いまさら「GTO」、の巻 [日録]
昨日に続き、穏やかな陽気を感じる朝でした。でも、午後からはまた雨の予報です。つかの間の晴れをのんびり味わおうと、重いカメラは持たず、小一時間のプチ朝散歩を済ませました。
ポケットに入れたRICOH gx200の画像です。
確かに春めいてきましたね。
先日ツバメの姿を見かけたと書きましたが、ここ数日は、我が家の軒下の定位置に、巣作りの準備を始めているようです。
さて、今朝の「しんぶん赤旗」のこんな記事がめにとまりました。
この反町隆史さん、なじみの薄い若手俳優さんとして、長い間、意識の外にありました。今から20年以上も前、ちょうどノストラダムス騒ぎ・ミレニアム騒ぎが世を賑わせていた前後、私は定時制高校に勤めていました。その頃若い同僚に、今生徒たち若者に一番人気のあるヒトってだれでしょうねえ?」と尋ねると、間髪入れず「反町隆史でしょう」と答えが返ってきました。私の中に全く予備知識のなかった人名だったことが、余計に鮮明に記憶されています。
今確認してみますと、テレビドラマ第一期「GTO」が放映されたのが1998年だそうですから、ちょうどその頃のことでしょう。「GTO」と言う番組は、「グレート ティ-チャ- オニヅカ」というネーミングからしてふざけていて、教育や教師を茶化し嘲弄することでウケを狙った軽薄なフマジメ番組であろうと想像して、もちろんリアルタイムで視聴したことはありませんでしたし、これが人気を博しているという現象そのものも、軽佻浮薄な「ミーハー」連中によって動かされている風潮の反映かと思われて、苦々しく横目で眺めていたものでした。
ところで「ミーハー」という語についてこんな記事を書いたことがありました。
ミーハー雑感、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
(2017-11-14)
「ミ-ハ-」という言葉を使うことがありますが、その意味はよく知りません。
ウィキペディアにはこうありました。ミーハーとは、世の中の流行や芸能人の動静に今まで無知の人が熱中したり、影響を受け知ったかぶりの行為をする者(主に若年の女性)に対しての呼称である。通常はカタカナで「ミーハー」と表記するが、かつてはみいはあ、みいはあ族などと呼ばれた事もあった。昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。現在では男性にも使われる言葉である。最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味でのものがほとんどである。
語源 文献によってはみいちゃん・はあちゃんの略として、当時の女性の名前は「みよ」「はな」など「み」「は」で始まる名前が多かったことから。
みいはあを音階のドレミファとかけたもの
英語の「Me」&「Her」から。
などの説も唱えられている。
さて私こそ、生粋の「ミーハー」であることは、最近自覚することが多く、TVドラマ「相棒」シリーズを全作録画視聴している事実からも、ミーハーぶりが露呈してしまいます。「陸の孤島・人材の墓場=警視庁特命係」の杉下右京と組む代々の「相棒」は、それぞれ個性的なキャラクターで飽きさせませんが、反町隆史さんが、法務省のキャリア組エリートの地位を捨ててヒラ刑事に転身する冠城亘を演じたシリーズから、一気に身近な俳優さんの一人となってしまいました。
そんななか、上の新聞記事で紹介されている[GTOリバイバル」の放送に先駆けて、過去作の「GTO」が連続的に放送されることに偶々気づいて、すべてを予約録画し、最初から一息に視聴しつつあります。まだシリーズの途中で、何回分かの放送がまだ残っていますが、かつて「軽薄なフマジメ番組」と決めつけていた先入観は、大きく崩れました。むしろ、ハスに構え、照れながらも、人生の意味や生きる希望を、そしてあるべき教育・教師の姿、温かく真面目に語りかけようとする佳作であったことに気づかされ、不明を恥じたことでした。
作品には、あれこれの世相批判や揶揄が散りばめられていますが、「金八先生」ファンとおぼしき熱血教師(もどき)が、戯画化され、手厳しくやっつけられており、金八先生型献身に教育者としての矜持を感じていた身にとっては、いささか居心地の悪い思いもしました。もちろん、「もどき」は「もどき」であって、純正の価値が泥にまみれるわけではないのは当然ですが、今の時点での金八先生型接近が、教育現場でどう捉え直されるべきか、再考の余地はあると考えています。
「金八先生」に関連して、とりとめもなく、こんな過去記事を思い出しました。
ちょっとあかるい気持ちになりました、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2020-01-26
今日は午前中、教育研究の会がありました。
開会挨拶で、職場の多忙に触れたHさんは、同僚間でも「お忙しいところすみませんが」と声をかけてから用件を告げるとか、放課後質問に応じた帰り際、生徒が「お手間を取らせて申し訳ありません」と慮ってくれたとか、リアルな実情を紹介してくださいました。
目当ては、「学校の日常を『見える化』する-教育活動の持続可能性をもとめて-」と題した内田良氏(名古屋大学准教授)の講演。
(中略)
右からの「教師は聖職」という無償労働のおしつけ論にはくみせずとも、「生徒のために、みずから進んで献身的に尽くす」ことは、教育労働の醍醐味であり、教育という営みの本質的特性ととらえる思いが、多かれ少なかれ私(達)の中にはありました。「加熱するのは魅力があるから」「子どものため。自分は楽しい。好きでやっている」を問い直し、リスクを除去するマネージメントが必要。「教育は無限、教員は有限」だから、全部意義があるから捨てられない状況を転換し、優先順位をつけるべし。深くうなずかされました
元気をもらった二つのエピソード
その1)教師の働きかた改革、予想以上に応援団が多いという例。
概要を「netgeek」から引用します。
news zeroで紹介された教師の労働改革について、タレントの若槻千夏(35)がその内容に真っ向から噛みついた。ネット上で批判の声があがっている。
自身は2児の母でもある。
出典:https://www.instagram.com/p/Bv1SsduDZmM/
番組では愛知県の小学校教師が出演し、教員不足に悩む学校が労働改革に取り組んでいるという話を紹介した。具体的には「6時以降は学校の電話に出ない」「留守番電話をつける」「時間外に何かあっても親の役目、万引きなら警察の役目」と対応方針を改め、「勤務時間を超えて教員がやることは今後なくなっていく」と総括した。
以前から劣悪だと指摘されることの多かった学校の先生の労働環境が改善されるのは良いことに思えた。しかし、ここで若槻千夏が母親の視点から反対し始める。
若槻千夏の発言まとめ
・えーなんか寂しいですけどね
・子供が帰ってこないときに探して見つからないときに親は学校に電話する
・だってごくせん見て育ったんでしょ?
・ちょっと皆さん!金八先生見たでしょ?
・そんなビジネス化しちゃ駄目ですよこの意見に対し教師は「金八先生のやり方を続けてきたから学校の先生になる人がいなくなった」と返答。労働環境を改革する必要があるという主張は一貫しており、スタジオも若槻千夏を除いて納得する。
「良い案だと思います」という言葉が飛び交う中で、若槻千夏は「そこが全てじゃないですよ!もっと減らせばいいところがあるじゃないですか?私はそこじゃないと思う!」と強く言い続けた。出典:https://www.instagram.com/p/BwzPv3fFOJF/
放送終了後、ネット上では「若槻千夏の言い分はおかしい」と非難轟々の嵐に…。ネット上の声をざっとまとめると以下の通り。
・先生に限らず、サービス残業をしろと要求するのはおかしい
・過剰な要求をする一部の保護者がいることが問題
・何でも先生の責任にすべきではない
・ごくせんと金八先生はドラマという作り話の世界だ
・モンスターペアレントかと思う
・保護者だけど若槻千夏は間違っていると思う
教師というのは趣味でやっているわけではなく、あくまで仕事。しっかり時間で線引きすることはさほど悪いことではないと思うのだが…。一昔前なら、時間外に対応しない学校・教師にこそバッシングが浴び競られたかも知れません。今、全く逆の現象が起こっているのは、それだけ教師の労働環境の酷さが、周知のものとなっているのでしょう。
昨日の地元新聞に、県教委による新年度の教員人事の発表が掲載されました。
65歳定年制の実施に向けて、段階的に定年年齢が引き上げられる過渡的措置で、今年度は定年退職車はありません。・・・が、少なくない退職者のお名前が発表されています。つまり、定年によらないここの事情で退職された方です。中には、親しい元同僚のお名前も複数見いだされます。ご事情は様々でしょうが、心身の疲弊その他で、早期退職を選ばれた方もあるかもしれません。
昨日は、その方々に、退職者親睦・交流組織への加入をお誘いする手紙を、手分けして印刷・郵送しました。
疲れ切って退職を迎えたとしても、十分休養をとり、エネルギーを蓄えながら、「第2のステージ」を有意義に楽しむ場や機会を、ささやかながらもみんなで作っていければと思っています。元気な退職者の姿を見てもらうことが、現職の泯さんをも励ますことにつながればいいなと思ったりしているこの頃です。
今日の付録。
春休みになった孫たちに遊んでもらえて、カナヘビもうれしそう?です。今日はこれにて。
春雷と龍神、の巻 [日録]
深夜から未明にかけて、かなり長い時間、おどろおどろしい雷鳴が轟き、すさまじい雷雨が屋根や地上にたたきつけました。それらの音は、しばし眠りを妨げられるほどの大音量でした。
雷は、龍神の化身とか言うそうです。そして龍は、蛇の化身とも。
というこじつけで、我が家の龍の近影をご紹介します。
今年の正月、こんな記事を書きました。
置き土産、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)
表題の「置き土産」とは・・・
カナヘビです。
夏に来たとき、我が家の庭で捕まえたカナヘビを、数日昆虫用プラケースに入れて飼育しようとしたけれど、餌も食べないし元気もないので、逃がしてから大阪に帰ろうとしたのですが、よく見ると、卵を産んでいるらしい。パパが、プラケースに入れたまま持ち帰っていたところ、2匹が孵化したのだそうです。は虫類専門店で、紫外線ランプを調達し、餌にはヨーロッパイエコオロギのSサイズを買って与え、世話をしてきたけれど、冬になって気温が下がり、これ以上育て続ける自信がないというので、このカナヘビ2匹も「里帰り」させることにしたのです。
「里帰り」といっても、今の季節、庭に放しても冬眠に失敗する恐れが高いので、暖かい季節が到来するまでは、我が家のリビングルームで、賓客待遇でもてなすことにしました。ペットゲージとして中サイズの金魚水槽を新調し、その下に、人間様用の平形電気あんかをしいて夜の冷え込みを防ぎ、昼間は、紫外線ライトをでてらすことにしました。人工餌はお口に合わないようなので、生き餌を用意しなければなりません。あいにく、野原で小昆虫を採集できる季節ではないので、ペットショップを訪ね、コオロギを入手することにしました。
相も変わらず、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)
今年の干支は辰。実は、私も年男です。
20年前のベトナム訪問旅行の時、お土産として買って帰った木彫りの龍のミニ彫刻が、行き先のないまま我が家の本棚に飾られていました。
ややレトロ写真風の画像処理をさせていただきました。
ところで、これも龍の仲間?
「カナヘビ」は「ヘビ」と名がつくものの、トカゲの仲間です。
蛇足になりますが、「カナヘビ」の名前の由来には、(1)「金蛇」=金属色のヘビ、(2)愛しき(=可愛い)蛇、などの説があるそうです。
過去ブログで最初にカナヘビが登場する記事は「今日はネタがないんです。:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2013-08-29」です。「可愛いヘビ」説に一票投じたいところです。
そのカナヘビ2匹が、すくすく育っています。
近影をご紹介します。
今日一日、雨は激しくなったり小やみになったりで、ソメイヨシノの開花はしばらくお預けのようです。
あいにくの天気でしたが、一週間分の買い出しのために田舎の老母を訪ねました。
思い切って強選定してあるハクモクレンが、すくすくと枝を逃し、沢山お花をつけていました。
ラッパ水仙も満開でした。
今日ははこれにて、
シーズン終わりの初撮り、の巻 [鳥三昧]
今日は一日、冷たい雨でした。
晴れ間の覗いた昨日の朝、玉野市深山公園を歩いてみました。
池の白鳥が伸びやかに「白鳥の湖」を舞っておりました。
カイツブリも優美です。
散歩道を歩いていると、ちょっと離れた茂みに、何か小鳥が飛んできたようです。遠くてはっきり確認できません。
思い切りトリミングしてみます。
どうやら、ルリビタキのようです。
実は、今シーズン初撮りです。
めでたく記念写真になりました。
こんな写真も撮りました。
いかなる設定ミスか、露出の失敗です。編集ソフトで、補正すると、なんとかジョウビタキの姿が浮かんできました。
普通に写せばこんな感じ.(トリミング画像)
木の上に飛んできた鳥は??
エナガです。
今シーズン初撮りです。
これは、メジロでした。
やっぱり枝の陰に隠れて、、、、アオジです。
これも今シーズン初撮り。
シロハラも初撮りでした。
冬鳥が姿を消そうかという頃になって、ようやく初撮りできて、ちょっと満足しています。
今日はここまで。
続中古以上ジャンク未満、の巻 [カメラ三昧]
前回記事の続きです。
PENTAX *ist dlを,ジャンクカメラと同列に扱うのは、少々気の毒ではありますが、確かに、経年による劣化は否みようがありません。と言っても、気になるほどの故障も不具合も、特にはないのです。敢えて言うならば、内蔵キャパシタ電池の劣化によるものでしょうか、本体電池(単3タイプのeneloop充電池を使っています)を交換する際に、必ず日時設定が初期化されてしまいます。それが2005年1月1日になるところがご愛敬です(笑)。
そこを除いては、決してジャンク(がらくた、廃品)と呼ぶにはふさわしくない愛機と言わなければなりません。もちろん、購入時点かられっきとした「中古」でしたから、その点は疑いの余地がありません。
それを承知の上での感想を述べれば、発売時から、軽量・コンパクト・廉価をウリにしたエントリー機でしたが、そのことは決してこのカメラの値打ちを下げるものではなく、特に今回のように軽量コンパクトな35mmレンズをつければ、グリップの握り良さとも相まって、軽快かつ心地よい撮影散歩が楽しめます。
それはそれとして、肝心の写り具合はいかがでしょう?
ひきつづき、後楽園のスケッチ写真をお届けします。
これまでも、何度かご紹介した景色ですが、なかなか風情がございます。(最近では 先達に導かれ、の巻 や 先達に導かれ(その2)、の巻 参照)
正面のこんもりとした丘は唯心山です。
正面奥に茶店が見えます。
松や石灯籠を配した曲水。
焦げた焼き芝が、心なしか緑がかってきているようです。
正面は.藩主の居間だった延養亭(えんようてい)。
突き当たりは寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん)。
沢の池をぐるりと眺望できる美しく小さな建物で、 戦災を免れた建物の一つで、昭和9年(1934年)の水害後に復旧されました。
沢の池のたたずまい。
下の建物は観騎亭。
過去記事の一部を再掲します。
先達に導かれ、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)
少し歩いて丹頂鶴の飼われているあたりを通り過ぎ、馬場とその側にある観騎亭を見学。
後楽園HPにはこうあります。
馬場のほぼ中央に位置する観騎亭。観騎亭は、昭和9年の水害で被害を受け、改修されましたが、戦災には遭っていません。馬場側の窓を開ければ騎馬武者がちょうど良い位置に見え、庭側の窓からは松林に見え隠れする沢の池や庭の様子がかいま見えます。
いつもは板戸で覆われている,という印象があるこの建物。この日は白い障子があらわれています。そのわけは?実は私たちが、園内を一巡見学し、芝生広場で昼食のお弁当をとった後、再びこの観騎亭まで戻って、ひとときの交流会を開くために、予約してお借りしているため、雨戸が開けてあるのです。
今回は、雨戸が閉まっていました。
今日はこれにて。
中古以上ジャンク未満、の巻 [カメラ三昧]
こんな記事をしょっちゅう書いています。
やっぱり捨てられない、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)2020-10-21
ずっと以前こんな記事を書きました。
ジャンク命(2013-08-03-3)
ゴミ屋敷になるよと、妻に責められます。持てあましてだいぶ捨てましたが、捨てきれないモノもいっぱい残っています。
私の「ジャンク道」のお師匠は、見捨てられたモノにも光るところがある。そこに命を与える醍醐味は、教育も同じ。と含蓄のある教えを下さいました。
ジャンクで組んだpcも、みな可愛いけれど、いかんせん、ガソリン食いのアメ車さながら、ソフトウェアもOSそのものも、CPUの処理速度、大容量のHDD・メモリを必要とするようになり、次々と舞台から退場してゆきました。
なによりもWindowsのサポート終了というのが、納得できません。windows98、せめてwindoes2000で、私には十分なのですが。こんな感じの書き出しで、もっぱら組み立てパソコン関係の愚にもつかない与太話を書き連ねています。いつまでも、懲りることなく、こんな記事も書いてます。
羊頭狗肉か牛頭馬肉か、はたまた竜頭蛇尾か?の巻(2019-02-20)
私の趣味は、たとえれば、百円ショップでおトクそうな日用雑貨を漁ったり、スーパーの閉店間際の半額セールで生鮮成食品を物色する境地に似ております。試しに、当ブログの記事を「ジャンク」というキーワードで検索をかけると。出てくるわ出てくるわ。
最も古い記事はこれでした。
ジャンク命
今日は、ジャンクのオハナシではなく、「中古以上ジャンク未満」の話題です。
と申しますのは、先日後楽園に持って出たカメラは、一つはPENTAX K1Ⅱ+sigma APO 120-400mm F4.5-5.6 DG OS HSMという”渾身”の組み合わせ。
そしてもう一つは、日頃めったに使わないPENTAX ist dl+smc PENTAX-DA 35mmF2.4ALという究極の「軽小安」コンビ。しかもカメラに至っては、2005年発売の老朽機材のしかも中古購入品です。
後者の来歴については、こんな記事で紹介しました。
あてどなき「お散歩カメラ探求」、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp) 2023-09-04
そうこうするうちに、PENTAX k1Ⅱをお散歩に持ち出す機会もしばしばある中で、フルサイズ機であるならば、28mm始まりのZOOMレンズも、広角は十分ではないか?昔使っていたTAMRON28-200mmでも便利だったが、その後ポピュラーになったTAMRON28-300mmはお散歩用に使えないだろうか?などという悪魔のささやきが聞こえてくるようになり、ネット情報を探るうちに、TAMRON28-300mmとPENTAX istDLをセットにしたオークションが一万円ちょいで出品されていました。今更画素数わずか600メガピクセルの、旧機種に何の価値があろうか?最初に入手したデジタル一眼istDが、経年とともに性能的にも見劣りするようになり、いくつかの不具合を口実に買い換えたことを忘れたのか?しかも、istDLは、その初代istDの廉価版で、機能も性能も格下なのに・・・、と、理性の声は解くのですが、ついポチってしまいました。高額入札者があらわれてくれたら諦めようと、イヤむしろ品物を手に入れた後でトホホの気持ちに苛まれるよりは、高額入札者があらわれてほしい、とまで思ったのですが、幸か不幸から落札してしまい、昨日商品が届きました。
今日の記事、トホホ話となるか自慢話にできるか、紙一重のところですが、ともかく「作例」をご覧あれ。
(中略)やはり屋外の撮影のほうが性能を発揮できるかもと、今朝の景色を写しててみました。やや広角のSMC pentax DA 35mm(f2.4)を使いました。
ccdカメラの味、とまで言い募る気はありませんが、心地よい画像です。
istDL、しばらく使ってみます。
このistDL、発売当時の「デジカメウォッチ」2005/08/11付け記事を引用してみます。
【新製品レビュー】ペンタックス *ist DL (ハードウェア編) (impress.co.jp)
7月7日に発売が開始された*ist DLは、ペンタックスのデジタルカメラの企画、開発の基本理念である「ユーザーフレンドリーであること」をより一層追求した、エントリーモデルのデジタル一眼レフだという。
使いやすさ、わかりやすさを向上させた操作性、このクラス最大の2.5型大型液晶モニター、高精細画像の撮影が可能な有効610万画素CCDなどを備えるとともに、小型で携帯性に優れた世界最軽量ボディを実現したという。
価格的にも最安レベルで他社のライバル機と勝負するためのモデルであるわけだ。なお、名前のDLの「L」は、“Light Weight”、“Large LCD”に由来しているとのこと。
(中略)
我が国最初の35mm判金属製一眼レフを世に送った、長い歴史を誇る老舗ペンタックスの最新機であるが、ともかく低価格機を世に送るために最大限の努力をしたという感じを受ける。作りの安っぽさ、高級とは言い難い動作音、やや緩慢な動作などは、価格相応ということだろう。
しかし小型かつ世界最軽量のボディにこのクラス最大の2.5型大型液晶モニターを採用していることや、基本的な性能が上級機の*ist DSなみであるところなど、単に製造コストを切りつめただけのカメラではないところに、このカメラの魅力と存在意義がある。また単三電池が使用可能なバッテリーシステムは、他社機に対しても大きなアドバンテージがある。
いずれにしても、およそ20年近くも前の評価ですので、日進月歩の技術レベルから見れば「時代遅れ」は当然のことですが、その前提をふと忘れるほどの写り。というのはに負け惜しみに過ぎますかね?
後楽園周縁の遊歩道です。
切り株のまわりにフウの実が落ち散らばって風情があります。
右側の白壁の向こうが後楽園の庭園。左側は旭川の岸辺になります。
周縁道から見るおなじみの岡山城です。
見る場所によって表情が変わります。
ちなみに、一緒に持ち歩いていたPENTAX K1Ⅱ+sigma APO 120-400mm F4.5-5.6 DG OS HSMによる画像はこちら。
どちらの写りが秀でているかなどと、比較するのも野暮ですが、パソコンディスプレイレベルで見比べる限り、「良い勝負」と言えなくもなくもない・・・??
川面に映る「逆さ岡山城」。
岡山城は、その漆黒の壁の色から「烏城(うじょう)」と称されます。また屋根を彩る金箔瓦・鯱から「金烏城(きんうじょう)と呼ばれることもあります。
今日の付録は後楽園「井田」側を歩く烏。ハシブトカラスでしょうか?
この記事、次回に続きます。
before and after(その 2)、の巻 [カメラde散歩]
弥生も半ばを過ぎ、昨日は春分の日でしたが、春の訪れは一進一退。例年にないスピードでソメイヨシノの開花が進むかとの予測が、なんだか覆りそうで、2月並みの寒さが舞い戻ったりしています。
「before and after」は、劇的な大きな変化があった場合に当てはまりそうな表現ですが、こと、今年の気候においては、この表現を用いることにいささか躊躇してしまいます。
beforeは、2月27日の朝景色。
そして、3月2日の朝。
そして、afterは3月16日の朝です。
春浅しの感が否めません。
まだまだ、冬の鳥によく会います。
モズ。
ツグミ。
ムクドリ。
が、空を見上げると、、、
ひばりが賑やかに歌いながら舞っています。
ウグイスのさえずり、ツバメの飛翔も確認できました(撮影には成功していませんが)。
今日の付録は、水辺の鳥たちです。
コガモの群れは、次々に北の国に帰ったらしく、近所の小川で目にする個体数が少なくなりました。
ハシビロガモ。
バンです。
朝なのにバンとはこれいかに・・・お後がよろしいようで。
今日はこれにて。
岡山後楽園のウメジョビ、の巻 [鳥三昧]
くずれやすい天候が続き、今日も冷たい雨です。
昨日の晴れ間に歩いた岡山後楽園では、梅がまだ名残のように咲いていました。
梅の枝にジョウビタキ♂が現れました。
「ウメジョビ」ですな。
トリミングします。
表情豊かです。
地面に降りて遊ぶ姿も愛らしい。
相当近づいても逃げません。
ノートリミングでも大きく写せます。
今日の付録は、一昨日自然環境体験公園で写したジョウビタキ♀です。
トリミング画像です。
身近な野鳥ですが、基本的に「冬鳥」ですので、近いうちに北の国に旅立って行くのでしょう。いつごろまで目を楽しませてくれるでしょうか。
今日はこれにて
岡山後楽園のツバキメジロ、の巻 [鳥三昧]
「寒の戻り」で、冷たさが応えますが、晴れ間を利用して、岡山後楽園を散歩してきました。
椿がすっかり咲いています。
あちこちに落花も地面を飾っています。
蜜を求めてやってくるヒヨドリが、大きく枝を揺すって動きます。
ピントが合いません。
こんなところに止まっていれば捉えられるのですが。
もっと小さな鳥が、ちょこまかと素早く動器回ります。
メジロです。
以下トリミング画像です。
十分楽しませてくれました。
今日はこれにて。
before and after、の巻 [日録]
まずはbeforeの巻。
しばらくカメラバッグに眠らせていたpentaxK5ⅡのSDカードに、一月以上前からの画像が眠っていました。
2月8日に撮影したもののようです。
自然環境体験公園の梅が咲き初めたばかりでした。
ちょうど芝焼きの作業中でした。
咲き始めのマンサク。
次は、2月10日付。深山公園での撮影です。
紅梅。
セグロセキレイ。
ホオジロ。
ヒュウガミズキ。
次はafterの巻。
今日の自然環境体験公園。
ジョウビタキ♀。
オオバン。
コブシかハクモクレンか??
なんと!
ヒレンジャクの姿がありました。
少しトリミング。
逆光で、色が不鮮明です。
順光で移せる場所を求めて移動するうちに、逃げられてしまいました。
リベンジを狙って、諸用の合間に、午後も行ってみました。
満開の川津桜に、メジロが遊んでいました。
残念ながらこれも逆光です(涙)
ジョウビタキ♀にたっぷりモデルをお願いしました。
今日はこれにて。
夕焼け雑話、の巻 [私の切り抜き帳]
前回記事に今井正監督作品映画「橋のない川」第1部の夕焼けシーンを話題にしました。
夕焼けつながりで書きかけた未完成記事を、無意識のうちにそのままアップしていましたので、お詫びして訂正させていただきます。。
教育相談ボランティアの会報最近号に、ちょうどこんな記事を書いたばかりでしたので、転載します。
夕焼けあれこれ(その1) kazg
拙ブログに、10年近く前に書いた記事(「夕焼けその2」https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2014-10-17)を、多少のアレンジを加え、「リメイク」してご紹介させていただきます。
ショックです。
いたく落ち込んでいます。
自分の記憶の曖昧さ、でたらめさに、改めて気づかされ、「老人力」がついたなどと笑い流す余裕もありません。
というのは、こういうわけです。
一昨日、吉野弘さんの詩「夕焼け」の記事を書きました。一部引用します。
――――――――――――――――――――――――――
夕焼けを写したいと、常々思っています。
素敵な夕焼けを写す事ができたら、吉野弘さんのこの詩と一緒に載せたいと思っていました。
夕焼け 吉野 弘
いつものことだが/電車は満員だった。
そして/ いつものことだが/ 若者と娘が腰をおろし/としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って/としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に/ 横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし/又立って/席を/そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り/ 別のとしよりが娘の前に/
押し出された。
可哀想に/娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。
次の駅も/ 次の駅も/唇をキュッと噛んで/ 身体をこわばらせて-----。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて/ 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は/いつでもどこでも/われにもあらず受難者となる。
何故って/やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/ 感じるから。
やさしい心に責められながら/ 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで/つらい気持で/ 美しい夕焼けも見ないで。
――――――――――――
その続きを書きたくて、あれこれ思い巡らしていました。
そういえば、何かの映画で、この詩を生徒に朗読して聞かせるシーンがあったっけ。確か、松村達雄さん演じる国語教師が、夜間学校の生徒に読んで聞かせる場面だったよなあ。というわけで、一所懸命思い出そうとしましたが、思い出せません。
最近しょっちゅうこんなことがあります。先日は、テレビでチラリと顔を見た女優さんの名前が浮かびません。元夫の方のお名前は浮かび、周縁のエピソードはあれこれ浮かぶのですが、名前が思い出せないのです。
あいうえお、かきくけこ---わをん。と、何度も繰り返して、これにつなげて名前を思い出そうとしますが、無理です。ほとんど二日半、この努力をしましたが、断念。ネット検索で確認するまで思い出せませんでした。(中略)
現実の交際でも、こんなことがしょっちゅうあり、「名前を忘れた人」リストを作って、二度と忘れないようにしようと思ったりしますが、それも面倒で、二度目三度目の忘却に直面して愕然としたりするのです。トホホ。
ハナシが横道にそれました。
松村達雄さん演じる国語教師について、ネットで調べると、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズ第26作『寅次郎かもめ歌』でした。死んだ旧友の墓参りに北海道を訪れた寅さんは、旧友の娘・すみれ(伊藤蘭)の、定時制高校に通いたいという望みを叶えるために、柴又へ連れ帰ります。その定時制高校の国語教師を演じたのが松村達雄さんでした。松村達雄さんといえば、森川信さんの後を継いで2代目「おいちゃん」(3代目は下條正巳)を演じたほか、寅さんシリーズには、医者、大学教授、お坊さんなど、いろんな役で登場しました。余談ですが、以前、このブログで過去に、何度か話題にした映画「まあだだよ」で、内田百閒を演じたのもこの松村達雄さんでした。人なつっこく、ひょうひょうとした、柔らかくて人間味ある人柄が、魅力的です。
【注2】伊藤蘭さんといえば、昨年末の紅白歌合戦に久しぶりに出場。NHK「ファミリーヒストリー」の取材によると、油絵を嗜んだ祖父太郎の雅号が「蘭」で「伊藤蘭」を名乗ったそうな。NHK朝ドラ『ブギウギ』で、歌って踊るヒロイン「福来スズ子」(モデルは笠置シヅ子)を演じて大活躍の趣里さんは、蘭さんと水谷豊さんの間のお嬢さん。話題に事欠きません。
ショックなのは、『寅次郎かもめ歌』で夜間高校国語教師の松村達雄さんが朗読したのは、吉野弘さんの「夕焼け」ではなくて、実は、この詩でした。
便 所 掃 除 濱 口 國 雄
扉をあけます/頭のしんまでくさくなります/まともに見ることが出来ません/ 神経までしびれる悲しいよごしかたです/澄んだ夜明けの空気もくさくします/ 掃除がいっぺんにいやになります/むかつくようなババ糞がかけてあります
どうして落着いてしてくれないのでしょう/けつの穴でも曲がっているのでしょう/それともよっぽどあわてたのでしょう/おこったところで美しくなりません/美しくするのが僕らの務めです/美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう
くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます/静かに水を流します/ババ糞におそるおそる箒をあてます/ポトン ポトン 便壺に落ちます/ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します/落とすたびに糞がはね上がって弱ります
かわいた糞はなかなかとれません/たわしに砂をつけます/手を突き入れて磨きます/汚水が顔にかかります/くちびるにもつきます/そんな事にかまっていられません/ゴリゴリ美しくするのが目的です/その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします/大きな性器も落とします
朝風が壺から顔をなぜ上げます/心も糞になれて来ます/水を流します/心に しみた臭みを流すほど 流します/雑巾でふきます/キンカクシのうらまで丁寧にふきます/社会悪をふきとる思いで力いっぱいふきます/もう一度水をかけます/雑巾で仕上げをいたします/クレゾール液をまきます/白い乳液から新鮮な一瞬が流れます/静かな うれしい気持ちですわってみます/朝の光が便器に反射します/クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は/美しい子供をうむ といった母を思い出します/僕は男です/美しい妻に会えるかも知れません
私はこれを、茨木のり子さんの『詩のこころを読む』で知りました。
濱口さんは、国鉄(現JR)の労働者で、「国労」(国鉄労働組合)の文化活動に取り組む中、1956年、国鉄詩人連盟第五回国鉄詩人賞を、この「便所掃除」で受賞します。彼は太平洋戦争では中国、フィリピンなどを転戦し、戦争体験をきっかけに詩を書き始めたと言います。
この詩を、確かに私は好きですが、松村達雄さんが朗読したのが「夕焼け」だと思い込んでいて、この詩を思い出さなかったのは、トホホでした。(つづく)
上の文章のつづきは、おって書き継ぐ予定ですが、文章に添える写真を探しても、これぞというものが見つけ出せません(トホホ)。これまで「夕日」「夕焼け」の写真は数多く写してきたはずなのですが・・・。
たとえば・・・
夕焼け:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
旭川の川面を、夕陽が照らして魅力的でした。信号待ちの隙に、無理な体勢でシャッタ-を切りました。
ちょっと立ち寄ったスーパーの駐車場で、ふと見ると、西の方があかね色になっていました。
何の変哲もない、街の光景ですが、烏が鳴いて、よい子がおうちに帰りたくなるような、夕焼け空が見えましたので、とりあえず写してみました。
夕焼け その2:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
10年以上前の、定時制勤務当時の写真を見つけました。
窓の外は夕焼け。灯のともる校舎。
夕焼け その3:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
今日は、田舎の父親の通院につきあっての帰り、ちょっと回り道をして、児島湖に沈む夕日を眺めてみました。
眺望スポットにやっと到着した頃は、夕日がほとんど山の端に沈みかけていました。
急な思いつきでしたので、あり合わせのカメラで撮影しましたが、よく晴れて、うつくしい夕日でした。
ほとんど山に隠れます。
夕焼け その4:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
空と川を染めて夕日が西に傾くのを、橋の上から見るのが好きなのですが、歩くとちょっと遠い。車だと、駐車場所に困る。自転車で行くのが便利です。でも、「散歩が主、撮影はついで」というコンセプトを改めて確認し、敢えて歩くことにしました。
荻薄が群生した河川敷も、次第に紅く染まっていきます。
「秋の日は釣瓶落とし」と、寅さんがよく言ってました。
夕日が、ストンと、山の端に向かって落ちていきます。
(中略)
よく似た画像をたくさん撮りためた中から、これでもセレクトしたつもりの数枚を載せます。
夕焼け その5:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
水面を彩る夕映えの光の中で。
澪標です
こんなエピソードもありました。
ヨシガモでした、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
(2016-01-24)
以前、この降り敷くは唐紅の錦かな(語彙貧困、安直無類、真情不在、拙劣至極)という記事で、「澪標」についてこんなことを書きました。
今日、仕事から帰って見ると、ゆうメール便で書籍が届けられていました。教科書、参考書、辞典等教育系の出版物を発行している出版社B堂からでした。
(中略)
中身は、特にお正月シーズンを目当てに、各社から例年のように発行される百人一首の解説書です。 百人一首のすべての歌が、過不足のない、わかりやすい解説とともに歌ごとに美しい写真も添えられて、あたかもミニ写真集という趣の冊子です。
付録には朗詠のCDも付いていて、至れり尽くせりです。
なぜこんな書籍が送られてきたかというと、実はこの中に、ずっと以前に私の撮影した澪標の写真が、無償ですが(笑)、1枚採用され、その記念に献本をいただいたという次第です。
ご縁のはじまりは、このブログの写真を編集者の方が見つけてくださり、使用を打診してこられたのでした。澪標などという題材は、よほどレアなものであるようです。
妻に自慢していますと、「早速、ブログに載せたら?」とからかいます。
自慢話になるのも気が引けますし、個人情報の問題もあって、いったん躊躇はしましたが、ブログネタの一つとして紹介させていただく事にしました。これらの記事にも、澪標の写真を載せています。
夕焼け その5
夕焼け その4
午睡醒めてなお日は長き夏至の雨
夕映えの倉敷川に澪標(みおつくし)採用されたのはこの写真でした。
そして、該当する歌はこれ。
わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 元良親王(20番) 『後選集』恋・961
〔解釈〕 どうしてよいか行きづまってしまったのだから、今となってはもう同じことだ。難波にある澪標ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。
芋づる式の連想記事は程々にして、今回の「夕焼け」シリーズの結びは、こちらの過去記事の引用でお茶を濁したいと思います。
父のテレビ出演!の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2021-07-10
老父がテレビ出演しました。
といっても、ローカル局の地元密着番組で、旧タイプの自動車にも後付けできるブレーキ踏み間違い装置を開発した地元企業の社長さんを紹介するコーナーで、その恩恵にあずかっている利用者第一号として、ひと言インタビューやら運転実技の披露やらの場面を、短時間紹介してくれたのでした。
(中略)
先日の記事で、投稿短歌が新聞に掲載していただいたことを書きましたが、その時同時に投稿していてボツになった歌はこんなものでした。
僻村の父九十四老いたれど運転免許まだ手放せず
蛇足ながら、一緒に投稿したのは、これ。
芽吹きたるベニカナメモチ賞めをれば母は昨日の夕焼けを語る
説明を加えないとわかりませんね。
父母宅の道路際の垣根に、ベニカナメモチを植えており、春から初夏にかけて、新芽の燃えるような紅色が樹全体を覆い、息をのむほどの美しさ(安直ながら、アベ前首相の言い回しを借りました)に打たれます。しかし、必要以上に背丈が伸び過ぎていることが気になり、遅まきながら初夏になってから私が剪定をしたのでした。せっかくの紅色の若葉が切り落とされて、みすぼらしい様子に心を痛めていたところ、ようやく新芽が再度芽吹き始めていることを話題にしたのでした。
耳の遠い母が、聞き違えたのか、あるいは紅色から連想してか、昨日の夕焼けはなんとも言えず綺麗だったと、感慨を込めて語りました。ベニカナメモチを植栽している生け垣に沿った道路は、西に向かって延びていて、遙か向こうに、山と空とが眺められるのです。さぞや赤々とした夕焼けだったのでしょう。ちょうど,この画面の向かって左側の木が、ベニカナメモチです。テレビ画面をデジカメで写したものですので、色合いはイマイチです。
この記事から半年ほど経った2022年3月、老父は逝きました。
ブレーキ踏み間違い防止装置を装着した写真の旧式車は、今私が乗り継いでいます。早いもので、父の命日が今週末に近づきました。
今日はこれにて。
3月3日に寄せて、の巻 [今日の暦]
昨日(3月2日)は、小二と三歳児の姉弟が我が家にお泊まりということで、近くに住む従兄姉たちと一緒に半田山植物園で時間を過ごしました。
梅、マンサク、サンシュユ、ハナニラ、セツブンソウ、福寿草、クリスマスローズなど、過去ブログで紹介した初春の花々のほか、アヤメ(カンザキアヤメ)、サクラ(ツバキカンザクラ)が季節をさきどりしています。
カンザキアヤメ。
ツバキカンザクラ。
寒風吹きすさび、雪花もちらほらする寒さでしたが、上は20歳から下は保育園児の六人が、それなりに楽しく睦まじく時を過ごしたようです。
さて、今日、3月3日は「桃の節句」です。
過去記事でも何度も話題にしました。
例えば、2021年の記事。
桃の節句、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
お手伝いしている教育相談ボランティアのブログに、こんな記事を投稿しました。我ながら気に入っているので、恥ずかしながら転載させていただきます。
アッという間に3月です。
そして今日は3月3日、桃の節句。
かわいいひな人形を愛おしみつつ、雛あられを喜んで食べている女の子たちが、真にジェンダーフリーの世の中で輝くことができますように、、、。
そういえば、今日は、「人間平等」を宣言した「水平社」創立の日でもありました。
そうでした。水平社創立記念日でした。
「水平社一〇〇周年」を記念して、昨年11月に、こんな企画が催されました。
続いて、その第2弾が昨日催されました。
私自身は都合が合わなくて、鑑賞できませんでしたが、好評であったようです。
上述の「お手伝いしている教育相談ボランティア」の相談員の一人、H女史とも、つい先日、この映画会を話題にしたばかりでした。と言うのも、彼女は退職同業者という縁もあって、いつも四方山の歓談に花が咲くですが、ほぼ同世代(少し彼女が若い)なので、青春期にこの映画に強い印象を受けた共通の経験をもち、また大学は異なるのですが、共に「部落問題・社会問題・同和教育」の研究サークルに携わっていた共通体験からも、話が弾むのでした。
というわけで、今日は、芋づる式に思い出された記憶を、とりとめもなくたどってみたいと思います。
前回(3月1日付)の記事にで触れた槙村浩については、こんな記事も書いています。
文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ
高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。
児玉由紀恵記者
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
(中略)
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。 (後略)
(2012年06月24日,「赤旗」ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻(2015-09-01)この「大雨の中を嬉しき宅急便」(2013-09-04)の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。
懐かしいポスターです。
大学に入学したての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。
「橋のない川」にまつわる記事は、ほかにも何度か書きました。
防災の日に寄せて、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
(2015-09-01)
住井すゑさんの代表作「橋のない川」(新潮社)のハードカバー版が手元にあります。その第六部を手に取り、奥付を見ると、「昭和四十八年十一月十日印刷、十一月十五日発行、定価五百円」とあります。時代を感じさせられます。
「橋のない川」は、ご存じのように「部落問題」(同和問題)を正面から扱った小説で、高校時代に、島崎藤村の「破戒」などとともに、教師や、意識を持った級友などからも薦められた作品でした。
しかし、何につけても、人に薦められたものを、素直に受け入れることのない私ですので、なかなか読もうということにはなりませんでした。
そんなとき、今井正監督作品の映画「橋のない川」(第一部)が「ほるぷ映画」により制作され(1969年だそうですね。)、全国上映がすすめられました。学校近くの映画館(当時は、こんな田舎にまで映画文化が根づいていました)で上映されたものを、学校行事の一環として全校生徒で鑑賞する機会がありました。当時、私の通う高校でも、比較的熱心に取り組まれていた「民主教育」の一環として行われたものでした。
この映画鑑賞の前後にも、ホームルームでの学習や話し合いなどが行われたと思います。この課題に限らず、いろいろな人権問題、平和問題、社会問題、当時ホットな「沖縄返還」問題など、多彩な問題をテーマに、高校生自身の身の丈での「時事討論」なども、頻繁に行われていました。
HRの時間内におさまらず、次の授業の教科担任に、授業の時間をくださいと無謀なお願いに行き、認めてもらったこともありました。「牧歌的」「純真」「初心(ウブ)」「世間知らず」と、いろいろに批評されるかも知れませんが、同じ時代を生きる者同士としての信頼感が、生徒と教師、生徒同士の間に、確かに存在していた時代ではなかったかと思います。
私などは、ほかの級友達に比べても、自覚も薄く、気づきも遅い方でしたので、幼稚な、短絡的な、自分本位の、時には人を傷つけかねない意見などもよく口にしたものでした。しかし、それを、客観的・冷静にたしなめる意見をくれる級友もいて、ずっと後になってじわりと納得させられることもよくありました。
思えば、今では考えられないほど、伸びやかな、そして大らかな高校生時代だったかも知れません。もちろん、追憶特有の美化を含んでいることは間違いなく、それにふさわしく割り引いて考える必要はあるでしょうけれど。(注 ) 当時、岡山県では、古い身分遺制に起因する半封建的な差別の解消をテーマとする教育を、「同和教育」とは呼ばずに、「民主教育」と呼称していました。「民主主義教育の一環としての民主教育」という位置づけでした。これは今も通用する的確な認識だったと思います。
ところが、岡山県教育委員会は、1983年、県下の教育関係機関あてに突如通達を発し、1950年以来続いてきたこの「民主教育」 の名称を、「同和教育」 に変更しました。(現在は、「人権教育」の呼称を使用)。
水面下では、一部運動団体の動きや政治的圧力があったようですが、現場にとっては寝耳に水の出来事でした。
全国的には、「同和教育」の呼称は問題ありとして「解放教育」と唱えるべきだとする立場の人びとが、岡山では「同和教育」の名称を強く求めて来たようです。ここからも問題は「名称」そのものではなく、行政を「屈服」させて、自己の方針・見解を思うがママに採用させる点に狙いがあったものと思われます。
この無理強いの「名称変更」問題は、教育の中でことさらに、「部落問題(同和問題)」の課題を肥大化させることにつながり、いろいろな差別問題や人権課題に優先させて特別視するものだという批判や懸念を呼び、実際に、少なからぬ混乱を教育の現場に引き起こしました。
「最大の人権問題」「一番重大な差別」「最も重要な教育上の課題」「人権問題の柱」が存在するということは、とりもなおさず、子ども達が直面する切実な人権問題のなかに、自ずと、「一番大事とは言えない」、「二の次に回してもよい」、「柱ではない」ような問題(そんなものがあるの?)を想定することになります。
生徒と教師が、身の回りの切実な人権課題を、わがこととして受け止めて、その発達段階に応じながら、精一杯解決の筋道を探る、また解決の力を身につけるという、優れて自発的・創造的・自己変革的な営みがはぐくまれてきた「民主教育」という場が、ほとんど部落問題(=同和問題)にのみターゲットを絞った、しかも、いわば、あらかじめ定められた模範解答の習得に重きを置いた、「対策的」な「心がけ教育」の色合いが濃くなりました。
人権課題のテーマを並べて、子ども達に、優先順位をつけさせるといった、大まじめな「実践報告」まで目にする始末でした。
一般に、「特別扱い」がまかり通る空間では、必ず言動に不自然な慮りや制約がつきまとい、それゆえ、自由な、本心からの「納得」が阻まれるという事態が起こりがちです。
教育現場では、「上から」示される、この方針への受け止め態度が、その教員の「従順度」「真面目度」をはかる指標ともされ、何かと窮屈な空気が、職場に流れたのも事実でした。
このような、無理強いの方策が長続きするはずもありませんし、しかも、本来、封建制の残りカスである身分遺制にもとづく部落問題(同和問題)は、社会の民主主義の成熟の度合いに伴って、解消の方向に進むのが自然です。すでに、「混住(=旧「同和地区」への、他地域からの人口流入や、またその逆の現象により、地区内外の隔てが薄らいできている)」、「通婚(つうこん)(=旧「同和地区」出身者と、地区外出身者との、隔てのない婚姻)」などが大きく進行するもとで、かつての部落問題(同和問題)の痕跡すら、大きく薄らいいる現況では、「(地区の子ども達は)依然として厳しい差別にさらされている」というテーゼ自体、現実味を失ってきています。
そのようなわけで、すったもんだの挙げ句に強制された「同和教育」の呼称は、今は、素知らぬ顔で「人権教育」に改称され、まずまずのおさまりどころにおさまっているといえます。
しかし、この経緯の中で、失われたものは、どんなに大きかったかと、秘かに思っているのは、私だけでしょうか?ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いています)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は、雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。
いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
映画「橋のない川」(第一部)については、過去の、「大雨の中を嬉しき宅急便」や、「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」などの記事で、話題にしました。
別の角度から書いた記事もあります・・・。
世の愁い燃やし尽くすや西の空:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2015-09-08)
先日話題にした今井正監督「橋のない川」(第一部)の1シーンに、こんな場面があったような気がします。
北林谷栄演じる老婆、畑中ぬいが、地主の元に小作米を収めての帰り道、空になった大八車(荷車)に乗るよう嫁のふでに勧められ、寛いで後ろ向きに腰を下ろした彼女の目に、みごとな夕焼けで西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。
「見てみい。おふで。あの向こうが西方浄土ゆうてなあ、お釈迦はんが住んではるところやで。あそこには、差別も貧乏もないのやで。この世で、どんなに辛くても、辛抱して、お釈迦はんにおすがりしとったら、あそこへ行けるんやで。」
というようなことを、しみじみ語る場面。まことにあやふやなうろ覚えで、正確なところは確かめるいとまがありませんし、住井すゑさんお原作も斜め読みに当たってみましたが、見あたりません。でも私の記憶の中では、印象的な場面なのです。
前にも書きましたが、映画「橋のない川」(第一部)は、モノクロ映像がずーっと続きます。ですから、この「西方浄土」を眺めやる場面も、実際はモノクロ映像だったのでしょうが、私の脳裏には鮮やかな紅い夕焼けの映像が刻まれています。
ところで、この映画、ラストシーンの一瞬、カラーに変わります。(「パートカラー」と呼ばれるそうです)。そのラストシーンは、小森の村の人達が歩いているシルエットを包んで、夕日が空一面を真っ赤に染める、鮮烈な映像でした。
空腹の弟のために豆を炊こうとした永井武は、失火により村を焼く火事を起こします。在所の消防団は、「小森」が被差別部落であるゆえに、消火しようとせず、
火事を放置します。失火をとがめられた武はその夜自殺してしまうのでした(武は、小学校1年生でした)。武の父藤作(一年前の脳溢血による半身不随からリハビリによって復活したばかりの伊藤雄之助さんが演じています)は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うと決心し、娘を遊郭に売った金を、消防ポンプの購入に充てます。村対抗の提灯落し競争で、その新しい消防ポンプにより「小森」が優勝しますが、それを承認したくない他地区の連中により、優勝旗を焼かれてしまいます。
堪え難い憤懣を抑えながら、村に向かって歩む小森の人々を、夕焼けが包むなか、画面には、1927年(大正十一年)三月三日、全国水平社が結成された旨、テロップが流れます。。
「水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」
夕焼けつながりで、話題が飛んで次回に続きます。
3月1日に寄せて、の巻 [今日の暦]
3月1日にちなんだ記事を、過去何回か書いています。
まずは10年前の記事。
60年目のビキニデ-:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
(2014-03-01)
以前、東京都江東区東陽町というところに住んでいたことがありました。
長男が3歳、長女が1歳、次男はまだ生まれていませんでした。地下鉄東西線が、私の通勤電車でした。
先日も、家族で話題になりましたが、「東京ディズニーランド」が千葉県浦安市にできる直前のことでした。その頃、両親は、総武線津田沼駅近辺に住んでいたものですから、東西線や総武線を、幼い子ども連れで、よく電車で通りました。
(中略 )夢の島公園にも何回か行きました。そうでした。「赤旗まつり」というイベントが、ここで開かれて、子ども連れで出かけたこともありました。
その、夢の島公園の一角に、いまも、「第5福竜丸展示館」があります。
いまから60年前の今日。1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島内・ビキニ環礁で行った水爆実験で、爆心地から150kmほど離れていた所で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の犠牲者は私で最後にして欲しい」という遺言を残して亡くなるなど、痛ましい放射能被害を受けたのでした。「第五福竜丸」は、水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて「はやぶさ丸」として東京水産大学で使われていましたが、1967年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に廃棄されていたものを発見されて、保存運動が高まり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されています。
(中略 )
ヒロシマ、ナガサキ、ビキニと、3度の核被害を体験した日本人にとって、フクシマの災厄は、悔やんでも悔やみきれませんね。事ここに及んでも、原発再稼働に固執し、他国への売り込みに躍起になり、核武装論の本音もチラリとのぞける、、、どんな「強靱な」神経構造をしていらっしゃるのか、改めて感心しますし、真底身震いを禁じ得ません。
実のところは、単に想像力が乏しいだけなのでは?と、疑っているのですがね。
次はその翌年の記事。
槙村浩と三月一日:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-03-01)
今日から3月。
「弥生」の声を聞くと春が遠くないことを感じます。
(中略)
ところで、去年の3月1日の記事は、これ。1954年(昭和29)の今日、 マーシャル諸島のビキニ環礁で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」などが、アメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びて無線長の久保山愛吉さんが亡くなるなどの被害を受けた「ビキニデー」の話題でした。
3月1日にまつわるもう一つの歴史的事件は、 「三・一運動」または「三・一事件」、「三・一独立運動」、「万歳事件」とも呼ばれる出来事。
この事件に対する日本国内の反応は、概して植民地支配を是とする立場からの一面的なもの立ったようです。ウィキペディアの記事をお借りしますと、こうあります。
発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。
そんな中にあって、民族の独立と国際連帯、平和・民主主義を希求する立場から、この運動を高らかに歌いあげた日本の詩人がいました。
つい最近もこの記事などで話題にした、高知の革命詩人槙村浩(まきむらこう)が、その人です。
彼は、その代表作「間島パルチザンの歌」の中で、独立運動に立ち上がった若い姉弟に仮託して、こう歌っています。
おゝ三月一日!
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!
翌年にはこの記事を書きました。
里村欣三は日生の生まれ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2016-03-01)
槙村浩については↓これらの記事でも話題にしました。
●多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
上記の記事中紹介した槙村浩の略歴を、再掲します。(中略)
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。故郷の中学校を放校になった槙村が、岡山の私立関西中学(現在の私立関西高校)の転校し、そこを卒業したことは、岡山在住の私にとっては奇しき縁です。
昨日の日生への旅で、その関西中学に縁のある人名を目にしたのは、またまた奇しき縁でした。
その人名とは、プロレタリア作家の里村欣三(さとむらきんぞう)です。
昨日の記事でも紹介しました備前市加子浦歴史文化館の「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料のプリントに、里村欣三の略歴がありました。(中略)
大正7年地元の福河小学校を卒業すると家族の強い希望で幼年士官学校を受験するが、白紙答案を出し入学を拒否する。そして岡山市関西中学校へ進学。4年の時に有名な関中ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器庫を開放、学生を武装させ学校に立てこもった。警官隊が出動し解散となったが、首謀者二享ら3名は退校処分に。金川中学校に転校するも日々図書館通いですぐに退校。その後出郷し、郵便配達、電車の車掌等を転々とする。
徴兵年齢に達したことから姫路歩兵連隊に入営するが、自殺を装い脱走。満州へ渡り、里村欣三を名乗って各地を放浪する。大正12年帰国し文筆活動に入り、「世論と電車罷業」「真夏の夜と昼」を「文芸戦線」に発表。続いて発表した深川の貧民窟のルポルタージュ 「富川町から」で文壇の注目を集める。
(中略)
大正I4年プロレタリア文芸連盟の創設に参加、「苦力頭の表情」でプロレタリア作家としての地位を確立したが、厳しい左翼弾圧と自分の経歴を隠すため、官警の目を逃れ常に家を転々としながら、活発な作家借動を展開した。
昭和I0年、子女の学齢のこともあり、徴兵を忌避し逃亡していることを自首して出て裁判となったが、家族が失綜宣告で戸籍から抹消しており、「戸籍のない者(幽霊)は裁判出来ない」との判決で、姫路師団に3ケ月人隊する。
(中略)
太平洋戦争勃発後は陸軍報道班員として井伏鱒二・海音寺潮五郎らとボルネオ・マレー・華北・フィリピンにと戦線を駆け巡り、その間数十編を越すレポート・小説を書き続けた。彼がプロレタリア作家として注目を浴びた、代表作とも言える「苦力頭(クーリーがしら)の表情」を再読しようと、手許にある「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」を久しぶりにひもといてみました。
思い出しついでに、こんな記事も再掲しておきます。上の記事に続く一連の話題の一つとして書きました。
ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2016-03-04)
日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館の「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数首載せられています。(中略)
現代日本文学大系39巻は島木赤彦や木下利玄らと並んで土屋文明が取り上げられています。折り込み附録として添えられた「月報」に、諏訪高女校長時代のエピソードを、文芸評論家臼井吉見がこう書いています。
諏訪高女の校長のとき、上級生の平林たい子が修学旅行をすっぽかして、堺枯川を訪ねて上京するという事件があった。当時として普通の校長なら、おびえうろたえて、退学を申し渡すところだろう。この日文明校長は、たい子を呼びつけて、「おやじが三味線弾いて、娘が踊るか、よし、帰れ!」と一言あびせただけですんだという。これほたい子自身から聞いた話である。
(中略)
平林たい子の同級生伊藤千代子は、のちに非合法運動に関係して捕えられ、獄から松沢病院へ移されて、そこで死んだ。のちに歌人土屋文明は彼女の出身校の東京女子大を訪ねた折、次のような歌を作っている。
高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ
こうした思いは、文明の胸底にいよいよ烈々と伝わっている
(後略)
前述『六月風』に所収の、「某日某学園にて」と題する一連の作品には、上記の2首のほかこんな歌が収められています。
語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに思想的には、伊藤千代子の抱いたマルクス主義・社会主義とは距離のある、自由主義・リベラリズムの立場でしたが、官憲の非道な弾圧と、ファシズムの暴虐にたいして、静かな鋭い告発を投げかけていて、心打たれます。
伊藤千代子についての詳しい紹介は、こちらのサイトを参照させていただきました。伊藤千代子の生涯 (tiyoko-17.org)
戦前の日本共産党員、伊藤千代子さんについて
長野懇談会 志位議長が語る
(写真)伊藤千代子
日本共産党の志位和夫議長は24日、長野県上田市で開かれた「日本の真ん中から志位さんと希望を語るわくわく懇談会in信州」で、同県諏訪市出身で、戦前、天皇絶対の専制政治の迫害で命を落とした日本共産党員、伊藤千代子さん(1905~29年)について語りました。その部分を紹介します。
天皇絶対の専制政治のもとでの不屈のたたかい
戦前の日本は、天皇絶対の専制政治の国でした。日本共産党は「国賊」「非国民」と迫害されました。悪いことをやったからではないのです。命がけで「国民主権」の国をつくろう、「侵略戦争反対」と主張したために迫害されたのです。
多くの先輩たちが迫害で命を落としました。『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二、経済学者の野呂栄太郎も、迫害と拷問で命を落とした日本共産党員であります。
この長野県上田市出身の日本共産党員に川合義虎さん(1902~23年)がいます。日本共産青年同盟の初代委員長をつとめました。彼は、関東大震災の時に懸命の救援活動をやるのです。そこで憲兵隊につかまって無残に虐殺されました(亀戸事件)。21歳です。上田市にはそういう大先輩がいることを、まずご紹介したいと思います。
豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱
迫害で命を落とした先輩たちのなかには多くの若い女性党員もいました。その一人として、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)出身の伊藤千代子さんについてお話をさせていただきたいと思います。
千代子さんは諏訪高等女学校で学び、歌人として大きな足跡を残した土屋文明さん(1890~1990年)が校長をつとめた自由な雰囲気のもと、情熱的に書物を読み、豊かな知性と感性を身につけていきます。その後2年間の小学校の代用教員をへて、仙台の尚綗(しょうけい)女学校に進み、東京女子大学に編入します。そこで社会科学研究会を結成し、マルクス、エンゲルスの古典などを熱心に読んでいくのです。たいへん豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱を持った女性だったと伝えられます。そのなかで日本共産党に入党し、党中央の事務局で党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事にとりくみました。
千代子さんは、1928年3月15日の大弾圧で検挙されます。ひどい拷問を受けました。市ケ谷刑務所の待遇は不衛生で非人間的なものでした。さらに信頼していた夫が、天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加する。検事は、毎日、千代子さんを呼び出して、夫の主張への同調を迫りますが、彼女はきっぱり拒否してがんばるのです。しかし衰弱がすすみ、29年9月、亡くなりました。24歳でした。
「こころざしつつたふれし少女よ」
よく知られていることですが、歌人として大きな業績を残した土屋文明さんは、諏訪高等女学校時代の千代子さんの恩師でした。千代子さんに対してたいへんに強い印象をもっていて、1935年、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して6首の短歌を詠みます。そのなかに、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」という短歌があることはご存じの方も多いと思います。
1935年といいましたら侵略戦争と暗黒政治の真っただ中で、その時代に、伊藤千代子さんについてこのようにうたった土屋文明さんは、ほんとうに立派な方だと思いますが、恩師の魂をゆさぶらずにはおかなかった生き方を千代子さんはしたのだと思います。
獄中で迫害を受けながら、仲間を励まし続けて
獄中で千代子さんは、ひどい迫害を受けながら、仲間を励まし続けました。東京女子大の社会科学研究会で千代子さんの後輩だった塩澤富美子さん(1907~91)という方がいらっしゃいます。塩澤さんは、野呂栄太郎と結婚し、つらい戦前を生きのびて、戦後、医師・作家として活動し、野呂栄太郎の業績を今日に伝える仕事をされた方であります。
塩澤さんも市ケ谷刑務所に送られ、そこで千代子さんと出会います。塩澤さんが入れられた監房の外から彼女の名前を呼ぶ声がしたので、獄窓から外をみおろすと、千代子さんが、監獄の庭で、塩澤さんのいる監獄の窓を向いてほほえんで立っていました。千代子さんが、「元気? 今何を勉強しているの、『資本論』は4月まで入ったのに今度禁止になってしまったの」と声をかけたとたんに、看守が制止して、千代子さんを連れ去った。それが、千代子さんの姿を垣間見た最後だったと塩澤さんは回想しています。
塩澤さんは、千代子さんへの強い思いを胸に抱いて、戦後ずっと生きていくわけですが、1979年、千代子さんが亡くなってからちょうど50年後に、「追憶」と題する歌を詠みつづっています。これを読んで、たいへんに胸を打たれました。一部を紹介したいと思います。
市ケ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり
花の下に佇(たたず)みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後となりぬ
きみにより初めて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく
ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る
身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二四歳
君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ50年後に、この歌を詠むのです。
93歳の土屋文明さんが書きつづった歌
(写真)土屋文明の色紙「伊藤千代子がこと」
戦後、塩澤さんは、土屋文明さんのもとを訪ねています。そこで塩澤さんは、文明さんに、千代子さんはこういうがんばりをしたと話すのです。千代子さんの実像を知った文明さんが、塩澤さんの願いにこたえて、1983年のことなのですが、当時、93歳、やや利かなくなった腕をふるわせながら、こん身の力を込めて、新たな歌を詠む心境で書きつづったと言われるのが、3首の歌でした。
これは文明さんの直筆で3首の歌が書かれた色紙――わが党の党史資料室に保管されているものの写しです。歌題は、「某日某学園」ではなく「伊藤千代子がこと」になっています。
土屋文明さんが、暗い時代に千代子さんをうたい、93歳にしてこうした歌を書きつづった。これは日本の近代文学史の光彩ある1ページではないかと思います。土屋文明さんという大きな歌人、あるいは塩澤富美子さんのような後に続いた人々に、本当に鮮烈な感動を与えた生き方を貫いたのが伊藤千代子さんだったということを紹介したいと思います。
身をていして訴えた主張は、日本国憲法に実った
伊藤千代子さんなど私たちの先輩たちが身をていして訴えた主張は、戦後の日本国憲法に実りました。「主権在民」が書き込まれました。基本的人権、恒久平和主義も明記されました。
今朝の散歩は雨の名残が残っていました。
カワヅザクラがようやくほころび始めています。
気温は余り上がりませんが、昼前には、日射しが出てきましたので、カワヅザクラが沢山植栽されている阿部池の畔を訪ねてみました。
カワラヒワの群れが、さえずりながら樹上で活発に動き回っています。
芦原の小鳥は、オオジュリンでしょうか?
今日はこれにて。