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3月3日に寄せて、の巻 [今日の暦]

昨日(3月2日)は、小二と三歳児の姉弟が我が家にお泊まりということで、近くに住む従兄姉たちと一緒に半田山植物園で時間を過ごしました。


梅、マンサク、サンシュユ、ハナニラ、セツブンソウ、福寿草、クリスマスローズなど、過去ブログで紹介した初春の花々のほか、アヤメ(カンザキアヤメ)、サクラ(ツバキカンザクラ)が季節をさきどりしています。


カンザキアヤメ。


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ツバキカンザクラ。


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寒風吹きすさび、雪花もちらほらする寒さでしたが、上は20歳から下は保育園児の六人が、それなりに楽しく睦まじく時を過ごしたようです。




さて、今日、3月3日は「桃の節句」です。


過去記事でも何度も話題にしました。


例えば、2021年の記事。


桃の節句、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 


お手伝いしている教育相談ボランティアのブログに、こんな記事を投稿しました。我ながら気に入っているので、恥ずかしながら転載させていただきます。

アッという間に3月です。
そして今日は3月3日、桃の節句。
かわいいひな人形を愛おしみつつ、雛あられを喜んで食べている女の子たちが、真にジェンダーフリーの世の中で輝くことができますように、、、。
そういえば、今日は、「人間平等」を宣言した「水平社」創立の日でもありました。




 


そうでした。水平社創立記念日でした。


「水平社一〇〇周年」を記念して、昨年11月に、こんな企画が催されました。


 


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続いて、その第2弾が昨日催されました。


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私自身は都合が合わなくて、鑑賞できませんでしたが、好評であったようです。


上述の「お手伝いしている教育相談ボランティア」の相談員の一人、H女史とも、つい先日、この映画会を話題にしたばかりでした。と言うのも、彼女は退職同業者という縁もあって、いつも四方山の歓談に花が咲くですが、ほぼ同世代(少し彼女が若い)なので、青春期にこの映画に強い印象を受けた共通の経験をもち、また大学は異なるのですが、共に「部落問題・社会問題・同和教育」の研究サークルに携わっていた共通体験からも、話が弾むのでした。




   というわけで、今日は、芋づる式に思い出された記憶を、とりとめもなくたどってみたいと思います。    


前回(3月1日付)の記事にで触れた槙村浩については、こんな記事も書いています。



文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。

     
児玉由紀恵記者

     
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。      
(中略)     
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。 (後略)  

  
(2012年06月24日,「赤旗」

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。


防災の日に寄せて、の巻(2015-09-01)

この「大雨の中を嬉しき宅急便」(2013-09-04)の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学したての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。




「橋のない川」にまつわる記事は、ほかにも何度か書きました。


防災の日に寄せて、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2015-09-01)


住井すゑさんの代表作「橋のない川」(新潮社)のハードカバー版が手元にあります。その第六部を手に取り、奥付を見ると、「昭和四十八年十一月十日印刷、十一月十五日発行、定価五百円」とあります。時代を感じさせられます。
「橋のない川」は、ご存じのように「部落問題」(同和問題)を正面から扱った小説で、高校時代に、島崎藤村の「破戒」などとともに、教師や、意識を持った級友などからも薦められた作品でした。
しかし、何につけても、人に薦められたものを、素直に受け入れることのない私ですので、なかなか読もうということにはなりませんでした。
そんなとき、今井正監督作品の映画「橋のない川」(第一部)が「ほるぷ映画」により制作され(1969年だそうですね。)、全国上映がすすめられました。学校近くの映画館(当時は、こんな田舎にまで映画文化が根づいていました)で上映されたものを、学校行事の一環として全校生徒で鑑賞する機会がありました。
当時、私の通う高校でも、比較的熱心に取り組まれていた「民主教育」の一環として行われたものでした。
この映画鑑賞の前後にも、ホームルームでの学習や話し合いなどが行われたと思います。この課題に限らず、いろいろな人権問題、平和問題、社会問題、当時ホットな「沖縄返還」問題など、多彩な問題をテーマに、高校生自身の身の丈での「時事討論」なども、頻繁に行われていました。
HRの時間内におさまらず、次の授業の教科担任に、授業の時間をくださいと無謀なお願いに行き、認めてもらったこともありました。「牧歌的」「純真」「初心(ウブ)」「世間知らず」と、いろいろに批評されるかも知れませんが、同じ時代を生きる者同士としての信頼感が、生徒と教師、生徒同士の間に、確かに存在していた時代ではなかったかと思います。
私などは、ほかの級友達に比べても、自覚も薄く、気づきも遅い方でしたので、幼稚な、短絡的な、自分本位の、時には人を傷つけかねない意見などもよく口にしたものでした。しかし、それを、客観的・冷静にたしなめる意見をくれる級友もいて、ずっと後になってじわりと納得させられることもよくありました。
思えば、今では考えられないほど、伸びやかな、そして大らかな高校生時代だったかも知れません。もちろん、追憶特有の美化を含んでいることは間違いなく、それにふさわしく割り引いて考える必要はあるでしょうけれど。

(注 )   当時、岡山県では、古い身分遺制に起因する半封建的な差別の解消をテーマとする教育を、「同和教育」とは呼ばずに、「民主教育」と呼称していました。「民主主義教育の一環としての民主教育」という位置づけでした。これは今も通用する的確な認識だったと思います。
ところが、岡山県教育委員会は、1983年、県下の教育関係機関あてに突如通達を発し、1950年以来続いてきたこの「民主教育」 の名称を、「同和教育」 に変更しました。(現在は、「人権教育」の呼称を使用)。
水面下では、一部運動団体の動きや政治的圧力があったようですが、現場にとっては寝耳に水の出来事でした。
全国的には、「同和教育」の呼称は問題ありとして「解放教育」と唱えるべきだとする立場の人びとが、岡山では「同和教育」の名称を強く求めて来たようです。ここからも問題は「名称」そのものではなく、行政を「屈服」させて、自己の方針・見解を思うがママに採用させる点に狙いがあったものと思われます。
この無理強いの「名称変更」問題は、教育の中でことさらに、「部落問題(同和問題)」の課題を肥大化させることにつながり、いろいろな差別問題や人権課題に優先させて特別視するものだという批判や懸念を呼び、実際に、少なからぬ混乱を教育の現場に引き起こしました。
「最大の人権問題」「一番重大な差別」「最も重要な教育上の課題」「人権問題の柱」が存在するということは、とりもなおさず、子ども達が直面する切実な人権問題のなかに、自ずと、「一番大事とは言えない」、「二の次に回してもよい」、「柱ではない」ような問題(そんなものがあるの?)を想定することになります。
生徒と教師が、身の回りの切実な人権課題を、わがこととして受け止めて、その発達段階に応じながら、精一杯解決の筋道を探る、また解決の力を身につけるという、優れて自発的・創造的・自己変革的な営みがはぐくまれてきた「民主教育」という場が、ほとんど部落問題(=同和問題)にのみターゲットを絞った、しかも、いわば、あらかじめ定められた模範解答の習得に重きを置いた、「対策的」な「心がけ教育」の色合いが濃くなりました。
人権課題のテーマを並べて、子ども達に、優先順位をつけさせるといった、大まじめな「実践報告」まで目にする始末でした。
一般に、「特別扱い」がまかり通る空間では、必ず言動に不自然な慮りや制約がつきまとい、それゆえ、自由な、本心からの「納得」が阻まれるという事態が起こりがちです。
教育現場では、「上から」示される、この方針への受け止め態度が、その教員の「従順度」「真面目度」をはかる指標ともされ、何かと窮屈な空気が、職場に流れたのも事実でした。
このような、無理強いの方策が長続きするはずもありませんし、しかも、本来、封建制の残りカスである身分遺制にもとづく部落問題(同和問題)は、社会の民主主義の成熟の度合いに伴って、解消の方向に進むのが自然です。すでに、「混住(=旧「同和地区」への、他地域からの人口流入や、またその逆の現象により、地区内外の隔てが薄らいできている)」、「通婚(つうこん)(=旧「同和地区」出身者と、地区外出身者との、隔てのない婚姻)」などが大きく進行するもとで、かつての部落問題(同和問題)の痕跡すら、大きく薄らいいる現況では、「(地区の子ども達は)依然として厳しい差別にさらされている」というテーゼ自体、現実味を失ってきています。
そのようなわけで、すったもんだの挙げ句に強制された「同和教育」の呼称は、今は、素知らぬ顔で「人権教育」に改称され、まずまずのおさまりどころにおさまっているといえます。
しかし、この経緯の中で、失われたものは、どんなに大きかったかと、秘かに思っているのは、私だけでしょうか?

ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いています)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は、雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。
いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
映画「橋のない川」(第一部)については、過去の、
「大雨の中を嬉しき宅急便」や、「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」などの記事で、話題にしました。


別の角度から書いた記事もあります・・・。


世の愁い燃やし尽くすや西の空:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2015-09-08)


先日話題にした今井正監督「橋のない川」(第一部)の1シーンに、こんな場面があったような気がします。
北林谷栄演じる老婆、畑中ぬいが、地主の元に小作米を収めての帰り道、空になった大八車(荷車)に乗るよう嫁のふでに勧められ、寛いで後ろ向きに腰を下ろした彼女の目に、みごとな夕焼けで西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。
「見てみい。おふで。あの向こうが西方浄土ゆうてなあ、お釈迦はんが住んではるところやで。あそこには、差別も貧乏もないのやで。この世で、どんなに辛くても、辛抱して、お釈迦はんにおすがりしとったら、あそこへ行けるんやで。」
というようなことを、しみじみ語る場面。まことにあやふやなうろ覚えで、正確なところは確かめるいとまがありませんし、住井すゑさんお原作も斜め読みに当たってみましたが、見あたりません。でも私の記憶の中では、印象的な場面なのです。
前にも書きましたが、映画「橋のない川」(第一部)は、モノクロ映像がずーっと続きます。ですから、この「西方浄土」を眺めやる場面も、実際はモノクロ映像だったのでしょうが、私の脳裏には鮮やかな紅い夕焼けの映像が刻まれています。
ところで、この映画、ラストシーンの一瞬、カラーに変わります。(「パートカラー」と呼ばれるそうです)。そのラストシーンは、小森の村の人達が歩いているシルエットを包んで、夕日が空一面を真っ赤に染める、鮮烈な映像でした。
空腹の弟のために豆を炊こうとした永井武は、失火により村を焼く火事を起こします。在所の消防団は、「小森」が被差別部落であるゆえに、消火しようとせず、
火事を放置します。失火をとがめられた武はその夜自殺してしまうのでした(武は、小学校1年生でした)。武の父藤作(一年前の脳溢血による半身不随からリハビリによって復活したばかりの伊藤雄之助さんが演じています)は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うと決心し、娘を遊郭に売った金を、消防ポンプの購入に充てます。村対抗の提灯落し競争で、その新しい消防ポンプにより「小森」が優勝しますが、それを承認したくない他地区の連中により、優勝旗を焼かれてしまいます。
堪え難い憤懣を抑えながら、村に向かって歩む小森の人々を、夕焼けが包むなか、画面には、1927年(大正十一年)三月三日、全国水平社が結成された旨、テロップが流れます。。
「水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」


 夕焼けつながりで、話題が飛んで次回に続きます。


 


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