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父のこと、の巻 [日録]

リハビリテーション施設に入所していた父が、体調を崩し、2月末から肺炎で入院加療を受けていましたが、3月9日の深夜、息を引き取りました。

コロナ感染による肺炎ではないけれども、痛々しい姿で酸素吸入と点滴をつづけていました。そんな状態のなか、重篤を察してか、病院の特別の計らいで面会の回数も増やしていただき、逝去の前日には、県内に住む長男と長女、その子どもたち(父にとっては曾孫)が、我が家で一堂に会し、リモート面会をすることができました。大阪に住む次男も、LINE「中継」により、父の顔を見ることができました。こもごも父に話しかけると、言葉での応答はなかったものの、こちらの言うことはわかっているらしいという感想を、みんな持ちました。

これで安心したせいでしょうか、翌朝には状態が急変し、連絡を受けて午後直接面会したときにはもう意識がなく、そのまま深夜に静かに永眠した(ようです)。「呼吸が止まりました」の連絡を受けて駆けつけたときには、既に日付をまたいでおり、そこで臨終の時間を医師に告げられたのでした。

容態悪化を告げられたときに、コンタクトを取っていた葬儀社に早速連絡を取り、葬儀前後の万端を依頼し、そのアドバイスのままに、初めての「喪主」体験をなんとかこなすことができました。たまたま御厄介なることにした葬儀社から、「お父様はすで会員になってていただいていますよ」と聞かされ、用意のよさにあきれたほどでした。

残された者たちが慌てふためかなくて済むように、またあれも足りないこれもできなかったと苦い後悔を残さずに済むように、なにくれと『配慮』の行き届いた安らかな退き際でした。

葬儀後も、税や公共料金などの名義変更、引き落とし口座の変更口座の変更届など、郷里の役所や金融機関などを、一度で片付かずにたびたび行ったり来たりする必要があって、ここ数日は、残された老母のもとに寝泊まりしたり、また久しぶりに我が家に帰ったりを繰り返していますが、そんな状態ですので、ブログの管理も閲覧・訪問もままならず、ご無沙汰を重ねております。ご心配いただいた向きもありましょうが、そのような次第ですので、お許しください。

さて、今日の記事は、ちょっと前書きかけていた、亡父関連の話題です。


ずっと以前、公民館講座で受けた「自分史講座」かなにかのの実習のためか、父が書き留めていた文章がありました。父の介護老人保健施設入所を機に、これを、最近冊子化しました。

原稿用紙に書かれていた手書き原稿をもとに、妻が中心に入力作業を行い、私がレイアウトやら目次やら資料挿入やらを施して仕上げ、格安印刷業者に印刷・製本を依頼して、家族プラスアルファに読まれるよう、わずかの部数作りました。これは父の生前にできあがりましたので、コロナのため直接の面会ができない状態の父に郵送しましたが、面映ゆがりながらも、まんざらでもない様子でした。

親戚や縁故のある方々に、生前、読んでいただければとも思っていましたが、それもかなわなくなり、弔問の際にでもお渡しすることにしました。

この自分史は、1927年(昭和2年)の誕生時から、幼少年時代を中心に、1945年(昭和20年)の終戦の頃までの思い出を綴っています。あくまでも個人的な記録に過ぎませんが、歴史の証言という部分もあろうかと感じ、個人情報部分を除いて、ほんの一部を紹介させていただきます。

思い出すこと

―あの頃戦争があった―

幼年の頃

私は、昭和二年五月、朝鮮平安北道江界郡文玉面 玉洞で生まれた。   

父は、徴兵検査の結果甲種合格で、福知山の工兵隊に入隊して、三年間勤務して除隊になり、兵庫県の巡査となる。北朝鮮へ転勤となり、結婚して母を連れて行く。

父三十一歳、母二十六歳の時、私は、今の北朝鮮で生まれた。昭和五年の暮れ、母親の実母が、餅つきをしていて急死したので、母に危篤との電報が来た。

母は、急いで、三歳の私を連れて北朝鮮から帰った。父は、残務があるので、二人だけで内地に帰ったことになる。山陽本線の上郡に着いたら、迎えが来ていて、もう葬式も済んでいた。

ホームで母親が泣き崩れたのを、私は憶えている。母は長女で、迎えに来た叔父はまだ独身であった。

三歳の時、母親の実家に帰ったので、北朝鮮の事はあまり憶えていないが、冬の寒さ、特に屋根からぶら下がっていた「つらら」の太くて長い事、長さが一メートル以上あったのを取って、近所の朝鮮の友達とチャンバラをしたのを憶えている。防寒帽、防寒服で暮らしていた。マイナス何度まで下がっていたのだろうか。

北朝鮮で記憶している味が一つある。それは「松の実」である。たくさんあったのだろうか、おやつによく食べていたので味を憶えている。日本ではなかなか手に入らなかったが、最近は見かける。やはり子どもの頃の味とは変わっていない。なつかしい味である。

遊びでは、友達と三輪車で遊んだこと、また、爆竹をパンパン鳴らしてよく遊んだ。あの独特の火薬の臭いは、今でも、はっきり思い出す。普通の火薬の臭いとは全く違う。

母方の祖母は、四十八歳で急死した。残された祖父は、なかなか厳格な、明治の古武士のような人であった。それでも、私は大事にしてもらった。

叔父は、当時独身で、祖父と二人で精米所をしていた。朝から晩までぬかにまみれて仕事をしていた。そのような所に帰ってしまった母は、女手のない家で家事を手伝っていた。

そのときには、妹がお腹にいた。昭和七年七月、妹が生まれた。産後も、女手がないので家事を頑張っていたが、病気になり寝込んでしまった。父は、一旦帰ってきたが、母の病気が良くならないので、行くことができず、退職してしまった。

そのような引き上げなので、荷物もあまり持って帰っていなかった。体の悪い母を、何時までも置くこともできず、母の実家から父の在所までタクシーで帰ったのを憶えている。

当時、当地には、このあたりでは有名なT医院があった。親戚でもあるので、お世話になった。入院の設備はないが、一戸建ての病室が空いていたので、そこへ入れてもらって手当を受けた。

乳飲み子の妹と私を、祖母が育てくれたことになる。祖母も苦労した人で、祖父は高瀬舟を持っていて、林野から西大寺まで荷物を運び、帰りには、上りではあるが綱を引く人が何人もいて、川岸からその船を引っ張り、竿を持った船頭は、舵を取りながら何日もかけて往復した。

その祖父も病気(肺結核らしい)で、四十三歳の若さで死去した。祖母も、四人の男の子を育て、社会に出してすぐに、私と妹を育てることなった。(中略)   

母の病気は、産後の肥立ちが悪かったからと言っていたが、悪い菌(結核菌かも)が脳に入って脳膜炎になったのかもしれないと言っていた。妹が一歳になったばかりの、昭和七年九月に亡くなった。朝鮮語で「アイゴー、アイゴー」と言って泣いていたとの事。母三十二歳。本当に残念だったと思う。

私は五歳で よくは憶えていないが、あまり悲しい顔をしていなかったらしい。近所のおじいちゃんが、翌日悔やみに来て、私の頭をなでながら「今はこんなに平気な顔をしているが、苦労するで」と祖母に話しているのを、はっきりと憶えている。

父は、仕事もなく、私ども二人を祖母に預けて、神戸に出稼ぎに行ってしまった。全然仕送りもできず、一人でやっと生活していたらしい。父は、若くして警察官を退職したが、後に、兵役期間と外地勤務期間を合わせて恩給が貰えることになり、祖母が受け取り、恩給にて育てることができたらしい。現金収入のない田舎では、随分足しになったらしい。

機会があれば,追ってつづきをご紹介させていただくことにします。


父は家族の誕生日をよく記憶(記録?)していて、そのたびに、家族のグループラインで誕生日おめでとうのコメントを寄せていてくれました。追悼の際、故人の思い出として、こもごも語っていました。

3月17日が誕生日の家族がいます。

私が代わりにLINEメッセージを送りました。

今日3月17日は○○さんの誕生日です。
誕生日の花はクサボケ。花言葉は一目惚れ。
クサボケは日本原産の植物ですが、ボケは中国原産です。 クサボケは朱色の花弁なのに対して、ボケは紅色です。 同じ赤でもやや異なりますが見分けるのは困難です。 花の大きさはボケのほうが大きく、草丈もボケのほうが大きいという違いがあります。とウィキペディアに書いてありました。おめでとう。

団地内の通学路脇のボケにメジロが来ていました。今朝の写真です。

s-mejiroboke

ボケメジロの写真をもう少し追加します。

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今日はこれにて。


nice!(31)  コメント(10) 

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コメント 10

ChinchikoPapa

心より、お悔やみ申し上げます。
by ChinchikoPapa (2022-03-19 14:35) 

KINYAN

お父様のご冥福をお祈りいたします。
by KINYAN (2022-03-19 18:42) 

ちょんまげ侍金四郎

>これで安心した
うちの母親もバラバラでしたが家族が面会に行ったあと亡くなりました。
このことを話しましたら、その時の看護師さん曰く「不思議なんですが、よくあるんですよ。」とのことでした。
命とは、まさに不思議なものと痛感します。
私は無宗教ですが、肉体は滅んでも、魂は永遠と思っており、いつかまた会う時がくると思っています。


by ちょんまげ侍金四郎 (2022-03-20 09:54) 

プー太の父

お父さまのご冥福をお祈りいたします
お父さまの残された記録は貴重なものですね。
by プー太の父 (2022-03-20 18:48) 

momotaro

お父様ご幼少期は御苦労されたんですね。
でも、その後はご家族にたいへん恵まれ、お幸せでしたね。ご長男様、色々お務めお疲れ様でした。
by momotaro (2022-03-21 06:36) 

kazg

ChinchikoPapa様
ご丁寧に温かいお言葉ありがとうございます。

by kazg (2022-03-24 10:55) 

kazg

KINYAN 様
ご丁寧に温かいお言葉をいただきありがとうございます。
by kazg (2022-03-24 10:56) 

kazg

ちょんまげ侍金四郎様
>「不思議なんですが、よくあるんですよ。」
そうなんですね。納得できる気が致します。
by kazg (2022-03-24 10:57) 

kazg

プー太の父 様
>残された記録は貴重なもの
「いつでも聞ける」と思っておりましたが、もうその機会がなくなりました。わずかに書き残していてくれていたものが、今では「貴重」
なものになりました。

by kazg (2022-03-24 11:01) 

kazg

momotaro 様
ありがとうございます。安らかに天寿を全うできたことは、幸運かつ幸福なことだったとしみじみ思います。
by kazg (2022-03-24 11:04) 

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