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生徒に話したベトナムへの旅、の巻(3) [私の切り抜き帳]

【資料4】ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?
ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 講談社 アレン・ネルソンISBN4062119048

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

  • 作者: アレン・ネルソン
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/03/12
  • メディア: 文庫
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

  • 作者: 三枝義浩
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/12/29
  • メディア: Kindle版
戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: 単行本

死体のにおい、戦場の音・・・・・・
戦争の本質は今も昔も変わらない。

「ミスター・ネルソン」
女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐに見つめると、たずねました。
わたしにとって運命的な質問でした。
「あなたは、人を殺しましたか?」
だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。
わたしの体はこわばり、重くなり、教室の床にめりこんで
いくような気がしました。
(本文より)

★ベトナム戦争を知らない読者のために★
世界地図を広げたら、まず、あなたの国、日本をさがし、
そして東京を指さしてみましょう。そこから南西へ、つまり
左下へ指を少しずつ動かしていくと、沖縄の島々を見つけることができます。
それからさらに左下へと指を動かせば、東シナ海をわたって、
あたなの指は大きな半島の、海に面した南北に細長い国にたどりつくことでしょう。
それがベトナムです。
二十世紀の中ほどから、ベトナムではさまざまな戦乱が続き、
それは一九四九年、ついにベトナムを北と南の二つの国に分断
してしまいました。一九六十年代にはいると、アメリカ合衆国が
ベトナムの戦乱に介入をはじめました。アメリカ軍は南政府軍とともに、
ベトコンとよばれる反政府軍のゲリラ兵たちを敵として戦ったのです。
一九七五年、南ベトナム政府がなくなり、アメリカ軍が完全撤退するまで、
この熱帯のジャングルを舞台にした悲惨な戦乱は続きました。
それがベトナム戦争です。
あなたはもう生まれていたでしょうか?
それとも、まだ生まれていなかったでしょうか?
いずれにしても、戦争の本質は、今も昔も変わりません。
ほんとうの戦争は無慈悲で残虐でおろかで、そして無意味です。

目次
1「あなたは、人を殺しましたか?」
2 わたしが海兵隊に入ったわけ
3 沖縄での一か月
4 ほんとうの戦場、ベトナムへ
5 これが戦争の現実
6 わたしを変えた体験
7 もう殺したくない
8 それからの戦い
子どもたちの感想より



【資料5の①】
ソンミの虐殺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベトコンの拠点とされる民家を焼き払うアメリカ軍兵士ソンミの虐殺(英:Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。


1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のウィリアム・カリー中尉率いる部隊(第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊)が南ベトナム・中南沿海地方 クアンガイ省のソンミ村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺。当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にアメリカの雑誌「ニューヨーカー」のセイモア・ハーシュ記者がこの事件を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。


なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー中尉自身もその後懲役10年に減刑された上、1974年3月には仮釈放されたため、この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。


【資料5の②】  パンフレット「ソンミ村を振り返る」より
コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。


同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。   [右の写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール]
この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。


トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第Ⅱ小隊と第Ⅲ小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー中尉の率いる第Ⅰ小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」
            (中略)


メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。


メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。


トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。
――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。
――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。
しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。(以下略)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/A%20look%20back%20upon%20Son%20My.htm


【資料6-①】シンガーソングライター:横井久美子さんのホームページよりhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm)
■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間


昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


  【資料6-②】 戦車は動けない【作詞】門倉 訣【作曲】青山義久
(省略)



 



横井久美子歌手グランドフィナーレ: 歌にありがとう

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  • 作者: 横井 久美子
  • 出版社/メーカー: 一葉社
  • 発売日: 2021/06/08
  • メディア: 単行本



戦車は動けない

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  • 出版社/メーカー: ONGAKUCENTER
  • 発売日: 2011/09/07
  • メディア: MP3 ダウンロード



  【資料7】辺見庸「いまここに或ることの恥」より
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)


   著者紹介
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』文学
辺見 庸(へんみ よう、1944年9月27日 - )は、日本の小説家、ジャーナリスト。


本名、辺見秀逸。宮城県石巻市出身。宮城県石巻高等学校、早稲田大学第二文学部卒業。共同通信社記者を経て作家に。1991年、『自動起床装置』で、第105回芥川賞受賞。


『もの食う人びと』で、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限的な生の中の食を扱い、講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。最近は、テロリズムとの戦いをテーマに活発な論陣を張っている。2004年には講演中に脳出血で倒れたが、1年ほどの療養の後、2006年には『自分自身への審問』を復帰作として上梓した。
[編集] 主な著書
『自動起床装置』 『ハノイ挽歌』 『赤い橋の下のぬるい水』 :今村昌平監督で映画化 『不安の世紀から』 『ゆで卵』 『もの食う人びと』(共同通信社1994年 ISBN 4-7641-0324-9、角川文庫1997年 ISBN 4-04-341701-2) 『屈せざる者たち』 『眼の探索』 『反逆する風景』(講談社1995年) 『夜と女と毛沢東』(吉本隆明・辺見庸対談) 『単独発言』(角川書店2001年) 『永遠の不服従のために』 『抵抗論』(毎日新聞社2004年) 『自分自身への審問』 『


いまここに在ることの恥 (角川文庫)

いまここに在ることの恥 (角川文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: 文庫


』(毎日新聞社)


 


【資料8】
原点その1「教え子を戦場に送るな」

1952年(ちょうど私の生まれた年)、高知県教組機関誌「るねさんす」に、当時の青年教師竹本源治さんが、「戦死せる教え児よ」と題する詩を発表しています。


戦死せる教え子よ 竹本源治
「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/慚愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/繰り返さぬぞ絶対に!」


この詩がウイーンの第一回世界教員会議で紹介された時、これを聞いた人々は、国の違いを越えて、ハンカチで顔をおおい嗚咽したといいます。「教え子を戦場に送らない」これが、戦後教職員運動の原点であり、万国普遍の教師の誓いであったわけです。
ところで5月20日付山陽新聞に、イラク人捕虜へのおぞましい虐待に加わった7人のアメリカ人兵士が、顔写真入りで紹介されています。


捕虜虐待に関わったとされる兵士
ジェレミー・シビッツ技術兵(24)
ペンシルベニア州出身。軍用車両の修理が専門、全裸のイラク人収容者がピラミッド状に折り重なった虐待写真を撮影したなどの疑い。
ジャバル・デービス3等軍曹 (26)
メリーランド州出身。高校時代は陸上競技のスター選手。信仰心の厚いキリスト教徒との証言もある。収容所の手や足を踏みつけるなど6件の虐待に加担した疑い。
リンディ・イングランド上等兵(21)
ウェストバージニア州出身。高校卒業後気象学者を志し、大学で勉強するための補助がえられる軍に入隊。全裸の収容者の首に巻いたひもをひいたり、くわえたばこで全裸の収容者を指さす写真が世界中のメディアで報道され、虐待事件の”象徴的存在”に。
サブリナ・ハーマン技術兵(26)
バージニア州出身。ピザの宅配などをやりながら、大学入学を目指して入隊。全裸の収容者がピラミッド状に折り重なった背後で、グレーナー技術兵と笑っている写真が報じられた。 (以下略)
侵略者のおごりの上に立った卑劣な行為に憤りをおぼえながらも、一面では、戦争さえなかったら、まばゆいほどの才能と一途な向上心にあふれた、頼もしい若者として、家族からも周囲からも、愛と誇りをもって遇されたはずの彼らが、いま、みじめな後悔に身を灼いていることに対して、内心、痛ましさをも禁じ得ないのです。
収容所からの連想で、映画「シンドラーのリスト」の中の、「戦争というものは、欠点ばかりを増幅させるものだ。」という言葉を思い浮かべずにはいられません。子どもの健やかな発達という意味からも、子どもを戦場に、とりわけ侵略の戦場に送らない誓いを新たにしたいのであります。


長くなりますので、続きは次回といたします。


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生徒に話したベトナムへの旅、の巻(2) [私の切り抜き帳]

前回記事の続きです。


【資料3】枯葉作戦とは何だったのか 北海道AALA副理事長 鈴木 頌 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/ippnw/defoliate.htm
アメリカにとって史上最大の戦争
ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。
現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。
この戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。
アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。


最初はケネディの時代から
アメリカはベトナム解放を阻止するため、61年には介入を開始していました。それが本格化するのは63年になってからです。しかし枯葉作戦はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。
そもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、食料としては使えなくすることを目的としていました。
散布された農薬はエージェントと呼ばれました。オレンジ、ホワイト、ブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、成長や代謝を阻害するものです。2・4-D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5-T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物がエージェント・オレンジと呼ばれました。ホワイトは、2・4-Dと4-アミノ-3・5・6-トリクロロピコリン酸の混合物です。このうち特に大量に使用されたのがオレンジ・エージェントでした。
稲などにはブルーが用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をはかります。


通常、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。これにF-4ファントムが護衛の任につくこともありました。現場上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから除草剤を森林に噴霧します。こうして1ヘクタールあたり27リットルの除草剤が撒かれていきました。
散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。こうして、通常の10倍もの濃度を持つ除草剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。
作戦全体に投入された薬剤は72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及んだといわれます。
散布面積の合計は、170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。
対象の大部分は密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争中期には、「ホーチンミン・ルート」周辺の密林を破壊する、もっとも大規模な特別作戦が企てられました。


ダイオキシンとは何か?
正式名称は、ポリ塩化ダイベンゾダイオキシンといい、化学構造は、2個の亀の甲が2個の酸素で結ばれ、亀の甲の残りの炭素にどのように塩素が結合するかによって、理論的には75種の同族が存在し、塩素の結合のしかたによって、毒性は千差万別です。
その中では、2,3,7,8-ダイオキシンの毒性が最強です。この他に、コプラナーPCBと、ジベンゾフランも毒性が強く、これらはダイオキシン類として同等に扱われています。
1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。またベトナム戦争で、アメリカ軍が撒いた枯葉剤にダイオキシンが混入していて、流産や奇形の発生が多いことが報道され、史上最悪の毒物として有名になりました。
ちなみに、ダイオキシンの毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれています。またサリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシン類は1300℃の超高温でしか高速分解しません。


ダイオキシンは何が問題か?
ダイオキシンの1日の摂取許容量は、農薬の100万分の1です。つまりダイオキシン類の毒性は農薬より100万倍強いのです。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素、遺伝子や染色体に作用する結果、健康が害されます。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。
これに対しダイオキシンは、細胞質内のリセプターと呼ばれる物質と結合した後、遺伝子の特定部分と結合し、いろいろな遺伝子を活性化させます。そのために酵素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などが起こります。この作用は極微量のダイオキシンで起こすことが出来ます。


ベトナム戦争におけるダイオキシン被害
1962~1965年に使用されたエージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。総量170kgと考えられています。
枯葉剤の撒かれた地区と、枯葉剤を扱った兵士とのあいだで子供を作ろうとした1545人の妻を対象にしたダイオキシン被害の調査結果を掲げます。
ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果
      先 天 異 常散布前(A)散布後(B)B/A
       流産 ルンフー村5.22 %12.20 %2.3 倍
      ルンファ村4.31 %11.57 %2.7 倍
      タンディエン村7.18 %16.05 %2.2 倍
      奇形児0.14 %1.78 %12.7 倍


出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)
ベトナム戦争参加アメリカ兵士の妻を対象とした先天異常発生調査結果
      先天異常発 生 率B/A
       対照群(A)さらされた群(B)
      不 妊1.20 %2.80 %2.3 倍
      早 産0.61 %2.01 %3.3 倍
      流 産9.04 %14.42 %1.6 倍
      奇 形 児0.21 %3.14 %15.0 倍


枯葉剤散布地区では、流産が枯葉剤散布前に比べ2.2~2.7倍に、奇形は約13倍になっています。また、ダイオキシンに直接さらされなかったアメリカ兵士の妻までも影響を受けています。これは、ダイオキシンが精子に影響を与えているためです。
この他に、ベトナム帰還兵とその家族には、癌から子供の身体障害にいたる疾病が現われ、原因は枯葉剤に混入していたダイオキシンであると確信されるようになりました。この関係を調査したアメリカ科学アカデミーの1993年の報告書は、ダイオキシンに暴露すると、軟組織腫、非ホジキンリンパ腫、およびホジキン病の3種類の癌になる可能性があるとしています。

【付録】ベトナム戦争とは何だったのか
第二次世界大戦終了直後の1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。
しかしその1月後、旧支配者フランス軍が再侵略し、戦闘に入りました。1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。
1954年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。
ジェム政権は腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていきました。ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していくなかで、1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まりました。
アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られました。
強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。
アメリカ軍は、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒きました。ベトナムでは現在でもその後遺症に苦しむ人々が多数います。
アメリカは、北ベトナムへの空爆も始めました。しかし次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費から、次第に厭戦気分が高まっていきました。
ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。
アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカは軍事援助を続行しました。戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。
北ベトナム軍と解放戦線は反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫りました。こうして1975年4月、ついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されたのです。実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。


長くなりますので、続きは次回といたします。


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生徒に話したベトナムへの旅、の巻(1) [私の切り抜き帳]

20年ほど前のベトナム旅行の記録を探っておりましたら2007年2月15日付で、生徒向けに作ったこんなプリントが見つかりました。「特別授業」の形式で、それぞれの教員が専門教科を離れて講義を行った機会にに、ベトナム旅行の経験を報告したものです。


                            ベトナムへの旅


                                    レジュメ
1 はじめに .「歴史」と私
2 ベトナム略史【資料1】
3. 現代史としての「ベトナム」
・「ベトちゃん」「ドクちゃん」のこと【資料2】
・ベトナム戦争と「枯れ葉作戦」【資料3】
・ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?【資料4】
・高校時代の小品 と ソンミ村【資料5-①、②】
・ベトナム戦争と日本
横井久美子への電子メールと「戦車は動けない」という歌【資料6-①、②】
と 辺見庸【資料7】
と あさのあつこ
4.「歴史」に学ぶ=先人の痛苦の体験を無にしない。【資料8】
5.ベトナムへの旅
「紀要4号」に補筆 【資料9】


【資料1】


ベトナム略史          (インターネット上より拝借)
<B.C.>
2000年 フングエン文化 紅河デルタに栄える
400年 青銅器文化 ドンソン文化が栄える
111年 前漢 ベトナムを占領
<A.D.>
938年 南漢を破る
966年 大瞿越国となる
1054年 国名を大越国とする
1858年 フランスのベトナム侵攻開始
1945年 ベトナム民主共和国独立宣言
1954年 ディエン・ビエン・フーの戦い
ジュネーブ会議で南北に分断
1975年 サイゴン陥落
1976年 南北統一ベトナム社会主義共和国成立
1977年 ベトナム国連加盟
1986年 ドイモイ(刷新)政策発表
1992年 新憲法発布
1994年 アメリカの経済制裁措置解除
1995年 アセアン加盟
アメリカと国交樹立


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枯葉剤の影響
二人が結合双生児として生まれたのは枯葉剤の影響であると言われている。ベトナム戦争においてアメリカ軍は北爆を行ったが、その際ベトコンのゲリラ戦略に対抗する為に枯葉剤を使用した。この枯葉剤には副産物としてジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれていた。その異性体の一種である、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-パラ-ダイオキシンは発ガン性が確認されている。ダイオキシン類は急性毒性と、催奇形性を含む生殖毒性、発がん性の2面性を持ち、国際がん研究機関はすべてのハロゲン化ジベンゾダイオキシン類が発がん性を持つと指定している。またマウスで催奇形性が出ることは実験で確認されているのでヒトにおいても催奇形性が発現すると考えられている。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と同一のものであるため、同じ性質も持ち合わせている。


長くなりますので続きは次回とします。


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続20年前のベトナム訪問記、の巻 [私の切り抜き帳]

年金者組合作品展に出品した写真についてある遺失物、の巻でご紹介しました。ベトナム戦争後も、ベトナムに置き去りにされた米軍戦車の残骸が、記念物として展示されていたものの写真です。


これをきっかけに、古い記憶と記録をたどり、20年程前のベトナム旅行の記事を、初代ブログの方に小分けで掲載してみました。


20年前のベトナム訪問記(1)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-18)~20年前のベトナム訪問記(9)(https://kazsan.blog.ss-blog.jp/2023-08-23


色々過去データを探っているうちに、こんな文章も発掘しました。


この文章は、どう使ったのか?どこかに発表したものかどうかも、記憶が曖昧です。ともあれ、この機会に、アーカイブ化しておくことにします。


ベトナム最後の夜



ベトナム最後の夜は、1000年もの歴史をもつという「水上人形劇」の鑑賞。「水上人形劇」は、ベトナムを代表する民俗芸能のひとつで、湖沼の多いベトナム北部の農村で生まれ、収穫の祭りの時などに屋外の水辺で演じられていたものが、娯楽として宮廷にまで広がったものと言われます。私たちが見学したのは、ハノイ中心部ホアンキエム湖畔の「タンロン水上人形劇」で、主として外国人観光客を相手に毎日演じられているそうです。
  入り口でパンフレットと素朴な扇を貰って、こぎれいな劇場に入ると、客席は西洋系、中国系など多彩な観客で埋まっています。見下ろす位置に張られた水の上を舞台に、民族音楽の演奏をバックに、コミカルに、また優美に、人形達の演技がスケール大きく繰り広げられます。説明はベトナム語で行われますので、詳細はわかりかねますが、一話一話が短くテンポ良く展開することと、人形達の所作や表情がリアルで、農民達の暮らしぶりや伝説・伝承のあらまし程度は彷彿と想像できるので、最後まで舞台に引き込まれ、客席は期せずして、笑い声や歓声に包まれます。
演目は表の通り。


タンロン水上人形劇プログラム

1.祭の旗上げ
2.テウさんのナレーション
3.竜の踊り:4匹の火を噴く竜の共演
4.水牛とフルートを吹く子供
5.田植え作業 
6.カエル採り
7.アヒル農法と狐狩り
8.釣り
9.凱旋帰郷
10.獅子舞
11.不死鳥(鳳凰)の舞い
12.レロイ王、ホアンキエム湖の伝説
13.水遊び
14.ボートレース
15.獅子のボール遊び
16.仙女の舞い
17.(竜,獅子,鳳凰,亀)4匹の共演


プログラム12番「レロイ王、ホアンキエム湖の伝説」は、ハノイ市民の憩いの場ホアンキエム湖にまつわる伝説を題材としています。黎(レ)朝を建国したベトナムの英雄レ・ロイにちなむ、次のような伝説です。15世紀初め、中国明の圧政に耐えかねたレ・ロイは、天から授かった宝剣で明を打ち破り、中国の支配からベトナムを解放します。その後、レ・ロイ王が湖で遊覧していると、突然黄金の亀が出現し、「国が平和になったので、神に宝剣を返して欲しい」と告げて、宝剣を口にくわえて湖底に帰っていったといいます。ホアンキエム(Ho Hoan Kiem)は「還剣湖」の意。湖の名前の由来は、ベトナム建国・独立の誇りと結びついたものでした。


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さて、この旅行後数年経った2006年、11月11日共同通信が次のような記事を配信していました。


18日からアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれるハノイで、観光名所ホアンキエム湖に1匹だけ生息するとされる大きなカメが久々に姿を現し話題を呼んでいる。
ベトナム自然環境保護協会のハー・ディン・ドク教授によると、カメが現れたのは8日午前。湖に浮かぶ小島に約30分はい上がった後、水中に戻ったという。
地元で「偉大なおじいさん」と呼ばれ親しまれているカメは「体長約1・8メートル、重さ約200キロ」とされる。2005年までの15年間で200回目撃され、うち37回は胡錦濤・中国国家主席のベトナム訪問など重要な政治日程と重なった。地元紙は「ベトナムの世界貿易機関(WTO)加盟承認やAPEC開催を祝福しているのでは」と報じている。
ドク教授は「政治イベントとカメ出現を結びつけるのはその人次第」と話している。


今日はここまで。


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