SSブログ

ついでに立ち寄った吉備津神社、の巻 [カメラde散歩]

前回記事で近水園を訪ねた帰り道、立ち寄ってみたのは吉備津神社でした。過去にも、紅葉を写したことがありましたので。


コウノトリ 寄り添うて歩む苅田道(2013-11-06)


水車も秋模様

IMGP7344.jpg

落ち葉降り敷く石段」

IMGP7342.jpg


◇重ね着の紅葉の錦や村時雨(2013-11-27)


帰りの道すがら、吉備津神社にも立ち寄ってみました。ここの紅葉も見頃でした。

PB27034020131127_0232_R.JPG

PB27034320131127_0235_R.JPG




吉備津神社についての紹介は、この記事で少し書きました。


秋の吉備路の歴史散歩、の巻(1):ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2017-10-10)


早速、吉備津神社の見学から、歴史散歩が始まりました。
吉備津神社のあらましについて、レジュメの一部を引用させていただきます。

吉備津神社・ ・ ・吉備津彦命を祀る
創建 少なくとも平安時代初期(847年)までは遡る
1357年 (社記の楝札の写し) その後2度火災にあう。
再建 1401年に工事着工、1425年に完成(足利義満の死後)
真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ”(『古今和
歌集』905年)
建築様式・・・吉備津造、本殿の檜皮葺大屋根=比翼入母屋造
漆喰塗の基壇
本殿・拝殿=国宝(岡山県内の国宝の建物2十美術品7件)
 

日々の寒暖差に面食らいます。先日の冬模様がウソのように、日射しを浴びると真夏さながらの暑さで、石段を歩くと汗が流れます。

室町時代に再建された比翼入母屋造の本殿。風格あるたたずまいです。

(中略)

斜面に建てられているため、漆喰塗の基壇によって水平を保ち、その上に巨大な神殿を建てています。この技術力に脱帽です。

檜皮葺大屋根。近年葺き替え工事が行われたそうですが、桧皮を確保することが大変な難事だそうです。
(中略)

吉備津神社に祀られている吉備津彦について、ウィキペディアにはこう解説してあります。

 伝承によると、温羅は吉備の外から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の吉備津彦命を派遣した。
討伐に際し、吉備津彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。そして温羅に対して矢を1本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれた。そこで命は2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。そうして温羅を討ったという。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。

私たちの見学中に、ちょうど鳴釜神事がおこなわれており、ジャストタイミングで、釜のうなる音が低く聞こえてきました。


しかし今年は、思い通りの紅葉に出会えませんでした。とりあえず記念写真を残しておきます。


PM117898


紅葉の赤の代わりに,緋色(正確には丹色?)のものを写しておきました。


PM117886PM117887PM117888


PM117892


回廊は、全長398mといいます。


PM117889PM117890PM117894


PM117905PM117906


今日はここまで。


nice!(30)  コメント(0)