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生徒に話したベトナムへの旅、の巻(3) [私の切り抜き帳]

【資料4】ネルソンさん、あなたは人をころしましたか?
ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 講談社 アレン・ネルソンISBN4062119048

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」 (講談社文庫)

  • 作者: アレン・ネルソン
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/03/12
  • メディア: 文庫
「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」「東京大空襲」 (週刊少年マガジンコミックス)

  • 作者: 三枝義浩
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/12/29
  • メディア: Kindle版
戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

戦場で心が壊れて―元海兵隊員の証言

  • 出版社/メーカー: 新日本出版社
  • 発売日: 2023/08/25
  • メディア: 単行本

死体のにおい、戦場の音・・・・・・
戦争の本質は今も昔も変わらない。

「ミスター・ネルソン」
女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐに見つめると、たずねました。
わたしにとって運命的な質問でした。
「あなたは、人を殺しましたか?」
だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。
わたしの体はこわばり、重くなり、教室の床にめりこんで
いくような気がしました。
(本文より)

★ベトナム戦争を知らない読者のために★
世界地図を広げたら、まず、あなたの国、日本をさがし、
そして東京を指さしてみましょう。そこから南西へ、つまり
左下へ指を少しずつ動かしていくと、沖縄の島々を見つけることができます。
それからさらに左下へと指を動かせば、東シナ海をわたって、
あたなの指は大きな半島の、海に面した南北に細長い国にたどりつくことでしょう。
それがベトナムです。
二十世紀の中ほどから、ベトナムではさまざまな戦乱が続き、
それは一九四九年、ついにベトナムを北と南の二つの国に分断
してしまいました。一九六十年代にはいると、アメリカ合衆国が
ベトナムの戦乱に介入をはじめました。アメリカ軍は南政府軍とともに、
ベトコンとよばれる反政府軍のゲリラ兵たちを敵として戦ったのです。
一九七五年、南ベトナム政府がなくなり、アメリカ軍が完全撤退するまで、
この熱帯のジャングルを舞台にした悲惨な戦乱は続きました。
それがベトナム戦争です。
あなたはもう生まれていたでしょうか?
それとも、まだ生まれていなかったでしょうか?
いずれにしても、戦争の本質は、今も昔も変わりません。
ほんとうの戦争は無慈悲で残虐でおろかで、そして無意味です。

目次
1「あなたは、人を殺しましたか?」
2 わたしが海兵隊に入ったわけ
3 沖縄での一か月
4 ほんとうの戦場、ベトナムへ
5 これが戦争の現実
6 わたしを変えた体験
7 もう殺したくない
8 それからの戦い
子どもたちの感想より



【資料5の①】
ソンミの虐殺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベトコンの拠点とされる民家を焼き払うアメリカ軍兵士ソンミの虐殺(英:Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。


1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のウィリアム・カリー中尉率いる部隊(第23歩兵師団第11軽歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊)が南ベトナム・中南沿海地方 クアンガイ省のソンミ村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺。当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にアメリカの雑誌「ニューヨーカー」のセイモア・ハーシュ記者がこの事件を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。


なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー中尉自身もその後懲役10年に減刑された上、1974年3月には仮釈放されたため、この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。


【資料5の②】  パンフレット「ソンミ村を振り返る」より
コ・ルイ集落では、ヘリから降りたブラボー中隊のある小隊が、ミ・ホイ〔My Hoi〕小集落の中に突入した。米兵はいくつかのグループに分かれると、ことごとくの家と退避壕の中を捜索した。いちばん最初に、まずレ〔Le〕さんの家が捜索された。その家の退避壕には15人の村民が避難していた。米兵がその上に来たとき、8人の村民が外へ出たが、出るそばから射殺され、死体が折り重なった。米兵は壕の中に爆薬を放り込み、残りの全員を殺したが、死体は粉々に粉砕された。別のグループがその隣家、トリン〔Trinh〕さんの家に突進した。トリンさんの8歳になる子どもは、壕から走り出たところを射殺された。口には、まだ朝食のご飯がいっぱい詰まったままだった。米兵たちは、その子を殺したあと、壕の中に爆薬を投入し続け、トリンさんとその子ども3人、ホアさんと彼女の二人の子どもの計7人を殺した。遺体はどれ一つとして満足な呈をなしていなかった。数日前に出産したばかりの女性、ヴォ・チ・マイ〔Vo Thi Mai〕さんは、体が弱っていて壕に入れずにいたが、米兵たちによって裸にされ、死ぬまで強姦された。生後幾日にもならぬ赤ん坊は、その傍らで悲惨な泣き声をあげた。残りの二人の子どもは、壕から外へ呼び出され、射殺された。出産間近かの妊婦、ニョン〔Ngon〕さんも、やはり強姦されたが、そのあと米兵たちは彼女の腹に銃剣を突き刺し、両足で踏んで胎児を突き出させた。遺された3人の子どもたちは、恐怖でその光景に目を開けることも出来ず泣き叫んでいたが、米兵は彼らも射殺した。ヴォ・チ・プー〔Vo Thi Phu〕さんは、赤ん坊に乳を飲ませていたところを射殺された。その児は泣きながらも母親の胸にすがって乳をゆすった。米兵たちは、「ベトコンだ、ベトコンだ」と言いながら、二人の上に藁を放り投げて火を放ち、親子を小屋ともども焼き払った。母親も子どもも完全に焼かれ、手足は縮んでしまったが、赤ん坊の頭骸骨はそれでも母親の遺体の上に乗ったままだった。


同じように、ゴー・チ・ムイ〔Ngo Thi Mui〕とゴー・チ・モット〔Ngo Thi Mot〕の二人の姉妹は、4人の米兵によって壕から引き出され、つぎつぎと輪姦された。そのあと、二人は壕の中に突き落とされ、爆薬が投げ込まれた。こうして二人は、ムイさんの4人の子どもたちとともに殺戮された。ヴォ・マイ〔Vo Mai〕さんの一家では4人が殺された。ヴォ・トアン〔Vo Toan〕さんの退避壕には、6人がいたが、うち、4人が米兵の投げ込んだ爆薬で殺された。グェン・チ・チ〔Nguyen Thi Thi〕さんの退避壕は突き崩され、二人の老人と6人の小さな子どもが殺された。生き残ったのは10歳の子ども一人だけだったが、その子も重傷の状態だった。この小集落に暮らしていた16家族のなかで、7人の老人、12人の婦人、15歳以下の17人のこどもが、ライフルやサブ・マシンガン、爆薬、手榴弾などによって殺されたのだった。   [右の写真:虐殺は直ちに始まった。撮影=ハーバール]
この小集落の家々は完全に焼き尽くされ、樹木は打ち倒され、家具は破壊され、水牛、牛、鶏、あひるは殺された。ごく僅かな間に、全村は死の地域と化した。大部分が老人、女性、子どもの97人が虐殺されたのである。


トゥ・クン〔Tu Cung〕集落では、アーネスト・メディナ大尉に率いられたチャーリー中隊が地上に降りたつや、直ちにトゥアン・イェン〔Thuan Yen〕小集落を包囲した。第Ⅱ小隊と第Ⅲ小隊は、一緒になってすべての道を封鎖、水田の中を突進して、途中出会った人びとを銃撃した。ウィリアム・カリー中尉の率いる第Ⅰ小隊は、まっすぐに村に突入し、なんら武器を持たぬ村民に銃を発射した。米軍側の損傷と言えば、ハーバート・カーターという黒人兵一人だけで、彼は、こうした野蛮な行為に耐えることが出来ず、虐殺に加わらないで済むようにと、自らの足に向けて銃を発射したのだった。カーターが後に語ったところによると、トゥ・クン集落での殺戮は、ヘリコプターが着地し、米兵たちが村の端にある畠に降り立ったときから直ちに始まったという。「田んぼの真ん中で、一人の老人が親しげな顔を見せながら手を振っているのが見えました。が、直後に米兵によって射殺されたんです……。」「村へ向かうまで、一人のベトコンにも会わず、燃える家から飛び出してくる多くの農民たちが米兵によって撃ち倒されるのが見えました。連中の中には、冗談を飛ばし、『あいつは、俺の得点にさせろ』などと叫んでました。」
            (中略)


メディナの下にいた兵士の一人、ジョン・キンチは、虐殺の翌日、兵隊たちは海岸へ出かけ、そこで4人の容疑者を逮捕したと語っている。うち一人は少年だった。4人全員がひどい拷問を受けた。その際、メディナ大尉は、少年の口にぼろきれを押し込むよう命じ、一本の竹に縛り付けた。ついで、大尉は自分の写真を撮らせたが、それは、片方の手で椰子の実を口のところまで持ち上げ、もう片方の手は、ナイフをその少年の咽に当てている姿だった、と。


メディナの中隊が引き揚げたとき、ソンミは火と死の中に沈んでいた。村全体が、火炎と煙におおわれ、血が溝や水田、村の小道に溢れていた。村のいたるところ、燃え尽きた家の土台の上や、崩された退避壕の脇などに、死体が乱雑に横たわっていた。トゥー・クン〔Tu Cung〕集落だけで、その日の朝、米兵によって407人もが殺されたのだった。その大部分は女、老人、子どもだった。全部で24家族が皆殺しになった。特に、トゥアン・イェン〔Thuan Yen〕のはずれにあった溝では、米兵は170人を次々と殺戮したのだった。


トゥアン・イェン小集落のはずれの溝の脇に建てられたソンミの記念館には、この大虐殺の犠牲者のリストが記録された壁があり、こう書かれている。
――虐殺された民間人の総数:504人。うち182人が女性(そのうち17人が妊婦)、173人が子ども(そのうち生後5ヶ月以内のものが56人)、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年の村人である。
――破壊された資産:247戸の家が焼却され、数千の水牛、牛、家禽類が殺戮された。
しかし、以上は、大虐殺の正確の数字ではなかった。他に多くのものが無数の肉体的、精神的傷を受け、それはほとんど快復不可能だった。そのときの大虐殺の影響は、それまでここで平和で静かな暮らしを送ってきていた人々の上に、その後も深く刻み付けられ、苦しめたのである。(以下略)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/A%20look%20back%20upon%20Son%20My.htm


【資料6-①】シンガーソングライター:横井久美子さんのホームページよりhttp://www.asahi-net.or.jp/~FG4K-YKI/tour/t_index.htm)
■第5回、枯葉剤の被害者を支援するツアー&コンサート 横井久美子フエに歌う
2007年5月1日(火)~5月6日(日)6日間


昨年、フエ在住の日本語の先生、リエンさんからメールを頂きました。リエンさんは、1973年、少女の頃、戦争中のハノイの片隅で、拡声器から流れる「戦車は動けない」を聞いて、その歌声に胸を躍らせ、日本語の先生になったということです。その歌を歌った歌手がどうしているか、昨年春、やっとそれが横井久美子だということが判明し、連絡を頂きました。リエンさんからのメールを見て、ベトナムの古都フエに行きリエンさんの前で歌いたいと思いました。歌は時空を超えよみがえり、今また新たなベトナムと日本の交流の力となったのです。枯葉剤のこども達の施設も訪問する予定です。


  【資料6-②】 戦車は動けない【作詞】門倉 訣【作曲】青山義久
(省略)



 



横井久美子歌手グランドフィナーレ: 歌にありがとう

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  • 作者: 横井 久美子
  • 出版社/メーカー: 一葉社
  • 発売日: 2021/06/08
  • メディア: 単行本



戦車は動けない

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  • 出版社/メーカー: ONGAKUCENTER
  • 発売日: 2011/09/07
  • メディア: MP3 ダウンロード



  【資料7】辺見庸「いまここに或ることの恥」より
ベトナム戦争においても、米軍の主要な兵站基地は日本でした。私はそのころ、ある通信社の横浜支局にいました。市長は飛鳥田という人でした。私たちは毎日徹夜しました。なぜかというと、米軍のM48戦車をベトナムに輸送する道路に、学生や労働者や、あるいは普通の生活者たちが、集まって、阻止線を張ったり、バリケードをつくったりしてとめようとしたのです。1972年8月、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられたこともありました。市民らの多くがそれを支持しました。戦車は米陸軍・相模原補給敞から運びだされ、国道を南下し、ノースドックから積み出されて、ベトナムの戦場に送られるものでした。(p116)


   著者紹介
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』文学
辺見 庸(へんみ よう、1944年9月27日 - )は、日本の小説家、ジャーナリスト。


本名、辺見秀逸。宮城県石巻市出身。宮城県石巻高等学校、早稲田大学第二文学部卒業。共同通信社記者を経て作家に。1991年、『自動起床装置』で、第105回芥川賞受賞。


『もの食う人びと』で、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限的な生の中の食を扱い、講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。最近は、テロリズムとの戦いをテーマに活発な論陣を張っている。2004年には講演中に脳出血で倒れたが、1年ほどの療養の後、2006年には『自分自身への審問』を復帰作として上梓した。
[編集] 主な著書
『自動起床装置』 『ハノイ挽歌』 『赤い橋の下のぬるい水』 :今村昌平監督で映画化 『不安の世紀から』 『ゆで卵』 『もの食う人びと』(共同通信社1994年 ISBN 4-7641-0324-9、角川文庫1997年 ISBN 4-04-341701-2) 『屈せざる者たち』 『眼の探索』 『反逆する風景』(講談社1995年) 『夜と女と毛沢東』(吉本隆明・辺見庸対談) 『単独発言』(角川書店2001年) 『永遠の不服従のために』 『抵抗論』(毎日新聞社2004年) 『自分自身への審問』 『


いまここに在ることの恥 (角川文庫)

いまここに在ることの恥 (角川文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: 文庫


』(毎日新聞社)


 


【資料8】
原点その1「教え子を戦場に送るな」

1952年(ちょうど私の生まれた年)、高知県教組機関誌「るねさんす」に、当時の青年教師竹本源治さんが、「戦死せる教え児よ」と題する詩を発表しています。


戦死せる教え子よ 竹本源治
「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において/嗚呼!/『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/慚愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/繰り返さぬぞ絶対に!」


この詩がウイーンの第一回世界教員会議で紹介された時、これを聞いた人々は、国の違いを越えて、ハンカチで顔をおおい嗚咽したといいます。「教え子を戦場に送らない」これが、戦後教職員運動の原点であり、万国普遍の教師の誓いであったわけです。
ところで5月20日付山陽新聞に、イラク人捕虜へのおぞましい虐待に加わった7人のアメリカ人兵士が、顔写真入りで紹介されています。


捕虜虐待に関わったとされる兵士
ジェレミー・シビッツ技術兵(24)
ペンシルベニア州出身。軍用車両の修理が専門、全裸のイラク人収容者がピラミッド状に折り重なった虐待写真を撮影したなどの疑い。
ジャバル・デービス3等軍曹 (26)
メリーランド州出身。高校時代は陸上競技のスター選手。信仰心の厚いキリスト教徒との証言もある。収容所の手や足を踏みつけるなど6件の虐待に加担した疑い。
リンディ・イングランド上等兵(21)
ウェストバージニア州出身。高校卒業後気象学者を志し、大学で勉強するための補助がえられる軍に入隊。全裸の収容者の首に巻いたひもをひいたり、くわえたばこで全裸の収容者を指さす写真が世界中のメディアで報道され、虐待事件の”象徴的存在”に。
サブリナ・ハーマン技術兵(26)
バージニア州出身。ピザの宅配などをやりながら、大学入学を目指して入隊。全裸の収容者がピラミッド状に折り重なった背後で、グレーナー技術兵と笑っている写真が報じられた。 (以下略)
侵略者のおごりの上に立った卑劣な行為に憤りをおぼえながらも、一面では、戦争さえなかったら、まばゆいほどの才能と一途な向上心にあふれた、頼もしい若者として、家族からも周囲からも、愛と誇りをもって遇されたはずの彼らが、いま、みじめな後悔に身を灼いていることに対して、内心、痛ましさをも禁じ得ないのです。
収容所からの連想で、映画「シンドラーのリスト」の中の、「戦争というものは、欠点ばかりを増幅させるものだ。」という言葉を思い浮かべずにはいられません。子どもの健やかな発達という意味からも、子どもを戦場に、とりわけ侵略の戦場に送らない誓いを新たにしたいのであります。


長くなりますので、続きは次回といたします。


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