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3月1日に寄せて、の巻 [今日の暦]

3月1日にちなんだ記事を、過去何回か書いています。


まずは10年前の記事。


60年目のビキニデ-:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2014-03-01)


以前、東京都江東区東陽町というところに住んでいたことがありました。
長男が3歳、長女が1歳、次男はまだ生まれていませんでした。地下鉄東西線が、私の通勤電車でした。
先日も、家族で話題になりましたが、「東京ディズニーランド」が千葉県浦安市にできる直前のことでした。その頃、両親は、総武線津田沼駅近辺に住んでいたものですから、東西線や総武線を、幼い子ども連れで、よく電車で通りました。
(中略 )

夢の島公園にも何回か行きました。そうでした。「赤旗まつり」というイベントが、ここで開かれて、子ども連れで出かけたこともありました。

その、夢の島公園の一角に、いまも、「第5福竜丸展示館」があります。
いまから60年前の今日。1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島内・ビキニ環礁で行った水爆実験で、爆心地から150kmほど離れていた所で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の犠牲者は私で最後にして欲しい」という遺言を残して亡くなるなど、痛ましい放射能被害を受けたのでした。

「第五福竜丸」は、水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて「はやぶさ丸」として東京水産大学で使われていましたが、1967年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に廃棄されていたものを発見されて、保存運動が高まり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されています。

(中略 )

ヒロシマ、ナガサキ、ビキニと、3度の核被害を体験した日本人にとって、フクシマの災厄は、悔やんでも悔やみきれませんね。事ここに及んでも、原発再稼働に固執し、他国への売り込みに躍起になり、核武装論の本音もチラリとのぞける、、、どんな「強靱な」神経構造をしていらっしゃるのか、改めて感心しますし、真底身震いを禁じ得ません。

実のところは、単に想像力が乏しいだけなのでは?と、疑っているのですがね。


次はその翌年の記事。


槙村浩と三月一日:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-03-01)


今日から3月。

「弥生」の声を聞くと春が遠くないことを感じます。

(中略)

ところで、去年の3月1日の記事は、これ。1954年(昭和29)の今日、 マーシャル諸島のビキニ環礁で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」などが、アメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びて無線長の久保山愛吉さんが亡くなるなどの被害を受けた「ビキニデー」の話題でした。

3月1日にまつわるもう一つの歴史的事件は、 「三・一運動」または「三・一事件」、「三・一独立運動」、「万歳事件」とも呼ばれる出来事。
この事件に対する日本国内の反応は、概して植民地支配を是とする立場からの一面的なもの立ったようです。

ウィキペディアの記事をお借りしますと、こうあります。

発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。
 

そんな中にあって、民族の独立と国際連帯、平和・民主主義を希求する立場から、この運動を高らかに歌いあげた日本の詩人がいました。

つい最近もこの記事などで話題にした、高知の革命詩人槙村浩(まきむらこう)が、その人です。

彼は、その代表作「間島パルチザンの歌」の中で、独立運動に立ち上がった若い姉弟に仮託して、こう歌っています。

おゝ三月一日!
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!


 


翌年にはこの記事を書きました。


里村欣三は日生の生まれ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2016-03-01)


槙村浩については↓これらの記事でも話題にしました。

●懐かしき便り嬉しき聖夜かな

●多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
上記の記事中紹介した槙村浩の略歴を、再掲します。

(中略)      
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。

故郷の中学校を放校になった槙村が、岡山の私立関西中学(現在の私立関西高校)の転校し、そこを卒業したことは、岡山在住の私にとっては奇しき縁です。
昨日の日生への旅で、その関西中学に縁のある人名を目にしたのは、またまた奇しき縁でした。
その人名とは、プロレタリア作家の里村欣三(さとむらきんぞう)です。
昨日の記事でも紹介しました備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料のプリントに、里村欣三の略歴がありました。

(中略)
大正7年地元の福河小学校を卒業すると家族の強い希望で幼年士官学校を受験するが、白紙答案を出し入学を拒否する。そして岡山市関西中学校へ進学。4年の時に有名な関中ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器庫を開放、学生を武装させ学校に立てこもった。警官隊が出動し解散となったが、首謀者二享ら3名は退校処分に。金川中学校に転校するも日々図書館通いですぐに退校。その後出郷し、郵便配達、電車の車掌等を転々とする。
徴兵年齢に達したことから姫路歩兵連隊に入営するが、自殺を装い脱走。満州へ渡り、里村欣三を名乗って各地を放浪する。大正12年帰国し文筆活動に入り、「世論と電車罷業」「真夏の夜と昼」を「文芸戦線」に発表。続いて発表した深川の貧民窟のルポルタージュ 「富川町から」で文壇の注目を集める。
(中略)
大正I4年プロレタリア文芸連盟の創設に参加、「苦力頭の表情」でプロレタリア作家としての地位を確立したが、厳しい左翼弾圧と自分の経歴を隠すため、官警の目を逃れ常に家を転々としながら、活発な作家借動を展開した。
昭和I0年、子女の学齢のこともあり、徴兵を忌避し逃亡していることを自首して出て裁判となったが、家族が失綜宣告で戸籍から抹消しており、「戸籍のない者(幽霊)は裁判出来ない」との判決で、姫路師団に3ケ月人隊する。
(中略)
太平洋戦争勃発後は陸軍報道班員として井伏鱒二・海音寺潮五郎らとボルネオ・マレー・華北・フィリピンにと戦線を駆け巡り、その間数十編を越すレポート・小説を書き続けた。

彼がプロレタリア作家として注目を浴びた、代表作とも言える「苦力頭(クーリーがしら)の表情」を再読しようと、手許にある「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」を久しぶりにひもといてみました。


思い出しついでに、こんな記事も再掲しておきます。上の記事に続く一連の話題の一つとして書きました。


ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2016-03-04)


日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数首載せられています。

(中略)

現代日本文学大系39巻は島木赤彦や木下利玄らと並んで土屋文明が取り上げられています。折り込み附録として添えられた「月報」に、諏訪高女校長時代のエピソードを、文芸評論家臼井吉見がこう書いています。

諏訪高女の校長のとき、上級生の平林たい子が修学旅行をすっぽかして、堺枯川を訪ねて上京するという事件があった。当時として普通の校長なら、おびえうろたえて、退学を申し渡すところだろう。この日文明校長は、たい子を呼びつけて、「おやじが三味線弾いて、娘が踊るか、よし、帰れ!」と一言あびせただけですんだという。これほたい子自身から聞いた話である。

(中略)               

平林たい子の同級生伊藤千代子は、のちに非合法運動に関係して捕えられ、獄から松沢病院へ移されて、そこで死んだ。のちに歌人土屋文明は彼女の出身校の東京女子大を訪ねた折、次のような歌を作っている。

高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

  こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ      

こうした思いは、文明の胸底にいよいよ烈々と伝わっている

(後略)

前述『六月風』に所収の、「某日某学園にて」と題する一連の作品には、上記の2首のほかこんな歌が収められています。

語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに

思想的には、伊藤千代子の抱いたマルクス主義・社会主義とは距離のある、自由主義・リベラリズムの立場でしたが、官憲の非道な弾圧と、ファシズムの暴虐にたいして、静かな鋭い告発を投げかけていて、心打たれます。


伊藤千代子についての詳しい紹介は、こちらのサイトを参照させていただきました。伊藤千代子の生涯 (tiyoko-17.org)




ついでのついでですが、先日(2/26付)の「しんぶん赤旗」の記事の一部を引用させていただきます。

と言うか、この新聞記事に触発されて過去ブログを思い出したのが、実際の順序です。

戦前の日本共産党員、伊藤千代子さんについて

長野懇談会 志位議長が語る

写真

(写真)伊藤千代子

日本共産党の志位和夫議長は24日、長野県上田市で開かれた「日本の真ん中から志位さんと希望を語るわくわく懇談会in信州」で、同県諏訪市出身で、戦前、天皇絶対の専制政治の迫害で命を落とした日本共産党員、伊藤千代子さん(1905~29年)について語りました。その部分を紹介します。

天皇絶対の専制政治のもとでの不屈のたたかい

戦前の日本は、天皇絶対の専制政治の国でした。日本共産党は「国賊」「非国民」と迫害されました。悪いことをやったからではないのです。命がけで「国民主権」の国をつくろう、「侵略戦争反対」と主張したために迫害されたのです。

多くの先輩たちが迫害で命を落としました。『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二、経済学者の野呂栄太郎も、迫害と拷問で命を落とした日本共産党員であります。

この長野県上田市出身の日本共産党員に川合義虎さん(1902~23年)がいます。日本共産青年同盟の初代委員長をつとめました。彼は、関東大震災の時に懸命の救援活動をやるのです。そこで憲兵隊につかまって無残に虐殺されました(亀戸事件)。21歳です。上田市にはそういう大先輩がいることを、まずご紹介したいと思います。

豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱

迫害で命を落とした先輩たちのなかには多くの若い女性党員もいました。その一人として、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)出身の伊藤千代子さんについてお話をさせていただきたいと思います。

千代子さんは諏訪高等女学校で学び、歌人として大きな足跡を残した土屋文明さん(1890~1990年)が校長をつとめた自由な雰囲気のもと、情熱的に書物を読み、豊かな知性と感性を身につけていきます。その後2年間の小学校の代用教員をへて、仙台の尚綗(しょうけい)女学校に進み、東京女子大学に編入します。そこで社会科学研究会を結成し、マルクス、エンゲルスの古典などを熱心に読んでいくのです。たいへん豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱を持った女性だったと伝えられます。そのなかで日本共産党に入党し、党中央の事務局で党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事にとりくみました。

千代子さんは、1928年3月15日の大弾圧で検挙されます。ひどい拷問を受けました。市ケ谷刑務所の待遇は不衛生で非人間的なものでした。さらに信頼していた夫が、天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加する。検事は、毎日、千代子さんを呼び出して、夫の主張への同調を迫りますが、彼女はきっぱり拒否してがんばるのです。しかし衰弱がすすみ、29年9月、亡くなりました。24歳でした。

「こころざしつつたふれし少女よ」

よく知られていることですが、歌人として大きな業績を残した土屋文明さんは、諏訪高等女学校時代の千代子さんの恩師でした。千代子さんに対してたいへんに強い印象をもっていて、1935年、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して6首の短歌を詠みます。そのなかに、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」という短歌があることはご存じの方も多いと思います。

1935年といいましたら侵略戦争と暗黒政治の真っただ中で、その時代に、伊藤千代子さんについてこのようにうたった土屋文明さんは、ほんとうに立派な方だと思いますが、恩師の魂をゆさぶらずにはおかなかった生き方を千代子さんはしたのだと思います。

獄中で迫害を受けながら、仲間を励まし続けて

獄中で千代子さんは、ひどい迫害を受けながら、仲間を励まし続けました。東京女子大の社会科学研究会で千代子さんの後輩だった塩澤富美子さん(1907~91)という方がいらっしゃいます。塩澤さんは、野呂栄太郎と結婚し、つらい戦前を生きのびて、戦後、医師・作家として活動し、野呂栄太郎の業績を今日に伝える仕事をされた方であります。

塩澤さんも市ケ谷刑務所に送られ、そこで千代子さんと出会います。塩澤さんが入れられた監房の外から彼女の名前を呼ぶ声がしたので、獄窓から外をみおろすと、千代子さんが、監獄の庭で、塩澤さんのいる監獄の窓を向いてほほえんで立っていました。千代子さんが、「元気? 今何を勉強しているの、『資本論』は4月まで入ったのに今度禁止になってしまったの」と声をかけたとたんに、看守が制止して、千代子さんを連れ去った。それが、千代子さんの姿を垣間見た最後だったと塩澤さんは回想しています。

塩澤さんは、千代子さんへの強い思いを胸に抱いて、戦後ずっと生きていくわけですが、1979年、千代子さんが亡くなってからちょうど50年後に、「追憶」と題する歌を詠みつづっています。これを読んで、たいへんに胸を打たれました。一部を紹介したいと思います。

市ケ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり
花の下に佇(たたず)みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後となりぬ
きみにより初めて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく
ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る
身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二四歳
君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ

50年後に、この歌を詠むのです。

93歳の土屋文明さんが書きつづった歌

写真

(写真)土屋文明の色紙「伊藤千代子がこと」

戦後、塩澤さんは、土屋文明さんのもとを訪ねています。そこで塩澤さんは、文明さんに、千代子さんはこういうがんばりをしたと話すのです。千代子さんの実像を知った文明さんが、塩澤さんの願いにこたえて、1983年のことなのですが、当時、93歳、やや利かなくなった腕をふるわせながら、こん身の力を込めて、新たな歌を詠む心境で書きつづったと言われるのが、3首の歌でした。

これは文明さんの直筆で3首の歌が書かれた色紙――わが党の党史資料室に保管されているものの写しです。歌題は、「某日某学園」ではなく「伊藤千代子がこと」になっています。

土屋文明さんが、暗い時代に千代子さんをうたい、93歳にしてこうした歌を書きつづった。これは日本の近代文学史の光彩ある1ページではないかと思います。土屋文明さんという大きな歌人、あるいは塩澤富美子さんのような後に続いた人々に、本当に鮮烈な感動を与えた生き方を貫いたのが伊藤千代子さんだったということを紹介したいと思います。

身をていして訴えた主張は、日本国憲法に実った

伊藤千代子さんなど私たちの先輩たちが身をていして訴えた主張は、戦後の日本国憲法に実りました。「主権在民」が書き込まれました。基本的人権、恒久平和主義も明記されました。


今朝の散歩は雨の名残が残っていました。


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カワヅザクラがようやくほころび始めています。


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気温は余り上がりませんが、昼前には、日射しが出てきましたので、カワヅザクラが沢山植栽されている阿部池の畔を訪ねてみました。


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カワラヒワの群れが、さえずりながら樹上で活発に動き回っています。


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芦原の小鳥は、オオジュリンでしょうか?


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今日はこれにて。


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