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閑谷学校の紅葉、の巻(その1) [日録]

昨日の記事に、「紅葉狩りと洒落ようかと、『特別史跡旧閑谷学校』へと向かいました。」と書きました。昨日の記事は、楷の木の話題で終わりましたので、少しは紅葉に触れなければなりません。

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駐車場近くの家屋(廃屋?)が紅葉に覆われていました。

入り口の案内板に紅葉が散り敷いていました。

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目に触れるあちらにもこちらにも、カメラを向けたくなる素材が、ふんだんにあります。今日はそのほんの一端をご紹介します。

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撮影機材は、PENTAXk1MARKⅡ+TAMRON SP 17-50mm f2 8です。


ところで、昨日の記事に引用させていただいた竹内良雄さんの文章に、「岡山県閑谷中学校の昭和8年3月29日付け庶務日誌に、『明石照男氏来校・・・』」と記されており、「この前々日・27日の庶務日誌には、『西薇山先生ノ三十回忌二當ルヲ以テ』令息西虎夫氏とその令息二人の墓参と来校があったことと、『本日ヲ以テ我国ハ国際聯盟ヲ離脱セリ』の一行が記録されていました。」という記述がありました。

西薇山(毅一)については、ウィキペディアにこう紹介されています。

西 毅一(にし きいち、1843年8月11日(天保14年7月16日) - 1904年(明治37年)3月28日)は、明治時代の教育者、政治家。岡山藩士、儒者。字は伯毅、号は薇山[1]。

経歴
岡山藩士霜山氏の子として生まれ、儒者で森田節斎の門人にあたる西後村の養子となる。岡山藩の外交応接方として活躍。明治維新後の1871年(明治4年)に岡山県学校督事となり、学校改革・洋学振興などに努め、岡山県士族の中で中心的な役割を果たした。

岡山県参事や東京上等裁判所判事を歴任した後は自由民権運動に参加し、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選、衆議院議員となる(当選2回)[2]。

晩年は旧岡山藩の閑谷学校の再興を図り、1884年(明治17年)に再興された閑谷学校の初代校長となるが、1904年3月28日に自殺した[注釈 1]。62歳。

閑谷学校資料館の傍らに、大きな碑が建てられています。

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今日はこれにて。


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