たちが迫害で命を落としました。『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二、経済学者の野呂栄太郎も、迫害と拷問で命を落とした日本共産党員であります。

この長野県上田市出身の日本共産党員に川合義虎さん(1902~23年)がいます。日本共産青年同盟の初代委員長をつとめました。彼は、関東大震災の時に懸命の救援活動をやるのです。そこで憲兵隊につかまって無残に虐殺されました(亀戸事件)。21歳です。上田市にはそういう大先輩がいることを、まずご紹介したいと思います。

豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱

迫害で命を落とした先輩たちのなかには多くの若い女性党員もいました。その一人として、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)出身の伊藤千代子さんについてお話をさせていただきたいと思います。

千代子さんは諏訪高等女学校で学び、歌人として大きな足跡を残した土屋文明さん(1890~1990年)が校長をつとめた自由な雰囲気のもと、情熱的に書物を読み、豊かな知性と感性を身につけていきます。その後2年間の小学校の代用教員をへて、仙台の尚綗(しょうけい)女学校に進み、東京女子大学に編入します。そこで社会科学研究会を結成し、マルクス、エンゲルスの古典などを熱心に読んでいくのです。たいへん豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱を持った女性だったと伝えられます。そのなかで日本共産党に入党し、党中央の事務局で党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事にとりくみました。

千代子さんは、1928年3月15日の大弾圧で検挙されます。ひどい拷問を受けました。市ケ谷刑務所の待遇は不衛生で非人間的なものでした。さらに信頼していた夫が、天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加する。検事は、毎日、千代子さんを呼び出して、夫の主張への同調を迫りますが、彼女はきっぱり拒否してがんばるのです。しかし衰弱がすすみ、29年9月、亡くなりました。24歳でした。

「こころざしつつたふれし少女よ」

よく知られていることですが、歌人として大きな業績を残した土屋文明さんは、諏訪高等女学校時代の千代子さんの恩師でした。千代子さんに対してたいへんに強い印象をもっていて、1935年、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して6首の短歌を詠みます。そのなかに、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」という短歌があることはご存じの方も多いと思います。

1935年といいましたら侵略戦争と暗黒政治の真っただ中で、その時代に、伊藤千代子さんについてこのようにうたった土屋文明さんは、ほんとうに立派な方だと思いますが、恩師の魂をゆさぶらずにはおかなかった生き方を千代子さんはしたのだと思います。

獄中で迫害を受けながら、仲間を励まし続けて

獄中で千代子さんは、ひどい迫害を受けながら、仲間を励まし続けました。東京女子大の社会科学研究会で千代子さんの後輩だった塩澤富美子さん(1907~91)という方がいらっしゃいます。塩澤さんは、野呂栄太郎と結婚し、つらい戦前を生きのびて、戦後、医師・作家として活動し、野呂栄太郎の業績を今日に伝える仕事をされた方であります。

塩澤さんも市ケ谷刑務所に送られ、そこで千代子さんと出会います。塩澤さんが入れられた監房の外から彼女の名前を呼ぶ声がしたので、獄窓から外をみおろすと、千代子さんが、監獄の庭で、塩澤さんのいる監獄の窓を向いてほほえんで立っていました。千代子さんが、「元気? 今何を勉強しているの、『資本論』は4月まで入ったのに今度禁止になってしまったの」と声をかけたとたんに、看守が制止して、千代子さんを連れ去った。それが、千代子さんの姿を垣間見た最後だったと塩澤さんは回想しています。

塩澤さんは、千代子さんへの強い思いを胸に抱いて、戦後ずっと生きていくわけですが、1979年、千代子さんが亡くなってからちょうど50年後に、「追憶」と題する歌を詠みつづっています。これを読んで、たいへんに胸を打たれました。一部を紹介したいと思います。

市ケ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり
花の下に佇(たたず)みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後となりぬ
きみにより初めて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく
ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る
身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二四歳
君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ

50年後に、この歌を詠むのです。

93歳の土屋文明さんが書きつづった歌

写真

(写真)土屋文明の色紙「伊藤千代子がこと」

戦後、塩澤さんは、土屋文明さんのもとを訪ねています。そこで塩澤さんは、文明さんに、千代子さんはこういうがんばりをしたと話すのです。千代子さんの実像を知った文明さんが、塩澤さんの願いにこたえて、1983年のことなのですが、当時、93歳、やや利かなくなった腕をふるわせながら、こん身の力を込めて、新たな歌を詠む心境で書きつづったと言われるのが、3首の歌でした。

これは文明さんの直筆で3首の歌が書かれた色紙――わが党の党史資料室に保管されているものの写しです。歌題は、「某日某学園」ではなく「伊藤千代子がこと」になっています。

土屋文明さんが、暗い時代に千代子さんをうたい、93歳にしてこうした歌を書きつづった。これは日本の近代文学史の光彩ある1ページではないかと思います。土屋文明さんという大きな歌人、あるいは塩澤富美子さんのような後に続いた人々に、本当に鮮烈な感動を与えた生き方を貫いたのが伊藤千代子さんだったということを紹介したいと思います。

身をていして訴えた主張は、日本国憲法に実った

伊藤千代子さんなど私たちの先輩たちが身をていして訴えた主張は、戦後の日本国憲法に実りました。「主権在民」が書き込まれました。基本的人権、恒久平和主義も明記されました。


今朝の散歩は雨の名残が残っていました。


IMGP5861


カワヅザクラがようやくほころび始めています。


IMGP5857


気温は余り上がりませんが、昼前には、日射しが出てきましたので、カワヅザクラが沢山植栽されている阿部池の畔を訪ねてみました。


K1IM2027K1IM2030K1IM2031K1IM2034


K1IM2113


カワラヒワの群れが、さえずりながら樹上で活発に動き回っています。


K1IM2121K1IM2124K1IM2126K1IM2150


K1IM2038K1IM2049


芦原の小鳥は、オオジュリンでしょうか?


K1IM2060


K1IM2074


K1IM2072


今日はこれにて。


nice!(19)  コメント(0) 

今年も寒い226、の巻 [今日の暦]

時ならぬ初夏の陽気が影を潜め、雨上がりの今朝は寒さが舞い戻りました。


88年前の今日も、首都東京は、深い雪に覆われた寒い朝だったようです。1936年 ( 昭和 11年)のその日、“昭和維新”を呼号する陸軍青年将校らが兵士約1500人を率いて首相官邸などを襲撃し、政府要人ら多数を殺傷したクーデター未遂事件=「2・26事件」は引き起こされました。


昨年も、こんな記事を書きました。


226に思う、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)


以前こんな記事を書きました。

80年目のニイニイロク、の巻(2016-02-26)

2.26事件から80年だそうです。
今朝の地元紙『山陽新聞』(27面 くらし)には、「二・二六事件から80年 渡辺和子さんに聞く 平和は日々の暮らしから」というインタビュー記事が掲載されていました。

旧陸軍の青年将校らが武力反乱を起こした二・二六事件は、日本が戦争に向かった転機として昭和史に刻まれる。雪が縁側の高さまで降り積もったその日、9歳の少女は陸軍大将の父が凶弾に倒れるのを目の当たりにした 、、、。

「陸軍大将の父」とは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。当時9歳の少女というのは、地元岡山市のノートルダム清心女子大学の学長だった(現ノートルダム清心学園理事長)渡辺和子さん。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど活躍され、著書もたくさんありますので、教育者として尊敬しておりましたが、2.26事件との数奇な関わりについては存じ上げませんでした。

(中略)

その渡辺和子さんは2016年末に亡くなられましたが、その話題はこの記事に書きました。

226思いつくまま、の巻(2018-02-26)

渡辺和子さんへの追悼記事から、一節を引用させていただきます。HUFFPOST2016年12月31日付記事、「渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして『赦しと和解』」(吉野太一郎氏執筆)の一部分です。

(中略)

母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材記者にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

(中略)
(青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に請われて出席し、)終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。
その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。

(中略)

長い引用になりました。
なかでも、「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる---そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」というお父様の言葉が,重く心に沁みました。経験と知性に根ざした知見に、いささかも耳を傾けることなく、いやそれらを邪魔者と力づくで排斥して、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていらっしゃる方々が、 いままた跋扈しているのではないかと危惧される時代だけに、、、。
ちなみに、このクーデター計画に加わった青年将校たちが掲げたスローガンは「昭和維新」でした。忘れかけていましたが,そう言えば、去年の5月、こんな記事を書いています。

●これだけは忘れない、の巻

共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。
維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15.2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。

タモリさんの「新しい戦前」という言葉が、躊躇なく真実味を帯びつつあるなかで、今そこある「戦中」をなんとしても食い止めなくてはと強く意識する今年の226です。




現在、当ブログ「ナードサークの四季ver.2」をメインブログとしていますが、初代ブログ=「ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 」と、写真置き場=「ナードサークの貯蔵庫:SSブログ (ss-blog.jp) 」も、時々更新しています。というのも、一定期間ブログの更新を怠ると、こちらの意思に関わりなく見苦しい広告が表示されて、私自身にとっても訪問客の方々にとっても非常に迷惑だからです。


というわけで、最新の更新は以下のページです。


ぶらりとお立ち寄りください。


2月15日の朝散歩、の巻:ナードサークの貯蔵庫:SSブログ (ss-blog.jp)


2月の鳥、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)




これらに掲載した記事と、時期的には重なるのですが、最近のお散歩写真を掲載します。


最近久しぶりに持ち出しているOlympusE520+ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm F4-5.6で撮影したマンサクです。


EO141653


EO141654EO141659


EO141662


EO141667EO141665


EO221729EO221727


ロウバイもまだ咲いていますが、これは十日ほど前の状態です。


EO141660EO141663


ご近所の梅です。


EO221718


EO221719


オオバンです。


EO221725


久しぶりに持ち出すという点では、ricohGXR+MOUNT A12にPENTAXkマウント用変換アダプターを介してペンタックスのオールドレンズをつけてみました。(m42スクリューマウントのレンズですので、Kマウント→m42マウント変換アダプターを挟みます)こんな過去記事で話題にした組み合わせです。


ジョビ君あらわれ秋深まる、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2020-10-25)


一緒に持ち歩いたのは、RICOH GXRに、スーパータクマー(Super Takumar)1:1.8/55mmというM42スクリューマウントオールドレンズをつけました。このレンズ、1960年代のペンタックスカメラに標準装備された定番中の定番です。モノクロフィルム撮影を前提に作られたこのレンズ、デジタル撮影においても、思いがけない良い色が出ることに感心させられます。もちろん露出もフォーカスも、マニュアルですが。

00ZZ0009


この時紹介したカメラには着けていたビューファインダーは、その後何かの衝撃でパキンと無残に破損して使えなくなりました。中古でもかなりの金額ですので、買い換える元気もなく、背面液晶での撮影に甘んじています。


散歩道のマンサクです。


R9047148


R9047149


R9047151R9047153


散歩道の梅です。


R9047161




以下、今日、撮れたての写真を追加します。


ご近所の梅。



庭の水仙。


R9047177


R9047181




nice!(21)  コメント(0) 

雨の雨水、の巻 [今日の暦]

今日2月19日は雨水。


文字通り雨の一日でした。


雪が雨に変わる頃と言われますが、4月~6月並みの気温になりました。


以前こんな記事を書きました。


続々すっかり忘れてました、の巻(021-02-20)


この写真をアップするのを忘れてました。

近所の小川で漁をするカワウです。

S0829625

S0829629

(中略)

去年の記事にこんなことを書いています。

雨水を前に、の巻(2020-02-18)

暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。

今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)

(中略)

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

(中略)

雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)

(中略)

孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)

(中略)

昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)
「多喜二の母」に思う、の巻

南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)

(中略)

よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、

こんなに同工異曲の記事を繰り返し書いてきたことも、すっかり忘れてました。でも、今日2月20日が多喜二忌だということは、決して忘れられません。


あまりにも二番煎じですが、この記事も再録しておきます。


多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。


散歩に出る気にもならず、ストック写真でお茶を濁します。


ペンタックスx-5を携えての朝散歩で、電柱に止まるカワウを写しました。


IMGP0055


目一杯ズームすると、ここまで望遠撮影ができます。 IMGP0054


広角側だととこんな具合。


IMGP0060


麦がすくすく育っています。


IMGP0059今日はこれにて。


nice!(22)  コメント(0) 

明けました、の巻 [今日の暦]

2024年が明けました。


紙の年賀状(=下の「緩緩新聞」。「我が家の近況」メモの部分は個人情報満載ですので割愛しますが)をお届けできていない方にも、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。


sinnnenn2024


ちなみに、こちらの記事を再掲させていただきます。


冬至雑話二題、の巻


(4)イスラエルの若者たち!ナチスによるホロコーストにおびえながら、15歳までしか生きることを許されなかった同胞少女のこの言葉を、改めて噛みしめてください。「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当にすばらしい心を持っていると今も信じているからです。(アンネ・フランク)」今、あなた方の政府が命じる「ハマス殲滅」の名によるジェノサイドをやめ、罪なきパレスチナの人々、なかんづく子どもたちに心を寄せ、アンネのこの願いが真に報われる世界を作り出そうではありませんか?

2018-11-07T20_13_24-15288


「アンネのバラ」と呼ばれるバラは、  ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父オットーフランク氏に贈られたといいます。
一九七二年に一〇本、一九七六年に再び一〇本が、オットー・フランク氏から日本に贈られ、全国で「アンネのバラ」として育てられているそうです。
ウィキペディアにはこう紹介してありました。

アンネのバラは蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色する特徴がある。これは、もし生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現している。
私の知るところでは、県内で、半田山植物園のほかにも、RSKバラ園にも、また岡山市立岡山後楽館中学高校にも、植栽され、愛されています。


一刻も早く、世界中が微笑みに包まれる日の訪れる佳き年となりますように。


nice!(27)  コメント(2) 

冬至雑話二題、の巻 [今日の暦]

【その一】


昨日は冬至でした。フェイスブックが10年前の投稿を思い出させてくれました。


今日は冬至。

ご近所さんに柚子をいただきました。

きょうの私のブログはこちら。

http://kazsan.blog.so-net.ne.jp/2013-12-22


今年は郷里の実家の庭になってる柚(花柚だそうです)の実をもいで帰り、家族・知人にもお裾分けしました。


R0010232


カボチャも、夏に収穫したものは消費し尽くしたため、秋植えで栽培したものが採れ、詳報しています。普通サイズとミニサイズの二品種です。ミニカボチャは、そのままレンジでチンすれば、甘くてほくほく。


手軽です。


Exif_JPEG_PICTURE




【その二】


「全退教(全日本退職教職員連絡協議会)」が提起して全国で取り組まれている「退職教職員ボイスアクション」などのとりくみが、新聞コラムで紹介されました。12月22日付「しんぶん赤旗」のコラム欄「潮流」です。


tyoryu1222


「教え子を再び戦場に送らない」。あの戦争に子どもたちを送り出してしまった教職員の、不退転の決意。72年たった今も、生きています▼退職後のひとりぼっちをなくそう、との願いから始まった全日本退職教職員連絡協議会(全退教)。平和と民主主義・生活擁護にも目を向けた活動を続けます。岸田政権が大軍拡に突き進み、平和をめぐって最大の危機に直面するなか、ボイスアクションを呼びかけています▼戦争をしない、させない思いを1枚のはがきに込める取り組み。「平和であることが何よりです」「戦争するな。子どもの命・夢奪うな」「今こそ憲法9条の出番」…。事務局には、願いがびっしり書かれたはがきがすでに1000枚以上届いています▼人の命を奪うためではなく、命を育むための予算をとの声は切実です。13日には「学校に希望を!長時間労働に歯止めを!ネットワーク」が発足しました。残業代の支給、業務量にあった教職員の配置、そのための教育予算増額。この三つを求めて教育研究者有志が呼びかける署名を広げ、運動を交流します▼全退教も呼びかけ団体に加わりました。深刻な教員不足から退職後も現場にかかわりながら、「このままでは学校がもたない」と痛感してきたからです。ボイスアクションとともに力を注ぎます▼大軍拡ではなく教育にお金を。冷たい冬を乗り越えて、子どもたちが安心できる温かな学校へと気持ちを寄せ合いたい。日一日と、日差しが伸びていくように。今日は冬至です。


実は私も、退職教職員の一人としてこの「ボイスアクション」のとりくみに投稿しました。多少アレンジして、別の場に書いて発表した文章を、再掲させていただきます。(個人情報に関わる点などの改変あり)


退職教職員の「ボイス(声)」 kazg

柄にもなく、ちょっと「政治的」 主張に傾くかもしれません。    

私の所属している岡山高退教(岡山県高校・障害児学校退 職教職員の会)は、全退教(全日本退職教職員の会)が提起する「全国退職教職員ボイスアク ション」に呼応して、一人一人の退職教職員が「岸田大軍拡・ 大増税STOP、改憲反対、教 え子・若者を再び戦場に送るまい」などの、切実な声を、はがきその他で発していくとりくみを呼びかけています。
私も、こんな文章で参加しました。
 

(1 )岡山市のOんの歌に触発され、真似てみました。
(注  Oさんは、以前、朝日新聞岡山歌壇でも入選した「イチローと同じ名前の叔父今も  南の海の底に眠れり」など、4首の短歌を投稿されています。)
 

戒名に「烈士」の文字を賜りし義叔父(おじ)の遺骨は今も還らず

飛行服着たる写真の義叔父(ぎしゅくふ)は少年のまま何処に眠るか

  四国出身の妻の、亡くなった父親は海軍の軍人でしたが、死線をくぐって生きて復員し、95歳を越える天寿を全うしました。穏やかで、慈愛に富む人柄でしたが、天皇への崇敬と、「大東亜戦争」の「正当性」へのこだわりは、終生、曲げることがありませんでした。

また、その弟(妻にとっては叔父)は、少年兵として志願していくさに赴き、10代の若さで戦死された由。仏壇には、戦闘服・戦闘帽を着けた凛々しい少年の遺影が飾ってあります。

その戦死の模様はつまびらかでなく、遺骨も帰ってきていません。のちに義兄が、厚生労働省などを通じて調べたところによると、戦死時に搭乗していたのは、「一式陸攻」だったそうです。

1sikirikko

写真は「一式陸攻(一式陸上攻撃機)」

ところで、終戦直前の「水島空襲」で主な標的とされた水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産していたと聞きます。義叔父がいのちを共にした愛機も、この水島工場で生産された機体だったかも知れません。

  (2)日本の若者たち!「お国のため」「平和のため」「自衛のため」というキャッチフレーズに騙されないでください。「『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/懺愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう(竹本源治「戦死せる教え児よ」より)の思いを改めて噛みしめ、いつか来た「殺し・殺される」道ではなく、日本国憲法がめざす、お互いが生きて輝く道を世界に広げましょう。

takemoto

  (3)ロシアの若者たち!あなたや、あなたの父母・祖父母は、若い日に、この言葉を熱く胸に刻みはしなかったでしょうか?  「人間にあって、もっとも大切なもの──それは生命だ。それは一度だけしかあたえられない。だからあてもなく過ぎ去った歳月にいたましい思いでを痛めることのないように、いやしく、くだらなかった過去に、恥辱で身を焼くことのないように、また死にのぞんで、生涯を一貫して、持てるすべての力が、世の中でもっとも美しいもの─人類解放のたたかいのために捧げられたと言いきれるように、この生命を生き抜かなければならない。(オストロフスキー)」

  いま、後悔と恥辱で身を焼くことのないように、ウクライナの無辜の民への仮借なき侵略の砲火を、直ちに止めてください。

  (4)イスラエルの若者たち!ナチスによるホロコーストにおびえながら、15歳までしか生きることを許されなかった同胞少女のこの言葉を、改めて噛みしめてください。「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当にすばらしい心を持っていると今も信じているからです。(アンネ・フランク)」今、あなた方の政府が命じる「ハマス殲滅」の名によるジェノサイドをやめ、罪なきパレスチナの人々、なかんづく子どもたちに心を寄せ、アンネのこの願いが真に報われる世界を作り出そうではありませんか?

2018-11-07T20_13_24-15288


「アンネのバラ」と呼ばれるバラは、  ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父オットーフランク氏に贈られたといいます。
一九七二年に一〇本、一九七六年に再び一〇本が、オットー・フランク氏から日本に贈られ、全国で「アンネのバラ」として育てられているそうです。
ウィキペディアにはこう紹介してありました。

アンネのバラは蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色する特徴がある。これは、もし生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現している。

私の知るところでは、県内で、半田山植物園のほかにも、RSKバラ園にも、また岡山市立岡山後楽館中学高校にも、植栽され、愛されています。


nice!(28)  コメント(0) 

3月8・9・10日のメモ、の巻 [今日の暦]

3月8日は国際女性デー、3月9日は父の命日、今日3月10日は東京大空襲の日でした。


去年の3月には、こんな記事を書きました。


葬儀報告、の巻(2022-03-14)


昨日、父の葬儀を家族葬ですませました。

生まれて初めて『喪主』というものになり、こんな挨拶をしました(概要・ブログ用に一部編集)。

本日は お寒い中 、ご多忙中にも関わらず、 遠路、また大事な予定をキャンセルするなどして、こうしてお集まりいただき、ありがとうございます。

父は、昭和2年(1927年)5月○○日、当時日本の植民地だった朝鮮の北部、平安北道というところで、警察官だった○○の長男として生まれました。そして、その地で少年時代を過ごしました。最近父が「自分史」の一端として書き残していた文章をまとめ、小さな冊子を作りましたが 、その中にも、子どもの頃食べた松の実の味の事や、 朝鮮人の友達と長いツララでチャンバラごっこをして遊んだことなどが懐かしい思い出として綴られています。
5歳の時、祖母が急死したため、急いで日本に引き上げることになり、こちらでの生活が始まりました 。時経ずして、母○○が、妹を出産した直後に亡くなったため、「母のない子」としての少年時代を懸命に努力して家の生活を助けながら学業に励みました。進学への希望はありましたが、家計の事情で断念するしかなく、高等小学校を卒業してすぐに東京の鉄工所に 就職するところまでが、この冊子には綴られています。
ところで父の命日は3月9日ですが、翌3月10日は、東京大空襲の日です。この冊子の付録として、晩年の父が時々地元新聞 の読者欄に投稿していた文章も採録していますが、その一節を読んでみます。 (注1参照)

若者に絶対駄目と願いたい

年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のように米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失つた。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。 (美作市 91才)

ちょうど今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻というニュースが世界中を悲しませていますが、この「戦争は絶対ダメ」というの言葉を、プーチンさんにも伝えたいと、強く思っているところです。
さて、東京空襲で焼け出されて郷里に帰った父は 、地元の鉱山で勤労奉仕に従事している時、終戦の知らせを聞きました。「悲しいようなホッとしたような苦い思い出である」と、終戦記念日に寄せた 投稿で書いています。その時18歳でした。(注2参照)


上にも書きましたが、ロシアによるウクライナ侵略が始まって、早くも一年が過ぎました。


平和な春が訪れますように、の巻(2022-03-04)


地元「九条の会」が3月9日に予定している「9の日行動」で、スタンディングの際に使おうと、こんなプラスターを作ってみました。これを使わなくて済む状況が一刻も早く訪れますように。

noputin

地元のお仲間と、こんなハガキをロシア大使館に送る相談をしています。

ロシア連邦大統領 
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン閣下
  貴国によるウクライナへの武力侵攻の報道に接し、私たちは、ヒロシマの被爆詩人峠三吉の詩を改めて想起せずにはいられません。
ちちをかえせ/ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/わたしをかえせ/わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの/にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ
  全人類に向けたこの痛切な伝言を胸に刻む者の一人として、取り急ぎ、謹んで緊急のお願いを申し上げます。
1)直ちに武力侵攻を中止され、平和を回復してください。
2)ウクライナの子どもたち、女性、高齢者を含む大勢の市民、及び祖国愛に燃えるロシアの勇敢な若い兵士たちに、これ以上の無益な流血を強いないでください。
3))核の使用はもとより、核兵器で世界を威嚇することをやめ、核なき世界、理性と愛が支配する平和な21世紀の実現にむけて、賢明なリーダーシップを発揮してください。
  どうか、それにより、閣下とロシア国民の栄誉が、後世に長く記憶されるよう祈念するものです。

ロシア大使館の関係者の方、もしこのブログを瞥見される機会がありましたら、どうぞ、一刻も早く、プーチン閣下にハガキ文面をお伝え願わしゅう存じます。


 


謹告、の巻(2022-03-13)  


地元九条の会が行う、今月の九の日行動について、若きお友だちのH女史が、ご自身のブログで、紹介してくださっています。

その一部を、いつものように無断で(ゴメンナサイ)ご紹介させていただきます。

この日の手には…

3/9(水)は、わが町「9条の会」のスタンディングの日でした。
いつものように行われるはずでした。
こんな気持ちでこの日を迎えることになるなんて…。
手には、それぞれに、手書きで、パソコンで、自ら新たに準備したプラカードが持たれていました。
「Stop Putin」「ウクライナに平和を?」「No War」…

20200109120248695.jpeg

そして、「9条壊すな」。

(中略)

9条の会メンバーの方がハガキを作ってくださいました。

20220311115648356.jpeg

ロシア大使館気付、プーチン大統領宛です。
四角の枠に一言メッセージを添えて送ります。

20220311115825193.jpeg

「微力だが無力ではない」という言葉を信じて。


あれから一年経った昨日の3月9日も、「九の日行動」、いつも通り行いました。プーチンのウクライナ侵略を糾弾するにとどまらず、危機に便乗して敵基地攻撃能力の保有、軍事費2倍化へと急ぐ岸田内閣の悪乗りにストップをかける仕事、なかなか厄介なことです。


前出のH女史が、またこんなブログ記事をUPしてくださっています。いつもながら著作権・知的所有権問題にルーズな小生、無断引用させていただきます。


ミサイルよりも

国際女性デー(3/8)に心を寄せて爽やかに意思表示する、世界の女性たちの姿が今日も配信されています。
1910年に呼びかけられた「はじまり」から今日まで、女性デーの歴史は反戦平和のたたかいと一体だったことを知りました。(中略)

そして昨日(3/9)は、わが町9条の会のスタンディングの日でした。
回を重ねるたびに、車の中からこちらにしっかりと目を向けてくれる人、しっかりと手を振ってくれる人が少しずつ増えている気がします。
信号で止まるとき、私たちの姿を遮らないようにと大きく間隔をあけて止まってくれた大型トラックの運転手さんもいました。何事もないように前を向いて座っているその運転手さんの心遣いにじんわりと胸があたたかくなったスタンディングでもありました。
この日の私のプラカードはこれ。

202303101303330bb.jpeg

家を出る前に急ごしらえで作りました。手元にあった紙をコピーさせていただいて。
スーパーに買い物に行くたびに「このさき家計は大丈夫?家族のいのちは守れるの?ミサイルで守れるの??」と思う気持ちを書きました。
…しかし、地味だな。。次回はもう少しカラフルにしよー。
明けて今日、3/10、東京大空襲から78年となりました。


        さて、今日の写真は、先日のカメラ散歩で持ち出したPENTAX k1MARKⅡ+TAMRON SP500mmレフレックスレンズの組み合わせで撮影した画像です。


ノントリミングで  こんな望遠マクロ効果が発揮されます。


K1IM9630K1IM9633K1IM9635


少し離れた鳥を写すにも500mmの威力は侮れません。完全なマニュアルフォーカスですが、PENTAXk1MARKⅡの大きさ見やすさと、「フォーカスアシスト」の助けにより、まずまずのピント合わせが可能です。


鍬とジョウビタキ。


K1IM9613


枝の上のツグミ。


K1IM9617


K1IM9674


電線に止まるムクドリ。


K1IM9702K1IM9704


   小川の向こう岸にカワセミがいましたが、さすがに遠いので、トリミングします。


K1IM9639K1IM9650K1IM9661


今日はこれにて。


nice!(39)  コメント(0) 

「カメの日」ですって?の巻 [今日の暦]

今朝、最寄りの郵便局に行きましたら、窓口に目立つようにpop風の手書きのカードが掲示してあり、今日の日付「5月23日」について「今日は亀の日」 云々 と説明が加えてありました。


確かに、ウィキペディアにもこうあります。思いのほかポピュラーな記念日らしい。知りませんでした。


世界カメの日は、カメに思いをいたし、カメに対する知識と敬意を高め、カメの生存と繁栄のための人類の行動を促すことを目的として、2000年に米国カメ保護会によって制定された記念日である。毎年5月23日。


以前、こんな悪ふざけのタイトルの記事を書きました。


カメカメエブリバディ?の巻(2020-11-12)


先日、小雨の中、深山公園を散歩したとき、すれ違った二人連れの散歩者の方が、「(寒くなって)池にカメもいなくなったなあ」と話を交わしておられました。釣られて池の方に目をやると、確かにいつも亀が群れている場所にその姿が見えません。冬眠にはいったのかなあと納得していました。数日経って、一昨日でしたか、今度は自然環境体験公園を散歩したら、小春日和に誘われて、こんな光景がありました。

_K523910

_K523919

達かめるまでもなく、どれもこれも外来生物のミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)です。


いよいよ、カモカモエブリバディ.の巻(2021-11-01)


さはさりながら、今日の記事では、どうしてこのタイトルが捨てられません。

というのも、NHK朝ドラが、今日から新しいお話に変わりました。

nhkcome

NHKのサイトから少し引用します。

https://www.nhk.or.jp/comecome/

【物語】
1925〔大正14〕年、日本でラジオ放送が始まった日、岡山市内の商店徒iにある和菓子屋で、女の子が生まれた。名前を安子(上白石萌音)という。あんこの甘い香りに包まれたあたたかい家庭に育った安子は
、ずっと家族との幸せが続くことを願ったやがて戦争の足音が近づくなか、さまざまな試練が安子に 舞い降りる。
けれど、ラジオ放送開始からまもなく始まるうジオ英語講座との出会いが、安子の未来を切り開いていく。(以下略)

(中略)

さて、朝ドラの話題に戻ります。NHKのサイトからの引用を続けます。

【タイトルに込めた想い】

かつて終戦直後の日本を席けんした平川唯一(ひらかわ・ただいち)講師のNHKラジオ英語講座・通称
「カムカム語」のオープニング曲のタイトルです。「証誠寺(しようじょうじ)の狸囃子(たぬきばや
し)」のメロディーにのって、「カム♪カム♪エヴリバティ♪~」の歌が始まると日本中の子どもからお年寄りまでくぎづけになり、明るい声に励まされました。そこには。戦争の重苦しい日本を「明るくしたい」という平川講師の願いが込められていました。「カムカムエヴリバティ」の合言葉は、今を生きる私たちの未来をも切り開くパワーワードになる!と願いを込めて、タイトルにしました。

【平川唯一さんについて】

1902〔明治35〕年一1993【平成15】年.
岡山県上房郡津川村〔現在の高梁市〕出身。終戦後ま
もなく放送されたNHKラジオ英語講座「英語会話」(1946-1951)、通称「カムカム英語」の人気講師で「カムカムおじさん」と呼ばれていた。戦後の日本を明るくしたいという願いがこめられたラジオ英語講座「カムカム英語」は、証城寺(しょうじょうじの狸囃子(たぬきばやし)」のメ ロディーにのせたオープニングで人気を獲得し、ブームの火付け役ともなった英語遊び(家族の情景を描いた英語ラジオドラマ)で英語を楽しく学んだ。全国でファンクラブが設立され、日本中に英語ブームを巻き起こした。

郷里にいささか縁がある物語ですので、なりゆきが見守られます。


この朝ドラ「カムカムエブリバディ」は、3世代100年の物語を、今年の4月8日に閉じ、今は沖縄を舞台にした「ちむどんどん」に引き継がれています。


その話題に深入りすることは避け、話を「カメの日」に戻します。「カメに思いをいたし、カメに対する知識と敬意を高め、カメの生存と繁栄のための人類の行動を促すことを目的」に制定されたという、この記念日。念頭にあるのは、乱獲や自然破壊などの影響で絶滅が危惧される各種のウミガメや、ゾウガメ・リクガメといった稀少種なのでしょう。


私(たち)にとってカメと言えば、淡水域に生息するイシガメ(二ホンイシガメ)やクサガメが、子ども時代からなじみ深意のですが、今やこれらを見かける機会はめったになくなりました。イシガメはいまや、準絶滅危惧種に指定され、地方によっては最高ランクの絶滅危惧Ⅰ類に指定されているところもあるようです。


このイシガメとクサガメが日本の在来種かと長く思っていましたが、クサガメは、かつて中国大陸・朝鮮半島から移入された外来種なのだそうですね。クサガメは、その臭いが嫌なので、昔の子どもにとっては、イシガメに比べて人気が今一つでしたが、今や、自然界で出遭うカメといえば、ミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)ばかりになりました。


そう言えば、忘れていましたが、以前、こんな記事を書きました。


剥がれ落つる記憶の欠片エゴの花(2017-05-24)


鶴は先年亀は万年と申しますが、池に亀がいました。日本中特定外来種のミシシッピアカミミガメが席巻しています。ところが、本当に久しぶりに、在来種の亀を見たのでした。

この亀はイシガメ?クサガメ?いろいろ悩んでおりましたが、古い記事にこんなことを書いていたとを「発見」しました』。
卯の花を簪にアジアイトトンボ

「自然保護センターの」山の側の道縁に、一休みしていました。産卵のために池から登ってきたようです。通りかかった職員の方、もっともっと山道の高いところに登って産卵するでしょう。卵は、イタチや。蛇や、烏に食われてしまうことが多いです。と教えてくださいました。
「でも、この亀は臭いからきらい」と、正直に付け加えて、、、。
私も、近寄って嗅いでみようとは思いませんでしたが、子どもの頃の記憶では、イシガメ(石亀)にくらべて、クサガメ(臭亀)は、子ども達の間でも人気がなかったことを覚えています。今では、外来のミドリガメの方が優勢になっていますが、私の子ども時代にはミドリガメなどいませんでした。


先日歩いた深山公園で、同じような経験をしました。


池の岸辺に亀の群れが日光浴をしていましたが、これは皆ミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)のようです。どうしたわけか、モノクロ設定にしてしまっていたらしく、証拠の耳の赤色が確認できませんが・・・


K1IM5575



そのすぐ近くに、一匹で寛いでいたカメが、どうも気になり、念のために写しておきました。


K1IM5572


トリミングしてみます。


K1IM55722


これもモノクロなので、断言はできませんが、甲羅の形など、クサガメではないかな?とった次第です。


「カメの日」にまつわるささやかな話題でした。今日はこれまで。


nice!(29)  コメント(2) 

またもやフライング,の巻 [今日の暦]

今日は,沖縄が本土に復帰してから50年の記念日。テレビ、ラジオ、新聞などで、色々な特集が組まれています。


ああ、もう50年か!の感慨もありますし、50年で何が変わり、何が変わらなかったか?!を思うと複雑な心境に囚われます。


過去記事でも、沖縄について色々書いてみました。その中でも、1972年5月15日にまつわる記憶を、この記事に書いたことがありました。


強行採決にまつわる記憶のエトセトラ、の巻(2015-09-18)


ふと思い出したのは、初めてデモに参加した頃の記憶です。
大学入学したての頃、70年安保、沖縄返還、ベトナム戦争反対などを主要テーマに、デモや集会を含む学生の運動が連日のように取り組まれていました。全くの初体験の私も、そのデモの後尾につながって、おそるおそる歩きました。
当時、アメリカ占領下にあった沖縄の日本返還にあたり、「核も基地もない、緑の平和な沖縄を返せ」という願いは、切実で道理のあるものでした。ここでボタンの掛け違いをしていなかったらならば、今日の「沖縄問題」の過半はとっくに解消できていたはずと、今も改めて思います。
しかし、当時の佐藤内閣は、この願いに反し、アメリカ言いなりの、核付き、基地付きでの返還協定を結び、1971年11月に強行採決で成立させました。
因みに、佐藤栄作氏はこの「沖縄返還協定」のお手柄と、彼の唱えた「非核三原則」の政策などが評価されて、1974年にはノーベル平和賞を受賞します。これについて、ウィキペディアに興味深い記事が掲載されていますので引用させて戴きます。

平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文 書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという。

(中略)

時々思い出す情景があります。
1972年5月15日、沖縄返還協定が発効する日、私たちはデモを終えて高知城のたもとの広場に集まっていました。
おとなしく真面目な、同期の友人Y君が、マイクに向かい、発言しました「屈辱のこの日を忘れない。今日は自分の誕生日です。」

Y君とは、2年前のこの記事「夏ゆくやそれぞれの老ひ輝きて」 でも紹介した米田稔君です。周囲の誰もが適職と見て疑わなかった教職の道に進まず、現在、高知県議(日本共産党)6期目を頑張っています。個人名と誕生日などという個人情報を出すことは、いったん躊躇しましたが、公人でもあり、ネット上にも公開されている事実ですので、許されるかな?
その日のことかどうか、記憶はあやふやですが、やはり同じように、私たちの願いが踏みにじられ、強行的に押し切られたいつかの日、抗議の集会で、この警句を引いて発言した先輩の言葉も、今に蘇ります。
「最後の勝利の時までは、我々は負け続けるだろう」


50年前のこの日の情景を、今日も朝から思い出して、今日の記事のネタにしようと練っていたのですが、またまた二番煎じになるところでした(汗)


一つだけ付け加えをしておきましょう。米田君は、県議7期を勤め上げ、次の改選で勇退されるそうです。お疲れ様でした。


image


「核も基地もない緑の平和な沖縄」を求める沖縄県民、及び本土の人々の願いに反して、「本土並み返還」の口約束は反故にされ続けて50年。「辺野古」問題の推移は、それを象徴していますし、元首相が「核共有」まで高言する事態には、危惧された「本土の沖縄化」ここに極まれりと嘆かずにはいられません。


さて、今日のタイトルの「フライング」とは、私の属する退職同業者の会が7月に総会を開きますが、その議案書草案を分担して執筆することになりますが、とりあえず私の分担部分を、お見せしちゃいます。(正式の議案書はさらに討議を経て練り上げられますので、現段階ではあくまでも私案ですのでお含み下さい)


   
1.ロシア・プーチン政権によるウクライナ軍事侵略と野蛮なジェノサイドの強行は,歴史を後戻りさせる暴挙として世界を震撼させています。何としても国際世論の包囲によってその手を縛ることが切に望まれる今,会報第168号(2022年4月)は,巻頭にIS氏の論考「ロシアのウクライナ侵攻と核共有の危険性」をはじめ,TY氏の「『T地区の怒れる市民の会』が,駅頭抗議行動」とYK氏の「『N地区九条の会』緊急スタンディングアピール」の2つのとりくみ報告を掲載し,「#ウクライナに平和を」特集としました。
その中でIS氏は,次のように指摘しています。
「21世紀の今日,これほどあからさまな侵略行為が目前に展開されていることに大きな衝撃を受ける。と同時にやはり国際社会の結束によってしか,この事態は打開できないことを肝に銘じるべきだろう。
そして,この事態に乗じるように「核共有」や「敵基地攻撃能力」を声高に叫ぶ安倍晋三や日本維新の会などの政治家には要注意である。安倍晋三のコアな支持者は「日本会議」などの極右勢力である。彼らは中国や北朝鮮の武力に武力で対抗することを主張する。安倍晋三の「核共有」はまさにこうした連中に迎合した政策である。維新のやり方は常に「敵を作り,敵を攻撃し,大衆に迎合する」である。「公務員攻撃」,「組合」攻撃,「中国,北朝鮮攻撃」を繰り返し,大衆受けを狙う,まさにポピュリズムである。「勇ましいことを言えば,大衆に受ける」そんな言説に扇動されてはならない。また「敵基地攻撃能力」は一歩間違えれば「先制攻撃」ともなりかねない。憲法9条を持つ日本が先制攻撃することは許されない。何より日本は絶対に戦争できない国なのだ。
今回のロシアのウクライナ侵攻で,世界に衝撃を与えたことの一つに稼働中の原発への攻撃がある。現在日本には54基の原発があり,うち9基の原発が稼働中だ(2021年3月現在)。しかし,稼働中の原発だけが問題なのではない。稼働していない原発の敷地にも放射性廃棄物が山積みされている。これは政府が放射性廃棄物の最終処分を先送りし,原発を推進してきたツケである。その中には当然高レベル放射性廃棄物も含まれている。つまり,日本を滅ぼすには核兵器はいらない。通常のミサイルで原発を攻撃すればよいのである。原発をミサイル攻撃し,その敷地内にある高レベル放射性廃棄物が大気中に大量放出されれば,日本は終わりである。日本が絶対に戦争できない国とはそういう意味である。(中略)
原発への攻撃を阻止できない以上,日本は断じて戦争はできない。それを無視しておいて,「核共有」だの「敵基地攻撃能力」だの「武力に対して武力で対抗する」などあまりに無責任だ。威勢のいいことを言えば,支持率が上がるなどと政府・与党が考えているとすれば,あまりに愚かだ。これまでのことを深く考えれば,外交しか解決策はないというのは自明の理だ。」

ウクライナ危機に乗じて,「核共有」を促す安倍元首相や維新などの動きのなかで,岸田首相は「非核三原則堅持」を口にし,ローマ教皇との会見で「核なき世界の実現」への協力を確認するなどの姿勢を示してはいますが,昨年1月22日に発効した核兵器禁止条約への参加には,依然として消極的です。

   
2.アベ→スガと続いた強権政治を継いだ岸田政権は,「聞く力」の標榜など,ソフトで穏やかな政権運営を演出していますが,閣僚の大半が日本会議派というタカ派的本性は隠せません。
岸田氏は,3月13日の自民党大会での演説で,ウクライナの事態を口実に日本の軍事力強化や,安倍政権下で党がまとめた憲法9条への自衛隊明記を含む「改憲4項目」の実現を強調し,「(改憲4項目は)いずれも今こそ取り組まなければならない課題だ。憲法改正という党是を成し遂げよう」と呼びかけました。さらに,憲法施行75年にあたる5月3日,改憲派団体の集会「公開憲法フォーラム」にビデオメッセージを寄せ,ウクライナ危機や新型コロナウイルス対応に触れ,「緊急事態条項」の重要性を強調。改憲4項目についても「早期の実現」を主張し,衆参の憲法審査会が議論を重ねていることを評価しつつ,「改正に向けた機運をこれまで以上に高めたい」と語っています。集会には自・公両党のほか,改憲に積極的な日本維新の会,国民民主党の国会議員も参加しています。
5月3日付の産経新聞は,同紙の単独インタビューで,岸田氏は「選挙での訴えを通じ,党の積極的な姿勢をアピールしたい」と,党総裁任期中の憲法改正に意欲を示し,9条への自衛隊明記について「自衛隊の違憲論争に終止符を打つため,大変重要な課題であると丁寧に説明を続けていきたい」として,夏の参院選で改憲を自民党公約の重点項目に掲げる方針を明らかにした,と伝えています。
憲法記念日を前に実施した全国世論調査(郵送)について,朝日新聞記事は,「いまの憲法を変える必要があるかを聞くと,『変える必要がある』が56%(昨年調査は45%)で,『変える必要はない』37%(同44%)を上回った。2013年に郵送調査を始めて以降,改憲必要派は最多。憲法第9条については『変えないほうがよい』59%(同61%)で,『変えるほうがよい』 33%(同30%)を上回った。」と伝えています。各社の世論調査でも同様の傾向が見られ,7月の参議院選挙にむけて,憲法をめぐるせめぎ合いが正念場を迎えています。
こうしたもとで,5月3日,東京有明防災公園で開かれた「改憲発議許さない!守ろう平和といのちとくらし 2022 憲法大集会」で採択された特別決議は,事態の本質を端的に解明しています。
この度のロシアのウクライナ侵攻は二度にわたる世界大戦を経て人類が獲得した国連憲章の「国際紛争を平和的に解決する原則」に反し,「武力による威嚇または武力の行使を禁止する国連憲章第1章2条4項に明白に反するものだ。
いかなる理由があれ,ロシアの今回の蛮行は許されない。ロシアはただちに軍事行動を停止し,撤退しなければならない。
しかし,わたしたちはこの侵略戦争のさなかに,日本で惨事に便乗するがごとく,まことしやかに語られている暴論の数々を見逃すことはできない。「憲法9条は役に立たない」「日本も非核三原則を放棄して米国と核兵器を共有すべきだ」「軍事費を倍加しよう」「台湾有事に備えよう」「敵基地攻撃能力をもとう」「基地だけではなく敵の中枢も攻撃しよう」などなどの言説だ。
憲法9条にもとづいた外交努力で近隣諸国との友好共存関係の積み上げを怠り,列強との軍事同盟や軍事協力を強化し,軍事力を強化して緊張を煽り立て,いたずらに他国を誹謗し,戦争の危機をあおり立てるこの道は,日本を際限のない軍拡競争にひきずりこみ,やがて壊滅的な戦争の勃発を招きかねないものだ。この道は日本がかつて歩んだ道だ。これこそがいまウクライナで起きている事態の教訓ではないか。
本日,日本国憲法施行75周年にあたる5月3日,東京・有明防災公園に集まった私たち市民は,集会の総意において,平和を希求する全世界の民衆に連帯し,なかんずくウクライナとロシアの民衆に連帯して,ロシアの侵略戦争を直ちにやめよ,人を殺すな・即時停戦実現の声をあげる。そしてこれに便乗した日本政府の一切の軍拡策動に反対し,憲法9条を掲げ世界の市民とともに平和をつくり出す闘いに全力を挙げてとりくむことを,宣言する。(抜粋)
この集会では,市民連合の中野晃一上智大教授が,「(戦争防止のために双方の国が)抑止一辺倒だと,互いに抑止と言いながら軍拡競争になる」と指摘。「9条を守り,先に攻めるつもりはないという『安心供与』をして初めて安全保障政策として成立する」と語り,憲法9条の堅持を訴えました。まさにこの方向にこそ,希望の光があることを確信し,声と運動をさらに強めていく必要があります。 


もう少し長いので、今日はここまでと致します。


なぜか設定を間違えてモノクロ撮影になってしまいました。


カワウです。どうせ羽の色は黒いのですが・・・・


K1IM5583


麦もモノクロ。


K1IM5587


今日はこれにて。


nice!(19)  コメント(2) 
今日の暦 ブログトップ